アグネイヤIV世

東沢さゆる

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第二章 輝ける乙女

初夜1

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 北に住むものは、太陽に憧れる。古来いにしえより、そう言い伝えられているのは、神聖帝国の守護神が光神であったからであろうか。光神と、かの神を祀る巫女姫。その二つを信仰の柱として、国を築いてきた。それが、初代皇帝アグネイヤ一世である。
 神聖帝国初代の素性を詳しく語るものは無い。
 神話上の人物、伝説上の人物とみなしているのか。彼の父、もしくは母は、人ならざるものだとの言い伝えがまことしやかに語られている。彼の母は、亡国の王女。国をなくし、帰るべきところを失った美しい少女の前に、双頭の竜が降り立ちて。

 ――我が子を孕めば、そなたの国を取り戻してやろう。

 啓示とも言える言葉を残して、姿を消したのである。その後彼女は身籠り、双子を授かった。神聖帝国初代皇帝アグネイヤ一世と、その妹にして巫女姫でもあるルディンナーザである。
 ゆえに、神聖帝国の紋章は双頭の竜だと。幼い頃に教えられた。
 竜とは力の象徴でもある。その竜が、双頭ということは。力も倍備えているという証なのだろうか。愚にも付かぬ疑問を教師にぶつけると、

 ――さよう、殿下は賢くていらっしゃる。

 老いた教授たちは揃って目を細めるのであった。
(神聖帝国)
 国史そのものが、神話となっている国。その国の皇帝の血を引く自分。この身体に流れている血は、何よりも尊いのだといわれ続けてきた子供時代。その血を、新興国に分け与えるのは切なくてたまらぬと、アヤルカスの神官たちは揃って嘆き悲しんだ。
 それも、仕方の無いこと。誰に嫁ごうと、自身の血は穢れる。女である限り、異性の血を受け入れることになるのだ。いざ、そのときになってみると、その行為がどれほど汚らわしいものか。
(……)
 鏡の中、花嫁衣裳を纏っていく少女を眺め、マリサは唇をかみ締めた。今日、自分はディグルに嫁ぐ。名実ともに、フィラティノアの王太子妃となる。わかっていたことなのに。覚悟していたことなのに。そのときが迫ると、身体が震えるのはなぜだろう。
(サリカ)
 片翼の前では、気丈に振舞えた。けれども、彼女がいなくなってしまったら。もう、自分には誰もいない。
「妃殿下、お支度は整われましたでしょうか?」
 先触れに案内されて入室してきたのは、女官長スタシア夫人である。幾度か面識のある婦人の、ほのぼのとした表情が、このときばかりは胸に痛い。
「整いましてよ。もう、神殿に向かったほうが宜しくて?」
 常に無く緊張した面持ちのマリサを、鏡が冷たく映し出す。そこにいるのは、クラウディアであり、クラウディアではない、マリサという気丈だけれどもどこか寂しがりやな少女なのかもしれぬ。
 そのような彼女の気持ちを察してか。スタシア夫人はことさらマリサの美しさをほめ、このような花嫁を得られるなど、王太子は果報者だと幾度も繰り返していた。
「まず、先に廟にいらしていただきまして、祖先の御霊にご報告をしていただきます。それから、神殿へ上がっていただきまして、太陽神にご挨拶を。そのあとに、一度禊をされましてから、大聖堂へ。そこで、殿下とお会いになられて、お二人で神の前に誓うのです」
 永遠の、愛を。
 臆面も無くその言葉を口にするスタシア夫人が、ひどく少女めいて見えるのは気のせいだろうか。
 愛、などと。そんなものがあるはずは無い。これは、同盟のための婚姻。愛し合う二人が、将来を誓う儀式ではない。
 ともに暮らすうちに愛は芽生えるものだと、嫁ぐ日に侍女が気休めを言っていた。
 そんな日が来るとは思えない。
 そんな日が来て欲しくは無い。
 は、滅びの娘は、氷の皇女なのだから。誰を想うことも無い。
「なにか、お飲み物をお持ちしましょうか? それとも、少しお休みになられますか?」
 スタシアの言葉にかぶりを振りかけてから。マリサは、ふと、思い出したように。
「ルーラはいるの? ルーラを、ルナリアを、呼んで頂戴」
 スタシアに命じたのである。
「ルナリア殿、ですか」
 案の定、スタシアは難色を示した。無理もない。ルーラは、王太子の寵姫である。マリサは、王太子の正室となる姫君だ。婚礼の前に、ゆくゆく相対してしまう愛妾と会わせるなど女官長としては、出来ぬことであろう。それでも。マリサは重ねて命じた。
 ルーラを呼べ、と。
「彼女が来ないのであれば、今日の儀式、わたしは出ませんから」
 花嫁がいないのでは、華燭の典にはならぬ。なんと言う我儘を、と呆れ顔のスタシアは、しかし、渋々といった様子で折れた。かしこまりました、と。マリサの侍女にルーラを呼んでくるよう命ずる。
 その様子を鏡越しに見て。マリサはひとつ、息をついた。



「神聖帝国が、復活したそうだな」
 ディグルは平素の朝とはまるで変わらぬ調子で、香茶の香りを楽しみつつ、密偵が届けた信書に目を通していた。普段と異なるのは、纏う装束が婚礼の衣裳であるということだけであろうか。豊かな銀髪は、今日は高く結い上げられている。そこに花でも飾れば、どちらが花嫁なのかわかるまい――そんなつまらぬ冗談を口にして、彼はしばし物思いにふけるように窓の外を見ていたが。
「これで、ますますこの国はあれを手放せなくなってしまったな」
「御意」
 ルーラは静かに頷いた。
 急がされた婚礼、その裏には、アヤルカス皇太后――いな、今は神聖帝国皇太后か――リドルゲーニャリディアの強引なる画策があった。神聖帝国の再興を目論んでいた彼女と、神聖帝国の血筋を望んでいたフィラティノア国王の思惑は見事重なり、同盟は確固たるものとなったようである。
 クラウディアの扱いは、アヤルカス皇女であったが、その実神聖帝国皇帝の姉である。クラウディアが産んだ子を皇帝の養子とすれば、おのずと継承権がフィラティノアにも回ってくるというもの。その危険性を承知しつつ、リディアは、賭けに出た。
 古王国ミアルシァ、大国カルノリア、商業国ダルシア。
 その三国を牽制するには、フィラティノアとの同盟は破ることの出来ないものであった。
 あとは、その三国のどこか。そこから王女なり王族の娘なりを花嫁としてもらえば。一応の安定は保たれる。
「あれの子を、神聖帝国皇太子にすることが、父の狙いか」
 ディグルは細く息をつく。更にその子供に、カルノリアの姫を縁付かせれば。北方はフィラティノアを中心に固められていく。
「なんとも気の長い話よ」
 あきれたように呟く主人を前に、ルーラは何も答えなかった。
「式典には、お前も出るのだろう?」
 まだ、女官の衣裳を纏ったままのルーラを一瞥して、ディグルは皮肉げに口元をゆがめる。ルーラは、弾かれたように顔を上げ、それから、深く頭を垂れる。
「わたしは日陰にある身。殿下と妃殿下の晴れの日を、汚すようなことはできません」
 淀みなく紡がれる言葉。けれども、ディグルはそれを一笑に付した。
「うまい言い訳だな」
「殿下」
「見たくないのだろう。あれが、俺のものになる瞬間を」
 刹那、ルーラの顔に赤みが走った。小刻みに震える唇は、否定の言葉を発しようとしているようであったが、それを出来ないでいる。ディグルは寵姫の反応を楽しむように、ことさらきつく言葉を連ねる。
「今宵は、お前のもとには行けぬ。さすがに、初夜に花嫁を放り出すことは出来まい?」
「御意」
「役目だけは、果たしてくる。――妬けるのであれば、お前も閨に来るか?」
「殿下?」
「三人、というのも楽しいかも知れぬな」
 かすかにディグルの喉が鳴る。ルーラは朱を散らした顔を隠すように彼から背けた。硬く握られた拳が、震えている。ルーラ自身、彼女の抱いている感情を理解できないのだろう。主君の后としてクラウディアを慕っているのか。それとも、異性として意識してしまっているのか。
「あれは、まだお前のことに気づいていない」
 とどめのように、ディグルは言い放つ。
「お前のことは、気の利く侍女くらいにしか思っていないだろう。それとも、都合のよい剣の相手か。寂しさを紛らわしてくれる人形だろうな。自分の言葉を否定しない、逆らわない、我侭は何でも聞いてくれる。――よくぞあの娘を手なずけたものだな」
「殿下。お言葉が過ぎます」
 ルーラは顔を上げ、主君を睨み付けた。青ざめた貌のなか、鋭い視線がディグルを射殺さんばかりの剣呑な光を放っている。
「ご自身のご正室を、貶めるようなお言葉はおやめください」
 常はあまり自身の意見を述べぬルーラである。そのことはディグルも承知している。それだけに、意外であった。彼女が、クラウディアを庇うなど。永遠の忠義を誓った自分よりも、異国から送りつけられた娘を庇うなど。信じられなかった。と、同時に。
 許せなかった。
(ルーラ)
 これが、嫉妬というものか。
 他人のそれは、嘲笑の対象としてしか見ていなかったが。自身のこととなると別である。ルーラはもとより、男色の気があって、あの道に踏み込んだのではなかった。貧しさゆえに身を売ることしか出来ず、神殿の裏巫女に落とされた存在である。彼女の――いな、彼の心には、いまだ男性としての情熱が残っているのだ。異性を求める、『雄』の欲望が。
「ルーラ」
 ディグルは怒りのままに彼女を組み伏せた。衣裳が乱れるのも構わず、ルーラを床に押し倒す。彼女の抵抗を封じるようにその頬を強く殴りつけると、有無を言わせず衣裳ドレスの胸元を引き裂いた。
「殿下」
 悲鳴に似たルーラの声が耳朶を打つ。
「おやめください、殿下」
 ルーラは顔を背け、ディグルの唇から逃れようとする。その行為が、ディグルの行動を煽った。彼は衣裳の裾を捲り上げ、下肢に手を伸ばす。既に知り尽くした身体、ルーラの弱い部分を探っていけば、彼女の抵抗も弱まるはずであった。しかし。
「お許しください」
 快楽を感じながらも、彼女は弱々しくかぶりをふる。
 そこまで――そこまでに。自身を厭うのか。あの小娘に魂を奪われたというのか。
「ルーラ」
 ディグルが思わず、彼女の喉に手をかけたときだった。
「殿下。宜しいでしょうか?」
 先触れが遠慮がちに扉を叩いた。ルーラは機を得たとばかりにディグルから離れ、身繕いをする。その姿が悲しいまでに女性に見えて。ディグルは強く唇を噛み締めた。
「ツィスカ殿がお見えです」
 ツィスカ――王太子妃の侍女の名だった。入れ、と冷たく言い放ち、ディグルは自身も衣装を整える。入室してきたのは、予想通り彼女の侍女だった。彼女は丁寧に一礼すると、王太子妃の言伝を口にする。
「恐れながら、暫しの間、ルナリア殿を借り受けたいとのことです」 
 冷たい沈黙が横たわった。ルーラはちらりとディグルに視線を向ける。ディグルはその目の中に戸惑いと罪悪感を見出し、心のうちでかすかに笑った。
「行くがいい」
 その前に、服装を整えていけ、と。言葉を継ぐとルーラは心持ち顔を赤くする。いま、ここで二人が何をしていたのか。これから花嫁を迎える夫が、寵姫といかがわしき行為に及ぼうとしていた――そんな様子は簡単に見て取れる。ツィスカはけれども何も言わず、他の侍女同様、
「外でお待ちしております」
 言及はせず、静かに退出した。
「向こうから、誘ってきたか」
 低く笑えば、ルーラは表情を険しくする。
「まだ、女を抱くことは出来るだろう? これが最後の好機かもしれぬ。行って、あれを抱いてくればいい」
「殿下」
 ルーラの声が揺れた。
 部下と通じる貴婦人の話は良く耳にするが、主人の愛妾と通じる妻の話は、ついぞ聞いたことがない。ことによると、これがはじめての例となるのかも知れぬと思うと、ディグルは笑いたくなった。冷酷な王子、白銀の貴公子と呼ばれる自分。感情はすべて捨て去っていたはずなのに。なぜか、こういった負の感情だけは失うことは出来ぬものだと。いま、改めて実感した。
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