こもごも

ユウキ カノ

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2.どうしてあなたじゃないんだろう

2-⑤

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「誕生日おめでと」
 迎えにきてくれた真登が、まぶしい顔で笑った。直前まで車内で吸っていたのだろう、煙草の香りが身体を包んで、わたしの心に隙間をつくる。開口一番に祝福されて、わけもなく泣きたくなった。
 今朝目覚めて、一日を家でじっと過ごしているあいだ、おとうさん、おかあさん、そしておねえちゃんからも、わたしが誕生日だということをわかっているような気配は感じられなかった。もしかしたら、スマートフォンにメッセージが届くかもしれない。そんな甘い期待とは裏腹に、機械を震わせたのは真登からのおはようと、おめでとうだけだった。
 生まれてきたことを、だれかに祝ってもらうだけの価値がわたしにないだけ。庭に芽を出した雑草の誕生日を、ひとは覚えたりしない。
「かあさんが張りきっちゃって、食べきれるか心配なくらいなんだけど」
「まゆがセロリ好きなんだって言ったら、使いきれないくらいいっぱい買ってきててさ」
「親父も普段はつなぎなのに、シャツとか着てるし」
 自宅へと向かう道中、真登はやけに饒舌だった。普段の落ち着いた話しかたを忘れてしまったみたいに、息を吸うのもおざなりにして話しつづけている。わたしが相槌を打っているかどうか、気にもなっていないようすだ。
「とかいって、おれもちょっと調子乗ってるんだけど」
 古い住宅地の中心にある宮下の家にくるのは、いつも暗くなってからだ。家のまえで車を停めた真登が、ふっと黙る。
「……いいや、またあとで」
 ひとりごとのようにそう言って、真登は車を降り、助手席のドアを開けてくれた。
「どうぞ、お嬢さま」
 手を引かれて宮下家の敷居をまたぐのははじめてだ。慣れない扱いに、指先がかゆくなる。
「まゆちゃん、お誕生日おめでとう」
「誕生日おめでとう、よくきたね」
 宮下の両親とは、この家に泊まりにくるたびに顔を合わせていた。おとうさんと宮下のおじさんは同級生で、真登とわたしとおなじように、子どものころから尾板の町でいっしょに育った仲だった。里恵ちゃんの家のおじさんもおとうさんの同級生で、昔は家族ぐるみのつきあいをしていたのだ。
 真登と夜を過ごしたあと、この家の居間に寄ることはほとんどない。久しぶりに目にした食卓いっぱいに、大皿の料理が並んでいた。真登の言うように、おばさんの張り切りが目に浮かぶ。
「どう考えても作りすぎだよなあ。まゆちゃん、食べられる分だけでいいからな」
 ごちそうをまえに立ち尽くしているわたしを見て、おじさんが文句を言った。おばさんを責めるような響きだったのに、その表情はとても誇らしげでまぶしい。真登の笑顔は、おじさんによく似ている。
「さあさ、食べましょう」
 いっぱい食べてと、差しだされるがままに料理を口にしていく。だれかのつくってくれたごはんを最後に食べたのはいったいいつなのか、思いだせないくらい遠い昔のことみたいだった。慣れない感覚に舌がびっくりして、うまく飲みこむことができない。
 四人で囲む座卓は、かつての我が家の雰囲気によく似ていた。決して崩れることはないと思っていたものは、たった一年であんなにも脆く形を変えてしまう。宮下のおじさんとおばさんのことは好きだ。でも、この家にいるとみじめになる。どうしてわたしは、誕生日に自分の家にいることさえできないんだろう。
「ケーキもつくったんだよ、買ったほうがおいしいと思ったんだけど、気持ちに勝るスパイスはないからね」
 そう言って、おばさんが冷蔵庫からケーキを持ってきた。真っ白なお皿に載った、まっしろないちごのショートケーキだった。
「ちなみにいちご探してきたのはおれ。なかなか見つからなかったんだよ」
 となりに座った真登が得意げに鼻を鳴らす。よけいなこと言わないの、とおばさんに怒られて笑っている。
 お店で売っているものみたいにきれいじゃなくて、側面の生クリームはガタガタで、上にある飾りも歪な、おばさん手作りのケーキ。
「すごく、うれしいです」
 そう、ほんとうにうれしかった。でも、ケーキという単語に、まつげが震える。
 真夏でもしんと冷えた作業場で、黙々とケーキをつくる里恵ちゃんの姿が浮かぶ。お菓子作りを仕事にするまで、里恵ちゃんはわたしの誕生日には毎年ケーキをつくってくれた。手作りとは思えないくらい美しくて、おいしかった里恵ちゃんのケーキ。彼女はいま、そんなふうにお菓子を作れているのだろうか。大好きなお店で、大好きなケーキと向かいあえているのだろうか。わたしの誕生日すら忘れてしまうくらい、ぎりぎりのところに立っているのだろうか。
 この場にいないひとを思いだすなんて、わたしはなんて恩知らずなのだろう。もらったものより、焦がれるものを大切にするわたしに、満たされる日がくるとは思えない。
 ケーキを口に入れるのと同時に、目から涙が出てきた。頬を流れるしずくはしょっぱいのに、舌に溶けるクリームは甘くて、どっちつかずな味がわたしの胸のなかみたいだ。
「やだ、泣かないで」
 嗚咽が漏れるだけで、なにもことばが出てこない。顔をあげなくても、部屋に流れる空気が一瞬で沈んだのがわかった。
 真登だけじゃなく、おじさんとおばさんも、わたしの家族のことを知っている。だからほんとうの家族の代わりに誕生日を祝おうとしてくれた。
「大丈夫だよ、おとうさんもおかあさんも、いつかわかってくれるよ」
 いつか。そんな日はこない。悪いのはおとうさんとおかあさんじゃない。高校を辞めたわたしが、ちゃんと働かないわたしが、正しくない好意を持っているわたしが悪いのだ。
「真登」
「うん」
 まゆ、と真登がやさしく名前を呼ぶ。脇に手を入れられて立ちあがり、連れられるまま急な階段を昇った。真登のにおいに包まれて、部屋に連れてこられたのだとわかる。
 ベッドに腰かけて、真登がぎゅっと抱きしめてくれた。いつもわたしがするように頭を撫でて、背中をさすってくれた。その手のひらがやさしくて、子どもみたいに声をあげて泣いた。なにが哀しいのか、自分ではもう、よくわからなかった。
「やっと泣きやんだな」
 どれくらいの時間が経ったのか、涙が止まってしばらくすると、真登が顔を覗きこんで頬に触れた。
「……ごめん」
 謝ったわたしに、真登は一瞬顔を歪めて、すぐにそっと笑った。
「あのさ、これ」
 ポケットから真登が取りだしたのは、ちいさな袋だった。リボンがかかっていて、とても軽い。
「開けてみて」
「……うん」
 いやな予感、というものを、わたしはあまり信じていない。だって世のなかには、自分が思っている以上に悪いことがよく起きる。いまもそうだ。想像していたよりずっと、ずっとひどい気持ちだ。
 やわらかな袋から出てきたのは、指輪だった。
「あんまり高いとアレかと思って、安いやつなんだけど」
 アレ、ということばの指す意味を、わたしの手のひらは、ずっしりと感じとっていた。値段なんて、関係ない。このちいさな金属に宿る真登の気持ちが、わたしにはおおきすぎる。
「こんなときになんなんだけど、おれの気持ちだから」
 おれがずっと、そばにいるから。指輪を握りしめて黙りこむと、真登がつよくことばを重ねた。
「……ありがとう」
 絞りだした声が、泣いているみたいだった。実際、いますぐにでも泣きだしそうだった。
 庭の雑草が生まれた日を、覚えているひとなんていない。こうして祝ってくれるのは、真登がとびきり、特別にやさしいからだ。
 昔のわたしは、まだ新芽で、雑草じゃない未来が、待っているかもしれなかった。小学校にあがるまえの年、だから里恵ちゃんはわたしにキティちゃんの目覚ましをくれた。学校にちゃんと起きていけますように、そんなふうに願って。だけどわたしは学校にもいけなかったし、おおきくなっても美しい花にはなれなかった。
 この瞬間にも、考える。もし今日、となりにいるのが真登じゃなかったら。おめでとうのことばをくれたのが彼女だったら。
 ぜんぶもしも話で、ぜんぶありえないのに、飽きもせず、わたしは願ってしまう。
 だからわたしが真登のとなりにいるのは、許されない。こんなやさしいひとが、わたしのそばにいてはいけない。心のなかの「ほんとう」を黙るわたしは、やさしさを与えられるだけのわたしは、正しくない。それなのに、わたしはもう、真登がいないと泣き場所すら知らないのだ。
 右手の薬指に指輪を通すと、真登が眉をさげて笑った。頭を引き寄せられておでことおでこでキスをする。
 真登に言えないことが、どんどん増えていく。触れている皮膚から秘密が伝わってしまいそうで、すこしこわかった。
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