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3.二度と前には進めない
3-②
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『調子はどうよ』
とくにどこが痛いわけでもないけれど、眠ることも起きあがっていることもできないような風邪に、ここ数日悩まされていた。ひとりぼっちで病に耐える苦しさは、病そのものの苦しさを簡単に超えていく。真登から届いたメッセージに、だからふっと涙が出た。
『だいぶよくなった、けど、真登に会いたい』
打ちこんでから、なんてずるいのだろうと、また目が熱くなった。弱っているときに手を差し伸べてくれるのは真登だけで、そのやさしさに甘えてしまう自分のことが悔しくて奥歯を噛む。
里恵ちゃんに秘密を打ち明けられたその夜、わたしは熱を出してしまった。急に冷たくなった秋の風に耐えきれなかったのは身体だけではなかったみたいで、布団をかぶり、狭い部屋でぶるぶると震えていたわたしに、真登は毎日メッセージをくれた。雪深堂にもいけず、ごはんもまともに食べられず、ただ横になっているだけなのに日々は過ぎていって、たった数日前のできごとなのに、里恵ちゃんと向かいあってワッフルを食べてから、ずいぶん経っているような錯覚を覚える。
布団のなかに身を隠しながら、この数日間を思っていた。あまりにふわふわとしていて実感がない日々の記憶が、わたしのなかでほんものになっていかない。里恵ちゃんが結婚するのは、事実だったんだろうか。もしかしたら、夢だったのかもしれない。
わたしの心はあの日からちっとも動いていないというのに、時間だけが過ぎていく。そのことの残酷さに、心がうまくついていかない。お店にくるお年寄りが、昔のことばかり話すのも理解できるかもしれない。
曰く、戦争のときは、食べものがほんとうになくてねえ。
曰く、娘がちいさいころは、いまみたいに便利じゃなくて。
強い思い出に引き止められて、それぞれがみんな、過去を生きている。ひとは、一度立ち止まったらそこから二度と前には進めないのだと思い知らされる。
わたしも、そうなのだろうか。
手を伸ばして、枕元の辞書を目のまえまで引っぱる。目をつぶり、片手で頁を開いた。「し」の段だった。目にはいってきたことばの解釈を読んで、ぐっと目をつぶる。それを飲みこむのには、わたしはまだ心の準備ができていなかった。もう一度まぶたを開き、今度はほんの数ページだけうしろへ紙を繰った。
しょうよう【逍遥】 特に何をするという決まった目的も無く、気分転換のために山野や川辺をあるくこと。
階下の音に耳を澄ます。おとうさんとおかあさんは、まだ帰ってきていないようだった。部屋の隅から忍び寄る夕方の気配に追われて、久しぶりにこの部屋から出たい、と思った。部屋着代わりのパーカーはそのままに、よく伸びるデニムパンツとブルゾンだけ身につけて、玄関を出た。
里恵ちゃんの家がある山側とは反対のほうへ向かって歩く。わたしの家からまっすぐそちらへ向かうと、学校が集まる地区に入ってしまうから、避けるようにすこし遠回りをした。高校生のなかには、わたしのかつての同級生もたくさんいる。
縦断するのは車に乗っても難しいけれど、横断は徒歩でも簡単なこの町で、信濃川を見おろす土手へのぼるのは久しぶりだった。ここに立っても、川にたどりつくまでには広大な畑があって、その水面ははるか遠くにあった。それまで背にしてきた山を振り返ると、図ったみたいにぴったりと、夕陽がその稜線へと触れそうになっていた。
舗装された道路から斜面に降りて腰をおろす。やわらかな雑草が、すこし露出した足首をくすぐる。風は、やはり冷たかった。
真っ黒な山の向こうに、空を一面染めあげるちからを持った太陽が落ちていく。どうしてもよそ者にしかなれないこの町にある、唯一好きな景色だ。
信濃川を渡る橋から、ひっきりなしに車の行き交う気配がした。そこから離れて近づいてくるエンジン音が聞こえて顔をあげると、真っ黒なワンボックスがこちらに向かってきていた。
車が止まり、ドアが開く音と同時に、慣れ親しんだ煙草のにおいが香った。でもわたしは、振り向かなかった。
「こんなところでなにしてるんですか、まゆさん」
無視したわたしに、車を降りた真登が笑いかけた。黙ってとなりに座りこみ、左半身をわたしの右半身にくっつける。服を挟んでも伝わるぬくもりに、ふっと心に隙間が空いた。さっきのメッセージは結局送っていないのに、どうしてこのひとは、わたしに会いにきてくれるのだろう。
「よくわかったね、ここ」
右側に体重をかけながら問うと、子どものころみたいに真登がへへと鼻をこすった。
「野性の勘なめんなよ」
なんつって、家いったらいないから、町じゅう探しまわっただけだよ、と預けた重みが返ってくる。
なにがたのしいのか、足元の草をちぎっては持てあそび、風にその残骸を任せている、真登の指先を見ていた。山にかかる太陽がわたしたちを照らし、真っ赤な世界に閉じこめられたように感じた。車の波の姿が黒い背景といっしょになって、なにもない空間から無数のヘッドライトだけが浮かびあがる。
昔さあ、と、真登がぽつりと声を落とし、
「里恵ちゃんとー、まゆとー、まゆんちねえちゃん、よくここであそんでたよな」
そう言って、星の浮かぶ空を仰いだ。ならって、わたしも首を傾ける。
公園で聞く、ほかの子どもの金切り声が苦手で、外で遊ぶときはいつもここまでやってきて、小道具すらないおままごとをした。あのころは、おねえちゃんも一緒に過ごすことが多かった。真登は男の子たちと公園で遊んでばかりいて、わたしたちとは家族の集まりのときにしか接点がなかった。いつのまにか、それがぜんぶ変わっていた。里恵ちゃんとはなかなか会えなくて、おねえちゃんとは話す機会もなくて、真登とは、おままごとみたいにくすぐったいことを毎日のようにくりかえしている。
この場所で、里恵ちゃんとたくさん話をした。干支がひとまわりするかしないか、そんなに遠くないころのできごとなのに、もうずっと、手の届かない昔のことのように感じる。あたりまえだ。わたしの人生はまだ、十八年しかないのだから。
「里恵ちゃんのこと、聞いた?」
真登がそれを口にする予感は、あった。
どうでもいいことを言っているようで、そのひとことを発するために、真登がすべての神経を研ぎ澄ませているのか、触れた肩の力みでわかる。その気遣いがつらくて、視界が揺らぐ。
「……うん」
返事をするだけだったのに、声がひどく震えた。
「やっぱり。里恵ちゃんなら、ぜったいまゆに直接教えると思った」
真登のことばに、すっと冷静になった自分がいた。はたから見てそう感じたとしても、実際にはわたしと里恵ちゃんのあいだに、いったいどれだけつよく通っていた想いの糸があったのか、もうわからなかった。
「まさか、里恵ちゃんが結婚するなんてな。びっくりした」
「……うん」
その瞬間、わたしだけが知っていた彼女の秘密は、わたしだけの秘密じゃなくなってしまった。自分だけで抱えていた秘密が公然のものになったとき、ひとはそれまでより弱くなってしまう気がする。だからみんな、自分を守るために、たくさんのことを秘密にしている。ことばにすれば事実になってしまうことを、心の奥底にしまいこんでいる。だれも知らない。わたしだけが、胸のなかでくりかえされるその「ことば」に翻弄されているのだ。
「……大丈夫?」
訊かれて、ひざを抱えこむ。どんなに目をつよくつぶっても、涙が溢れて止まらない。わたしが泣いているあいだ、真登はずっと肩を抱いて、あたたかな手のひらでさすってくれていた。ほんの、ほんの一瞬だけ、わたしは泣いた。
はあ、と熱い息を吐いて、顔をあげる。そのときには、涙はやんでいた。引っこめるしか、なかった。
「さみしいかもだけどべそべそするなって。おれがいるだろ」
わたしよりすこしだけ高いところにある真登の瞳が、暗闇でひっそりと光っていた。ぎらぎらしていない、あたたかなひかりだった。誕生日のときにも聞いた、真登のまっすぐな気持ち。返事は、できなかった。
「さ、帰ろ」
ぱんぱんとお尻の草を払い、真登に引っぱりあげられるがままに立ちあがる。歩いてもたいした距離がなかった土手から家までの距離が、車だとよけいにあっというまだった。
しょうしん【傷心】 ㊀―する。心をいためること。悲しむこと。㊁悲しみ・ショックで打ちひしがれた心。
【逍遥】の直前に引いたそのことばを冠するには、あまりにも短すぎる旅だった。自分の手を離れてどこか遠い場所で起こっているできごとのような気がして、となりでハンドルを握る真登が、黙ったままでいる理由がわからなかった。
とくにどこが痛いわけでもないけれど、眠ることも起きあがっていることもできないような風邪に、ここ数日悩まされていた。ひとりぼっちで病に耐える苦しさは、病そのものの苦しさを簡単に超えていく。真登から届いたメッセージに、だからふっと涙が出た。
『だいぶよくなった、けど、真登に会いたい』
打ちこんでから、なんてずるいのだろうと、また目が熱くなった。弱っているときに手を差し伸べてくれるのは真登だけで、そのやさしさに甘えてしまう自分のことが悔しくて奥歯を噛む。
里恵ちゃんに秘密を打ち明けられたその夜、わたしは熱を出してしまった。急に冷たくなった秋の風に耐えきれなかったのは身体だけではなかったみたいで、布団をかぶり、狭い部屋でぶるぶると震えていたわたしに、真登は毎日メッセージをくれた。雪深堂にもいけず、ごはんもまともに食べられず、ただ横になっているだけなのに日々は過ぎていって、たった数日前のできごとなのに、里恵ちゃんと向かいあってワッフルを食べてから、ずいぶん経っているような錯覚を覚える。
布団のなかに身を隠しながら、この数日間を思っていた。あまりにふわふわとしていて実感がない日々の記憶が、わたしのなかでほんものになっていかない。里恵ちゃんが結婚するのは、事実だったんだろうか。もしかしたら、夢だったのかもしれない。
わたしの心はあの日からちっとも動いていないというのに、時間だけが過ぎていく。そのことの残酷さに、心がうまくついていかない。お店にくるお年寄りが、昔のことばかり話すのも理解できるかもしれない。
曰く、戦争のときは、食べものがほんとうになくてねえ。
曰く、娘がちいさいころは、いまみたいに便利じゃなくて。
強い思い出に引き止められて、それぞれがみんな、過去を生きている。ひとは、一度立ち止まったらそこから二度と前には進めないのだと思い知らされる。
わたしも、そうなのだろうか。
手を伸ばして、枕元の辞書を目のまえまで引っぱる。目をつぶり、片手で頁を開いた。「し」の段だった。目にはいってきたことばの解釈を読んで、ぐっと目をつぶる。それを飲みこむのには、わたしはまだ心の準備ができていなかった。もう一度まぶたを開き、今度はほんの数ページだけうしろへ紙を繰った。
しょうよう【逍遥】 特に何をするという決まった目的も無く、気分転換のために山野や川辺をあるくこと。
階下の音に耳を澄ます。おとうさんとおかあさんは、まだ帰ってきていないようだった。部屋の隅から忍び寄る夕方の気配に追われて、久しぶりにこの部屋から出たい、と思った。部屋着代わりのパーカーはそのままに、よく伸びるデニムパンツとブルゾンだけ身につけて、玄関を出た。
里恵ちゃんの家がある山側とは反対のほうへ向かって歩く。わたしの家からまっすぐそちらへ向かうと、学校が集まる地区に入ってしまうから、避けるようにすこし遠回りをした。高校生のなかには、わたしのかつての同級生もたくさんいる。
縦断するのは車に乗っても難しいけれど、横断は徒歩でも簡単なこの町で、信濃川を見おろす土手へのぼるのは久しぶりだった。ここに立っても、川にたどりつくまでには広大な畑があって、その水面ははるか遠くにあった。それまで背にしてきた山を振り返ると、図ったみたいにぴったりと、夕陽がその稜線へと触れそうになっていた。
舗装された道路から斜面に降りて腰をおろす。やわらかな雑草が、すこし露出した足首をくすぐる。風は、やはり冷たかった。
真っ黒な山の向こうに、空を一面染めあげるちからを持った太陽が落ちていく。どうしてもよそ者にしかなれないこの町にある、唯一好きな景色だ。
信濃川を渡る橋から、ひっきりなしに車の行き交う気配がした。そこから離れて近づいてくるエンジン音が聞こえて顔をあげると、真っ黒なワンボックスがこちらに向かってきていた。
車が止まり、ドアが開く音と同時に、慣れ親しんだ煙草のにおいが香った。でもわたしは、振り向かなかった。
「こんなところでなにしてるんですか、まゆさん」
無視したわたしに、車を降りた真登が笑いかけた。黙ってとなりに座りこみ、左半身をわたしの右半身にくっつける。服を挟んでも伝わるぬくもりに、ふっと心に隙間が空いた。さっきのメッセージは結局送っていないのに、どうしてこのひとは、わたしに会いにきてくれるのだろう。
「よくわかったね、ここ」
右側に体重をかけながら問うと、子どものころみたいに真登がへへと鼻をこすった。
「野性の勘なめんなよ」
なんつって、家いったらいないから、町じゅう探しまわっただけだよ、と預けた重みが返ってくる。
なにがたのしいのか、足元の草をちぎっては持てあそび、風にその残骸を任せている、真登の指先を見ていた。山にかかる太陽がわたしたちを照らし、真っ赤な世界に閉じこめられたように感じた。車の波の姿が黒い背景といっしょになって、なにもない空間から無数のヘッドライトだけが浮かびあがる。
昔さあ、と、真登がぽつりと声を落とし、
「里恵ちゃんとー、まゆとー、まゆんちねえちゃん、よくここであそんでたよな」
そう言って、星の浮かぶ空を仰いだ。ならって、わたしも首を傾ける。
公園で聞く、ほかの子どもの金切り声が苦手で、外で遊ぶときはいつもここまでやってきて、小道具すらないおままごとをした。あのころは、おねえちゃんも一緒に過ごすことが多かった。真登は男の子たちと公園で遊んでばかりいて、わたしたちとは家族の集まりのときにしか接点がなかった。いつのまにか、それがぜんぶ変わっていた。里恵ちゃんとはなかなか会えなくて、おねえちゃんとは話す機会もなくて、真登とは、おままごとみたいにくすぐったいことを毎日のようにくりかえしている。
この場所で、里恵ちゃんとたくさん話をした。干支がひとまわりするかしないか、そんなに遠くないころのできごとなのに、もうずっと、手の届かない昔のことのように感じる。あたりまえだ。わたしの人生はまだ、十八年しかないのだから。
「里恵ちゃんのこと、聞いた?」
真登がそれを口にする予感は、あった。
どうでもいいことを言っているようで、そのひとことを発するために、真登がすべての神経を研ぎ澄ませているのか、触れた肩の力みでわかる。その気遣いがつらくて、視界が揺らぐ。
「……うん」
返事をするだけだったのに、声がひどく震えた。
「やっぱり。里恵ちゃんなら、ぜったいまゆに直接教えると思った」
真登のことばに、すっと冷静になった自分がいた。はたから見てそう感じたとしても、実際にはわたしと里恵ちゃんのあいだに、いったいどれだけつよく通っていた想いの糸があったのか、もうわからなかった。
「まさか、里恵ちゃんが結婚するなんてな。びっくりした」
「……うん」
その瞬間、わたしだけが知っていた彼女の秘密は、わたしだけの秘密じゃなくなってしまった。自分だけで抱えていた秘密が公然のものになったとき、ひとはそれまでより弱くなってしまう気がする。だからみんな、自分を守るために、たくさんのことを秘密にしている。ことばにすれば事実になってしまうことを、心の奥底にしまいこんでいる。だれも知らない。わたしだけが、胸のなかでくりかえされるその「ことば」に翻弄されているのだ。
「……大丈夫?」
訊かれて、ひざを抱えこむ。どんなに目をつよくつぶっても、涙が溢れて止まらない。わたしが泣いているあいだ、真登はずっと肩を抱いて、あたたかな手のひらでさすってくれていた。ほんの、ほんの一瞬だけ、わたしは泣いた。
はあ、と熱い息を吐いて、顔をあげる。そのときには、涙はやんでいた。引っこめるしか、なかった。
「さみしいかもだけどべそべそするなって。おれがいるだろ」
わたしよりすこしだけ高いところにある真登の瞳が、暗闇でひっそりと光っていた。ぎらぎらしていない、あたたかなひかりだった。誕生日のときにも聞いた、真登のまっすぐな気持ち。返事は、できなかった。
「さ、帰ろ」
ぱんぱんとお尻の草を払い、真登に引っぱりあげられるがままに立ちあがる。歩いてもたいした距離がなかった土手から家までの距離が、車だとよけいにあっというまだった。
しょうしん【傷心】 ㊀―する。心をいためること。悲しむこと。㊁悲しみ・ショックで打ちひしがれた心。
【逍遥】の直前に引いたそのことばを冠するには、あまりにも短すぎる旅だった。自分の手を離れてどこか遠い場所で起こっているできごとのような気がして、となりでハンドルを握る真登が、黙ったままでいる理由がわからなかった。
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