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寄り道の章

★胸の痛みは、内緒にします

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 ほんの少し前まで側に近寄れば、猫のように毛を逆立ててた愛しき人が、自分の腕の中で身を委ねている。

 シュウトは瑠璃を抱き直し、寝顔を見つめた。その無防備な寝顔に思わず笑みがこぼれるが、同時に獣のような衝動に駆られる。

 シュウトは己を戒めるようにきつく瞳を閉じた。やっと、警戒心を無くしてくれたのだ。一時の衝動で、全てを無に帰すような愚行はしたくない。

 ため息なのか、諦めなのか、わからない息を吐いて、シュウトは暗闇に向かって声を発した。

「聞いていたか、ナギ」 
「はい」

 音もなく現れた小姓に、シュウトは視線を向けず、口を開いた。

「と、いうことだ」
「………左様で。でも、異世界とは驚きました」

 ナギは表情を変えず、そう呟くとシュウトの傍らに膝を付いた。次いで、両腕を伸ばし瑠璃を抱き上げる。

「限界でしょう、シュウトさま」

 意地悪く微笑んだナギに、シュウトは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。

「瑠璃の寝顔が無防備過ぎるのだ」

 限界なのは体力ではなく、自制心のようだった。それでも離したくないと、シュウトは欲心丸出しの表情でナギを見つめる。反対にナギは、すっと目を細めた。

「私は、瑠璃殿とある約束を致しました」

 唐突に口を開いたナギにシュウトは片眉を上げた。

「瑠璃殿が、シュウトさまに懸想されるまでの間、瑠璃殿の貞操は私が命を賭して守る、と」
「……勝手なことをするな」

 シュウトは渋面をつくりナギを睨みつけた。しかし、ナギは小さく首を傾げ再び口を開く。

「先日の一件は、瑠璃殿は見逃してくれたようです。まぁ、本人もそれどころではなく、約束自体を忘れていたような様子でした……が、しかし、二回目ともなると私は約束通りにしなければなりません」

 わざと大袈裟にため息をつくナギに、シュウトは渋々、顎で瑠璃の部屋を指した。

「連れていけ」

 年甲斐なく、ふて腐れる主君にナギは慇懃無礼に一礼し、瑠璃を部屋へと運び込んだ。







 ナギは瑠璃を寝台に横たえ、掛布をかける。はみ出た瑠璃の手をしまおうとしたが、両手でそれを包み込んだ。

「───ずいぶんと、頑張ったようですね」

 そう言うと、部屋に常備している薬箱から軟膏と包帯を取りだし、傷の手当てをする。軟膏が染みて目を覚ますかと心配したが、それは杞憂であった。瑠璃は全く起きる気配がなかった。

「やっと、眠れたんですね」

 そう言って、瑠璃の前髪を払うナギの眼には慈しみが込められていた。ナギは知っていた。瑠璃がずっとうなされていたことを。彼女にとって、眠りとは苦痛を伴うものでしかなかったのだろう。

 やっと、穏やかな眠りが訪れたのだ。これは彼女が目を腫らし、手に怪我を負ってまで手に入れたもの。決して妨げてはならない。

「お疲れ様です、瑠璃殿。どうか、よい夢を」

 ナギは、もう一度瑠璃の髪を撫で、静かに部屋を後にした。 







◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 シュウトとナギは、静かにシュウトに部屋の前の縁側に移動し、今宵も二人で酒を酌み交わす。


「瑠璃から、聞いていたのか、ナギ?」 
「いいえ。初耳でございます」

 さすがに異世界から来たことはまでは、とナギは心の中で付け足した。

 曖昧な表情で酒を飲み干すナギにシュウトは、何か言いたそうな顔をする。しかし軽く頭を振り、黙ってナギの杯に酒を注いだ。

「そうか……」

 シュウトはそれだけ呟き、庭の桜木を見つめる。

「早く言えばいいものを………」

 再び呟くが、ナギは何も答えない。それはナギもシュウトと同じ考えということ。

 異世界から渡ってきた人間は瑠璃だけではない。良くあることでもないが、珍しくもない。二人とも、瑠璃以外の異世界人を知っている。

「シュウトさま、いつ頃気付かれましたか?」
「出会って早々だ」
「それは、またお早いことで………」

 杯を持ったまま、目を丸くするナギに、シュウトは何を思い出したのだろうか、ふっと笑みを浮かべた。

「予感はあったが、瑠璃がカザハに触れた瞬間、確信に変わったな」
「なるほど、そういうことでしたか」

 ナギは深く頷き、杯を傾けた。

 このコキヒ国には神馬と人馬が存在している。神馬は通常の馬の二倍の大きさがあり、人語を理解し飼い主と意思疎通ができる。しかし矜持が高くむやみに触れれば怒りを買い、時には人間を殺すこともある。反対に人馬は所謂、普通の馬のことを指す。

 カザハは神馬と人馬の混血である。神馬に比べ、やや小ぶりではあるが、矜持も高く人語も理解できる。それに何より、人間には感じることのできないものを感受できる。

 カザハは瑠璃を受け入れた。それが意図するのは───

「神の意思、か………」
「そう思うほかありませんね。瑠璃殿がこの世界に来たのも、神……人ならざる者が関わっている、ということでしょう」

 訝しそうに眉を寄せるナギに対し、シュウトは不適な笑みを浮かべた。

「神でも、何でも良い。瑠璃は私のものだ。誰にもわたさない」

 それはまるで、目に見えないものを挑発するような口ぶりであった。

 その時、シュウトの挑発に応えるかのように一筋の風が吹き付けた。シュウトの杯に桜の花びらが舞い落ちる。慌てて新しい杯を渡そうとするナギを、シュウトは片手で制す。

「宣戦布告か?受けてたとう」

 シュウトは不敵に笑うと、杯を一気に飲み干した。その姿は先陣きって駆け出す若武者のようだった。

 ナギは久方振りに、本来のシュウトの姿を見て、深く頷いた。

「シュウトさまがそう決めたのなら、私はそれに従うまでです」

 相手が神でも、魑魅魍魎だとしても。









 再び、沈黙が落ちる。しかし、二人は同じことを考えていた。最初に口を開いたのは、ナギだった───

「そういえば、結婚が嫌で逃げ出したというのは、本当だったようですね」
「あんなものは、結婚などではない。忌ま忌ましい」

 眉をしかめ、そう吐き捨てたシュウトに、ナギも同意する。瑠璃の披瀝はこちらの想像を遥かに超える、衝撃的なものだった。

 あの細い肩に、どれ程の重責を抱えていたのだろう。笑って殺して良いよと言った時、彼女は何を想っていたのだろうか。



 よわい16になったばかりの少女が口にできる言葉ではない。

 誰もが胸の内に潜む、話したくない過去、知られたくない本音、それを掌を血に滲ませながらも語ってくれたのだ。それは傷口を再び抉る、苦痛を伴うものだったのだろう。

 ナギが剣を向けたとき、瑠璃は頑なに話すのを拒んだのだ。けれど、シュウトの前で、全てを話したということは瑠璃は間違いなく、シュウトに心を開いたのだ。愛とか恋とかという段階を飛び越えて、寄り添う相手を見つけたのだろう。

 しかし、懸念は付きまとう。瑠璃はこの屋敷に留まることを今でも承諾していない。約束は、このコキヒ国では何物にも替えがたい、己への縛りなのだ。コキヒ国外では、そうではない。当たり前のように裏切り、踏みにじる。言葉を慈しむ部族だからこその縛りであり、誇りであった。

 瑠璃がそのことを知っていて、承諾していないのか、それとも誰かに入れ知恵されているかはわからない。けれど、瑠璃が自分の意思でここを離れると決意した場合、誰も彼女を強引に引き止める事はできないのだ。

「シュウトさま、瑠璃殿から離れたいといった場合は───」
「言わせない。どんな手を使ってでも、手放すつもりはない」
「でしょうね」

 そう答えるのは十分承知していた。けれど、ナギはあえて問うた。そして予想通りの答えを受け、胸の痛みに唇をかみ締めた。

 シュウトがナギと共に夜を過ごしていたのは、寂寥から目をそらす為だったのだ。そしてナギは温もりを求めていただけ。

 だからもう、シュウトは、自分と床を過ごすことはないだろう。例えナギがどんなに凍えようとも。ナギは、寂しい気持ちを隠すため、再び杯を口に運んだ。

 けれど、この気持ちは、時間が経てば忘れる事ができると確信している。そしてシュウトと瑠璃の、穏やかな生活はいつまでも続いて欲しい、これはナギの嘘偽りのない気持ちだ。

 しかし今宵だけはもう少しだけ月が雲に隠れないことをナギは祈る。なぜなら今宵が多分、最後の二人っきりの酒宴になるのだから。



「───ナギ」

 唐突に名を呼ばれ、ナギは不思議そうに主君を見る。

「もちろん、お前のことも、な」

 ナギは、目を細め頷いた。

 自分の主君はこういう人なのだ。一度自分の懐に入れた者は、無条件に愛おしむ。優劣などつけない。瑠璃を手に入れたとしても、ナギの存在は何物にも替えがたいと言葉で伝えてくれる。

 ナギは無言でシュウトに自分の杯を捧げる。シュウトはナギのそれを無言で受けとった。

 次いで、ナギは両腕を横に伸ばし袖を広げ、背筋を伸ばす。そして、両手を床につき深く頭を垂れた。これはコキヒ国において、主君に対して最も敬意を表す礼であった。

「有り難き、幸せでございます」

 シュウトは、ナギに杯を渡し、二人同時に酌み交わした。

「お前とは、もう8年か………」

 懐かしそうに目を細めるシュウトに、ナギもシュウトと出会った、あの8年前の晩を追想した。

 始めて出会ったのは、奇しくも瑠璃と同じよわい16だった。

 シュウトは自分より、3歳年下で、まだあどけなさを残す少年だった。相対する立場であったのにも関わらず、シュウトは何も聞かず、自分を受入れてくれた。それは、シュウトの直感で決めたことなのか、何か口にできない理由があってのことなのか、ナギは今でもわからない。それでも、シュウトは8年前から───

「あなたは何にも変わらないです」

 そう言われたシュウトは、意地悪く片方の唇を持ち上げた。

「お前は、良く笑うようになった。ついでに小言も増えた」

 ナギは素知らぬ顔で、杯を傾ける。自分自身が変わったことは自覚している。ただ、小言については、増やしたくて、増やしたわけではない。そうせざるを得ない状況だったのだ。誰が好き好んで、小言などいうものかという言葉を吐く代わりに不服そうな顔をしてみせる。

 しかし、同時に目が合い、二人は静かに笑う。

「なぁ、ナギ。そろそろ、頃合いなのかもしれない。私達も前に進もうではないか」

 その言葉だけで、何を指しているのか、ナギは理解してしまう。

 シュウトにもナギにも、触れられたくない過去がある。それは、目をそらし生きていくのには限界があるもので、一目を避け、ここに留まり続けている理由でもある。

「左様ですか」

 穏やかに笑みを浮かべるナギであったが、その表情とは裏腹に、杯の震えを押さえるのに、精一杯であった。


 終焉の幕を開けなければならない。シュウトにとっては、過去を清算し、未来へと進む為のもの。けれど、ナギにとってのそれは、シュウトとの訣別を意味するものであった。

 ナギは近い将来、主君であるシュウトを裏切ることになる。それも最悪の形で。





 二人の間に再び、風が吹き抜ける。

 それは桜花の香り漂う、どこか憂いを帯びたものであった。
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