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2.どうしてあなたじゃないんだろう
2-④
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「誕生日うちにこねえ?」
ショッピングモールからの帰り、家に着いてわたしが車のドアを開けたときだった。唐突に、ほんとうに唐突に真登が言った。え、と声が漏れてから、同時にエアコンの冷気が外からの生ぬるい風に温められるのを感じてドアを閉める。
「……つきあってはじめての誕生日じゃん。ほんとはいい店いこうかとか考えたけど、親父たちもおいでって言ってるし、まゆもそのほうがいいかなと思った、んですけど」
どうですか、と恥ずかしそうにもごもごと話す真登が、ちらりとわたしの背後を見た。そこにあるのは、わたしの分の夕食は用意されていない、わたしの家だ。
「ありがとう。うれしい」
伏せていた目をあげて、真登の顔がぱっと明るくなる。
「よかったー」
よほど緊張していたのだろう、息を吐きだしたとたん、もともと丸い真登の肩がさらに下がった。ひざに置いていたわたしの手をそっと握った指に、力が加わる。
「絶対いい誕生日にするから。たのしみにしてて」
「うん」
わたしの応えにうなずき返して、真登が手を離す。それを合図にして、ドアをゆっくりと開けて車を降りた。ドアを閉めるまえに振り向くと、真登が言いにくそうに「あのさ」と下を向いた。
「その、おじさんとおばさんに話せる?」
こういうやさしいことばを口に出してしまうところが、真登の悪いところだ。こんなとき、わたしはすごく暴力的な気持ちになって、ドアを強く閉めてみようかと思う。やさしさは時に残酷だ。
「大丈夫」
そう答える以外に、どんな選択肢があると言うのだろう。わたしはいま、きちんと笑顔を作れているだろうか。真登が安心したように笑っているから、きっと成功している。
「そっか」
「うん」
おやすみ、と言って、結局、静かにドアを閉める。暗い車内から手を振る真登を見送り、踵を返す。
鍵を開けて家に入ると、廊下の奥に蛍光灯の光が見えた。真登とごはんを食べて帰ってきた日に、おとうさんとおかあさんのいるリビングにいくことはない。おねえちゃんの車もなかった。その場所に踏みこむことは、とても、とても勇気がいる。
玄関に置かれたカレンダーが、いつのまにか八月のページに変わっていた。端に描かれた、真夏の青い海を眺める少女の視線の先に、わたしの誕生日の日付があった。なんのしるしもついていないその日付を、直視するのはむずかしかった。こぶしを、つよく握りこむ。
そろそろと進む廊下の床板が、ほんのわずか軋むだけで心臓が跳ねた。リビングへとつづく扉のまえで、深く吸った息を吐く。ノブに手をかけて、ゆっくりと押した。
「―ただいま」
おかえり、の声は聞こえなかった。テレビからの笑い声と、エアコンが風を吐きだす音だけが響くリビングで、ふたりは一緒にいた。おとうさんはテレビのほうを向いて、つまらなそうにビールを飲んでいる。おかあさんは眼鏡をかけて本を読んでいた。部屋に染みついたものではない、おとうさんの手元から漂う煙草のにおいに、鼻の奥がつんとする。
おなじテーブルについているのに、心がそこに集っていないのが、空気からはっきりとわかった。
なんてさみしい。なんて、かなしい光景だろう。
圧倒されて、その場に立ち尽くす。なぜここにきたのか、目的を見失いそうになった瞬間、おとうさんがちら、とこちらを見た。逃げよう。そう思った瞬間に真登の笑顔が浮かんできて、後ずさりしそうになった足にブレーキをかける。
「あ、あの」
声が聞こえてはじめて、ふたりははじめて顔をあげた。突然向けられた視線の、温度のなさに怯む。
「あの、今度の、今度の誕生日、出かけてもいいですか」
本来口から出るはずがないのに、内臓を吐きだしているような気がした。ことばは割れて、千切れて、相手に届くまえに床にポトリと落ちる。
「いいんじゃないの」
「勝手にしなさい」
おとうさんとおかあさんが目を合わせることもなかった。投げだされた台詞の欠片が、バラバラと足元に広がる。握っていたこぶしの汗が、すっと冷えていくのがわかった。
「……わかりました」
のどをついて出た声は、のっぺりと表情がなかった。ゆっくりとリビングを離れ、階段をあがる。一段一段を踏みしめる足の裏に感覚がなくて、ふわふわしていた。部屋に入り、ドアを閉めると同時に、手から滑り落ちたかばんがおおきな音を立てた。そのなかには、辞書が入っている。おとうさんが高校入学と同時に買ってくれた、重くて、かわいくない、いまではぼろぼろの辞書。
堪えていた涙が、噴きだすように溢れた。立っていられなくて床に座りこむ。顔が、人間らしい形を保っていられないほどぐしゃぐしゃで痛い。
去年まで、誕生日は家族で祝っていた。おとうさんのも、おかあさんのも、おねえちゃんのも、もちろん、わたしの誕生日も、みんな。それを変えてしまったのはわたしだ。
高校を辞めたことに、理由なんてなかった。ただ、まっすぐ息を吸えるようになりたいと、そう思っただけなのに。いまわたしの顔は涙が沁みるくらい腫れていて、のどに引っかかる息をなんとか吸おうと震えている。あの場所を逃げだしたことが正しかったのかどうか、こんな気持ちになってもわからないのは、あのまま高校にいても結局はおなじ結果になっていたんじゃないかと思うからだ。
わたしは、何者にもなれない。わたしの願うわたしでいることだってできないのに、なんにでもなれるわけなんてないのだ。
ふっと顔をあげると、ベッドの枕元に、こちらに目を背けているキティちゃんの目覚まし時計があった。十年以上その場所でわたしを見守ってくれている、わたしの女神。
奥歯をぐっと噛みしめる。声が漏れそうになるのを、必死に堪えた。
里恵ちゃんに会いたい。会って、抱きしめてもらいたい。つよく、つよくそう思うのに、怖気づくわたしがいる。もし拒絶されたら? もし、「どうして」と言われたら? 隠さなくてはいけない。知られてはいけない。こんなの、許されない。
つらい状況に置かれている里恵ちゃんに、わたしのわがままを押しつけることはできない。里恵ちゃんの肩を抱いてあげたいと思う自分と、抱いてほしい自分がぶつかりあって、涙になって溢れてくる。
おなかの奥から飛びだしてしまいそうになる感情を、いつも押しこめながら生きてきた。それがひとつやふたつや、みっつやよっつ増えたところで、なにが変わるわけじゃない。
「……だいじょうぶ、だいじょうぶ」
くり返すことばに混じる熱い息が、うずくまった太ももに触れて、つぎからつぎへと冷えていく。涙の粒がそこに落ちて、無数の輪を作った。
ショッピングモールからの帰り、家に着いてわたしが車のドアを開けたときだった。唐突に、ほんとうに唐突に真登が言った。え、と声が漏れてから、同時にエアコンの冷気が外からの生ぬるい風に温められるのを感じてドアを閉める。
「……つきあってはじめての誕生日じゃん。ほんとはいい店いこうかとか考えたけど、親父たちもおいでって言ってるし、まゆもそのほうがいいかなと思った、んですけど」
どうですか、と恥ずかしそうにもごもごと話す真登が、ちらりとわたしの背後を見た。そこにあるのは、わたしの分の夕食は用意されていない、わたしの家だ。
「ありがとう。うれしい」
伏せていた目をあげて、真登の顔がぱっと明るくなる。
「よかったー」
よほど緊張していたのだろう、息を吐きだしたとたん、もともと丸い真登の肩がさらに下がった。ひざに置いていたわたしの手をそっと握った指に、力が加わる。
「絶対いい誕生日にするから。たのしみにしてて」
「うん」
わたしの応えにうなずき返して、真登が手を離す。それを合図にして、ドアをゆっくりと開けて車を降りた。ドアを閉めるまえに振り向くと、真登が言いにくそうに「あのさ」と下を向いた。
「その、おじさんとおばさんに話せる?」
こういうやさしいことばを口に出してしまうところが、真登の悪いところだ。こんなとき、わたしはすごく暴力的な気持ちになって、ドアを強く閉めてみようかと思う。やさしさは時に残酷だ。
「大丈夫」
そう答える以外に、どんな選択肢があると言うのだろう。わたしはいま、きちんと笑顔を作れているだろうか。真登が安心したように笑っているから、きっと成功している。
「そっか」
「うん」
おやすみ、と言って、結局、静かにドアを閉める。暗い車内から手を振る真登を見送り、踵を返す。
鍵を開けて家に入ると、廊下の奥に蛍光灯の光が見えた。真登とごはんを食べて帰ってきた日に、おとうさんとおかあさんのいるリビングにいくことはない。おねえちゃんの車もなかった。その場所に踏みこむことは、とても、とても勇気がいる。
玄関に置かれたカレンダーが、いつのまにか八月のページに変わっていた。端に描かれた、真夏の青い海を眺める少女の視線の先に、わたしの誕生日の日付があった。なんのしるしもついていないその日付を、直視するのはむずかしかった。こぶしを、つよく握りこむ。
そろそろと進む廊下の床板が、ほんのわずか軋むだけで心臓が跳ねた。リビングへとつづく扉のまえで、深く吸った息を吐く。ノブに手をかけて、ゆっくりと押した。
「―ただいま」
おかえり、の声は聞こえなかった。テレビからの笑い声と、エアコンが風を吐きだす音だけが響くリビングで、ふたりは一緒にいた。おとうさんはテレビのほうを向いて、つまらなそうにビールを飲んでいる。おかあさんは眼鏡をかけて本を読んでいた。部屋に染みついたものではない、おとうさんの手元から漂う煙草のにおいに、鼻の奥がつんとする。
おなじテーブルについているのに、心がそこに集っていないのが、空気からはっきりとわかった。
なんてさみしい。なんて、かなしい光景だろう。
圧倒されて、その場に立ち尽くす。なぜここにきたのか、目的を見失いそうになった瞬間、おとうさんがちら、とこちらを見た。逃げよう。そう思った瞬間に真登の笑顔が浮かんできて、後ずさりしそうになった足にブレーキをかける。
「あ、あの」
声が聞こえてはじめて、ふたりははじめて顔をあげた。突然向けられた視線の、温度のなさに怯む。
「あの、今度の、今度の誕生日、出かけてもいいですか」
本来口から出るはずがないのに、内臓を吐きだしているような気がした。ことばは割れて、千切れて、相手に届くまえに床にポトリと落ちる。
「いいんじゃないの」
「勝手にしなさい」
おとうさんとおかあさんが目を合わせることもなかった。投げだされた台詞の欠片が、バラバラと足元に広がる。握っていたこぶしの汗が、すっと冷えていくのがわかった。
「……わかりました」
のどをついて出た声は、のっぺりと表情がなかった。ゆっくりとリビングを離れ、階段をあがる。一段一段を踏みしめる足の裏に感覚がなくて、ふわふわしていた。部屋に入り、ドアを閉めると同時に、手から滑り落ちたかばんがおおきな音を立てた。そのなかには、辞書が入っている。おとうさんが高校入学と同時に買ってくれた、重くて、かわいくない、いまではぼろぼろの辞書。
堪えていた涙が、噴きだすように溢れた。立っていられなくて床に座りこむ。顔が、人間らしい形を保っていられないほどぐしゃぐしゃで痛い。
去年まで、誕生日は家族で祝っていた。おとうさんのも、おかあさんのも、おねえちゃんのも、もちろん、わたしの誕生日も、みんな。それを変えてしまったのはわたしだ。
高校を辞めたことに、理由なんてなかった。ただ、まっすぐ息を吸えるようになりたいと、そう思っただけなのに。いまわたしの顔は涙が沁みるくらい腫れていて、のどに引っかかる息をなんとか吸おうと震えている。あの場所を逃げだしたことが正しかったのかどうか、こんな気持ちになってもわからないのは、あのまま高校にいても結局はおなじ結果になっていたんじゃないかと思うからだ。
わたしは、何者にもなれない。わたしの願うわたしでいることだってできないのに、なんにでもなれるわけなんてないのだ。
ふっと顔をあげると、ベッドの枕元に、こちらに目を背けているキティちゃんの目覚まし時計があった。十年以上その場所でわたしを見守ってくれている、わたしの女神。
奥歯をぐっと噛みしめる。声が漏れそうになるのを、必死に堪えた。
里恵ちゃんに会いたい。会って、抱きしめてもらいたい。つよく、つよくそう思うのに、怖気づくわたしがいる。もし拒絶されたら? もし、「どうして」と言われたら? 隠さなくてはいけない。知られてはいけない。こんなの、許されない。
つらい状況に置かれている里恵ちゃんに、わたしのわがままを押しつけることはできない。里恵ちゃんの肩を抱いてあげたいと思う自分と、抱いてほしい自分がぶつかりあって、涙になって溢れてくる。
おなかの奥から飛びだしてしまいそうになる感情を、いつも押しこめながら生きてきた。それがひとつやふたつや、みっつやよっつ増えたところで、なにが変わるわけじゃない。
「……だいじょうぶ、だいじょうぶ」
くり返すことばに混じる熱い息が、うずくまった太ももに触れて、つぎからつぎへと冷えていく。涙の粒がそこに落ちて、無数の輪を作った。
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