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4.わたしは言えない
4-②
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だからいま、わたしと、そして真登は、「彼」に会うためにここに座っていた。
「こちら、川上泰晴やすはるさん。わたしの、旦那さんになるひと」
里恵ちゃんの紹介を受けて、川上さんがこんにちは、と会釈する。めがねの奥の瞳が、茶色でやさしい。
「旦那さん」という響きに照れたようすで里恵ちゃんが川上さんを見あげ、川上さんはその視線を抱きとめるみたいにまなざしを向けた。たったそれだけのことなのに、ただとなりに座っているだけなのに、ふたりが親密な関係であることが伝わってくる仕草だった。自分でも驚くくらい傷ついて、こんなにも絶望的な気分になることができるのだという事実に、もう一度深く傷ついた。
川上さんと絡んでいた里恵ちゃんの視線がこちらに向くのを感じて、やわらかくはないソファのうえで座りなおす。その動作を待って、里恵ちゃんが赤ちゃんみたいにふっくらした手でわたしを指した。
「それで、この子が昔からなかよくしてる笹川まゆちゃん」
わたしも、川上さんにならって軽く頭をさげる。うつむいた顔を、ほんの一瞬、あげることができなかった。川上さんは「旦那さんになるひと」で、わたしは「昔からなかよくしてる」子なのだ。そのふたつの肩書のあいだにある溝は、きっと、わたしが思っている以上に深い。ソファの背もたれが、とつぜんわたしを押しつぶしはじめた気がする。
「まゆちゃん、里恵がいつも話してくれてたから、会えてうれしいよ」
わたしより頭ひとつ分高い場所にあるところから、やわらかなことばが落とされる。川上さんは、線が細くてひょろりとしているのに、ゆっくりと深い声で話すひとだった。信じても裏切られないことが一瞬でわかる声音でも、その台詞は信じられなかったけれど。
「こちらが同じく幼なじみで、まゆの彼氏の宮下真登くん」
「真登くん、よろしく」
わたしのとなりに座った真登が、「まゆの彼氏」ということばに姿勢を正すのがわかった。すこし笑みを浮かべて、照れているようにも見える。里恵ちゃんにそんなふうに紹介されることが、きっとうれしいのだ。感情を隠しきれていない子どものような真登をかわいいと思うのと同時に、胸がぐっと苦しくなった。里恵ちゃんの口から出た「彼氏」ということばが、ずしりと重く、わたしに枷をはめる。
いつもの大型ショッピングモールにあるカフェで、わたしたちは向かいあっていた。それぞれが飲みものを注文し、運ばれてくるのをいまかいまかと待っている。甘いものが好きな里恵ちゃんは、例に漏れずパンケーキを頼んだ。わたしと、そして真登は、川上さんのすすめでパンケーキにマンゴーの散りばめられたプレートと、チョコアイスが乗ったプレートを、それぞれ食べることになった。
「ごめんね、こっちが呼び出したのにわざわざきてもらって」
「ううん、わたしたちも、川上さんに会いたかったから」
口にするだけで、悪いものでも食べたときみたいにおなかが痛い。あまりにも、白々しいうそだった。
里恵ちゃんよりいくつか年上の川上さんは、わたしが想像する「おとなのおとこのひと」の形をしていた。姿勢がよく、落ち着いていて、あごに生えているひげが、すこしも不潔に感じられない。
あのひげはキスをするときにちくちくするのかな、とふと浮かんで、でもそんなことを考えた自分に吐き気がした。里恵ちゃんが結婚するという事実に鈍感になったまま、どうしてわたしはふたりが恋人らしくすごす瞬間を想像したりしているんだろう。
すっかり黙りこんでしまったわたしにつられてか、その場の空気が重くなる。口には出さないけれど、川上さんが居心地の悪さを感じているのは確かだ。わたしにとっては、人生において招かれざる客なのだ。この場にいるひとのなかで、川上さんだけがよそ者だ。
「か、川上さんはどこの出身? きょうだいはいるんですか?」
真登が身を乗りだして、一気に台詞を口にする。凝り固まっていた空気が、こじあけられたみたいに緩む。
「ああ、ぼくは駅の近くが実家なんだ。年の離れた妹がいるんだけど、これがちょっと変わった子で、いや、いい子なんだけどね」
川上さんに関する無味乾燥な情報だけが、目のまえに積もっていく。
「あ、妹さんいるんすね」
「そう、えるのっていうんだけど。ちょっと変わった名前でしょ」
真登と川上さんの、なんとかなめらかに滑りだした会話を横目に、わたしはうつむきつづけていた。こんなふうにしていたら里恵ちゃんが気にしてしまう。この場に誘われてから今日まで、いい子を演じようと自分に言い聞かせてきたのに。
里恵ちゃんがこちらを見ているのがわかる。そしてそんな里恵ちゃんを、川上さんが気にしているのも、雰囲気で伝わってきた。里恵ちゃんの旦那さんになるひとに、扱いに困る子どもだと思われているような気がして、悔しさに震える。
「お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
ツギハギな会話の合間を縫って、店員さんが近づいてくる。他者の介入に、みんながほっとする。
注文した飲みものとパンケーキが届いて、みんなで「いただきます」と声を合わせた。里恵ちゃんがだいすきなカフェオレに口をつけ、うれしそうに笑う。わたしは紅茶に角砂糖をひとつ入れ、その欠片が赤茶の水のなかへと崩れ落ちていくさまを見ていた。スプーンでかき混ぜる自分の指にちからが入っている。ひと口飲み、自分ののどが出した音のおおきさに肩が震えた。
なにか、なにか話さないと。
「川上さんは」
ひざのうえで強く握っていたこぶしを、さらにきつく握りこんで口を開く。
「……川上さんは、里恵ちゃんのどこを好きになったんですか」
里恵ちゃんが、驚いたのかちいさく息を吸った。川上さんも突然の質問に目をまるくしている。となりに座る真登も、パンケーキの刺さったフォークを持ったままこちらを見ている。わたしだってうろたえた。どうして。こんなこと言うつもりじゃなかった。
「い、いきなりすみません」
急いで頭をさげると、予想とは反してやさしい声音が返ってきた。
「いいんだよ。里恵のこと大事にしてくれてるんでしょ、理由を知りたいよね」
穏やかな物言いだった。ぐっと、目頭が熱くなる。里恵ちゃんもわかってくれないわたしの気持ちに、川上さんは気づいている。わかってほしいのは川上さんじゃないのに。そんなふうに、里恵ちゃんが自分の所有物みたいな言いかたをしなくてもいいのに。
「改めて訊かれると答えにくいんだけど」
恥ずかしそうに頭を掻きながら笑う川上さんを、里恵ちゃんが女神さまみたいな顔でじっと見つめている。里恵ちゃんのどこが好きかなんて質問、するんじゃなかった。これじゃ、ふたりの仲を見せつけられてるだけだ。
「里恵になら、自分の変なとこ、ぜんぶ見せてもこわくないって思ったんだよ。まんまるで、あったかくて、ぜんぶ受け止めてくれるから」
ちょっと、まんまるって言わないで。と里恵ちゃんが川上さんの肩を叩く。あはは、と、川上さんも真登もうれしそうに笑った。
「でも、一番は、おばあちゃんになった里恵に会いたいなあと思ったからなんだよね」
川上さんが目を細め、ほんとうに、ほんとうにしあわせそうな顔で里恵ちゃんへ視線を向けた。里恵ちゃんのくすぐったいような笑顔がまぶしくてさみしくて、悔しい。こんなの、完全な負けだ。
『体調を崩してたときに、ずっとそばにいてくれたひとでね。あのときの姿見られてたら、もうなにもこわくないかなあって』
あの秋のはじまりの日、里恵ちゃんのコーラルピンクの唇が紡いだことばがよみがえる。もう、わたしの入る隙間なんてなかった。このひとが里恵ちゃんを救ったのだ。よろよろと歩く痩せ細った里恵ちゃんの姿に背を向けたわたしとは、存在のおおきさが決定的にちがう。
泣いてはいけない。涙を見せてしまったら、里恵ちゃんがいま感じている感情がすべてマイナスに振れてしまう。彼女を哀しませるのはいやだ。
「もう、ただののろけ聞かされちゃった」
「ほんと、ラブラブなんだもんな」
わたしの台詞に真登が笑い、つられて里恵ちゃんたちも笑った。その空間の異常さに、耐えるだけでせいいっぱいだった。
「ラブラブって言ったら、ふたりだって負けてないじゃない」
ふっくらした手で口についたクリームを拭いながら、里恵ちゃんが心底たのしそうに言った。ちいさな子どもに言うみたいな話しかたが胸に痛い。わたしは、もう子どもじゃない。
「まゆと真登も、はやく結婚しちゃえばいいのに」
雷が、落ちたみたいだった。天地がひっくり返る。里恵ちゃんから結婚について聞いたとき感じた戸惑いとおなじくらい、見える世界が一変する。
それを、ほかでもない里恵ちゃんが言ってしまうの。
自分の信じていたものが、紅茶に溶けていく角砂糖みたいに、音も立てず静かに崩れていく。
あんまり自分が滑稽で、笑ってしまいそうだった。やっぱり、ぜんぜん、「いちばん」なんかじゃない。いちばん大切なひとに、こんなこと言えるわけがないのだ。
だって、わたしは里恵ちゃんに「結婚しちゃえばいいのに」なんて、言えない。
「ははは、それはまだわかんないっすよねー」
里恵ちゃんのことばに傷つき、そして自分勝手だと思いながら、真登の返答にも傷ついた。だれにも必要とされていないという事実が、わたしを押し潰す。このまま、ぺちゃんこになって消えてしまえたらいいのに。
「そうだね、まだ若いもの」
「そうそう、ぼくなんか三十近くなっての結婚だし。急がなくても大丈夫だよ」
川上さんと里恵ちゃんのなにげないフォローが、合わない軟膏のように肌に痛い。わたしは、慰められているのだろうか。
紅茶の水面に映る自分の瞳にひかりが見えなくて、つよく、目をつぶった。
「―しあわせそうだったな」
雨を弾くフロントガラスの向こうに目をこらしながら真登が言った。その声を聞いて、自分がいま、真登の愛車に乗っていることに気づいた。雨がフロントガラスを覆い、カーテンのようなその流れにワイパーが切れ目を作る。どうやってパンケーキを咀嚼し、紅茶を飲み干し、里恵ちゃんたちと別れ、車に乗りこんだのか、おぼろげにしか覚えていない。
「そ、うだね」
ぼんやりとしている頭を動かし、なんとか応える。
「里恵ちゃんて昔さあ、『好きってよくわからない』とか言ってたよな」
真登の言うとおりだった。里恵ちゃんは子どものころから、ちょっとふっくらしているけど笑顔がかわいくて、明るくてやさしくて、学年のちがうわたしでもわかるくらい、人気のあるひとだった。でも相手から向けられた好意に、彼女はいつも戸惑って、ただでさえ下がり気味の眉をさらに下げていた。
「『好きです』って言われても、そう言ってくれた子の気持ちがどんなものか想像できないし、わたしも『好き』って気持ちはよくわからないし、だからいつも『ごめんなさい』としか言えないんだ」
昔、里恵ちゃんが中学生くらいのころ、いっしょにあそんでいたときにそうこぼしたことがあった。榎田の両親の結婚が早かったことを気にするあまり、「わたしはおばあちゃんになっても結婚できないかも」と、言っていたことだってあった。
「意外だよなあ」
そんな里恵ちゃんが結婚するのだから、真登がおどろくのも無理はないのだ。わたしだっておなじ気持ちだった。川上さんに会っても、まだわたしのなかに実感は湧いてこなかった。さっきまで目のまえで見ていたはずの川上さんと里恵ちゃんが笑いあっている姿が、テレビに映る遠い世界のできごとのように感じられる。真登の声すらも、ガラスの向こう側から聞こえてくるみたいにくぐもって届いた。
こんな感情ははじめてだった。自分がどういう状況に陥っているのかわからなくて、指先が冷えるような恐怖を感じる。
里恵ちゃんはわたしにすべてを教えてくれた。だから、彼女がわからなかった「好き」という気持ちを、わたしは知らない。知らないことは、こわい。知らないのは、見えないのとおなじだ。教えてもらえなかった感情には蓋をして、見ないふりをして、わたしはこれまで生きてきたのに。
「おれもしあわせになりたいなー」
赤信号で止まった車のハンドルのうえにかぶさるように頬杖をつき、真登がため息をついた。その発言の真意が読めなくて、すっきりと尖った彼の鼻の頭を見つめる。ちら、と真登の瞳がこちらを見て、またまえを向いた。
「……さっきはああ言ったけど、おれ、ちゃんと考えてるから」
なにを言いたいのか、今度はさすがのわたしにもわかった。引っかかるものがなにもない、右手の薬指を触り、うつむく。
それが真登なりの励ましかただと頭ではわかっているのに、心に厚いカーテンが閉まって、ちっともひかりが差しこんでこない。いまほしいのは、こんなことばじゃない。
じゃあ、なんて声をかけてほしいんだろう。
それも探すことができないまま、わたしは「ありがと」と言って、あいまいに笑った。
「こちら、川上泰晴やすはるさん。わたしの、旦那さんになるひと」
里恵ちゃんの紹介を受けて、川上さんがこんにちは、と会釈する。めがねの奥の瞳が、茶色でやさしい。
「旦那さん」という響きに照れたようすで里恵ちゃんが川上さんを見あげ、川上さんはその視線を抱きとめるみたいにまなざしを向けた。たったそれだけのことなのに、ただとなりに座っているだけなのに、ふたりが親密な関係であることが伝わってくる仕草だった。自分でも驚くくらい傷ついて、こんなにも絶望的な気分になることができるのだという事実に、もう一度深く傷ついた。
川上さんと絡んでいた里恵ちゃんの視線がこちらに向くのを感じて、やわらかくはないソファのうえで座りなおす。その動作を待って、里恵ちゃんが赤ちゃんみたいにふっくらした手でわたしを指した。
「それで、この子が昔からなかよくしてる笹川まゆちゃん」
わたしも、川上さんにならって軽く頭をさげる。うつむいた顔を、ほんの一瞬、あげることができなかった。川上さんは「旦那さんになるひと」で、わたしは「昔からなかよくしてる」子なのだ。そのふたつの肩書のあいだにある溝は、きっと、わたしが思っている以上に深い。ソファの背もたれが、とつぜんわたしを押しつぶしはじめた気がする。
「まゆちゃん、里恵がいつも話してくれてたから、会えてうれしいよ」
わたしより頭ひとつ分高い場所にあるところから、やわらかなことばが落とされる。川上さんは、線が細くてひょろりとしているのに、ゆっくりと深い声で話すひとだった。信じても裏切られないことが一瞬でわかる声音でも、その台詞は信じられなかったけれど。
「こちらが同じく幼なじみで、まゆの彼氏の宮下真登くん」
「真登くん、よろしく」
わたしのとなりに座った真登が、「まゆの彼氏」ということばに姿勢を正すのがわかった。すこし笑みを浮かべて、照れているようにも見える。里恵ちゃんにそんなふうに紹介されることが、きっとうれしいのだ。感情を隠しきれていない子どものような真登をかわいいと思うのと同時に、胸がぐっと苦しくなった。里恵ちゃんの口から出た「彼氏」ということばが、ずしりと重く、わたしに枷をはめる。
いつもの大型ショッピングモールにあるカフェで、わたしたちは向かいあっていた。それぞれが飲みものを注文し、運ばれてくるのをいまかいまかと待っている。甘いものが好きな里恵ちゃんは、例に漏れずパンケーキを頼んだ。わたしと、そして真登は、川上さんのすすめでパンケーキにマンゴーの散りばめられたプレートと、チョコアイスが乗ったプレートを、それぞれ食べることになった。
「ごめんね、こっちが呼び出したのにわざわざきてもらって」
「ううん、わたしたちも、川上さんに会いたかったから」
口にするだけで、悪いものでも食べたときみたいにおなかが痛い。あまりにも、白々しいうそだった。
里恵ちゃんよりいくつか年上の川上さんは、わたしが想像する「おとなのおとこのひと」の形をしていた。姿勢がよく、落ち着いていて、あごに生えているひげが、すこしも不潔に感じられない。
あのひげはキスをするときにちくちくするのかな、とふと浮かんで、でもそんなことを考えた自分に吐き気がした。里恵ちゃんが結婚するという事実に鈍感になったまま、どうしてわたしはふたりが恋人らしくすごす瞬間を想像したりしているんだろう。
すっかり黙りこんでしまったわたしにつられてか、その場の空気が重くなる。口には出さないけれど、川上さんが居心地の悪さを感じているのは確かだ。わたしにとっては、人生において招かれざる客なのだ。この場にいるひとのなかで、川上さんだけがよそ者だ。
「か、川上さんはどこの出身? きょうだいはいるんですか?」
真登が身を乗りだして、一気に台詞を口にする。凝り固まっていた空気が、こじあけられたみたいに緩む。
「ああ、ぼくは駅の近くが実家なんだ。年の離れた妹がいるんだけど、これがちょっと変わった子で、いや、いい子なんだけどね」
川上さんに関する無味乾燥な情報だけが、目のまえに積もっていく。
「あ、妹さんいるんすね」
「そう、えるのっていうんだけど。ちょっと変わった名前でしょ」
真登と川上さんの、なんとかなめらかに滑りだした会話を横目に、わたしはうつむきつづけていた。こんなふうにしていたら里恵ちゃんが気にしてしまう。この場に誘われてから今日まで、いい子を演じようと自分に言い聞かせてきたのに。
里恵ちゃんがこちらを見ているのがわかる。そしてそんな里恵ちゃんを、川上さんが気にしているのも、雰囲気で伝わってきた。里恵ちゃんの旦那さんになるひとに、扱いに困る子どもだと思われているような気がして、悔しさに震える。
「お待たせしました」
「あ、ありがとうございます」
ツギハギな会話の合間を縫って、店員さんが近づいてくる。他者の介入に、みんながほっとする。
注文した飲みものとパンケーキが届いて、みんなで「いただきます」と声を合わせた。里恵ちゃんがだいすきなカフェオレに口をつけ、うれしそうに笑う。わたしは紅茶に角砂糖をひとつ入れ、その欠片が赤茶の水のなかへと崩れ落ちていくさまを見ていた。スプーンでかき混ぜる自分の指にちからが入っている。ひと口飲み、自分ののどが出した音のおおきさに肩が震えた。
なにか、なにか話さないと。
「川上さんは」
ひざのうえで強く握っていたこぶしを、さらにきつく握りこんで口を開く。
「……川上さんは、里恵ちゃんのどこを好きになったんですか」
里恵ちゃんが、驚いたのかちいさく息を吸った。川上さんも突然の質問に目をまるくしている。となりに座る真登も、パンケーキの刺さったフォークを持ったままこちらを見ている。わたしだってうろたえた。どうして。こんなこと言うつもりじゃなかった。
「い、いきなりすみません」
急いで頭をさげると、予想とは反してやさしい声音が返ってきた。
「いいんだよ。里恵のこと大事にしてくれてるんでしょ、理由を知りたいよね」
穏やかな物言いだった。ぐっと、目頭が熱くなる。里恵ちゃんもわかってくれないわたしの気持ちに、川上さんは気づいている。わかってほしいのは川上さんじゃないのに。そんなふうに、里恵ちゃんが自分の所有物みたいな言いかたをしなくてもいいのに。
「改めて訊かれると答えにくいんだけど」
恥ずかしそうに頭を掻きながら笑う川上さんを、里恵ちゃんが女神さまみたいな顔でじっと見つめている。里恵ちゃんのどこが好きかなんて質問、するんじゃなかった。これじゃ、ふたりの仲を見せつけられてるだけだ。
「里恵になら、自分の変なとこ、ぜんぶ見せてもこわくないって思ったんだよ。まんまるで、あったかくて、ぜんぶ受け止めてくれるから」
ちょっと、まんまるって言わないで。と里恵ちゃんが川上さんの肩を叩く。あはは、と、川上さんも真登もうれしそうに笑った。
「でも、一番は、おばあちゃんになった里恵に会いたいなあと思ったからなんだよね」
川上さんが目を細め、ほんとうに、ほんとうにしあわせそうな顔で里恵ちゃんへ視線を向けた。里恵ちゃんのくすぐったいような笑顔がまぶしくてさみしくて、悔しい。こんなの、完全な負けだ。
『体調を崩してたときに、ずっとそばにいてくれたひとでね。あのときの姿見られてたら、もうなにもこわくないかなあって』
あの秋のはじまりの日、里恵ちゃんのコーラルピンクの唇が紡いだことばがよみがえる。もう、わたしの入る隙間なんてなかった。このひとが里恵ちゃんを救ったのだ。よろよろと歩く痩せ細った里恵ちゃんの姿に背を向けたわたしとは、存在のおおきさが決定的にちがう。
泣いてはいけない。涙を見せてしまったら、里恵ちゃんがいま感じている感情がすべてマイナスに振れてしまう。彼女を哀しませるのはいやだ。
「もう、ただののろけ聞かされちゃった」
「ほんと、ラブラブなんだもんな」
わたしの台詞に真登が笑い、つられて里恵ちゃんたちも笑った。その空間の異常さに、耐えるだけでせいいっぱいだった。
「ラブラブって言ったら、ふたりだって負けてないじゃない」
ふっくらした手で口についたクリームを拭いながら、里恵ちゃんが心底たのしそうに言った。ちいさな子どもに言うみたいな話しかたが胸に痛い。わたしは、もう子どもじゃない。
「まゆと真登も、はやく結婚しちゃえばいいのに」
雷が、落ちたみたいだった。天地がひっくり返る。里恵ちゃんから結婚について聞いたとき感じた戸惑いとおなじくらい、見える世界が一変する。
それを、ほかでもない里恵ちゃんが言ってしまうの。
自分の信じていたものが、紅茶に溶けていく角砂糖みたいに、音も立てず静かに崩れていく。
あんまり自分が滑稽で、笑ってしまいそうだった。やっぱり、ぜんぜん、「いちばん」なんかじゃない。いちばん大切なひとに、こんなこと言えるわけがないのだ。
だって、わたしは里恵ちゃんに「結婚しちゃえばいいのに」なんて、言えない。
「ははは、それはまだわかんないっすよねー」
里恵ちゃんのことばに傷つき、そして自分勝手だと思いながら、真登の返答にも傷ついた。だれにも必要とされていないという事実が、わたしを押し潰す。このまま、ぺちゃんこになって消えてしまえたらいいのに。
「そうだね、まだ若いもの」
「そうそう、ぼくなんか三十近くなっての結婚だし。急がなくても大丈夫だよ」
川上さんと里恵ちゃんのなにげないフォローが、合わない軟膏のように肌に痛い。わたしは、慰められているのだろうか。
紅茶の水面に映る自分の瞳にひかりが見えなくて、つよく、目をつぶった。
「―しあわせそうだったな」
雨を弾くフロントガラスの向こうに目をこらしながら真登が言った。その声を聞いて、自分がいま、真登の愛車に乗っていることに気づいた。雨がフロントガラスを覆い、カーテンのようなその流れにワイパーが切れ目を作る。どうやってパンケーキを咀嚼し、紅茶を飲み干し、里恵ちゃんたちと別れ、車に乗りこんだのか、おぼろげにしか覚えていない。
「そ、うだね」
ぼんやりとしている頭を動かし、なんとか応える。
「里恵ちゃんて昔さあ、『好きってよくわからない』とか言ってたよな」
真登の言うとおりだった。里恵ちゃんは子どものころから、ちょっとふっくらしているけど笑顔がかわいくて、明るくてやさしくて、学年のちがうわたしでもわかるくらい、人気のあるひとだった。でも相手から向けられた好意に、彼女はいつも戸惑って、ただでさえ下がり気味の眉をさらに下げていた。
「『好きです』って言われても、そう言ってくれた子の気持ちがどんなものか想像できないし、わたしも『好き』って気持ちはよくわからないし、だからいつも『ごめんなさい』としか言えないんだ」
昔、里恵ちゃんが中学生くらいのころ、いっしょにあそんでいたときにそうこぼしたことがあった。榎田の両親の結婚が早かったことを気にするあまり、「わたしはおばあちゃんになっても結婚できないかも」と、言っていたことだってあった。
「意外だよなあ」
そんな里恵ちゃんが結婚するのだから、真登がおどろくのも無理はないのだ。わたしだっておなじ気持ちだった。川上さんに会っても、まだわたしのなかに実感は湧いてこなかった。さっきまで目のまえで見ていたはずの川上さんと里恵ちゃんが笑いあっている姿が、テレビに映る遠い世界のできごとのように感じられる。真登の声すらも、ガラスの向こう側から聞こえてくるみたいにくぐもって届いた。
こんな感情ははじめてだった。自分がどういう状況に陥っているのかわからなくて、指先が冷えるような恐怖を感じる。
里恵ちゃんはわたしにすべてを教えてくれた。だから、彼女がわからなかった「好き」という気持ちを、わたしは知らない。知らないことは、こわい。知らないのは、見えないのとおなじだ。教えてもらえなかった感情には蓋をして、見ないふりをして、わたしはこれまで生きてきたのに。
「おれもしあわせになりたいなー」
赤信号で止まった車のハンドルのうえにかぶさるように頬杖をつき、真登がため息をついた。その発言の真意が読めなくて、すっきりと尖った彼の鼻の頭を見つめる。ちら、と真登の瞳がこちらを見て、またまえを向いた。
「……さっきはああ言ったけど、おれ、ちゃんと考えてるから」
なにを言いたいのか、今度はさすがのわたしにもわかった。引っかかるものがなにもない、右手の薬指を触り、うつむく。
それが真登なりの励ましかただと頭ではわかっているのに、心に厚いカーテンが閉まって、ちっともひかりが差しこんでこない。いまほしいのは、こんなことばじゃない。
じゃあ、なんて声をかけてほしいんだろう。
それも探すことができないまま、わたしは「ありがと」と言って、あいまいに笑った。
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