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3.柊の花
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しおりを挟む増穂は、週末には必ず碧水屋に来るようになった。その内、おかみさんたちも心得て、人手が足りている時は増穂の来るのに合わせて小和を休みにするようになった。増穂は、そのまま碧水屋で小和とお茶をすることもあったし、小和を誘って、町の商店を巡ったりもした。
増穂は尾羽の名物を知りたがった。碧水屋のお茶は勿論のこと、葉茶屋や料亭、養殖魚の釣り堀や尾羽山の景勝地にも行きたがった。彼女の誘いは少し強引なところも確かにあったが、決してこちらを無視するようなものではなく、小和の事情や、気持ちもきちんと汲んでくれた。お店が忙しいときは無理に話しかけては来なかったし、会話をするときも、一方的に話すのでなく、こちらの様子を窺いながら間を取っていることに、しばらくすると気がついた。小和が口下手で、増穂の話をただ聞いていたいときに、色んな話題をくるくると話し続けてくれた。思えば、最初に碧水屋に来たときも、慣れない小和があまり気を遣わなくていいように、それでいてちゃんと付いていける速さで、丁寧に喋ってくれていたのだった。
尾羽の山道からは一番遠い、町の入り口にある喫茶店で、珈琲とカスタプリンを注文した増穂は、いつもの穏やかな微笑みで言った。
「学校のみんなは、あんまり町に出たがらないのよ。校則が厳しいから。校外での振る舞いは、こうでありなさい、ああでありなさい、てね。やんなっちゃう。華族用の全寮制だから、大体のことは寮で事足りるようになっているし、お菓子も本も、実家に頼めば流行のが寮に届くから、みんな、億劫がって山を下りる気にならないのよね」
「生徒のみなさんは、長いお休みで帰省されるときに、少し立ち寄る方がいるくらいですね」
小和が答えると、増穂はでしょ、と頷いた。
増穂は、今日は白襟のついた二藍のワンピースを着ていた。白花色のコートと、同色の手袋を脇におき、長い黒髪は螺鈿細工の髪留めでまとめている。胸には柊の花を彫った象牙のブローチをしていた。
女給のはるさんが持ってきてくれた珈琲に口をつけ、美味しい、と増穂は一息つく。
「尾羽の町は、お茶も珈琲も、うちで扱ってるものに全く見劣りしないわね。私はここのものの方が好きなくらい。こんなに美味しいのに、みんな、もったいないこと」
「お水が良いんです。尾羽山から町に流れる清水を使っていますから」
「なるほどね。私が実家で淹れても、こうはならないのよ」
「ご実家でも淹れて下さってるんですね」
小和は微笑む。増穂は、洗練された外見とは別に、言動は全く飾らなかった。できないことをできないと言い、できる人のことを素直に讃えた。
「増穂さんは、どうして町に来ようと思いなさったの?」
そう訊いたのは、カスタプリンを持ってきたはるさんだった。
はるさんは、この喫茶店のおかみさんでもある。元々は葉茶屋だったのを、三年前、はるさんの旦那さんが跡を継いだとき、喫茶店に改装した。町では一番早くに洋風建築に建て替えて、町の外から珈琲を買い付け、これが大当たりした。
――うちの旦那は、茶葉を見る目がなくってね。それならお前の料理の腕を活かしたい、て言ってくれて、お義父さんも、それでいい、て。お義父さんが選んだ茶葉も、店には置いてるから、いつでも買いに来てね。
開店祝いでおかみさんと来た時に、そう言ってはるさんは微笑んだ。糊のきいた白いエプロン姿が、夏の日差しに美しかったのを覚えている。
「この前の夏の帰省の時に、尾羽のお茶を両親に買って帰ったんです。その時に、お店でお茶を一杯頂いて、それがとても美味しくて。笹岡先生のお話もずっと面白く聞いていたんですけれど、町にひとりで下りるのは誰も良い顔をしないものだから。それで、笹岡先生にお願いしたんです」
あの日は、そもそも小和さんに会いたくて社会科資料室に行ったのよ、と、増穂は小和に向けて言った。
小和は赤くなる頬を隠すように視線を下げ、プリンの端を匙でそっと掬う。ここは、おかみさんの幼馴染みのお店だった。とはいえ、ここで食事をすることは、小和にとってはかなりの贅沢で、指で数えるほどしか来たことがない。
つるりとした舌触り。卵を丁寧に溶いた、きめ細やかな味がする。それを一口飲み込んでから、小和は、増穂の言葉を思い出し、少し首を傾げた。
「良い顔をしない……?」
「言ったでしょう、校則が厳しいのよ。校外であれをするな、これをするな、模範的優等生であれ、て。ましてや普通の華族の令嬢は、帝都ですらお供もつけずには出歩かないものだしね」
「でも、増穂さんは……」
「私は、校内でも優等生だから」
最初こそ笹岡と二人できた増穂だったが、二度目からはもうひとりで碧水屋に来ていた。そのことを小和が口にのぼらせると、増穂はふふ、と悪戯っぽく笑ってみせる。
「自分のことは、自分でしたいのよ」
言って、増穂は自分のプリンをぱくりと飲み込む。
増穂は、帝都でも有数の、大財閥の令嬢だそうだ。旧士族の華族でもあり、本来、帝都から離れた山奥の、全寮制の学校に来るような人物ではないのだが、増穂は景観を気に入ったことを理由に、周囲の反対を捩じ伏せて入学したらしい。成績優秀、品行方正、教師たちからの信頼も厚い。それで、笹岡の口添えを後押しに、こうしてひとりで町に降りるのが許されたそうだ。
「私はね」
と増穂は銀の匙をひらめかせる。金色の縁取りがされた珈琲カップ、華やかな草木柄の天鵞絨のソファ。ダークブラウンの床の木目に、格子の入った窓ガラスから、ステンドグラスを通したきらびやかな陽射しが降っている。
「起業したいのよ」
「きぎょう?」
意味がすぐにとれなかった。増穂が微笑む。
「会社を立ち上げたいの。お父様のじゃなくて、私の」
「まあ!」
感嘆の声を上げたのは、小和ではなくて、はるさんだった。
「凄い!」
目を見開いて、はるさんは口許に手を当てている。それがどれほど凄いことなのか、小和には想像もつかなかったが、何か、途方もないことであるのは、小和にも分かった。
「……難しいことなんですね?」
分からないながらに小和が問うと、増穂も笑って頷く。
「ええ。でも、決してできないことでも、してはいけないことでも、ないわ」
そうして、はにかむ姿はやはり、新雪に咲く蝋梅の花を、小和に思い起こさせた。
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