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9.いちばん大事
9-③
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駅前に着くと、バス停でえるのが待っていた。水色のシャツに、今日は同系色のネクタイを合わせている。
「それで、どうだったのかしら」
わたしがバスから降りるなり、えるのはあいさつもなしにそう言った。
「……現代社会だけ、受かってた」
すこし低い位置にある、えるののまっすぐな瞳から目をそらしながら答えると、彼女はちいさく鼻を鳴らした。
「あら、あんまりひどい顔をしてるから、ぜんぶだめだったのかと思ったわ。現代社会、受かっててよかったわね。おめでとう」
「……ひどい顔、してる、かな」
バスに揺られているあいだ、ずっと考えていた。なにが間違っていたのか、なにがおかしかったのか。わたしの人生は、いつから狂っていたのだろう。
「してるわ、目も真っ赤だし顔も腫れてる。どうしたのよ」
地方とはいえ、ターミナル駅に通じる大通りにはひとがたくさんいた。いま口を開いたら、泣いてしまうかもしれない。口を開いては閉じ、開いてははあ、と熱い息が漏れた。
えるのが片方だけ眉をあげ、腕を組んだ。ため息とともに、「ついてきて」と言う。わたしは黙って、ふわふわと揺れるえるのの後ろ髪を追いかけた。
駅からすこし離れた場所へ歩き、たどり着いたのは神社だった。
「ここならひと気がないから話せるでしょう」
「……ありがとう」
おなじ敷地にある公園の、石碑の土台に腰かける。コンクリートの塊は、熱を持って熱いくらいだ。
「こんなもので悪いけど、合格祝いってことにしておいてちょうだい」
スクールバッグから期間限定のジュースを取りだし、えるのが顔のまえで振る。すこし細身のペットボトルと、陽射しを浴びたえるのは、まるでテレビのCMみたいにお似合いだった。えるのはわたしのとなりにペットボトルを一本置き、もう一本に口をつけた。
交通量の多い神社まえの道を、数えきれないくらいの車がいく。それでも不思議と、この場所は静かだった。ペットボトルのふたを開け、口をつける。夏にふさわしい、でもいまの気持ちにはそぐわない、甘酸っぱい味がした。
「……里恵ちゃんが、長崎にいくって」
えるのは黙って、ペットボトルを握っている。
「わたし、聞かされてなくて」
思いだしただけで、また口のなかに苦いものが広がった。
「さっき、真登から聞いて」
制服姿のえるのの横顔に視線を送る。
そして、気づいた。里恵ちゃんは、川上さんの都合で長崎へいくのだ。兄の転勤を、妹のえるのが知らないわけがない。
「……えるの、知ってたの?」
ちら、とこちらを見たえるのが、えるのらしくない表情をした。眉ひとつ動かしていないけれど、その顔から自信が消えている。深呼吸をひとつして、彼女はことばを落とした。
「知ってたわ。だいぶまえにおにいちゃんに聞かされたもの」
おにいちゃん、とえるのが言った。それが里恵ちゃんの旦那さんを指すのだということを理解するまで、しばらくかかった。
「……なんで、教えてくれなかったの」
絞りだす声が震える。えるのまで。えるのまでわたしのことをのけ者にするのか。ピチチと、どこかで鳥が鳴いた。
「あなたが知ってると思ってたからよ。まさか、知らなかったなんて」
思わなかった。えるのが苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。頭のなかは、もう、真っ白だった。
「まゆ」
えるのが、やわらかな声でわたしの名前を呼ぶ。わたしを傷つけないように、腫れ物に触るように発されたその声に、なにかのスイッチが入った。
「……はは」
なんにもおもしろくないのに、笑いが漏れる。いっしょに、涙がこぼれた。いつだって、わたしの気持ちは一方通行だ。
「……里恵ちゃん、わたしのこと『いちばん大事』だって言ったんだよ。言ったのに、ほんとはそんなふうに思ってないって、いっつも思い知らされる」
ずっと、おなかの奥にしまいこんでいたことばが、溢れてとまらない。
「せっかく、勉強したのに。わたしも大人になるためにがんばってるんだよって、言えると思ったのに。そのために、がんばって、食べられなくても、眠れなくてもがんばったのに」
涙が次からつぎへと流れてきて、口にどんどん入っていく。しょっぱい味が、ジュースの甘酸っぱさを打ち消した。濡れた頬が冷えて、すぐに体温でぬるくなる。
「川上さんはずるいよ。里恵ちゃんのこと、簡単に連れてっちゃう」
ずるい、なんて軽いことばじゃ、わたしの気持ちを表現できそうになかった。この気持ちを表すとしたら、そう、「憎い」、だ。川上さんが憎い。川上さんが憎くて、どうにかなってしまいそうだ。里恵ちゃんを連れていってしまう、川上さんが憎い。好きだった製菓の仕事について、身体を壊しても仕事を辞めなかった里恵ちゃんを、あの店から離してしまう川上さんが憎い。里恵ちゃんを独り占めできる川上さんが憎い。
「わたしだって、おんなじだったんだよ。まんまるで、あったかくて、なんでも受け止めてくれる里恵ちゃんが好きだった。里恵ちゃんになら、ぜんぶ見せられた。なのに」
なのにどうして、おなじことを思っているのに、里恵ちゃんは川上さんを選んだんだろう。わたしのほうが、ずっとずっとまえから、里恵ちゃんのことを好きだった。感情に名前をつけられなくたって、川上さんよりも長いあいだ、わたしがいちばん、里恵ちゃんのことを想っていた。
「里恵ちゃんがいたから、真登だって傷つけた。里恵ちゃんがいなかったら、こんなにつらくなかった。真登のこと好きになって、結婚して、かわいいお嫁さんになって、おとうさんたちだって安心させてあげられたかもしれない」
自分でももう、なにを言っているかわからなかった。ただ、ずっとだれかに言いたくて、でも言えなかったありとあらゆる気持ちを、地面に投げつけるように音声にしているだけだ。
「こんなに―こんなにつらいなら、いっそ、はじめから出会いたくなかった」
ああ、と思う。わたしは、里恵ちゃんが結婚することが哀しかったのだ。胸が痛くて、こんなにも涙がとまらない。いまさら気づいたって、もう遅いのに。
いちばんつよい感情と、いちばんはじめから持っていた感情がけんかをして、もうことばにならなかった。嗚咽が漏れて、奥歯が噛みあわない。
えるのの手が、わたしの肩を抱いた。真登のおおきくて厚い手とはちがう、赤ちゃんみたいにやわらかい感触だった。
「……まゆは、おねえちゃんが大好きなのね」
自分だけの秘密は、ことばにしたとたん「ほんとう」になってしまう。だから、そのときはじめて、わたしの気持ちは、ほんとうになった。
「でもあなた、そういう『おねえちゃんを好きな自分』を、おねえちゃんに伝えたことあった?」
問われて、首を振る。えるのの水色のシャツが、わたしの涙で青く濡れた。
「だって、里恵ちゃんを好きなのは悪いことだから」
名前をつけられなくても、つけられないふりをしていても、この気持ちの正体くらい、わたしにだってわかっていた。おとうさんに買ってもらった赤い辞書で、最初に引いたことばは「恋愛」だった。
れんあい【恋愛】 特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
里恵ちゃんは、異性ではなかった。里恵ちゃんは女だし、わたしは女だ。辞書に書かれていないことは、ぜんぶ間違いだと思った。
「辞書に書いてなかったから、だから」
間違いだと思ったのだ。子どものころヒーローだと思っていた里恵ちゃんは、いつのまにかわたしにとって、それとはまたちがう存在になっていた。里恵ちゃんは女の子のヒーローだと泣いたあの日からときが流れて、わたしはこの思いを、胸に携えていることすらいけないことだと信じていた。そう思いこまなければ、自分の気持ちへの疑問に説明をつけることができなかった。
背を撫でていたえるのが、わたしのことばを聞いて手をとめる。すっと息を吸う力づよい音が、頭のすぐ近くで響いた。
「いいじゃない、だれがだれを好きだって」
えるのらしい、自信に満ちた声だった。耳に届いた台詞に、おどろいてのどが鳴る。
「言ったでしょ、ひとによって答えはちがって、そしてちがいはあって然るべきだって。あなたはそれを、知りたいと思ったから勉強したんでしょう。間違いなんてないわ。いまここにあってたしかなのは、あなたがおねえちゃんを思う気持ち、それだけよ」
そうだ、えるのはくり返し教えてくれた。ちがうことはあたりまえ、それを知っていくのが勉強だ、と。
―いいじゃない、だれがだれを好きだって。
生まれてはじめて、認めてくれるひとに出会った。わたしだって認められなかった気持ちを、認めてくれるひとがいたなんて。
「里恵ちゃん……っ、里恵ちゃん……」
ぐちゃぐちゃに絡みあって塊になっていた糸が、ほどけていくみたいだ。感情の一本一本が、ほころんでは涙になり、涙になってはゆるむ。えるののシャツも髪も濡れているのがわかっているのに、ちいさな肩にしがみついて、泣きたいだけ泣いた。
「まゆ、あなた、おねえちゃんに会いたい?」
わたしが落ちつくのを待って、えるのが身体を離す。まんまるの瞳が、こちらをつよい色で見つめていた。
「……会いたい」
また、涙が溢れる。会いたい。会って、伝えたいことがあるのだ。脇に置いたトートバッグが腰に触れて、そのなかにある封筒を思う。
「いい、よく聞くのよ」
えるのの手は、痛いくらいわたしの肩を掴んでいた。言い聞かせるように、ことばを紡ぐ。
「あたしの家は、この道をまっすぐいって、橋のたもとを右に曲がった先にあるわ。青い壁の家よ」
わけもわからないまま、えるのが言ったとおりの道を記憶する。彼女の家にいったことはないけれど、頭のなかで道のりを想像することはできた。
「そこへいけば、おねえちゃんに会えるわ」
ひゅっと、息を飲む。『いま、忙しいの。ほんとにごめんね』と書いて送られた、無機質なメッセージが目に浮かんだ。
「おにいちゃんの荷物を運びだすって、今日、おねえちゃんがうちにきてるはずよ。だから」
そこにいけば会えるわ。えるのが、すこし目をうるませながらにやりと笑った。
「いってきなさい」
ぽん、と肩を叩かれる。それがスイッチになったみたいに、鈍かった思考がぐるぐるとまわりだす。
いきなり会いにいったら迷惑じゃないだろうか。困らせないだろうか。言いたいことだけ言って、里恵ちゃんの気持ちはどうするのだろう。いまさらなにを言ったって意味なんてないんじゃないか。
立ちあがろうとする足を、不安や恐怖が抑えこむ。わたしはやっぱりだめな人間だから、えるのがこんなに励ましてくれたのに、弱くて情けなくて、がんばれない。うつむいて、えるのの制服が目に入ったとき、思いだした。
―あたしはあたしのために選ぶの。
えるのが、えるののために選んだ、だれにも縛られない、えるののための制服。これもまた、彼女がくり返し教えてくれたことだ。自分がそうしたいから、そうするのだ、と。
「……わたし、いってくる」
まだ怖気づいている足にちからを込めて立ちあがる。忘れないように、トートバッグも掴んだ。見おろすと、えるのがひとつうなずいていた。それを合図に、走りだす。
「それで、どうだったのかしら」
わたしがバスから降りるなり、えるのはあいさつもなしにそう言った。
「……現代社会だけ、受かってた」
すこし低い位置にある、えるののまっすぐな瞳から目をそらしながら答えると、彼女はちいさく鼻を鳴らした。
「あら、あんまりひどい顔をしてるから、ぜんぶだめだったのかと思ったわ。現代社会、受かっててよかったわね。おめでとう」
「……ひどい顔、してる、かな」
バスに揺られているあいだ、ずっと考えていた。なにが間違っていたのか、なにがおかしかったのか。わたしの人生は、いつから狂っていたのだろう。
「してるわ、目も真っ赤だし顔も腫れてる。どうしたのよ」
地方とはいえ、ターミナル駅に通じる大通りにはひとがたくさんいた。いま口を開いたら、泣いてしまうかもしれない。口を開いては閉じ、開いてははあ、と熱い息が漏れた。
えるのが片方だけ眉をあげ、腕を組んだ。ため息とともに、「ついてきて」と言う。わたしは黙って、ふわふわと揺れるえるのの後ろ髪を追いかけた。
駅からすこし離れた場所へ歩き、たどり着いたのは神社だった。
「ここならひと気がないから話せるでしょう」
「……ありがとう」
おなじ敷地にある公園の、石碑の土台に腰かける。コンクリートの塊は、熱を持って熱いくらいだ。
「こんなもので悪いけど、合格祝いってことにしておいてちょうだい」
スクールバッグから期間限定のジュースを取りだし、えるのが顔のまえで振る。すこし細身のペットボトルと、陽射しを浴びたえるのは、まるでテレビのCMみたいにお似合いだった。えるのはわたしのとなりにペットボトルを一本置き、もう一本に口をつけた。
交通量の多い神社まえの道を、数えきれないくらいの車がいく。それでも不思議と、この場所は静かだった。ペットボトルのふたを開け、口をつける。夏にふさわしい、でもいまの気持ちにはそぐわない、甘酸っぱい味がした。
「……里恵ちゃんが、長崎にいくって」
えるのは黙って、ペットボトルを握っている。
「わたし、聞かされてなくて」
思いだしただけで、また口のなかに苦いものが広がった。
「さっき、真登から聞いて」
制服姿のえるのの横顔に視線を送る。
そして、気づいた。里恵ちゃんは、川上さんの都合で長崎へいくのだ。兄の転勤を、妹のえるのが知らないわけがない。
「……えるの、知ってたの?」
ちら、とこちらを見たえるのが、えるのらしくない表情をした。眉ひとつ動かしていないけれど、その顔から自信が消えている。深呼吸をひとつして、彼女はことばを落とした。
「知ってたわ。だいぶまえにおにいちゃんに聞かされたもの」
おにいちゃん、とえるのが言った。それが里恵ちゃんの旦那さんを指すのだということを理解するまで、しばらくかかった。
「……なんで、教えてくれなかったの」
絞りだす声が震える。えるのまで。えるのまでわたしのことをのけ者にするのか。ピチチと、どこかで鳥が鳴いた。
「あなたが知ってると思ってたからよ。まさか、知らなかったなんて」
思わなかった。えるのが苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。頭のなかは、もう、真っ白だった。
「まゆ」
えるのが、やわらかな声でわたしの名前を呼ぶ。わたしを傷つけないように、腫れ物に触るように発されたその声に、なにかのスイッチが入った。
「……はは」
なんにもおもしろくないのに、笑いが漏れる。いっしょに、涙がこぼれた。いつだって、わたしの気持ちは一方通行だ。
「……里恵ちゃん、わたしのこと『いちばん大事』だって言ったんだよ。言ったのに、ほんとはそんなふうに思ってないって、いっつも思い知らされる」
ずっと、おなかの奥にしまいこんでいたことばが、溢れてとまらない。
「せっかく、勉強したのに。わたしも大人になるためにがんばってるんだよって、言えると思ったのに。そのために、がんばって、食べられなくても、眠れなくてもがんばったのに」
涙が次からつぎへと流れてきて、口にどんどん入っていく。しょっぱい味が、ジュースの甘酸っぱさを打ち消した。濡れた頬が冷えて、すぐに体温でぬるくなる。
「川上さんはずるいよ。里恵ちゃんのこと、簡単に連れてっちゃう」
ずるい、なんて軽いことばじゃ、わたしの気持ちを表現できそうになかった。この気持ちを表すとしたら、そう、「憎い」、だ。川上さんが憎い。川上さんが憎くて、どうにかなってしまいそうだ。里恵ちゃんを連れていってしまう、川上さんが憎い。好きだった製菓の仕事について、身体を壊しても仕事を辞めなかった里恵ちゃんを、あの店から離してしまう川上さんが憎い。里恵ちゃんを独り占めできる川上さんが憎い。
「わたしだって、おんなじだったんだよ。まんまるで、あったかくて、なんでも受け止めてくれる里恵ちゃんが好きだった。里恵ちゃんになら、ぜんぶ見せられた。なのに」
なのにどうして、おなじことを思っているのに、里恵ちゃんは川上さんを選んだんだろう。わたしのほうが、ずっとずっとまえから、里恵ちゃんのことを好きだった。感情に名前をつけられなくたって、川上さんよりも長いあいだ、わたしがいちばん、里恵ちゃんのことを想っていた。
「里恵ちゃんがいたから、真登だって傷つけた。里恵ちゃんがいなかったら、こんなにつらくなかった。真登のこと好きになって、結婚して、かわいいお嫁さんになって、おとうさんたちだって安心させてあげられたかもしれない」
自分でももう、なにを言っているかわからなかった。ただ、ずっとだれかに言いたくて、でも言えなかったありとあらゆる気持ちを、地面に投げつけるように音声にしているだけだ。
「こんなに―こんなにつらいなら、いっそ、はじめから出会いたくなかった」
ああ、と思う。わたしは、里恵ちゃんが結婚することが哀しかったのだ。胸が痛くて、こんなにも涙がとまらない。いまさら気づいたって、もう遅いのに。
いちばんつよい感情と、いちばんはじめから持っていた感情がけんかをして、もうことばにならなかった。嗚咽が漏れて、奥歯が噛みあわない。
えるのの手が、わたしの肩を抱いた。真登のおおきくて厚い手とはちがう、赤ちゃんみたいにやわらかい感触だった。
「……まゆは、おねえちゃんが大好きなのね」
自分だけの秘密は、ことばにしたとたん「ほんとう」になってしまう。だから、そのときはじめて、わたしの気持ちは、ほんとうになった。
「でもあなた、そういう『おねえちゃんを好きな自分』を、おねえちゃんに伝えたことあった?」
問われて、首を振る。えるのの水色のシャツが、わたしの涙で青く濡れた。
「だって、里恵ちゃんを好きなのは悪いことだから」
名前をつけられなくても、つけられないふりをしていても、この気持ちの正体くらい、わたしにだってわかっていた。おとうさんに買ってもらった赤い辞書で、最初に引いたことばは「恋愛」だった。
れんあい【恋愛】 特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
里恵ちゃんは、異性ではなかった。里恵ちゃんは女だし、わたしは女だ。辞書に書かれていないことは、ぜんぶ間違いだと思った。
「辞書に書いてなかったから、だから」
間違いだと思ったのだ。子どものころヒーローだと思っていた里恵ちゃんは、いつのまにかわたしにとって、それとはまたちがう存在になっていた。里恵ちゃんは女の子のヒーローだと泣いたあの日からときが流れて、わたしはこの思いを、胸に携えていることすらいけないことだと信じていた。そう思いこまなければ、自分の気持ちへの疑問に説明をつけることができなかった。
背を撫でていたえるのが、わたしのことばを聞いて手をとめる。すっと息を吸う力づよい音が、頭のすぐ近くで響いた。
「いいじゃない、だれがだれを好きだって」
えるのらしい、自信に満ちた声だった。耳に届いた台詞に、おどろいてのどが鳴る。
「言ったでしょ、ひとによって答えはちがって、そしてちがいはあって然るべきだって。あなたはそれを、知りたいと思ったから勉強したんでしょう。間違いなんてないわ。いまここにあってたしかなのは、あなたがおねえちゃんを思う気持ち、それだけよ」
そうだ、えるのはくり返し教えてくれた。ちがうことはあたりまえ、それを知っていくのが勉強だ、と。
―いいじゃない、だれがだれを好きだって。
生まれてはじめて、認めてくれるひとに出会った。わたしだって認められなかった気持ちを、認めてくれるひとがいたなんて。
「里恵ちゃん……っ、里恵ちゃん……」
ぐちゃぐちゃに絡みあって塊になっていた糸が、ほどけていくみたいだ。感情の一本一本が、ほころんでは涙になり、涙になってはゆるむ。えるののシャツも髪も濡れているのがわかっているのに、ちいさな肩にしがみついて、泣きたいだけ泣いた。
「まゆ、あなた、おねえちゃんに会いたい?」
わたしが落ちつくのを待って、えるのが身体を離す。まんまるの瞳が、こちらをつよい色で見つめていた。
「……会いたい」
また、涙が溢れる。会いたい。会って、伝えたいことがあるのだ。脇に置いたトートバッグが腰に触れて、そのなかにある封筒を思う。
「いい、よく聞くのよ」
えるのの手は、痛いくらいわたしの肩を掴んでいた。言い聞かせるように、ことばを紡ぐ。
「あたしの家は、この道をまっすぐいって、橋のたもとを右に曲がった先にあるわ。青い壁の家よ」
わけもわからないまま、えるのが言ったとおりの道を記憶する。彼女の家にいったことはないけれど、頭のなかで道のりを想像することはできた。
「そこへいけば、おねえちゃんに会えるわ」
ひゅっと、息を飲む。『いま、忙しいの。ほんとにごめんね』と書いて送られた、無機質なメッセージが目に浮かんだ。
「おにいちゃんの荷物を運びだすって、今日、おねえちゃんがうちにきてるはずよ。だから」
そこにいけば会えるわ。えるのが、すこし目をうるませながらにやりと笑った。
「いってきなさい」
ぽん、と肩を叩かれる。それがスイッチになったみたいに、鈍かった思考がぐるぐるとまわりだす。
いきなり会いにいったら迷惑じゃないだろうか。困らせないだろうか。言いたいことだけ言って、里恵ちゃんの気持ちはどうするのだろう。いまさらなにを言ったって意味なんてないんじゃないか。
立ちあがろうとする足を、不安や恐怖が抑えこむ。わたしはやっぱりだめな人間だから、えるのがこんなに励ましてくれたのに、弱くて情けなくて、がんばれない。うつむいて、えるのの制服が目に入ったとき、思いだした。
―あたしはあたしのために選ぶの。
えるのが、えるののために選んだ、だれにも縛られない、えるののための制服。これもまた、彼女がくり返し教えてくれたことだ。自分がそうしたいから、そうするのだ、と。
「……わたし、いってくる」
まだ怖気づいている足にちからを込めて立ちあがる。忘れないように、トートバッグも掴んだ。見おろすと、えるのがひとつうなずいていた。それを合図に、走りだす。
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