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第一章 さすらいの皇女
双子4
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夜は、静かに更けていく。もう、これで十日になるか、グランスティアの離宮で過ごす夜は。
サリカから、城の使用人には手を出すなといわれている手前、迂闊に侍女たちに声をかけることもできない。数人の若い小間使いたちは、ジェリオと目が合うと耳まで赤くなってそそくさと逃げていくので、脈がないことはない――それがわかっているだけに、若干の腹立たしさはある。
一夜の遊び、恋の夢。
田舎に引っ込んでいるからこそ、そういったものに憧れる娘も多いはずだ。異国の香りを漂わせるジェリオの野性的な魅力に、心惹かれぬ娘のほうが寧ろ少ないだろう。厳格なはずの女中頭でさえ、ジェリオと面と向かって話すことをためらっている。さすがに年配の婦人を相手にする気はなかったが。秋波を送られていると思うと、満更悪い気もしない。
とはいえ、いつまでも一人寝に耐えられるものではなかった。いわゆる色情狂ではないのだが、ジェリオとて若い男性である。年頃の娘たちが側にいれば、それなりに悪い虫も疼きだす。
酔い覚ましにふらりと訪れた裏庭で、小間使いの一人と行き会い。弾みで彼女と共に厩舎にしけこんでしまってから。ふと、まずいことをしたものだ、と。らしくない後悔をした。
「……」
胸の上で、うっとりと眠りにつく少女の髪を片手で梳きながら、ジェリオは細く息をつく。波打つ銀の髪は、丹念な手入れの賜物か、絹糸の如く滑らかで指に絡むことはなかった。その感触が、サリカの黒絹の髪を思い出させ、思わず彼は強く少女を抱き締める。
サリカとマリサ。姿かたちは鏡像の如し。ただし、うちに秘められたる魂は、まるで別個。
マリサの、冷ややかとも言える笑みを思い出すと、なぜか背筋がぞくりとした。
(『アグネイヤ』か)
彼女は、双子であるからあの目をまともに見ることが出来るのか。
それとも。
マリサは、片翼には心を覗かせないようにしているのか。
◆
アヤルカスの首都、セルニダ。その中央に聳える皇宮・紫芳宮の前に、大型の馬車が止められたのはその日の午後のことであった。門番に取次ぎを依頼したのは、すらりと背の高い、見目麗しき女性である。彼女は自身を
「アンディルエの巫女の使い」
と名乗り。皇帝、もしくはそれに次ぐ人物への面会を願い出た。
「アンディルエの巫女、とな?」
それは、とりもなおさず神聖帝国の正妃のこと。既に滅び去った国の亡霊とはいえ、その名は帝国の後継を自称するものにはいまだ効力がある。アヤルカスの重臣たちは、しばし会議を催したあと、待たせてあった一行を中へと招き入れた。
現在の実質上の権力者である、皇后リドルゲーニャ――リディアのもとへ。
◆
北国の朝は遅い。南方ではとっくに日が上がっている時刻であるはずなのに、まだ、街は薄闇に包まれている。窓を細く開ければ濃紺の空には、夜に忘れられた星がいくつか。静かに瞬いているのが見えた。
「……」
吐く息が白く凍り、星の輝きを阻む。あと、どれくらい待てば明の星が太陽を促すのか。サリカは僅かに身を乗り出して、東の空に目をやった。
「ほんと、早起きね」
寝台の中から、マリサの声が聞こえる。
「ごめん。寒い?」
慌てて窓を閉めようとするのを、マリサは、かぶりを振って制した。
片翼は、朝が弱い。その分、夜更かしはいくらでも出来る。サリカは別段朝型ではないが、片翼に比べると寝起きはよいほうであった。
水差しから酒を注いで一気に飲み干すマリサの姿を見て、サリカは窓を閉め、寝台の側へと歩み寄る。消えかけていた燭台の焔に油を差し、それを寝台脇の卓子にそっと乗せた。淡い灯りに照らし出されたマリサの表情は、感情に乏しいものの、さほど疲れた印象はない。若さゆえの回復力か、傷も大分癒えて痛みも取れたようである。その証拠に、酒を飲んだと思いきや、さっと身を起こして、傍らの衝立にかけてあった衣装に手を伸ばした。
もう、起床するつもりだ。
片翼の復活は嬉しいが。少し無茶なのではないかと、サリカは嘆息する。それを感じ取ったマリサは、苦笑を浮かべてこちらを見た。だってしょうがないじゃない、とその視線が告げている。
「よくなったのに、いつまでもごろごろしていられないでしょう」
相変わらずだ。
十四歳のときも。マリサは同じことを言っていた。瀕死の重傷を負ったにも拘らず、十日と経たぬうちに常人と変わらぬ生活に戻った。乗馬をし、剣技に勤しみ、サリカを誘って――唆して、街にまで出かけた。
「どう? 久しぶりに、一本?」
マリサは稽古用の剣を持ち上げて、サリカを促す。予想していた台詞だが、これには彼女はかぶりを振った。
「いやだ」
「けちね」
断りと、それに対する反発が、同時に発せられる。
「いやだよ。怪我人相手に。これ以上、怪我を増やしたくないだろう?」
これが、サリカの本音である。稽古とはいえ、夢中になってしまえばそれぞれに熱が篭るのは目に見えている。普段のマリサであれば、多少の攻撃は防ぐことが出来るだろうが。いかんせん、今は負傷の身である。剣筋も鈍っているだろうし、なにより手加減もしてくれそうにない。本気でぶつかり合ったが最後、どちらかが傷を負うことは用意に想像がつく。
それは、マリサも知っているはずなのに。あえて口にするのは、懐かしさゆえか。
サリカは、目を細めた。つと、片翼のもとに近づき、寝台に腰を降ろす。不貞腐れたマリサの頬を指先で突付き、彼女は快活に笑った。
「大丈夫。機会は幾らでもあるよ」
「サリカ?」
「なければ、作ればいいんだし」
「あなた、それって」
「僕なりに、少し考えてみたんだけど」
しばし、双子は目で会話をする。
「――決めた、ということ?」
「うん。決めた」
こくりとサリカは頷いた。マリサも、その結論は予想していたのだろう。さほど驚かず。寧ろ、ムッとした表情を片翼に向けてくる。
「先になんでそれを考えなかったのかしらね、『姉上』は。あのことへの負い目なんて、気にしなければよかったのに」
あのこと、とは。マリサが刺客の刃をうけたこと。サリカが側にいれば、片翼の傍らに寄り添っていれば。ことは未然に防げたのかもしれない――それを、二年近く経った今でも、気に病んでいる。だからこそ、自身が身代わりにと。今度こそ、片翼の代わりに刃を受けようと。下らぬ覚悟をするに到ったのだ。
「でも、何故? どうして、吹っ切れたの? なにか、あったの?」
この半月の間に?
マリサは、首を傾げる。自分の知らないうちに、片翼の心に変化が起きていた――そのことに対する、寂しさと焦燥と。嫉妬のようなものが、古代紫の瞳の奥に揺らめいている。サリカは、「うん」と小さく頷いてから。
「あのね」
口を開きかけた。
と、そこに。彼女の言葉を遮るように、扉を叩く音が響いた。
「妃殿下、お目覚めですか?」
遠慮がちな声が遅れて聞こえる。小間使いがやってきたのだ。マリサの代わりにサリカが答え、その間にマリサは手早く衣装を纏う。すると絶妙の呼吸でサリカは衝立の陰に滑り込み、マリサは扉の前に立って、小間使いを迎え入れた。
「朝食の準備、お願いね」
かしこまりました、と彼女は礼をし、寝台を整えるべく衝立へと歩み寄る。その間にマリサは、するりと扉の隙間から抜け出し、サリカは音もなく、マリサのいた位置へと足を運んだ。
「果物は、いかが致しましょう?」
果汁にするか、それとも火を通したものにするか。双子の入れ替わりに気付かぬ小間使いはサリカに尋ねてくる。サリカは、「そうね」と小首をかしげ、
「任せるわ。おなかが減ったの。なんでもいいから、いつもの倍、用意してくれるかしら?」
さらりと言い放つ。小間使いは何の違和感も覚えずに、再び丁寧に一礼すると部屋を出て行った。
途中、先に廊下に出た本物の『王太子妃殿下』と鉢合わせしなければよいのだが、と考えて。サリカは、少しおかしくなった。
――なにか、あったの?
不思議そうに尋ねる、片翼の言葉が耳に蘇る。
決断を迫ったのは、片翼自身であるのに。彼女は理由を問うのだろうか。
(あなたが、いるからだよ)
マリサ、アグネイヤ、クラウディア――呼ぶ名は変われど、そこに存在する魂は同じもの。彼女を失うことは出来ない。と同時に。自分を失うことも出来ない。双子は、決して二人で一人ではないのだ。ただ、時を同じく生まれてきただけである。けれども、その備える魂は普通の兄弟よりも近しく。片方を失っては生きてはいけない。
サリカがそうであるならば、マリサもそれは当然同じこと。
サリカを失ったマリサは、どうなるのだろう。強い魂の持ち主だから、一人で生きて行ける、と。一人でも大丈夫だ、と。そう、信じていたのに。
――馬鹿なことを考えてたのではなくて? サリカ。私と入れ替わって、ここで死ぬなんてこと。そんなことをしても、何もならなくてよ。それがわからないほど、あなたは子供じゃないと思うけれど?
あの言葉。諭すように言った、あの言葉。他者なれば、その真意はわからぬだろう。
――いい加減、覚悟を決めなさいアグネイヤ。いいこと、わたしはもう、フィラティノアの王太子妃なのよ? もう一生、アヤルカスには、戻らないのよ?
それらの言葉の裏に、寂しさを告げる絶叫が潜んでいたのに気付かぬわけがなかった。どうしてそう、あなたは素直ではないのだと、横っ面を張り倒したくなるほど。マリサは、他人に心を見せることを嫌う。素直に甘えることを厭う。思い切り泣き叫んでくれれば、いっそ小気味よかったのに。
片翼である自分にすら、仮面を付けようとする彼女を憎いと思うと同時に、愛おしく思う。
繋がった心であるからこそ、隠したいのだ。それを、知られたくないのだ。
今でも、自分は皇帝には相応しくないと思っている。素直に心を吐露しすぎる自分は、魑魅魍魎の跋扈する宮廷の政治劇には向かない。
――サリカは学者、マリサは武芸者にでもなればいいのだ。お前たちに、政治は向いていない。
嫌味でも罵声でもなく。そのようなことを言ったのは、剣の師であった。彼は、その頃から見抜いていたのかもしれない。双子が共に、生まれるべき場所を間違ったことを。
それでも、クラウディアは――あのころは、マリサであり、アグネイヤであったが――まだ、権謀術数に長けているほうだった。ゆえに、母后や重臣たちからの期待も寄せられていた。
自分が、クラウディアとして死ねば。少しは周囲の人々も自分を見直してくれるのではないか。要らぬ皇女、生贄の姫としてだけ存在していた自分を、哀れんでくれるのではないか。あれは、思えばあてつけだったのかもしれない。
マリサの傍らで、彼女を見ながら色々と考えた結果。不完全ではあるが、結論は出た。本当は、もっと早く出ていたのかもしれない。ただ、自分はマリサに逢いたかっただけなのではないか。彼女の顔を見て、彼女の口から、聞きたいことがあっただけなのではないか。
そう。――片翼が、皇帝の地位を欲しているかどうか。
サリカから、城の使用人には手を出すなといわれている手前、迂闊に侍女たちに声をかけることもできない。数人の若い小間使いたちは、ジェリオと目が合うと耳まで赤くなってそそくさと逃げていくので、脈がないことはない――それがわかっているだけに、若干の腹立たしさはある。
一夜の遊び、恋の夢。
田舎に引っ込んでいるからこそ、そういったものに憧れる娘も多いはずだ。異国の香りを漂わせるジェリオの野性的な魅力に、心惹かれぬ娘のほうが寧ろ少ないだろう。厳格なはずの女中頭でさえ、ジェリオと面と向かって話すことをためらっている。さすがに年配の婦人を相手にする気はなかったが。秋波を送られていると思うと、満更悪い気もしない。
とはいえ、いつまでも一人寝に耐えられるものではなかった。いわゆる色情狂ではないのだが、ジェリオとて若い男性である。年頃の娘たちが側にいれば、それなりに悪い虫も疼きだす。
酔い覚ましにふらりと訪れた裏庭で、小間使いの一人と行き会い。弾みで彼女と共に厩舎にしけこんでしまってから。ふと、まずいことをしたものだ、と。らしくない後悔をした。
「……」
胸の上で、うっとりと眠りにつく少女の髪を片手で梳きながら、ジェリオは細く息をつく。波打つ銀の髪は、丹念な手入れの賜物か、絹糸の如く滑らかで指に絡むことはなかった。その感触が、サリカの黒絹の髪を思い出させ、思わず彼は強く少女を抱き締める。
サリカとマリサ。姿かたちは鏡像の如し。ただし、うちに秘められたる魂は、まるで別個。
マリサの、冷ややかとも言える笑みを思い出すと、なぜか背筋がぞくりとした。
(『アグネイヤ』か)
彼女は、双子であるからあの目をまともに見ることが出来るのか。
それとも。
マリサは、片翼には心を覗かせないようにしているのか。
◆
アヤルカスの首都、セルニダ。その中央に聳える皇宮・紫芳宮の前に、大型の馬車が止められたのはその日の午後のことであった。門番に取次ぎを依頼したのは、すらりと背の高い、見目麗しき女性である。彼女は自身を
「アンディルエの巫女の使い」
と名乗り。皇帝、もしくはそれに次ぐ人物への面会を願い出た。
「アンディルエの巫女、とな?」
それは、とりもなおさず神聖帝国の正妃のこと。既に滅び去った国の亡霊とはいえ、その名は帝国の後継を自称するものにはいまだ効力がある。アヤルカスの重臣たちは、しばし会議を催したあと、待たせてあった一行を中へと招き入れた。
現在の実質上の権力者である、皇后リドルゲーニャ――リディアのもとへ。
◆
北国の朝は遅い。南方ではとっくに日が上がっている時刻であるはずなのに、まだ、街は薄闇に包まれている。窓を細く開ければ濃紺の空には、夜に忘れられた星がいくつか。静かに瞬いているのが見えた。
「……」
吐く息が白く凍り、星の輝きを阻む。あと、どれくらい待てば明の星が太陽を促すのか。サリカは僅かに身を乗り出して、東の空に目をやった。
「ほんと、早起きね」
寝台の中から、マリサの声が聞こえる。
「ごめん。寒い?」
慌てて窓を閉めようとするのを、マリサは、かぶりを振って制した。
片翼は、朝が弱い。その分、夜更かしはいくらでも出来る。サリカは別段朝型ではないが、片翼に比べると寝起きはよいほうであった。
水差しから酒を注いで一気に飲み干すマリサの姿を見て、サリカは窓を閉め、寝台の側へと歩み寄る。消えかけていた燭台の焔に油を差し、それを寝台脇の卓子にそっと乗せた。淡い灯りに照らし出されたマリサの表情は、感情に乏しいものの、さほど疲れた印象はない。若さゆえの回復力か、傷も大分癒えて痛みも取れたようである。その証拠に、酒を飲んだと思いきや、さっと身を起こして、傍らの衝立にかけてあった衣装に手を伸ばした。
もう、起床するつもりだ。
片翼の復活は嬉しいが。少し無茶なのではないかと、サリカは嘆息する。それを感じ取ったマリサは、苦笑を浮かべてこちらを見た。だってしょうがないじゃない、とその視線が告げている。
「よくなったのに、いつまでもごろごろしていられないでしょう」
相変わらずだ。
十四歳のときも。マリサは同じことを言っていた。瀕死の重傷を負ったにも拘らず、十日と経たぬうちに常人と変わらぬ生活に戻った。乗馬をし、剣技に勤しみ、サリカを誘って――唆して、街にまで出かけた。
「どう? 久しぶりに、一本?」
マリサは稽古用の剣を持ち上げて、サリカを促す。予想していた台詞だが、これには彼女はかぶりを振った。
「いやだ」
「けちね」
断りと、それに対する反発が、同時に発せられる。
「いやだよ。怪我人相手に。これ以上、怪我を増やしたくないだろう?」
これが、サリカの本音である。稽古とはいえ、夢中になってしまえばそれぞれに熱が篭るのは目に見えている。普段のマリサであれば、多少の攻撃は防ぐことが出来るだろうが。いかんせん、今は負傷の身である。剣筋も鈍っているだろうし、なにより手加減もしてくれそうにない。本気でぶつかり合ったが最後、どちらかが傷を負うことは用意に想像がつく。
それは、マリサも知っているはずなのに。あえて口にするのは、懐かしさゆえか。
サリカは、目を細めた。つと、片翼のもとに近づき、寝台に腰を降ろす。不貞腐れたマリサの頬を指先で突付き、彼女は快活に笑った。
「大丈夫。機会は幾らでもあるよ」
「サリカ?」
「なければ、作ればいいんだし」
「あなた、それって」
「僕なりに、少し考えてみたんだけど」
しばし、双子は目で会話をする。
「――決めた、ということ?」
「うん。決めた」
こくりとサリカは頷いた。マリサも、その結論は予想していたのだろう。さほど驚かず。寧ろ、ムッとした表情を片翼に向けてくる。
「先になんでそれを考えなかったのかしらね、『姉上』は。あのことへの負い目なんて、気にしなければよかったのに」
あのこと、とは。マリサが刺客の刃をうけたこと。サリカが側にいれば、片翼の傍らに寄り添っていれば。ことは未然に防げたのかもしれない――それを、二年近く経った今でも、気に病んでいる。だからこそ、自身が身代わりにと。今度こそ、片翼の代わりに刃を受けようと。下らぬ覚悟をするに到ったのだ。
「でも、何故? どうして、吹っ切れたの? なにか、あったの?」
この半月の間に?
マリサは、首を傾げる。自分の知らないうちに、片翼の心に変化が起きていた――そのことに対する、寂しさと焦燥と。嫉妬のようなものが、古代紫の瞳の奥に揺らめいている。サリカは、「うん」と小さく頷いてから。
「あのね」
口を開きかけた。
と、そこに。彼女の言葉を遮るように、扉を叩く音が響いた。
「妃殿下、お目覚めですか?」
遠慮がちな声が遅れて聞こえる。小間使いがやってきたのだ。マリサの代わりにサリカが答え、その間にマリサは手早く衣装を纏う。すると絶妙の呼吸でサリカは衝立の陰に滑り込み、マリサは扉の前に立って、小間使いを迎え入れた。
「朝食の準備、お願いね」
かしこまりました、と彼女は礼をし、寝台を整えるべく衝立へと歩み寄る。その間にマリサは、するりと扉の隙間から抜け出し、サリカは音もなく、マリサのいた位置へと足を運んだ。
「果物は、いかが致しましょう?」
果汁にするか、それとも火を通したものにするか。双子の入れ替わりに気付かぬ小間使いはサリカに尋ねてくる。サリカは、「そうね」と小首をかしげ、
「任せるわ。おなかが減ったの。なんでもいいから、いつもの倍、用意してくれるかしら?」
さらりと言い放つ。小間使いは何の違和感も覚えずに、再び丁寧に一礼すると部屋を出て行った。
途中、先に廊下に出た本物の『王太子妃殿下』と鉢合わせしなければよいのだが、と考えて。サリカは、少しおかしくなった。
――なにか、あったの?
不思議そうに尋ねる、片翼の言葉が耳に蘇る。
決断を迫ったのは、片翼自身であるのに。彼女は理由を問うのだろうか。
(あなたが、いるからだよ)
マリサ、アグネイヤ、クラウディア――呼ぶ名は変われど、そこに存在する魂は同じもの。彼女を失うことは出来ない。と同時に。自分を失うことも出来ない。双子は、決して二人で一人ではないのだ。ただ、時を同じく生まれてきただけである。けれども、その備える魂は普通の兄弟よりも近しく。片方を失っては生きてはいけない。
サリカがそうであるならば、マリサもそれは当然同じこと。
サリカを失ったマリサは、どうなるのだろう。強い魂の持ち主だから、一人で生きて行ける、と。一人でも大丈夫だ、と。そう、信じていたのに。
――馬鹿なことを考えてたのではなくて? サリカ。私と入れ替わって、ここで死ぬなんてこと。そんなことをしても、何もならなくてよ。それがわからないほど、あなたは子供じゃないと思うけれど?
あの言葉。諭すように言った、あの言葉。他者なれば、その真意はわからぬだろう。
――いい加減、覚悟を決めなさいアグネイヤ。いいこと、わたしはもう、フィラティノアの王太子妃なのよ? もう一生、アヤルカスには、戻らないのよ?
それらの言葉の裏に、寂しさを告げる絶叫が潜んでいたのに気付かぬわけがなかった。どうしてそう、あなたは素直ではないのだと、横っ面を張り倒したくなるほど。マリサは、他人に心を見せることを嫌う。素直に甘えることを厭う。思い切り泣き叫んでくれれば、いっそ小気味よかったのに。
片翼である自分にすら、仮面を付けようとする彼女を憎いと思うと同時に、愛おしく思う。
繋がった心であるからこそ、隠したいのだ。それを、知られたくないのだ。
今でも、自分は皇帝には相応しくないと思っている。素直に心を吐露しすぎる自分は、魑魅魍魎の跋扈する宮廷の政治劇には向かない。
――サリカは学者、マリサは武芸者にでもなればいいのだ。お前たちに、政治は向いていない。
嫌味でも罵声でもなく。そのようなことを言ったのは、剣の師であった。彼は、その頃から見抜いていたのかもしれない。双子が共に、生まれるべき場所を間違ったことを。
それでも、クラウディアは――あのころは、マリサであり、アグネイヤであったが――まだ、権謀術数に長けているほうだった。ゆえに、母后や重臣たちからの期待も寄せられていた。
自分が、クラウディアとして死ねば。少しは周囲の人々も自分を見直してくれるのではないか。要らぬ皇女、生贄の姫としてだけ存在していた自分を、哀れんでくれるのではないか。あれは、思えばあてつけだったのかもしれない。
マリサの傍らで、彼女を見ながら色々と考えた結果。不完全ではあるが、結論は出た。本当は、もっと早く出ていたのかもしれない。ただ、自分はマリサに逢いたかっただけなのではないか。彼女の顔を見て、彼女の口から、聞きたいことがあっただけなのではないか。
そう。――片翼が、皇帝の地位を欲しているかどうか。
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