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第7夜 忘却の地下牢
第4話 記憶は深い霧の中に
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広々とした体育館で緋鞠は一人、愛良の監視下のもとに二十メートルシャトルランを走り終えた。ダンッと強く床を踏んで、緋鞠はその場に倒れ込む。
肩で大きく息をしながら、荒い息を整える。扉から入り込む涼しい風が火照った体を冷ます。
「結果は一六三回ですぅ。なかなか優秀ですねぇ!」
「……ダメ」
「え?」
「全然ダメ。もっと出来なきゃなのに。ずっと走り続けられるくらいじゃないと……」
『止まったら死ぬぞ!!』
白髪が目立つ、幼い緋鞠より少し大きな老人。
師匠はいつも竹刀を振り回しながら緋鞠を追いかけた。
『止まったらあいつらはすぐに切り裂きに来る。鋭い牙、爪。素早い足に、力強い腕。そんなのに生身の人間が勝てるか? 答えは否だ。 おまえみたいなちんまいのは特にだ!』
止まれば、すぐに竹刀が飛んでくる。手足がボロボロになったって、アザだらけになっても。月鬼は止まってくれないから。それは封月を手にしても同じなのに。
それなのに……。
ちょっとケンカして、落ち込んだくらいでいつもより動けなくなるなんて。
いつからこんなに甘くなったんだろう。
これじゃあ二人に嫌われて当然だ。
緋鞠は腕で目を覆い隠したまま、奥歯を噛んだ。
そのとき、突然腕に冷たいものが押しつけられる。
隙間から覗き見ると、愛良が冷えた缶ジュースを持っていた。
「頑張ったご褒美ですぅ」
「霊力回復ジュースはいらないです……!」
「はぇ!? これは大和特産の桃からできたピチピチジュースです! 美味しいですよ!」
緋鞠は体を起こして受け取ると、パッケージをまじまじと見た。ピンクの爽やかなロゴでピチピチジュースと書かれ、桃の可愛らしいマスコットが『美しくなれるわよ』と呟いて笑っている。
若干訝しげに見たあとに隣を見ると、愛良が美味しそうに飲んでいた。緋鞠はいただきます、と言ってから飲む。
「こ、これは……!」
思わず歓喜の声をもらした。死にかけていた顔に、一気に生気が戻る。
「ほどよい甘味に桃の芳醇な香りがすっきりと喉を潤していく! なんて美味しいの!?」
「そうでしょう! なんとこのドリンク。砂糖や添加物が一切入っておらず、美容にいい成分もたくさん入って……」
勢いよく飲み続ける緋鞠の姿を見て、愛良は肩をしょんぼりと落とした。
「聞いてませんねぇ……」
しばらくして、体力が回復してきた緋鞠が一応ストレッチをする。それを愛良はステージに座り、足をぶらぶらさせながら見ていた。
「そういえばぁ、今日は元気がありませんねぇ。何かありましたぁ?」
「そ、そうですかね……」
若干声が上ずってしまった。これではそうですと言っているようなものだ。
緋鞠が視線を泳がせているのを見て、分かりやすいなぁと思う。というよりも、先ほど瑠衣との会話を見てしまっていたのだが。
(次期当主なるといろいろありますからねぇ。ただの八つ当たりだと思いますけどぉ)
緋鞠にそれはわからないだろう。かといって本人が相談をしてきてないのに、口出しするものじゃないし。
むー、と口を尖らせて考える。そうして、思いついた。話題の切り口を変えればいいのだ。
「昨日の測定の時は見事でしたねぇ。皆で生き残るうえでは、とても大事なことですよぅ」
彼女の口ぶりに、緋鞠はずっと疑問に思っていたことを思い出す。
「どうしてみんな、ぴりぴりしてるんですか?」
「え?」
「なんていうか、仲間っていうより……」
なんと言えばよいのだろう。好敵手? 違う。それはお互い認め合っている者同士を表す言葉だ。彼らのはそれとは違う。むしろ──。
「敵?」
驚いて愛良を見た。彼女は予想に反して、笑っていた。
「冗談ですよぅ。そんなに驚いちゃってかーわいい♪」
ぴょんっと飛んでおりて近づくと、緋鞠の頬をもみくちゃにする。その顔には変わらない笑顔が浮かんでいるけれど、一瞬。緋鞠は愛良の表情が切なげに歪んだのを見逃さなかった。
(私が思う以上に、深刻な問題なのかもしれない)
愛良は穏やかな瞳で緋鞠を見つめた。優しく包まれた頬が温かい。子供に教えるような、柔和な声で欲しい助言をくれる。
「誰とでも仲良くしようとするから、悩むのではぁ? 少しぐらい交遊関係を狭めてもいいと思いますよぉ」
「でも、みんなと協力すればダメになりそうなときも上手くいくことって多いと思うんですよ」
そう、教えてくれた人がいた。
それは──。
「……あれ?」
それ、は。
思い出せない。大事なことを、教えてくれた人。
あの子? ……違う。
兄さん? でも、そしたら忘れたりしないはず。
靄がかったみたいに思い出せない。
先が見えない、深い霧。
今まで、こんなことなかったのに。
「神野さん?」
愛良の心配そうな声に、はっと我に返る。緋鞠はいつもの笑顔を浮かべた。
「なんでも、ありません。大丈夫です」
ちょっと疲れて、思い出せないだけだ。だって、大事なことはいつだって兄さんが教えてくれて。私はその記憶を、大事に取っているのだから。
──失くすはずがない。
緋鞠はざわざわする不安を押し込めようと、愛良に笑って見せた。
肩で大きく息をしながら、荒い息を整える。扉から入り込む涼しい風が火照った体を冷ます。
「結果は一六三回ですぅ。なかなか優秀ですねぇ!」
「……ダメ」
「え?」
「全然ダメ。もっと出来なきゃなのに。ずっと走り続けられるくらいじゃないと……」
『止まったら死ぬぞ!!』
白髪が目立つ、幼い緋鞠より少し大きな老人。
師匠はいつも竹刀を振り回しながら緋鞠を追いかけた。
『止まったらあいつらはすぐに切り裂きに来る。鋭い牙、爪。素早い足に、力強い腕。そんなのに生身の人間が勝てるか? 答えは否だ。 おまえみたいなちんまいのは特にだ!』
止まれば、すぐに竹刀が飛んでくる。手足がボロボロになったって、アザだらけになっても。月鬼は止まってくれないから。それは封月を手にしても同じなのに。
それなのに……。
ちょっとケンカして、落ち込んだくらいでいつもより動けなくなるなんて。
いつからこんなに甘くなったんだろう。
これじゃあ二人に嫌われて当然だ。
緋鞠は腕で目を覆い隠したまま、奥歯を噛んだ。
そのとき、突然腕に冷たいものが押しつけられる。
隙間から覗き見ると、愛良が冷えた缶ジュースを持っていた。
「頑張ったご褒美ですぅ」
「霊力回復ジュースはいらないです……!」
「はぇ!? これは大和特産の桃からできたピチピチジュースです! 美味しいですよ!」
緋鞠は体を起こして受け取ると、パッケージをまじまじと見た。ピンクの爽やかなロゴでピチピチジュースと書かれ、桃の可愛らしいマスコットが『美しくなれるわよ』と呟いて笑っている。
若干訝しげに見たあとに隣を見ると、愛良が美味しそうに飲んでいた。緋鞠はいただきます、と言ってから飲む。
「こ、これは……!」
思わず歓喜の声をもらした。死にかけていた顔に、一気に生気が戻る。
「ほどよい甘味に桃の芳醇な香りがすっきりと喉を潤していく! なんて美味しいの!?」
「そうでしょう! なんとこのドリンク。砂糖や添加物が一切入っておらず、美容にいい成分もたくさん入って……」
勢いよく飲み続ける緋鞠の姿を見て、愛良は肩をしょんぼりと落とした。
「聞いてませんねぇ……」
しばらくして、体力が回復してきた緋鞠が一応ストレッチをする。それを愛良はステージに座り、足をぶらぶらさせながら見ていた。
「そういえばぁ、今日は元気がありませんねぇ。何かありましたぁ?」
「そ、そうですかね……」
若干声が上ずってしまった。これではそうですと言っているようなものだ。
緋鞠が視線を泳がせているのを見て、分かりやすいなぁと思う。というよりも、先ほど瑠衣との会話を見てしまっていたのだが。
(次期当主なるといろいろありますからねぇ。ただの八つ当たりだと思いますけどぉ)
緋鞠にそれはわからないだろう。かといって本人が相談をしてきてないのに、口出しするものじゃないし。
むー、と口を尖らせて考える。そうして、思いついた。話題の切り口を変えればいいのだ。
「昨日の測定の時は見事でしたねぇ。皆で生き残るうえでは、とても大事なことですよぅ」
彼女の口ぶりに、緋鞠はずっと疑問に思っていたことを思い出す。
「どうしてみんな、ぴりぴりしてるんですか?」
「え?」
「なんていうか、仲間っていうより……」
なんと言えばよいのだろう。好敵手? 違う。それはお互い認め合っている者同士を表す言葉だ。彼らのはそれとは違う。むしろ──。
「敵?」
驚いて愛良を見た。彼女は予想に反して、笑っていた。
「冗談ですよぅ。そんなに驚いちゃってかーわいい♪」
ぴょんっと飛んでおりて近づくと、緋鞠の頬をもみくちゃにする。その顔には変わらない笑顔が浮かんでいるけれど、一瞬。緋鞠は愛良の表情が切なげに歪んだのを見逃さなかった。
(私が思う以上に、深刻な問題なのかもしれない)
愛良は穏やかな瞳で緋鞠を見つめた。優しく包まれた頬が温かい。子供に教えるような、柔和な声で欲しい助言をくれる。
「誰とでも仲良くしようとするから、悩むのではぁ? 少しぐらい交遊関係を狭めてもいいと思いますよぉ」
「でも、みんなと協力すればダメになりそうなときも上手くいくことって多いと思うんですよ」
そう、教えてくれた人がいた。
それは──。
「……あれ?」
それ、は。
思い出せない。大事なことを、教えてくれた人。
あの子? ……違う。
兄さん? でも、そしたら忘れたりしないはず。
靄がかったみたいに思い出せない。
先が見えない、深い霧。
今まで、こんなことなかったのに。
「神野さん?」
愛良の心配そうな声に、はっと我に返る。緋鞠はいつもの笑顔を浮かべた。
「なんでも、ありません。大丈夫です」
ちょっと疲れて、思い出せないだけだ。だって、大事なことはいつだって兄さんが教えてくれて。私はその記憶を、大事に取っているのだから。
──失くすはずがない。
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