こもごも

ユウキ カノ

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6.ちがいを知っていく

6-②

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 バスで四十分かけて尾板の町に帰り、自室に入ると、キティちゃんの時計の針は直角になっていた。ベッドに横になり、枕元にスマートフォンを置く。
 あんなに見たくなかったピンクの目覚まし時計も、いまではただの時計として、その役目を果たしていた。えるのを紹介されたのが、里恵ちゃんと会った最後だ。連絡がくることもなかったし、わたしからすることもなかった。榎田の家を覗きにいくこともなく、ずいぶん顔を合わせていなかった。だけどそんなのは、里恵ちゃんとわたしのあいだではごく普通のことだ。まえは半年会えなかったのだから、いまさらあがいても、わたしたちの関係はなにも変わらない。でもそのほうが、わたしとしてはありがたかった。つらいことを、思いださなくてもよかったからだ。
ニュースとしての新鮮さを失った里恵ちゃんの結婚について、だれかが話題に出すことはなくなった。恵美子さんでさえ、最近はそのできごとを忘れてしまったみたいに見えた。
 だからこそ、彼女がわたしを「いちばん大事」に思って伝えてくれたことが事実だったのか、よけいにわからなくなっていく。そして、結婚するとしないとにかかわらず、遠い里恵ちゃんの幻影が、わたしの作りだしたものではないという確信が、日に日に弱くなっていくのだ。
 キティちゃんの時計は、わたしが自分で買ったものじゃなかっただろうか。子どものころいっしょにあそんだのは、おねえちゃんだけじゃなかっただろうか。わたしにことばを、ちょうちょ結びの作りかたを、泣きかたを教えてくれたのは、真登ではなかったか。
 思いだそうとすれば思いだそうとするほど、「里恵ちゃん」という名前のついた思い出のなかのひとは、ぼんやりとしたベールの彼方に消えてしまう。「里恵ちゃん」がほんとうにこの世に存在するのか、どんどんわからなくなっていた。彼女は、わたしが作りだしたわたしに都合のいい幻なんじゃないか。そう思えば思うほど、里恵ちゃんの形はぴったりとわたしの理想そのものだということに気づいて呆然とした。
 そこに決着をつけてしまうのもこわかった。できるだけ先延ばしにして、いつかすべてがうそになるのを待ちたかった。そんな日はこないと、頭では理解していたけれど、どうしても、願わずにはいられなかった。
 ヴヴヴ、とスマートフォンが震えた。メッセージだろうと無視しているのに、振動がなかなかやまない。画面を見ると、真登からの電話だった。起きあがり、すっと息を吸って声を出す。
「もしもし」
『あ、まゆ? 久しぶり』
「うん、久しぶり」
 そのことばどおり、彼の声を聞くのはほんとうに久しぶりだった。真登と過ごしていたこれまでの時間が、いまではそっくりそのまま、えるのとの時間に代わっている。
「ごめん、連絡もしなくて」
『いいよ、ちょっとは元気出ましたかね』
 思えば、真登にわたしのようすを聞いた里恵ちゃんが、えるのを紹介してくれたのだった。真登が心配してくれなければ、えるのと出会うことはなかった。
「うん。えるのっていう子があそんでくれてて」
 ありがとう、と言うと、電波の向こうで真登がうれしそうに笑ったのがわかった。ふっと聞こえた息遣いといっしょに、電話越しでは届くはずのない煙草の香りが漂ってきて、胸のなかが真登でいっぱいになる。
『まゆが会ってくれないからひまでさ。仕事の勉強が捗っちゃうよな』
 茶化した声で、真登が笑う。
 真登も勉強しているのだと知らされて、心がざわざわした。手にしているものは決して多くないはずなのに、そのどれもから置いてきぼりを食らうのが、わたしの人生なのだろうか。スマートフォンを握る手のひらにちからが入る。
「そっか、がんばってるんだ」
『おう。だからまゆも気にしないでいっぱいあそびな』
 な、と念を押される。「気にしないで」という彼のことばが痛かった。里恵ちゃんのことと同様に、真登のこともまた、目をそらし、どこか身体の奥底にしまいこんでいたからだ。
「うん、ありがとう、うん、おやすみ」
 通話を切り、スマートフォンを投げだす。機械が落ちたその下に、辞書の入ったトートバッグがあった。えるのは、辞書を読むことが勉強だと言った。真登は、仕事のために勉強をしていると言った。

べんきょう【勉強】 〔そうする事に抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れる意〕㊀物事についての知識や見識を深めたり特定の資格を取得したりするために、今まで持っていなかった、学力・能力や技術を身につけること。㊁そのときは後悔したりそうしなければよかったと思ったりしても、将来の大成・飛躍のためにはプラスとなった経験。

薄く黄みがかった紙に触れ、〔そうする事に抵抗を感じながらも、当面の学業や仕事などに身を入れる意〕の部分をなぞる。えるのは、自分自身のために勉強しているはずだ。真登も、資格を取ることに抵抗なんて感じていない。
「……わたしだって」
 わたしだって、辞書を引くことを嫌だと思ったことは一度もない。だけど、えるのが話していた「勉強」と、辞書に載っている「勉強」がひどく離れていて、ずっとあたりまえだと思っていたことばの意味が、ふわふわと宙に浮いてしまう。いっしょに、わたしの足元もおぼつかなくなって、ベッドに座っているのか、立っているのかわからなくなった。
 寄る辺だと思っていたものが崩れていくことのこわさを、わたしはもう知っているのに。
 それまで平気だった夜の冷たさが、突然背中を襲ってくる。布団にもぐりこみ、ぎゅっと身体をまるめる。明日えるのに訊いてみよう。シーツのさらさらしたまっすぐさが、肌にいつまでもなじまなかった。
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