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5.「大丈夫」以外の選択肢
5-①
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『なんかあった? 大丈夫?』
真登からのメッセージが、またひとつ振動とともにわたしのもとに届いた。伸ばした腕の先で光ったスマートフォンを無視して、枕に顔を埋める。カーテンを抜けて射しこむ光がまぶしくて、すくなくとも夜ではないのだと知らせた。
陽は射していても、空気はしんとして寒い。厚い布団をかぶって閉じこもる。息をするたびに膨らむ身体が重い。あまりの重さに、この肉体から解放されたいという願望さえ湧きあがってくる。
毎日、何度も送られてくる真登のメッセージは、未読のままスマートフォンのなかに溜まっていた。物理的な質量があるわけでもないのに、そのちいさな機器を手に持つことすら億劫だった。
真登とは、ずいぶん会っていない。真登だけじゃなく、しばらくのあいだ、自分以外の人間を目にしていなかった。
寝ているかどうかはっきりとしないぼんやりとした意識のなかで眠り、身体が悲鳴をあげる予兆を感じとってから水を飲み、食べものをつまんだ。曇ったガラスを隔てて世界を眺めているかのように、視界が白くけぶっている。
雪深堂でのアルバイトを、かなりのあいだ休んでいた。「明日からしばらくお休みさせてください」と電話をしたら、恵美子さんは理由も聞かずに「いいわよお」と粘つく声で言った。予想していたとおり、わたしはあの店にとって不要な存在なのだと思い知る。ずっとそう思っていたのに、いざ目のまえに突きつけられると想像以上に自分が哀れで、なかなか出勤する気になれない。捨てられる寸前の雑巾みたいに眠るだけの日々が過ぎるのを、ただじっとして待っている。
なにを待っているのかは、わたしにもわからない。いまの気持ちを正直に言うと、その表現が一番しっくりくるだけだ。
真登のメッセージにたいした内容はなくて、その文面には毎回『大丈夫?』と添えられていた。「大丈夫」ということばの持つ、強迫的なまでの肯定的な響きが、のどをぎゅっと締めつける。そんなふうに訊かれて、いったいなんと答えればいいのだろう。「大丈夫じゃない」と答えたときの対応なんて、考えてなんていないくせに。
自分でも驚くくらい、思考が荒んでいる。引きずるように動かしていた身体が、よけいに重く感じた。真登のメッセージにいらだちながら、なにが「大丈夫じゃない」のか、自分でも理由が見つからない。
わたしにとってなにより大切なものは里恵ちゃんだった。里恵ちゃんだって、わたしとおなじじゃなくても、わたしのことを大切にしてくれると思っていた。でも、そうじゃなかった。
『まゆがいちばん大事だから、いちばんに伝えたかったの』
ほんとうに大事なら、里恵ちゃんが選ぶのは川上さんじゃなく、わたしだったはずだ。わたしの人生における一分一秒のすべてに里恵ちゃんはいる。いままでも、これからも、それは永遠に変わらない。里恵ちゃんがそうじゃないことくらい、もうずっとわかっていた。だけど里恵ちゃんがだれかひとりを選ぶ日がくるなんて、想像したこともなかった。彼女がだれかのものにならないうちは、会えなくてもこわくなかった。
だれかを選ばないということは、いつかわたしを選んでくれるかもしれないこととおなじだったから。
里恵ちゃんが「わからない」と言ったから、わたしもこの気持ちに名前をつけずに生きてきた。それなのに、里恵ちゃんはあっけなく「好き」を知って、川上さんのものになってしまった。わたしだけを、置き去りにしていってしまった。
自分で傷口をえぐるように、川上さんと見つめあっていた里恵ちゃんの姿を思いだしては唇を噛んだ。幼いころ、わたしのヒーローだった里恵ちゃんの、まんまるでやさしい笑顔を思い浮かべては、またちいさく丸まった。そうすることでしか、毎日を過ごすことができなかった。
だれかに抱きしめてほしくて、その「だれか」は、里恵ちゃん以外ではだめで、だけど里恵ちゃん自身のことで悩んでいるのに、本人に伝えることも無理だった。
ただ、ただ、里恵ちゃんに抱きしめてほしかった。頭をなでて、「まゆ」と呼んでほしかった。会って、たくさん話をしたかった。どんなくだらない話でもいい。ほんとうは、言いたいことや、伝えたいことや、叫びたいことが溢れてしまいそうだけれど、真面目で難しい話はぜんぶ置いておいて、昔みたいに、くすぐりあう距離でひそひそ笑いたかった。
願うという、たったそれだけのことが、いまは、許されない。
苦しい。息が止まりそうなほど、息を止めたくなるほど、苦しい。まるで、酸素のない世界にきてしまったみたいだ。
わたしだけのヒーローが、ほかのひとのお姫さまになった。わたしだけのものだったはずなのに、わたしだけが想っていたはずなのに、ほかのひとのものになった。
青いオーバーオールを着たキティちゃんが、ピンクの目覚まし時計のなかからわたしを見ている。見えないところへしまいこんでしまおうと手を伸ばすたびに、痛みで触れられなくて、結局毎日必ず目に入る場所に置かれたままの思い出だ。わたしの気持ちも、おんなじだ。
ほんとうは、大声で泣いてしまいたかった。でも泣いたら、認めてしまう。泣いたら、崩れてしまう。だから、ぜったいに泣かないと決めた。
思考はいつも変わりのない道をたどって、考えることに疲れると、冬を越す幼虫みたいに身体を丸めたまま、吸いこまれるように眠った。
―目が覚めたのは、スマートフォンが鳴っていたからだった。画面を覗くと、そこにはめずらしいひとの名前があった。
「はい、笹川です」
「あ、まゆちゃん? ごめんねえ、夜遅くにい」
電話越しでもねっとりした声で、恵美子さんは変わらずそこにいた。恵美子さんに言われて、いまが夜だということを認識する。たしかに、スマートフォンは暗闇のなかでひかりを放っていた。
「いえ大丈夫です、どうしたんですか」
恵美子さんから電話がかかってくるのははじめてだった。わたしは、すくなくともいままでは勤勉に仕事をしていたし、雪深堂でのバイトに、とくべつな電話連絡なんて必要ないからだ。
「それがねえ、ご不幸があったのよお」
ゴフコウ、ということばの意味を、寝起きの頭で必死に探る。
「それで、あしたが告別式で、あたしもいかなきゃいけないのお」
告別式という単語で、やっとなんの話をされているのかがわかった。
「店番をすればいいんですね」
「そうなのお、お願いできるう?」
ほんとうのことを言えば家から出たくなかったけれど、わたしはもう、十分すぎるくらい休んでいた。こうして助っ人を頼まれただけでも、ありがたいと思わなくてはいけない。
「大丈夫です。いつもどおりでいいですか」
「ありがとうねえ。助かるわあ」
それで、要件は終わりだった。スマートフォンから耳を離し、通話を切ろうとすると、電波に乗った恵美子さんとの会話はまだつづいていた。
「じつは、亡くなったのまゆちゃんも知ってるひとなのよお。前島さん、覚えてる?」
その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。覚えてる? そんな簡単なことばで片づけられない。それは、記憶の隅にこびりついている名前だ。
「癌でずっと具合悪かったらしくて……まだ娘さんも若いのにねえ」
娘、というのは、お節介焼きの加奈子のことだ。覚えている。加奈子が大学を目指していると話していたこと。夏のはじまりの、暑い日だった。ほんのすこしまえに、お店にきてくれた彼女のおかあさんが、亡くなってしまった。
「まゆちゃんと同い年の子でしょお?」
「……はい」
加奈子の、まっすぐな黒髪が目に浮かぶ。
「さっきお通夜にいってきたのよお。娘さん、気丈にふるまってたわあ」
それを、わたしに知らせてどうするんだろう。知ったところで、恵美子さんのいない穴を埋めて、雪深堂に立つことしかできないのに。
「―じゃあ、明日よろしくね」
「はい。おやすみなさい」
通話を切り、ベッドのうえで天井を眺める。突然やってきた報せに、心が追いつかない。
階下に耳をすませると、たしかに両親がいるだろうリビングは、しんとして静かだった。時間も遅い。いまならきっと大丈夫だ。
クローゼットから着替えを取りだし、足音を忍ばせて階段を降りる。服を脱いで、湿った浴室へと足を踏み入れる。シャワーから降り注ぐお湯に髪を濡らしながら、貧しい身体をした自分が鏡のなかからこちらを見つめ返していた。絡まってもつれた思考が、お湯にふやけてほどけていく。すっと冷静になって、わたしがわたしのなかに帰ってきた。
ずっと具合が悪かったのなら、仕方のないことだと思うしかない。物心つくまえに、わたしの祖父母はみんないなくなってしまった。知っているひとの生き死になんて、はじめて経験した。
前島さんの死を目のまえにして、自分がおどろくほど揺れ動かないことが不思議だった。やわらかい赤ちゃんの手が、大人になるにつれてどんどん硬く厚くなっていくように、わたしの心も感覚が鈍ってしまったんだろうか。するどい針で刺されているのに、触られている感覚だけが肌を伝い、脳みそがうまく感情を拾わない。
つい先日話したばかりのひとが、手の届かない場所へいってしまった。
おなじだ。
受け止めきれないできごとに出会ったとき、こうして逃げることでしか、ひとは、すくなくともわたしは、生きていけないのだと知る。真正面から向かいあってしまったら、もう、二度と立ちあがれない。
大切なひとがどんどんいなくなって、それでも生きていかなくてはいけないなんて、人生はなんて残酷なんだろう。
心の芯で受けとめないように、両の手でしっかり握りしめてしまわないように、核心を避けて触れた事実が、わたしのなかで真実になるはずがなかった。
一歩引いて構えていなかったら、自分が崩れてしまう。だから、わたしはそうやってわたしを守ってきた。現実の世界には、見えないほうがいいことがたくさんある。だからといって目を背けていいわけではないけれど、そうしなければ立ちつづけていられない。
シャワーの栓をひねって、あたたかな雨を止める。
どんどん冷えていく身体といっしょに、胸のなかが冷たくなる。
こんなふうに考えることしかできない、自分を正当化したいだけの思考回路がいやになる。だからきっと、里恵ちゃんも受けいれてくれなかったのだ。
浴室から出て肌を拭く。明日は久しぶりに外に出る。キティちゃんに起こされたら、きっとその瞬間にさみしくなる。そのための時間がわたしには必要で、だから今日は、早く寝てしまおう。
真登からのメッセージが、またひとつ振動とともにわたしのもとに届いた。伸ばした腕の先で光ったスマートフォンを無視して、枕に顔を埋める。カーテンを抜けて射しこむ光がまぶしくて、すくなくとも夜ではないのだと知らせた。
陽は射していても、空気はしんとして寒い。厚い布団をかぶって閉じこもる。息をするたびに膨らむ身体が重い。あまりの重さに、この肉体から解放されたいという願望さえ湧きあがってくる。
毎日、何度も送られてくる真登のメッセージは、未読のままスマートフォンのなかに溜まっていた。物理的な質量があるわけでもないのに、そのちいさな機器を手に持つことすら億劫だった。
真登とは、ずいぶん会っていない。真登だけじゃなく、しばらくのあいだ、自分以外の人間を目にしていなかった。
寝ているかどうかはっきりとしないぼんやりとした意識のなかで眠り、身体が悲鳴をあげる予兆を感じとってから水を飲み、食べものをつまんだ。曇ったガラスを隔てて世界を眺めているかのように、視界が白くけぶっている。
雪深堂でのアルバイトを、かなりのあいだ休んでいた。「明日からしばらくお休みさせてください」と電話をしたら、恵美子さんは理由も聞かずに「いいわよお」と粘つく声で言った。予想していたとおり、わたしはあの店にとって不要な存在なのだと思い知る。ずっとそう思っていたのに、いざ目のまえに突きつけられると想像以上に自分が哀れで、なかなか出勤する気になれない。捨てられる寸前の雑巾みたいに眠るだけの日々が過ぎるのを、ただじっとして待っている。
なにを待っているのかは、わたしにもわからない。いまの気持ちを正直に言うと、その表現が一番しっくりくるだけだ。
真登のメッセージにたいした内容はなくて、その文面には毎回『大丈夫?』と添えられていた。「大丈夫」ということばの持つ、強迫的なまでの肯定的な響きが、のどをぎゅっと締めつける。そんなふうに訊かれて、いったいなんと答えればいいのだろう。「大丈夫じゃない」と答えたときの対応なんて、考えてなんていないくせに。
自分でも驚くくらい、思考が荒んでいる。引きずるように動かしていた身体が、よけいに重く感じた。真登のメッセージにいらだちながら、なにが「大丈夫じゃない」のか、自分でも理由が見つからない。
わたしにとってなにより大切なものは里恵ちゃんだった。里恵ちゃんだって、わたしとおなじじゃなくても、わたしのことを大切にしてくれると思っていた。でも、そうじゃなかった。
『まゆがいちばん大事だから、いちばんに伝えたかったの』
ほんとうに大事なら、里恵ちゃんが選ぶのは川上さんじゃなく、わたしだったはずだ。わたしの人生における一分一秒のすべてに里恵ちゃんはいる。いままでも、これからも、それは永遠に変わらない。里恵ちゃんがそうじゃないことくらい、もうずっとわかっていた。だけど里恵ちゃんがだれかひとりを選ぶ日がくるなんて、想像したこともなかった。彼女がだれかのものにならないうちは、会えなくてもこわくなかった。
だれかを選ばないということは、いつかわたしを選んでくれるかもしれないこととおなじだったから。
里恵ちゃんが「わからない」と言ったから、わたしもこの気持ちに名前をつけずに生きてきた。それなのに、里恵ちゃんはあっけなく「好き」を知って、川上さんのものになってしまった。わたしだけを、置き去りにしていってしまった。
自分で傷口をえぐるように、川上さんと見つめあっていた里恵ちゃんの姿を思いだしては唇を噛んだ。幼いころ、わたしのヒーローだった里恵ちゃんの、まんまるでやさしい笑顔を思い浮かべては、またちいさく丸まった。そうすることでしか、毎日を過ごすことができなかった。
だれかに抱きしめてほしくて、その「だれか」は、里恵ちゃん以外ではだめで、だけど里恵ちゃん自身のことで悩んでいるのに、本人に伝えることも無理だった。
ただ、ただ、里恵ちゃんに抱きしめてほしかった。頭をなでて、「まゆ」と呼んでほしかった。会って、たくさん話をしたかった。どんなくだらない話でもいい。ほんとうは、言いたいことや、伝えたいことや、叫びたいことが溢れてしまいそうだけれど、真面目で難しい話はぜんぶ置いておいて、昔みたいに、くすぐりあう距離でひそひそ笑いたかった。
願うという、たったそれだけのことが、いまは、許されない。
苦しい。息が止まりそうなほど、息を止めたくなるほど、苦しい。まるで、酸素のない世界にきてしまったみたいだ。
わたしだけのヒーローが、ほかのひとのお姫さまになった。わたしだけのものだったはずなのに、わたしだけが想っていたはずなのに、ほかのひとのものになった。
青いオーバーオールを着たキティちゃんが、ピンクの目覚まし時計のなかからわたしを見ている。見えないところへしまいこんでしまおうと手を伸ばすたびに、痛みで触れられなくて、結局毎日必ず目に入る場所に置かれたままの思い出だ。わたしの気持ちも、おんなじだ。
ほんとうは、大声で泣いてしまいたかった。でも泣いたら、認めてしまう。泣いたら、崩れてしまう。だから、ぜったいに泣かないと決めた。
思考はいつも変わりのない道をたどって、考えることに疲れると、冬を越す幼虫みたいに身体を丸めたまま、吸いこまれるように眠った。
―目が覚めたのは、スマートフォンが鳴っていたからだった。画面を覗くと、そこにはめずらしいひとの名前があった。
「はい、笹川です」
「あ、まゆちゃん? ごめんねえ、夜遅くにい」
電話越しでもねっとりした声で、恵美子さんは変わらずそこにいた。恵美子さんに言われて、いまが夜だということを認識する。たしかに、スマートフォンは暗闇のなかでひかりを放っていた。
「いえ大丈夫です、どうしたんですか」
恵美子さんから電話がかかってくるのははじめてだった。わたしは、すくなくともいままでは勤勉に仕事をしていたし、雪深堂でのバイトに、とくべつな電話連絡なんて必要ないからだ。
「それがねえ、ご不幸があったのよお」
ゴフコウ、ということばの意味を、寝起きの頭で必死に探る。
「それで、あしたが告別式で、あたしもいかなきゃいけないのお」
告別式という単語で、やっとなんの話をされているのかがわかった。
「店番をすればいいんですね」
「そうなのお、お願いできるう?」
ほんとうのことを言えば家から出たくなかったけれど、わたしはもう、十分すぎるくらい休んでいた。こうして助っ人を頼まれただけでも、ありがたいと思わなくてはいけない。
「大丈夫です。いつもどおりでいいですか」
「ありがとうねえ。助かるわあ」
それで、要件は終わりだった。スマートフォンから耳を離し、通話を切ろうとすると、電波に乗った恵美子さんとの会話はまだつづいていた。
「じつは、亡くなったのまゆちゃんも知ってるひとなのよお。前島さん、覚えてる?」
その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。覚えてる? そんな簡単なことばで片づけられない。それは、記憶の隅にこびりついている名前だ。
「癌でずっと具合悪かったらしくて……まだ娘さんも若いのにねえ」
娘、というのは、お節介焼きの加奈子のことだ。覚えている。加奈子が大学を目指していると話していたこと。夏のはじまりの、暑い日だった。ほんのすこしまえに、お店にきてくれた彼女のおかあさんが、亡くなってしまった。
「まゆちゃんと同い年の子でしょお?」
「……はい」
加奈子の、まっすぐな黒髪が目に浮かぶ。
「さっきお通夜にいってきたのよお。娘さん、気丈にふるまってたわあ」
それを、わたしに知らせてどうするんだろう。知ったところで、恵美子さんのいない穴を埋めて、雪深堂に立つことしかできないのに。
「―じゃあ、明日よろしくね」
「はい。おやすみなさい」
通話を切り、ベッドのうえで天井を眺める。突然やってきた報せに、心が追いつかない。
階下に耳をすませると、たしかに両親がいるだろうリビングは、しんとして静かだった。時間も遅い。いまならきっと大丈夫だ。
クローゼットから着替えを取りだし、足音を忍ばせて階段を降りる。服を脱いで、湿った浴室へと足を踏み入れる。シャワーから降り注ぐお湯に髪を濡らしながら、貧しい身体をした自分が鏡のなかからこちらを見つめ返していた。絡まってもつれた思考が、お湯にふやけてほどけていく。すっと冷静になって、わたしがわたしのなかに帰ってきた。
ずっと具合が悪かったのなら、仕方のないことだと思うしかない。物心つくまえに、わたしの祖父母はみんないなくなってしまった。知っているひとの生き死になんて、はじめて経験した。
前島さんの死を目のまえにして、自分がおどろくほど揺れ動かないことが不思議だった。やわらかい赤ちゃんの手が、大人になるにつれてどんどん硬く厚くなっていくように、わたしの心も感覚が鈍ってしまったんだろうか。するどい針で刺されているのに、触られている感覚だけが肌を伝い、脳みそがうまく感情を拾わない。
つい先日話したばかりのひとが、手の届かない場所へいってしまった。
おなじだ。
受け止めきれないできごとに出会ったとき、こうして逃げることでしか、ひとは、すくなくともわたしは、生きていけないのだと知る。真正面から向かいあってしまったら、もう、二度と立ちあがれない。
大切なひとがどんどんいなくなって、それでも生きていかなくてはいけないなんて、人生はなんて残酷なんだろう。
心の芯で受けとめないように、両の手でしっかり握りしめてしまわないように、核心を避けて触れた事実が、わたしのなかで真実になるはずがなかった。
一歩引いて構えていなかったら、自分が崩れてしまう。だから、わたしはそうやってわたしを守ってきた。現実の世界には、見えないほうがいいことがたくさんある。だからといって目を背けていいわけではないけれど、そうしなければ立ちつづけていられない。
シャワーの栓をひねって、あたたかな雨を止める。
どんどん冷えていく身体といっしょに、胸のなかが冷たくなる。
こんなふうに考えることしかできない、自分を正当化したいだけの思考回路がいやになる。だからきっと、里恵ちゃんも受けいれてくれなかったのだ。
浴室から出て肌を拭く。明日は久しぶりに外に出る。キティちゃんに起こされたら、きっとその瞬間にさみしくなる。そのための時間がわたしには必要で、だから今日は、早く寝てしまおう。
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