こもごも

ユウキ カノ

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9.いちばん大事

9-④

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 そうだ、わたしはずっと伝えたかった。里恵ちゃんのことが大切だと、なによりもいちばんだと、ことばで示したかった。里恵ちゃんがいたからまえを向けた日のこと、里恵ちゃんを想うから泣いた夜のこと、ぜんぶぜんぶ、聞いてほしかった。わたしのこれまでの人生の、一分一秒に里恵ちゃんがいたこと、話したかった。
 バス停に停まってはまた走りだすバスを追い越し、追い越されながら、走る。もう長いあいだ走っていない。走りかたを忘れた息が切れる。汗で、ブラウスが肌に張りついた。
 里恵ちゃんがいたから、ひととして真っ当になりたかった。はやく大人になりたかった。すぐにはうまくいかなかったけれど、わたしなりに努力して、やっと、その一歩を踏みだせた。これからだってどうなるかわからないけど、でもきっとまた、里恵ちゃんを想えばつよくなれる。
 弱いわたしだって捨てられない。えるのみたいにつよくはなれない。それでも、だれかとはちがう、わたしなりのつよさを、わたしは手に入れたい。手に入れたいと心から願っている。里恵ちゃんを思うわたしがいれば、それだってできるはずだ。
 走る。走る。身体が熱くなると同時に、頭が、胸が、心が燃える。ずっと鍵を締めてしまいこんでいた気持ちが溢れて、道路に散らばってしまいそうだ。肩から落ちそうなトートバッグを、握りしめて走る。
 子どものころから変わらず、里恵ちゃんだけがずっと、わたしのヒーローだと伝えたかった。「女の子はヒーローにはなれないよ」と、おねえちゃんは言ったけれど、「ヒーローは男のひとがなるものだ」とクラスメイトは笑ったけれど、里恵ちゃんはたしかに、わたしのヒーローだった。
 橋のたもとを右に曲がる。辺りを見まわしながら、青い壁の家を探した。
 里恵ちゃんだって、クラスメイトにいじめられて泣いて帰ってきたわたしに、「女の子だってヒーローになれるよね」と言ってくれた。あのあと、里恵ちゃんはなんと言ったんだっけ。
 視界の端に青を見つけて、心臓が跳ねる。目をやると、道路を挟んだ向こう側に、青い家があった。
―そうだね。女の子だってヒーローになれるよね。
 まちがいなく、そこはえるのの家だった。川上さんが、家のまえで荷物をトラックに積んでいる。
―まゆ、聞いて。
 そして、そこに里恵ちゃんがいた。家のなかから姿を見せて、川上さんとなにか話している。
―いつかきっと、まゆにももっとかっこいいヒーローが現れるよ。
 目のまえに里恵ちゃんがいる。それだけで、身体も心も破けてしまいそうだ。
―その日が、たのしみだね。
 里恵ちゃんがあの日言ったことばが脳裏によぎる。そうだ、里恵ちゃんは、「もっとかっこいいヒーローが現れる」と言った。それがだれかは、教えてくれなかったけれど。
 でも、いまならなんとなくわかる。わたしのヒーローは、わたしだけだ。もしもこの答えがだれかにとって、そしてあのときの里恵ちゃんにとって間違いでも、わたしにとっては正しいと信じている。だって、ひとりひとり、答えはちがって然るべきなのだ。
「里恵ちゃん!」
 うまく吸えない息の代わりに、思いを込めて名前を呼ぶ。車のエンジン音にかき消されるかと思ったその声は、届いたみたいだった。
「まゆ」
 里恵ちゃんの口が、わたしの名前を形づくる。いとしい、コーラルピンクの唇。
 車の隙間を縫って、道路を渡る。そのまま、里恵ちゃんの胸に飛びこんだ。
「里恵ちゃん!」
「まゆ! どうしたの」
 あたたかくってやわらかい。里恵ちゃんに抱きしめてもらったのは、いったいいつ以来だろう。
「里恵ちゃん、引っ越すって」
 身体を離して、里恵ちゃんの顔を見る。とたんに、里恵ちゃんが困った顔をした。
「……うん、そうなんだ。ごめんね、伝えてあげられなくて」
 わたしの手を握った里恵ちゃんが、申し訳なさそうに眉をさげる。ぶんぶんと音が鳴るほど、首を振って応える。
「いいの。ぜんぶ聞いたから」
 それよりね、と言ってトートバッグをまさぐる。ぐしゃぐしゃになった水色の封筒を取りだして、里恵ちゃんに見せた。
「わたし、勉強して、高卒認定っていうの、ぜんぶじゃないけど受かったの。合格するまで、何回でも受けようと思う」
 だから、とことばを継ごうとして、涙が溢れた。手の甲で顔を適当に拭って、顔をあげる。わたしよりすこし背の低い里恵ちゃんが、目をまるくしてこちらを見ている。
「だから、安心していいよ。わたし、がんばるよ」
 里恵ちゃんが、女神さまの顔をする。わたしの大好きな、すべて包んでくれるような微笑み。
 うしろでずっとわたしたちのやりとりを見ていた川上さんとも目を合わせる。里恵ちゃんに握られた手を、つよく固いこぶしにした。ひとつ息を吸って、口を開く。
「里恵ちゃん、結婚おめでとう。いってらっしゃい」
 涙を堪えて、告げられたのは、たったそれだけだった。でも、それで十分だった。言えた。そう、思った。
「ありがとう。まゆも、元気でね」
 里恵ちゃんが、わたしを引き寄せてもう一度抱きしめた。子どものころとはちがう、大人の女のひとのにおいが、その首筋から漂っていた。
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