春告げ

菊池浅枝

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1.水澄む

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「失礼します、小和です。碧水屋のお遣いなのですが……」

 資料室の中は、本が散乱していた。
 日差し避けのカーテンが引かれた薄暗い部屋の中に、本の塔が四、五個見える。備え付けられた机を無視して床に広げられた資料を、やはり床に座りこんで、本の塔に埋もれるようにして読んでいるのが、この学校の社会科講師、笹岡智徳とものりだった。還暦も近い歳で、薄い髪の毛にはところどころ白髪が交じっている。四角い黒ぶち眼鏡を一度、指先で持ち上げたかと思うと、笹岡は、はっとしたような顔で小和を見上げた。

「あ、碧水屋の、」
「小和です。お仕事中にすみません」

 小和が頭を下げると、いやいや、と笹岡は笑った。本の山を乗り越えて、小和のもとまでやってくる。

「仕事という訳じゃあないですから……、お遣いですか?」
「はい、おかみさんから、先生と職員寮の皆さんに、お菓子を届けに来ました。山水の葛というお菓子で、さっき中井さんに預けてきたんですが」
「そうですか。いつもありがとうございます、こんな山の中まで」
「いえ、りくのところへ、様子伺いに行く用事もありましたから」

 小和がそう首を横に振ると、笹岡はぐるりと資料室を見渡して、それじゃあ一旦戻りましょうかねぇ、と諦めたように呟いた。

「小和さんがいらしたということは、もうおやつ時のようですし」

 小和も同じように資料室を見渡して、先生は、と口を開く。

「今日は、何をなさってたんですか?」

 笹岡は、歴史学の教授である。大学からの出向で、日本史の教師としてここに来ていた。本来の専門は郷土史で、尾羽の町の歴史にも興味を持ち、よく町に顔を出すうちに、碧水屋の常連客となったのだった。職員寮に住んでいるのもそのためで、よく資料室でこの町の民俗資料や町史などを、教材探しがてらに読んでいる。その内、それに没頭して、今日のように時間を忘れてしまうこともしばしばだった。

 問われて、笹岡はばつが悪そうに顔を顰めて頭を掻いた。

「いや、面目ない、今日は新しく入った資料の整理をね、やってるうちに読みふけってしまって……」

 言葉が尻すぼみになっていく。叱られた子供のような顔をしている笹岡に、小和は思わず笑った。

「じゃあ、整理は私がしばらく代わります。どうぞ、休憩して来てください」
「いやいや、いつも手伝ってもらっているのに、そんな、」
「いいえ、おかみさんも、そのつもりで私にお遣いを頼んでいますから」

 恐縮する笹岡に、大丈夫ですよと答えて、小和は山になった本の一冊を手に取った。笹岡がよく資料室に籠もるので、こうしてお遣いに来る小和も、片付けや資料の探し出しを手伝うようになった。どういう本がどういう関連で棚に並んでいるのか、もうだいぶ覚えてしまっている。

「益々申し訳ない……あ、でも、そういえば小和さん」
「はい?」

 本を棚に戻しながら、呼ばれて小和は振り返った。
 笹岡は、少し目を細めるようにして、小和を見ている。

「小和さんは、学校に行ったことはないんでしたよね」
「はい。小さい頃にりくに拾われましたから。りくとおかみさんが、読み書きを教えてくださいましたけど」
「せっかくここに来ているんです、ここの本、興味がおありでしたら、どうぞ好きに読んでいって下さい」
「えっ」

 笹岡の言葉に、小和は、いいんですか、と問い返した。
 頬が上気するのが分かる。思わず手で頬を押さえた。

「学校のご本なんじゃ」
「構いませんよ。半分は僕の私物ですし、小和さんには、いつも手伝っていただいていますから」
「……でも、私、あんまり難しい本はまだ読めなくて」

 家事やお店の手伝いの合間に、少しずつ読み書きを習っていた小和には、簡単な物語ならともかく、難しい言葉の多い本は、まだ理解できないものも多かった。ましてや、大学教授が使う学術書など。
 笹岡はしかし、微笑んだ。

「そんなに小難しい本ばかりではありませんよ。地域の物語を集めたような本もあります。勿論、小和さんが、この部屋の本に興味があればなのですが」


 僕の授業は生徒たちには人気がなくてと、笹岡が苦笑いをするのに、小和は首を振る。そして、ありがとうございますと頭を下げた。

「嬉しいです」
「それは良かった。では、ちょっと外しますね」

 笹岡は微笑んで、体を翻す。
 と、そこでふと、「そうだ、もう一つ」と立ち止まった。
 資料室の戸を開けようとする、その途中の姿勢で体を止めたまま、笹岡は真剣そうに首を傾げる。

「さんかく、というのは何ですか?」
「さんかく、ですか?」

 小和も首を傾げた。

「ええ、事務員の中井さんに、この時期はさんかくになりやすいから、気を付けてと言われまして……」

 笹岡の言葉に、ああ、と小和は得心する。

「三角ですね。この時期にかかる風邪みたいなものなんですけど。頭がぐるぐるして、お腹が痛くなるんです」
「この辺りに昔からある病気ですか?」
「ええ。でも、人には滅多に罹らないんですよ。お山の動物や草木が罹るんです。草木に罹ると、葉に三角形の斑ができて」
「草木にですか」

 興味深そうに笹岡が目を見開いた。小和は、尻尾を丸めて唸っていた栢を思い出しながら、苦笑して見せる。

「はい。人にはあまり罹らないから、お山の村がなくなった今では、三角のことを知らない人もいるみたいです。中井さんは昔からここに住んでる方だから、ご心配なされたんじゃないでしょうか」
「なるほど」

 うんうんと頷きながら、笹岡はしきりに瞬きをする。小和はそれに小さく笑って、作業に戻った。少しして思考がまとまったのか、それとも中途半端な姿勢を思い出したのか、笹岡が、あ、では、よろしくお願いしますと、慌てたように資料室を出て行く。とたとたと廊下を踏む靴音が、遠のいていった。

 資料室の空気は僅かに埃っぽい。午後の光が壁に並ぶ本棚をゆっくりと暖めて、乾いた匂いを放っている。まるで部屋が、静かに息づいているような気がする。
 手にした本を、つい開きたくなるのを堪えながら、小和は棚に納めていった。開けば、笹岡のように読みふけってしまうのが分かっていたからだ。

 ――読ませてもらうのは、この部屋の整理が一段落してからにしなくちゃ。

 窓の外から、笑い合うような高く明るい声が聞こえる。生徒のものだろうか、小和はそっとカーテンの隙間から外を見やる。特別棟の裏庭からほど近い、学生寮の中庭で、女生徒が数人、テニスを始めるところだった。髪をお下げに垂らした女の子たちの、白いワンピースが陽射しに映える。

 ぱこん、と、球がラケットにあたる小気味よい音がした。
 小和は、その音に少しだけ耳を傾けてから、再び、本の山へと手を伸ばした。


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