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9.いちばん大事
9-①
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玄関に置かれたカレンダーの今月のページが、もうすぐ終わろうとしていた。目が覚めた瞬間、盤面のキティちゃんはわたしに笑いかけた。今日は特別な日だけれど、わたしを取り巻く世界は、そんなこと関係ないとでも言うように、変わらずまわっている。トートバッグを肩にかけ直し、貝殻が描かれた青い背景を横目にして、家を出た。
お盆を過ぎたのに、歩いていると首筋に汗が浮いた。陽射しはずいぶんやわかくなって、道路に映るわたしの影は、輪郭をぼんやりとにじませている。手に持った水色の封筒だけが、足元にはっきりと黒い影を描いていた。
蝉の声が降りそそぐ山を背にして、信濃川のほうへと歩く。学校によってはもう夏休みが終わっているのか、制服を着た学生が尾板の町なかに見えて、それを避けるように遠回りをした。
土手にあがり、信濃川を見おろす。田畑の広がる河川敷は、青々とした稲や苗で波のようだった。両手を伸ばして、深呼吸をする。大丈夫。大丈夫だ。
土手の端に座り、『試験結果在中』と書かれた封筒の封を切る。指先が震えて、切り口はガタガタだけれど、そんなことどうでもよかった。
封筒の中身を引っぱりだす。科目合格通知書の欄にひとつ『現代社会』と書いてあって、わたしは、その薄い紙を抱きしめた。免除された科目を除いて、受験したのは三科目で、この通知書はそのうちのひとつに合格していることを知らせるものだった。
三分の一。悔しい気持ちも、もちろんあった。でも、それ以上に、うれしかった。
わたしにもできることがある。すこしずつかもしれないけれど、わたしもまえに進める。正しい道に戻れる。まっとうな人生を送れる。普通を手に入れられる。
―里恵ちゃんに、会いにいける。
うれしい。うれしい。やっと、里恵ちゃんにふさわしい人間になれる。
よろこびと興奮で、唇が震えた。スマートフォンを取りだして、メッセージを打つ。
『里恵ちゃん、お久しぶり。伝えたいことがあるので、会ってくれませんか』
最後には、里恵ちゃんの大好きなクマの絵文字もつけた。浮かれている。でも、こんな気持ち、感じたことがない。
里恵ちゃんからなんて返事がくるだろう。なんて言ってほめてくれるだろう。そう考えたら、いてもたってもいられなかった。スマートフォンを手にしては画面をじっと見つめ、無機質なデザインの壁紙に見返されては、自分の成し遂げたことのおおきさを噛みしめて笑いをこらえた。
いまなら、一生分溜めてきた里恵ちゃんへのことばを、伝えてしまえる気がした。わたしが降れと言ったら雪も降る気がしたし、天地がひっくり返ったほうがきれいだと思ったら、透けるような水色の地面ができる気がした。
だれにも見せられない顔をしている。えるのの学校が終わったら、駅前で会う約束をしていた。それまでに、すこし冷静にならないといけない。
この土手であそんだ、子どものころを思いだす。公園にいる元気でうるさい子たちが苦手で、喧騒から離れたこの場所に逃げるように連れてきてくれた里恵ちゃん。学校で嫌なことがあると、里恵ちゃんに抱きしめられながら泣いた。哀しいときは泣いてもいいのだということ、涙を流すと心が軽くなるということ、軽くなった心は気持ちがいいのだということ、そのすべてを教えてくれたのは里恵ちゃんだった。
わたしの世界には、里恵ちゃんさえいればよかった。口数が少なくて、集団の端で周囲をうかがっているような子どもだったわたしの世界で、里恵ちゃんの笑顔はまぶしく、あたたかかった。彼女は、はじめて会ったときからいままで、変わりなくわたしのヒーローなのだ。
ヒーローが教えてくれたことばで、わたしは辞書を読んで、勉強を知り、高卒認定という試験に出会うことができた。わたしという人間を創りあげてくれたのは、ほかのだれでもない、里恵ちゃんだった。
はやく合格したことを伝えたい。そうしたら、そうしたら。涙がにじむ。その先を想像しただけで、思いが溢れてしまいそうだ。
「まゆさん、お久しぶり」
声をかけられて気づくと、後ろに真登が立っていた。見慣れた真っ黒なワンボックスが、近くに停まっている。とっさに、封筒を腰の下に隠した。
「……び、っくりした」
「ごめんごめん」
いつかの夕暮れみたいに、真登は黙ってわたしのとなりに腰かけた。真登と会うのは、いったいいつ以来だろう。いっしょに迎えた新年の朝から、ずいぶん時間が経っている。
「また見つかっちゃった」
真登の野生の勘を、わたしはとても好きだった。彼に見つけられることは気恥ずかしくて、でも同時にすごくうれしい。
「勘だよ、勘」
照れたように真登が言うから、さすが、と言って笑ってみせる。笑ったわたしを見て、だけど真登は苦い顔をした。
「……なんて、ここにきたらまゆに会えないかなって、仕事の休みとか終わりとかに毎日きてただけだよ」
真剣な、すこし苦しそうな声を出して、真登がうつむく。真登はいつでも、わたしのことを大切にしてくれる。そのやさしさが痛いくらい、どろどろに愛してくれる。わたしたちそれぞれに流れていた時間の長さに、めまいがしそうだ。目が、熱い。
真登と離れているあいだ、わたしに起こった変化について話したかった。目から流れていく寸前の涙を拭って、口を開こうとしたわたしの声を、真登のことばが遮る。
お盆を過ぎたのに、歩いていると首筋に汗が浮いた。陽射しはずいぶんやわかくなって、道路に映るわたしの影は、輪郭をぼんやりとにじませている。手に持った水色の封筒だけが、足元にはっきりと黒い影を描いていた。
蝉の声が降りそそぐ山を背にして、信濃川のほうへと歩く。学校によってはもう夏休みが終わっているのか、制服を着た学生が尾板の町なかに見えて、それを避けるように遠回りをした。
土手にあがり、信濃川を見おろす。田畑の広がる河川敷は、青々とした稲や苗で波のようだった。両手を伸ばして、深呼吸をする。大丈夫。大丈夫だ。
土手の端に座り、『試験結果在中』と書かれた封筒の封を切る。指先が震えて、切り口はガタガタだけれど、そんなことどうでもよかった。
封筒の中身を引っぱりだす。科目合格通知書の欄にひとつ『現代社会』と書いてあって、わたしは、その薄い紙を抱きしめた。免除された科目を除いて、受験したのは三科目で、この通知書はそのうちのひとつに合格していることを知らせるものだった。
三分の一。悔しい気持ちも、もちろんあった。でも、それ以上に、うれしかった。
わたしにもできることがある。すこしずつかもしれないけれど、わたしもまえに進める。正しい道に戻れる。まっとうな人生を送れる。普通を手に入れられる。
―里恵ちゃんに、会いにいける。
うれしい。うれしい。やっと、里恵ちゃんにふさわしい人間になれる。
よろこびと興奮で、唇が震えた。スマートフォンを取りだして、メッセージを打つ。
『里恵ちゃん、お久しぶり。伝えたいことがあるので、会ってくれませんか』
最後には、里恵ちゃんの大好きなクマの絵文字もつけた。浮かれている。でも、こんな気持ち、感じたことがない。
里恵ちゃんからなんて返事がくるだろう。なんて言ってほめてくれるだろう。そう考えたら、いてもたってもいられなかった。スマートフォンを手にしては画面をじっと見つめ、無機質なデザインの壁紙に見返されては、自分の成し遂げたことのおおきさを噛みしめて笑いをこらえた。
いまなら、一生分溜めてきた里恵ちゃんへのことばを、伝えてしまえる気がした。わたしが降れと言ったら雪も降る気がしたし、天地がひっくり返ったほうがきれいだと思ったら、透けるような水色の地面ができる気がした。
だれにも見せられない顔をしている。えるのの学校が終わったら、駅前で会う約束をしていた。それまでに、すこし冷静にならないといけない。
この土手であそんだ、子どものころを思いだす。公園にいる元気でうるさい子たちが苦手で、喧騒から離れたこの場所に逃げるように連れてきてくれた里恵ちゃん。学校で嫌なことがあると、里恵ちゃんに抱きしめられながら泣いた。哀しいときは泣いてもいいのだということ、涙を流すと心が軽くなるということ、軽くなった心は気持ちがいいのだということ、そのすべてを教えてくれたのは里恵ちゃんだった。
わたしの世界には、里恵ちゃんさえいればよかった。口数が少なくて、集団の端で周囲をうかがっているような子どもだったわたしの世界で、里恵ちゃんの笑顔はまぶしく、あたたかかった。彼女は、はじめて会ったときからいままで、変わりなくわたしのヒーローなのだ。
ヒーローが教えてくれたことばで、わたしは辞書を読んで、勉強を知り、高卒認定という試験に出会うことができた。わたしという人間を創りあげてくれたのは、ほかのだれでもない、里恵ちゃんだった。
はやく合格したことを伝えたい。そうしたら、そうしたら。涙がにじむ。その先を想像しただけで、思いが溢れてしまいそうだ。
「まゆさん、お久しぶり」
声をかけられて気づくと、後ろに真登が立っていた。見慣れた真っ黒なワンボックスが、近くに停まっている。とっさに、封筒を腰の下に隠した。
「……び、っくりした」
「ごめんごめん」
いつかの夕暮れみたいに、真登は黙ってわたしのとなりに腰かけた。真登と会うのは、いったいいつ以来だろう。いっしょに迎えた新年の朝から、ずいぶん時間が経っている。
「また見つかっちゃった」
真登の野生の勘を、わたしはとても好きだった。彼に見つけられることは気恥ずかしくて、でも同時にすごくうれしい。
「勘だよ、勘」
照れたように真登が言うから、さすが、と言って笑ってみせる。笑ったわたしを見て、だけど真登は苦い顔をした。
「……なんて、ここにきたらまゆに会えないかなって、仕事の休みとか終わりとかに毎日きてただけだよ」
真剣な、すこし苦しそうな声を出して、真登がうつむく。真登はいつでも、わたしのことを大切にしてくれる。そのやさしさが痛いくらい、どろどろに愛してくれる。わたしたちそれぞれに流れていた時間の長さに、めまいがしそうだ。目が、熱い。
真登と離れているあいだ、わたしに起こった変化について話したかった。目から流れていく寸前の涙を拭って、口を開こうとしたわたしの声を、真登のことばが遮る。
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