こもごも

ユウキ カノ

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5.「大丈夫」以外の選択肢

5-②

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 前島さんの告別式から、また雪深堂でのバイトを再開した。だけど、結局一度もメッセージを返していない真登にいまさら連絡することができなくて、彼の声すら聞くことがないまま、桜並木は遊歩道に葉を落としてはだかになっていた。
「今日は早くあがってえ」
恵美子さんの不在を任されたからと言って、雪深堂でのわたしの扱いが変わるわけではなかった。あいかわらず決められた時間より早く帰るように促され、寒さに身を縮めながら商店街のアーケードを歩いた。スマートフォンが振動して、真登からのメッセージを受信する。
『おつかれ。元気? 元気なら連絡しなくてもいいよ』
 真登は、やっぱり勘がいい。そして、かわいそうなほどわたしにやさしかった。返信できないわたしのことを、先まわりして許してくれることばに涙が出る。どうして、こんなにやさしいひとがわたしのことを見ていてくれるんだろう。
 里恵ちゃんにつながるものに触れたくない一心で、真登を避けるように日々を過ごしていた。そうしていたらいつか、里恵ちゃんが結婚したなんて、うそになるんじゃないかと信じて。
 いまでも、手をぱちんと叩いたら「夢でした」って里恵ちゃんが笑ってくれるかもしれないそ、んなふうに思いながら毎朝目を覚ます。目が覚めてもまだ、雲のなかにいるような感覚がこびりついて離れない。里恵ちゃんも、真登も、恵美子さんも、みんなグルになってわたしを騙そうとしているんじゃないかと思いながら、ごはんを食べ、辞書を手に生きている。
 話したい。話したくない。現実がわたしのなかに戻ってこないまま、わたしの日常はまわりだしている。
 商店街を離れ、甘くてささやかな香りが漂ってくると、自宅がもうすぐ近いことがわかった。金木犀のある家は、近所でわたしの住む家だけだからだ。子どものころ、花が咲いてはその花びらを集めて匂い袋を作った。プレゼントしていたのは、里恵ちゃんとおかあさんだった。痛いだけの記憶を思い起こさせるオレンジの花を嫌いだと思ったのは、今年がはじめてだ。
 鍵を差しこみ、玄関のドアを開ける。家のなかは夏の夕方より暗く、からからとしていて、ひどくさみしい空気が詰まっていた。いまのわたしには、ちょうどいいさみしさだった。
 スニーカーを脱いでいると、ヴヴヴ、と、スマートフォンがまた震えた。また真登だろうか。腰のポケットに入れたちいさな機械を、恐るおそる取りだす。画面に表示された文字を見て、声が出た。
『まゆ、明日ちょっと出てこられる?』
 それは、里恵ちゃんからのメッセージだった。
 わたしの胸に湧きあがってきた気持ちを、なんと表現すればいいだろう。ずっと遠ざけていた、おなじ空間にあるだけで火傷してしまうものを、素手で鷲掴みしたような気分だった。こわくて、痛くて、怒りもすこしあって、でもどうしようもなく、うれしかった。夢なのか現実なのかわからなかった里恵ちゃんが、ほんとうに存在したからだ。
 わたし以外のひとを選んだ里恵ちゃんから、連絡がくるなんて想像もしていなかった。拾われたことだってないのに、とっくに捨てられた気持ちでいた。
 画面を見つめながら、階段を踏みしめるようにあがり、自室へ入る。そこまできて、やっと、詰めていた息を吐きだした。ベッドに飛びこみ、横になってスマートフォンを握る。
 文末に添えられたクマの絵文字が、なんの罪もない顔でこちらを見ている。あたりまえのそのことがうれしくて、唇を噛んだ。舐めるように、メッセージを読み返す。何度文面を読んだって、わたしにできる選択はひとつなのだけど。
『うん。どこに何時にいけばいい?』
 すぐに返信して、スマートフォンを投げ出す。指先までを支配する、体温とはちがうあたたかさに目がうるんだ。わたしはまだ、里恵ちゃんに必要とされている。
 まえに呼び出されたのは川上さんを紹介されるときだった。そのまえは結婚について知らされるためだった。何度も同じ手に引っかかって、のこのこついていって、傷つく必要なんてないのに。でも、里恵ちゃんの誘いを断るなんて、わたしの人生にはない概念だ。
『ありがとう。三時に駅で会おうね』
 里恵ちゃんからは、あっというまに返事がきた。わたしのことばが彼女に伝わって、それに応えてくれているということが、たまらなくうれしい。
「ありがとう、三時に駅で会おう、ね……」
 思わず、声にだして読んだ。そっけない文章なのに、電波の向こう側にいる里恵ちゃんの、水色のかさかさした飴細工みたいな声が、耳に聞こえた。
 なにを着ていこう。立ちあがり、クローゼットのなかを探る。たいした服は持っていないけれど、せめてシワのついていない、清潔なものを選びたかった。今夜はお風呂にゆっくり浸かって、身体をきれいにしなくては。身を清めてはじめて、わたしにとっての女神に会えるのだ。
 翌日は曇りで、空気がすこしひんやりとしていた。日曜日だから、リビングからは両親の気配がした。おねえちゃんは昨日から帰ってきていない。足音を忍ばせて、家から出た。
 わたしに車はない。移動するときは真登の車か、バスに乗ることになる。久しぶりに足を踏みいれた路線バスは、暖房をかけすぎてもわもわとあたたかく、冬でもないのに窓がすこし曇っていた。あたたかい空気は顔だけを覆い、足元だけはキンと冷えている。たったひとつだけ持っているパンプスを履いた足先をすりあわせてあたためながら、田んぼと民家しかない細道をゆくバスに揺られる。駅までは、尾板から四十分近くかかる。田んぼのうえをどこまでも広がる灰色の空を眺めながら、決してロマンチックとは言えない天気と景色のなかで、自分が浮かれているのがわかった。
 駅には、尾板の町とは比べものにならないほどたくさんのひとが歩いていた。それぞれのひとがそれぞれの目的のために行き交う合間を縫って、駅ビルを歩く。
 こんなにひとがいるなかで、里恵ちゃんを見つけられるだろうか。そんな不安は、あっというまに吹き飛んだ。
「里恵ちゃん」
 駅ビルの人混みから、里恵ちゃんを見つける。周囲を見まわしても、視線がすべることがない。里恵ちゃんに目が留まり、釘付けになった。
「まゆ、きてくれてありがとう」
 里恵ちゃんが身につけているのはベージュのコートとシンプルなブラウスにデニムのパンツで、わたしとまったく一緒なのに、どうしてか女性的でやわらかい印象を与えた。身体から光が出ているみたいに、エネルギーが溢れている。コーラルピンクの唇が、きれいな弧を描いていた。
「どうしたの、突然」
 駆け寄ってきた里恵ちゃんに、手を握られてどきどきする。こんなところを見られて変に思われないだろうか。赤ん坊みたいな里恵ちゃんの手に包まれながら、周りをそっとうかがった。
「まゆに会いたくてね」
 ふふ、と里恵ちゃんが笑う。
 いつのまにか、わたしの背は里恵ちゃんより高くなっていた。振りほどいたように感じられないように手を離す。見おろした里恵ちゃんの顔が近くて、手のひらに汗をかいたからだ。
 あんなにこわかったのに、会えばそんなのはぜんぶ幻想だったんじゃないかと思うほど、里恵ちゃんはいままでと変わらない、明るくてかわいくて、まんまるなわたしのヒーローのままだった。結婚することも、川上さんと会ったことも、ぜんぶ嘘だったみたいに。
 里恵ちゃんに促されるままコーヒーショップに入り、クリームのたくさん乗った複雑な名前の飲みものを注文した。床から天井までのガラス窓の向こうで、ひとびとが忙しなく歩いて入る。
「真登から聞いたよ。ずっと元気がないって」
 その名前が里恵ちゃんの口からこぼれ落ちたとき、わたしの心に走った感情に、ぴったりと当てはまることばを探すのはむずかしい。
 なんだ、と思った。なんだ、里恵ちゃんは、真登から頼まれただけなんだ。そこに、里恵ちゃんの意志はなかったんだ。限界まで膨らみきった風船が、一気にしぼんでしまったみたいだった。
 同時に、あの夏の日からいまだに立ち直れないわたしに、真登が必要だと思ったのが自分ではなく里恵ちゃんだったことが、どうしようもなくさみしかった。たとえ無意識でも、そういうふうに仕向けたのはわたし自身なのに。
 里恵ちゃんがわたしを必要としてくれていないのに、どうしてわたしだけが、このひとを求めているんだろう。
「いつまでもわたしに甘えて、真登を困らせちゃだめだよ」
 ほほえんだ里恵ちゃんが首を傾けた。うつむいて、氷の混じった冷たいドリンクのカップを握りしめる。声を出すことも、できそうになかった。ほかでもない里恵ちゃんが、それを言ってしまうのか。身勝手に裏切られた気持ちになる。いますぐ、どこかへいってしまいたかった。
「まゆはね、もっと世界を広げたほうがいいと思うの」
 そう言った里恵ちゃんが、なにかを見つけたようすでわたしの後ろに向かって手を振る。振り返ると、そこにはお人形みたいにきれいな女の子がいた。
「こっちこっち。きてくれてありがとね」
 このあたりでは見たことがない、ピンクのシャツとベージュの制服に身を包んだその子は、里恵ちゃんの横に座ると、栗色の瞳でこちらをじっと見つめた。後ずさりしてしまうくらい、強いまなざしだった。
 すでに混乱していた胸のなかが、その子が現れたことでよけいにぐちゃぐちゃになる。里恵ちゃんは、なにを考えているんだろう。
「こちら、泰晴さんの妹の、えるのちゃん」
 泰晴さん、という名前が一瞬だれのものかわからなくて、必死に考えた。その名前が指すのが川上さんだと気づいて、身構える。
「きっとなかよくなれるよ」
 紹介を受けて、少女が頭をさげる。
「はじめまして。川上えるのです。よろしく」
 意志の強いまっすぐな笑顔で、えるのと名乗った彼女は笑った。
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