こもごも

ユウキ カノ

文字の大きさ
上 下
24 / 30
8.春風吹く

8-②

しおりを挟む
「久しぶり」
「……うん、久しぶり」
 大みそか当日、真登はいつものように家まで迎えにきてくれた。いつものように、とは言っても、彼のことばどおりわたしたちが顔を合わせるのはほんとうに久しぶりのことで、それまでも電話で話したことはあったのに、なんだかとても緊張した。車のシートに身を沈めた瞬間に鼻をくすぐった煙草のにおいがなつかしくて、すこし感傷的になる。
「おとうさんたちには?」
「……黙って出てきちゃった」
 真登に誘われてから、ずいぶん悩んだけれど、おとうさんたちに言うかどうか、結局答えは出せなかった。もしまた、誕生日のときみたいに興味のない素振りを見せられたら、きっとわたしは、前に進もうとしている足を止めてしまう。それなら、はじめからなんの反応もないほうが傷つかないで済む。おとうさんとおかあさんがいるリビングを避けて、朝からごはんは食べていない。それでもよかった。足音を忍ばせて、そっと家を出たのだ。
「そっか。なんかごめんな」
 謝る真登に、首を横に振ることで応えた。真登はなんにも悪くない。
「大丈夫、わたし、変わるの」
 着替えを入れたかばんには、辞書と、それから問題集とノート、ペンケースを詰めこんでいた。宮下の家で勉強ができる自信はなかったけれど、勉強道具を肌身離さず持っているのが、すっかり習慣になっていたからだ。
「変わる?」
 ハンドルを握りながら、真登が横目でこちらを見る。今年がはじめての雪道のはずなのに、そんなのが嘘みたいになめらかな運転をつづけていた。
「ちょっとがんばってることがあって」
 かばんをぎゅっと抱きしめる。車内には、真登の好きなバンドのアルバムが流れていた。
「……うまくいったら話すから、それまで、待ってて」
 えるの以外のだれかに、高卒認定を目指していることは内緒にしていた。ことばにしてしまうことで、公然の事実になってしまうことに尻込みしていた。ほんとうに叶えたいのなら宣言してしまえばいいのに、そうできないのは、もしもうまくいかなかったときの保険をかけておきたいからだ。弱虫な自分。新しい一歩を踏みだすということは、自分のなかの弱さと直面することでもあった。
「わかった。成功したら教えて、あんま根詰めんなよ」
 真登の手が伸びてきて、頭を軽く叩いた。真登はやさしいから、そのことばがほんとうに心のまんなかから出たことばだということがよくわかる声で応えてくれた。乾いてかさかさした、おおきな手のひらの感触がやさしくて、目が熱くなる。
「まゆちゃん、いらっしゃい。久しぶりだね」
 家に着くと、宮下のおばさんがふくふくした笑顔で出迎えてくれた。ずいぶん長いあいだ、顔を出していなかったことが申し訳なくて「お邪魔します」の声は、ちいさくなってしまった。
「おお、いらっしゃい」
 まだ外は暗くなっていないのに、おじさんはすでにできあがっているようだった。手元には瓶ビールが置かれていて、頬が赤い。居間に入り、わたしはもう一度、「お邪魔します」と、今度はすこしおおきめの声を出した。
「荷物置いてきな、勝手に入っていいから」
「ありがと」
 わたしからコートを受けとった真登が、二階にあがるように促す。
「そうしちゃいなさい、もうすぐごはんだから」
「はい」
 急な階段をあがって入った真登の部屋は、ヒーターが出ている以外は、前回きたときと変わりなく散らかって雑然としていた。ぎゅっと胸を掴むこの感情に、わたしは名前をつけることができない。ただ、身体のなかでもやもやと溜まるなにかだけを感じとっている。
 一階に降りると、居間のテーブルにはおせちと焼き鮭、まっしろなごはんと薄切りのお肉が並べられていた。具の入っていない鍋があるから、きっとしゃぶしゃぶだ。
「さあさ、ごはんにしましょう」
 わたしが居間の入り口に立っていると、真登と、おじさんとおばさんがこちらを見あげていた。家族だんらんを絵に描いたようなその光景に、ぐっとのどが狭くなる。わたしの居場所は、いったいどこにあるのだろう。それを探したくて、足がかりを作るために、いま勉強をしているのだけど。
「いただきます」
「ほらほら、食べて」
 手を合わせると、どんどん皿が集まってきた。そうして、食事を目のまえにして、ここにきたことを後悔する。おせちに手を伸ばし、焼き鮭をつつき、ぽん酢に浸っているお肉を食べる。皿を一巡して、もうわたしは、箸を伸ばすことができなくなっていた。それでもすこしずつ、変だと思われない程度に口を動かし、食事をつづけた。
 秋からはじめた高卒認定の勉強が、自分にとって急激な変化であることはあきらかだった。ただでさえ少なかった食事の量が減り、うまく眠ることができない日々がつづいた。それまでの日常とちがうことが突然起きたことが、わたしにとってはストレスだったらしい。胃はずいぶんちいさくなり、目の下のくまはカサカサとした肌に浮いていた。
「なあ、おれら上で年越してもいい?」
 わたしだけでなく、みんなの箸も止まりつつあったとき、真登がそう言っておじさんの顔を見た。
「真登お前、俺たちからまゆちゃんを奪うのか」
 すこし呂律のあやしくなったおじさんが、なあ、とおばさんに同意を求めた。それに対しておばさんは肩を竦め、おじさんからお酒の杯を取りあげるふりをする。
「久しぶりに会ったんだから、ふたりきりにしてやんなさい」
 ね、とウインクしてみせるおばさんに、真登がサンキュと言って立ちあがった。
「まゆ、いこ」
「え、うん」
 ごちそうさまを言う間もなく、手を引かれて階段をあがった。どこかで見たことのある光景だ。まるで、誕生日のときみたいな。これ以上食べつづけるのは難しいと思っていたところで、居間から連れだされたことにほっとしていた。
 真登とふたりでいる真登の部屋は、ひとりでいるときとはすこし雰囲気がちがう。主を待っていたかのように、空気がわたし以外に従うのだ。この場所で、わたしは真登より立場が弱い。ベッドに腰かけ、目の下を親指で撫でられた。
「あんま食べられないんだろ。ぜんぜん食ってないじゃん。―根詰めんなって言ったのに」
 やはり野生の勘でわたしの状況を悟ったらしい真登が、車のなかで言った台詞をくり返した。あたりまえだ。この一年でいっしょにごはんを食べた回数がいちばん多いのは真登なのだから。「根詰めんな」という忠告はこれからの生活のためのもので、これまでには干渉しないもののはずだったけれど、わたしは素直に、ごめんと口にした。向かいあった真登の左手が、わたしの右手をさする。本来そこになくてはいけないはずの指輪は、お財布のなかで眠っている。もう一度、ごめんと言った。
「だれにも言わずにがんばりたい気持ちもわかるけど、頼むから身体にだけは気をつけてよ。元気でいてくれたらそれだけでいいから」
 な、と、両側から挟むように頬に触れられる。近い距離から見つめる真登の瞳は、こんなにもまっくろできれいだっただろうか。すこし黒目がちいさくて、切れ長の目が、じっとこちらを見ている。あ、と思ったときには、唇にやわらかな感触があった。ぎゅう、と抱きしめられて、久しぶりだけどうまくできるだろうか、年越しにセックスをするのははじめてだ、なんて思いながら、ベッドに背を預けた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

【完結】愛していないと王子が言った

miniko
恋愛
王子の婚約者であるリリアナは、大好きな彼が「リリアナの事など愛していない」と言っているのを、偶然立ち聞きしてしまう。 「こんな気持ちになるならば、恋など知りたくはなかったのに・・・」 ショックを受けたリリアナは、王子と距離を置こうとするのだが、なかなか上手くいかず・・・。 ※合わない場合はそっ閉じお願いします。 ※感想欄、ネタバレ有りの振り分けをしていないので、本編未読の方は自己責任で閲覧お願いします。

【完結】家族にサヨナラ。皆様ゴキゲンヨウ。

くま
恋愛
「すまない、アデライトを愛してしまった」 「ソフィア、私の事許してくれるわよね?」 いきなり婚約破棄をする婚約者と、それが当たり前だと言い張る姉。そしてその事を家族は姉達を責めない。 「病弱なアデライトに譲ってあげなさい」と…… 私は昔から家族からは二番目扱いをされていた。いや、二番目どころでもなかった。私だって、兄や姉、妹達のように愛されたかった……だけど、いつも優先されるのは他のキョウダイばかり……我慢ばかりの毎日。 「マカロン家の長男であり次期当主のジェイコブをきちんと、敬い立てなさい」 「はい、お父様、お母様」 「長女のアデライトは体が弱いのですよ。ソフィア、貴女がきちんと長女の代わりに動くのですよ」 「……はい」 「妹のアメリーはまだ幼い。お前は我慢しなさい。下の子を面倒見るのは当然なのだから」 「はい、わかりました」 パーティー、私の誕生日、どれも私だけのなんてなかった。親はいつも私以外のキョウダイばかり、 兄も姉や妹ばかり構ってばかり。姉は病弱だからと言い私に八つ当たりするばかり。妹は我儘放題。 誰も私の言葉を聞いてくれない。 誰も私を見てくれない。 そして婚約者だったオスカー様もその一人だ。病弱な姉を守ってあげたいと婚約破棄してすぐに姉と婚約をした。家族は姉を祝福していた。私に一言も…慰めもせず。 ある日、熱にうなされ誰もお見舞いにきてくれなかった時、前世を思い出す。前世の私は家族と仲良くもしており、色々と明るい性格の持ち主さん。 「……なんか、馬鹿みたいだわ!」 もう、我慢もやめよう!家族の前で良い子になるのはもうやめる! ふるゆわ設定です。 ※家族という呪縛から解き放たれ自分自身を見つめ、好きな事を見つけだすソフィアを応援して下さい! ※ざまあ話とか読むのは好きだけど書くとなると難しいので…読者様が望むような結末に納得いかないかもしれません。🙇‍♀️でも頑張るます。それでもよければ、どうぞ! 追加文 番外編も現在進行中です。こちらはまた別な主人公です。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

捨てる旦那あれば拾うホテル王あり~身籠もったら幸せが待っていました~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「僕は絶対に、君をものにしてみせる」 挙式と新婚旅行を兼ねて訪れたハワイ。 まさか、その地に降り立った途端、 「オレ、この人と結婚するから!」 と心変わりした旦那から捨てられるとは思わない。 ホテルも追い出されビーチで途方に暮れていたら、 親切な日本人男性が声をかけてくれた。 彼は私の事情を聞き、 私のハワイでの思い出を最高のものに変えてくれた。 最後の夜。 別れた彼との思い出はここに置いていきたくて彼に抱いてもらった。 日本に帰って心機一転、やっていくんだと思ったんだけど……。 ハワイの彼の子を身籠もりました。 初見李依(27) 寝具メーカー事務 頑張り屋の努力家 人に頼らず自分だけでなんとかしようとする癖がある 自分より人の幸せを願うような人 × 和家悠将(36) ハイシェラントホテルグループ オーナー 押しが強くて俺様というより帝王 しかし気遣い上手で相手のことをよく考える 狙った獲物は逃がさない、ヤンデレ気味 身籠もったから愛されるのは、ありですか……?

処理中です...