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不完全な婚約

両親の過去

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 レイディックが去った扉をぼんやりと見つめる私の心の中は、とても複雑だった。

 ───本当に私がレイディックの婚約者?嬉しい。とっても嬉しいっ。でも…………どうしよう。

 そんな言葉が頭の中でぐるぐる回っている。

 レイディックに愛されたい。ずっとずっと傍に居たい。それが叶ったのだ。本当なら手放しで喜びたい。踊りだしたいくらいに。けれど、そうもいかなかった。

 まず、彼と私には身分差がありすぎる。平民同士の結婚ですら何かと揉めることが多い中、これが貴族ともなればもっともっと弊害が多いだろう。

 それに私は他の男に純潔を奪われた身だ。そんな私をレイディックは本当に一生を遂げたい相手として選ぶのだろうか。

 考えたくないけれど、この婚約も貴族の戯れの一つなのだろうか。浮かれる私を見て、レイディックは蔭で笑っているのだろうか。

 でも、もしそうなら、それで良い。一生側室という立場で過ごすのも悪くないと思う自分もいる。最悪、棄てられても良い。

 そこまで考えて、私はそっと自分の下腹部に手を当てた。

 昨晩、レイディックは私の中に何度も何度も精を吐き出した。私もそれを拒まなかったし、むしろそうされて嬉しいと思っていた。

 ───このまま子供ができちゃえば良いのに。

 そんなことすら考えてしまう。

 もし仮にレイディックが私を捨てて、王都に戻ってしまっても、レイディックの血を引く子供がいれば寂しくない。大切に育てていこう。
   
 そう思ったら、この婚約が真実でも偽りでも、どちらでも構わないという結論に落ち着く。結局のところ、私がレイディックのことを好きな気持ちは、どうあっても変わらないのだから。

 …………ただ、その気持ちが強ければ強い程、今、私が置かれている状況は、レイディックに対してとても不誠実で胸が軋むように苦しい。

 早急に、ジャンとの婚約をきちんと破棄しなければならない。となると、一刻も早く叔母に会わなければ。本音は会いたくはないし、こんな話をするのは気が滅入る。けれど、やらなければならない。

 そこまで考えて、深いため息をついた瞬間、控えめなノックの音と共に、ティシャが姿を現した。


「アスティア様…………えっと…………」

 ティーカップとポット、それとお茶に必要な細々としたものが乗ったトレーを両手に持ったまま、ティシャはもじもじと言葉を濁す。

 この様子を見るに、昼まで私が寝ていた理由を、ある程度察しているのだろう。もちろん私も、気まずさからティシャと同じようにもじもじとしてしまう。

 そして、しばらくお互いそうしていたけれど、意を決して口を開いたのは私の方だった。

「ティシャ。あのね、何だか不思議なことになっちゃったの…………実はね」
「おめでとうございます」
「え?」

 私の言葉を遮って、ティシャはにっこりとほほ笑みながら祝福の言葉を私に向けた。反対に私は間の抜けた声を出してしまう。

 ちょっと小首を傾げたティシャは、ソファの前のテーブルにトレーを置くと歩を進め、私の前に立ち手を取った。

「先程、レイディック様からお伺いしました。アスティア様の婚約者になられたと」
「そ、そう」

 ほほ笑みながらも、ティシャは事務的に淡々と告げる。

 ただ私としたら、あからさまに反対されるとは思わなかったけれど、当然のようにこの状況を受け入れられるのも予想外で狼狽えてしまう。

「………レイディックが本気なら嬉しいんだけどね。でも、私、平民だし………」

 さっき一人で鬱々と考えていたことを、ごにょごにょと口にすれば、ティシャは差し出がましいようですがと前置きして口を開いた。

「わたくしは、レイディック様が遊び心でそんなことを口にする人ではないと思います。ただ、アスティア様がご自分の身分のことを心配されているなら、いっそお爺様に連絡を取ってみてはいかがですか?」
「それは…………できないわ」

 ティシャの提案に、少し考える。でも、やはり首を横に振った。 

 彼女が口にしたお爺様とは、父方のほうではなく、母方のほう。父の両親は、父と同じく医者で私が幼い頃、亡くなった。これも両親と同じように流行り病の治療の末に。

 両親の結婚に至る経緯は少し複雑だった。はっきり言ってしまえば、駆け落ちをして、この村に流れ着いたのだ。私が知っているのはそこまで。詳しいことは教えて貰えなかった。

 母は大きくなったら教えてあげると言っていたけれど、両親が死んでしまった今、その約束は果たされていない。

 ただ、母が存命中に一度だけ、遠回し聞かれたことがあった。『おじいちゃんと、おばあちゃんに会ってみたい?』と。私はそれを自分の意志で拒んだのだ。

 その理由は、叔母が母をひどく嫌っていたから。

 今とは違い、叔母は隣街に住んでいたので、めったに顔を会わすことはなかった。けれど、たまに顔を合わせれば、何かにつけて叔母は母のことを『これだからお嬢様は』と揶揄したり、嫌味を口にしていた。それはもう憎悪としか言いようがない程に、酷いものだった。

 母はそれに対して、じっと耐えていた。時には気にしないといった感じで、無理に笑っていた。けれど、幼い頃の私にとって、とても辛いことだった。

 だから、ここに祖父達が来てしまえば、母に迷惑がかかると思ってしまった。それに、あの時はレイディックが傍に居てくれた。だから自分が祖父の元へ行くという発想も持てなかった。

 そんなことがあって、両親が死んでしまった今、私は祖父も死んだと思うようにしたのだ。

 ───という過去の出来事を思い返していたけれど、ティシャの視線に気づき、私は一番都合が良い言い訳を口にする。

「…………だって、今更、私がお爺様に連絡を取る術もないわ」

 ぎこちなく笑みを浮かべそう言っても、ティシャは納得できない様子で、ぎゅっと私の手を握る。

「でも、このままですと…………」
「良いの。レイディックが本気でも本気じゃなくても。私はその言葉を貰えただけで、幸せなのよ」

 それでも何か言おうと口を開こうとするティシャを遮るように、私は明るい声を出した。

「ねえ、ティシャ。私、お湯を使わせて欲しいの。でも、この部屋にはなくて…………どうすれば良いかしら?」
「あっ、わたくしが、聞いてきますっ」

 そう言って、ベッドからお降りようとした私に、ティシャは慌てて引き留めた。そして、あっという間に廊下に飛び出していった。

 パタンと小さい音を立てて閉められた扉を見つめ、私はゆっくりとベッドから降りる。そして窓辺へと足をむけた。

 レイディックの屋敷はとても広い。そして貴族の庭園らしく、美しく整えられている。
 
 澄み渡る青空の下、人の手によってしか咲かない見事な薔薇園を見下ろしながら、私はここで過ごすこれからの日々を考える。

 バラ色の未来、か。

 そうなる為には、このまま流されるように、ここに居てはいけない。近いうちに叔母に会おう。

 そう心に決めた途端、内股からとろりと、生温かいものが伝わった。それは昨日、私の中にレイディックが放った精の残滓だった。
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