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伯爵様の元での生活

ティシャからの提案①

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 それからすぐ控えめなノックの音がしたかと思ったら、扉が開き、黒髪を一つで纏めた、そばかすが目立つ可愛らしい少女───ティシャが姿を現した。手には何か飲み物が乗ったトレーを手にしている。

「アスティアさま、あの……飲み物をお持ちしましたが……えっと……その……」

 彼女が言葉尻を濁してしまったのは、多分、私がレイディックの膝に居るからだろう。その表情は、ありありと入室するタイミングを間違えてしまったと物語っている。

 そしてティシャは迷った挙句、時間を置いて出直すという選択を取ったようで、再び背を向けようとしてしまう。けれど、それをレイディックが引き留めた。 

「ティシャ、出て行かなくて良いよ。ここに居てあげて。───…………アスティア、僕はちょっと用事があるからここを離れるね。でも、また来るから。良い子にしててね」

 そう言いながら私をベッドに降ろして、部屋を出て行こうとする彼の袖を私は慌てて掴んだ。彼には沢山聞きたいことがある。

「待って、レイっ。あの………」

 とはいえ、引き留めてみたものの、勇気がなくて聞けないことの方が多い。でも、何もかも、うやむやのままでは困る。そう思った私は一番聞きやすいことだけを口にした。

「どうしてレイはこの村に来たの?」

 『手紙一つよこさなかったあなたが』という言葉を抜いてみたものの、やはり、少し棘のある口調になってしまった。

 そしてそう言われた側のレイディックは、しゅんと肩を落としてしまった。

「実は家督を継いだのが、つい最近なんだ。えっと、はっきり言いちゃうと、半年前。………それまでは色々あって自由に動くことができなくて…………でも、やっと時間を取ることができたから、すぐに、ここに足を向けたんだ」
「…………そうだったのね」

 聞きたいことを、色々という言葉で誤魔化されてしまったけれど、彼の言葉には嘘はなかった。

 そしてレイディックは、更に申し訳なさそうに眉を下げ、言葉を続けた。

「ごめんね、アスティア。ずっと連絡できなくて。僕も、もっと早くここに来たかったんだ。………だけど、父上から受け継いだものとか色々あってね。こんなに遅くなっちゃたんだ。───…………って、ごめん、アスティア。もっと詳しく話をしたいけど、この後実は予定が入っているんだ」
「え?」

 私が短い言葉を吐いた途端、レイディックは素早い動きで扉まで移動してしまった。そして部屋を出る直前、ふりむきざまにこう言った。

「僕はちょっと家のことでバタバタするけど、気にしないでゆっくりしててね。使用人たちにも、君の命令は僕の命令と同等だと伝えてあるから。なにか不便があったら何でも言ってね。じゃあ」
「あ、ちょっと、待って───」

 再び引き留めようとしたけれど、今度はレイディックはまた来るねという言葉を残して、姿を消してしまった。





 残されたのは、私とティシャの2人。

 もっと詳細に語るならば、この空間には、2か月後に婚約を控えているのに寝込みを襲われた挙句、ついさっきまで他の男の膝に居た私と、血のつながりはないけれど、私を姉のように慕ってくれるティシャの2人っきりしかいない。

 とどのつまり、とても気まずい空気が流れている。

「────……何だかおかしなことになっちゃったわね」

 僅かな沈黙の後、私は、ちょっとおどけてティシャに向かって、そんなことを言ってみる。

 ティシャは2つ年下の同居人。両親が存命中からの同じ屋根の下で過ごしていて、もう、かれこれ5年も私の傍にいてくれる。彼女は、もともと孤児だった。そして父が保護したのだ。その経緯は詳しくはわからないけれど、今では、私にとってティシャはこの村で唯一心を許せる存在。

 ただ彼女は、私を姉のように慕ってはくれているけれど、ずっと、一線を引いて使用人という立場を貫いている。それが私には、距離を置かれているようで、とても寂し思っている。

 そんなティシャは、私の言葉にトレーを持ったまま、激しく首を横に振り口を開いた。

「そんなふうに言わないでください。アスティアさま、あの、」
「すぐに帰りましょう。ティシャ。ただ…………この恰好では、ちょっと困るわね」

 レイディックの前では、敢えて気付かないふりをしていたけれど、今の私はレースがふんだんにあしらわれた、所謂、ナイトドレスというものを着ている。

 この服を誰が選んだのか。そしてこれは、誰の手によって着せられたのか。そのことをティシャの口から言われる前に、私はすぐに言葉を続けた。

「できれば動きやすい服があればお借りしたいのだけど…………そういうのってお願いしても良いのかしら?駄目ならこれでも良いわ。とにかく早く帰りましょう」

 レイディックに押し切られてしまったけれど、やはりこのままここに居るのは間違いだ。

 彼はずっとここに居て良いとは言ったけれど、もしかしたら、その言葉はノブレスオブリージュの精神で、傷付いた猫を保護しているような気持ちでいるのかもしれない。そしてその気持ちがずっと続くとは思え難い。

 だから、惨めな気持ちで追い出される前に、ここを離れよう。その方が傷は浅くて済む。

 それに私はジャンとの婚約もある。純潔を失った今、きっと婚約の話自体、なかったことにされると思うけれど、それを叔母にどう伝えるか。かなり頭の痛い問題で、独りになってゆっくりと考えなければならない。

 そんな事情を全て知っているティシャは、当然のように私の言葉にうなずくと思った、けれど───。

「いいえ、アスティアさま。お着換えの必要はありません」
「は?」

 一旦、手にしていたトレーを手近にあったチェストに置くと、ティシャはそうきっぱりと言い切った。ただ反対に私は、困惑してしまい間の抜けた声を出してしまう。

 そんな私に、ティシャは私の元に近づき膝を付くと、きゅっと私の手を握ってこう言った。

「わたくしも伯爵様の考えに賛成です。アスティアさま、どうかこのまま、ここでお過ごしください」

 ティシャの表情は今まで見たことが無い程、必死なものだった。
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