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2.どうしてあなたじゃないんだろう
2-①
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『わるいきょうあえない』という、漢字も絵文字も使われていないメッセージが真登から届いた。めずらしく無機質な文面から、工場の慌ただしさが伝わってくる。それでもそのメッセージは、いつもどおり早く帰るよう言われた職場を出た瞬間に送られてきて、変わらない真登の野生の勘に、わたしはすこしうれしくなった。
真登の働く整備工場が忙しくなるときはときどきあって、それはたとえば夏休みの事故が多いときだったり、例年より早く雪が降り積もったときだったり、ある程度サイクルが決まっていた。自由奔放に働いているように見える真登だけれど、残業だってするし、休日出勤だってしている。かつて彼のことを「不真面目だ」と評した大人たちに、真登の働いている姿を見せてやりたい。
雪深堂からの帰り道、こうして真登と会わない日には、すこし遠回りをして里恵ちゃんの家のまえを通ることにしていた。
いつのまにか子どもたちは夏休みに入ったようで、昼時でも夕方でもない中途半端なこの時間に、商店街を歩いているひとはいなかった。町じゅうに響く蝉の声が、じりじりと肌を焼く太陽の温度をあげる。アーケードの真下は暗い。そこを出て光の世界に踏みだすと、瞳孔がぎゅっとちいさくなる音が聞こえた。商店街を離れ、山のほうへ住宅街を進む。
「……やっぱりいない、よね」
思わずひとりでこぼしてしまうほど、自分が落ちこんでいるのがわかった。まんまるな軽のブラウンは、榎田の家のカーポートにはなかった。
里恵ちゃんは市内のお菓子屋さんでケーキを作っている。週に二日ある休日は不定期で、それがいつなのかわたしは知らなかったし、訊くこともできなかった。朝早く家を出ていき、夜遅く帰ってくる生活を彼女がはじめてから、来年の春でまる三年になる。こんな時間に里恵ちゃんが家にいることなんてめったにない。
『里恵ちゃん、最近具合悪いんだって。知ってる?』
春が終わるころ、真登から教えてもらった。仕事が忙しく、体調を崩しているのだという話が、榎田のおじさんから真登の家へと届いたらしい。いてもたってもいられなくて、こうして時おり、この家まで足を伸ばしている。
わたしだって、毎日ここにきているわけではないのだから、会えない可能性よりも会える可能性のほうがずっと低いのは理解している。こんなに近くにいるのに、顔を見ることすら、声を聞くことすらできないことが、ただかなしい。
榎田の家の、二階の窓を見あげる。小路に面した部屋は、幼いころよくあそびにいった里恵ちゃんの部屋だった。澄んだスカイブルーのカーテンの向こうに、里恵ちゃんの世界がある。
諦めるには勇気が必要だった。窓から視線を引き剥がし、もときた道の反対の方向へと進む。ため息といっしょに、角を曲がったときだった。遠くから車のエンジン音が聞こえて、どんどん近づいてきたかと思うと、角の向こうで止まったのがわかった。
踵を返して、曲がり角へ駆け足で近寄る。期待で高鳴る胸を押さえつけて、ちがうかもしれない、と言い聞かせた。でも、間違いない。あのエンジン音は、慣れ親しんだまんまるな軽のブラウンのものだ。
意を決して角を覗く。榎田の家のカーポートに、里恵ちゃんの車があった。ドアが閉まる音がして、車の陰から里恵ちゃんの姿が現れる。
「里恵ちゃん」
思わずおおきな声が漏れそうになって、口元を覆ったわたしの手は、つぎの瞬間、わたしの悲鳴を隠した。
わずか、十メートル先。そこには、たしかに里恵ちゃんがいた。だけどわたしの心は、そのひとが里恵ちゃんであると認めることを拒否した。ふっくらとまるくて、やさしさが形を持って生まれてきたみたいな里恵ちゃんの身体は、もうそこになかった。ぶかぶかの服のなかで泳ぐ里恵ちゃんの腕には、骨が浮いている。乾いた髪が頬に影を作って、その瞳は暗かった。引きずるように足を動かして、里恵ちゃんはゆっくりと家のなかへと消えていった。
突然苦しくなって、そこではじめて、自分が息を止めていたことに気づいた。声をかけることすら、できなかった。
里恵ちゃんの顔から表情が消えているところを、はじめてみた。彼女はひとりのときだってしあわせそうに笑っていたし、哀しそうなときは、思いきり哀しそうなのだ。あれなら、人形のほうがまだ感情のこもった顔をするにちがいない。
あんな状態の里恵ちゃんに、わたしができることなんてひとつも見つからなかった。これまで、わたしの人生の一分一秒、すべてに存在していた里恵ちゃん。必ずそばにいてくれた里恵ちゃん。里恵ちゃんがいたから立ちあがろうと思った日だって、一日や二日ではすまないのだ。そんな彼女が弱っているときに、なにもできない自分が悔しかった。
後悔と同時に、恐怖が胸を支配する。
里恵ちゃんがあのままだったらどうしよう。もう一生、あたたかくてやわらかな里恵ちゃんに会えなかったら、わたしはどうしたらいいのだろう。
震える足に力をこめて、家へとつづく道を歩きはじめた。脳裏に里恵ちゃんの姿がこびりついて、一歩足を踏みだすたびにめまいがした。
真登の働く整備工場が忙しくなるときはときどきあって、それはたとえば夏休みの事故が多いときだったり、例年より早く雪が降り積もったときだったり、ある程度サイクルが決まっていた。自由奔放に働いているように見える真登だけれど、残業だってするし、休日出勤だってしている。かつて彼のことを「不真面目だ」と評した大人たちに、真登の働いている姿を見せてやりたい。
雪深堂からの帰り道、こうして真登と会わない日には、すこし遠回りをして里恵ちゃんの家のまえを通ることにしていた。
いつのまにか子どもたちは夏休みに入ったようで、昼時でも夕方でもない中途半端なこの時間に、商店街を歩いているひとはいなかった。町じゅうに響く蝉の声が、じりじりと肌を焼く太陽の温度をあげる。アーケードの真下は暗い。そこを出て光の世界に踏みだすと、瞳孔がぎゅっとちいさくなる音が聞こえた。商店街を離れ、山のほうへ住宅街を進む。
「……やっぱりいない、よね」
思わずひとりでこぼしてしまうほど、自分が落ちこんでいるのがわかった。まんまるな軽のブラウンは、榎田の家のカーポートにはなかった。
里恵ちゃんは市内のお菓子屋さんでケーキを作っている。週に二日ある休日は不定期で、それがいつなのかわたしは知らなかったし、訊くこともできなかった。朝早く家を出ていき、夜遅く帰ってくる生活を彼女がはじめてから、来年の春でまる三年になる。こんな時間に里恵ちゃんが家にいることなんてめったにない。
『里恵ちゃん、最近具合悪いんだって。知ってる?』
春が終わるころ、真登から教えてもらった。仕事が忙しく、体調を崩しているのだという話が、榎田のおじさんから真登の家へと届いたらしい。いてもたってもいられなくて、こうして時おり、この家まで足を伸ばしている。
わたしだって、毎日ここにきているわけではないのだから、会えない可能性よりも会える可能性のほうがずっと低いのは理解している。こんなに近くにいるのに、顔を見ることすら、声を聞くことすらできないことが、ただかなしい。
榎田の家の、二階の窓を見あげる。小路に面した部屋は、幼いころよくあそびにいった里恵ちゃんの部屋だった。澄んだスカイブルーのカーテンの向こうに、里恵ちゃんの世界がある。
諦めるには勇気が必要だった。窓から視線を引き剥がし、もときた道の反対の方向へと進む。ため息といっしょに、角を曲がったときだった。遠くから車のエンジン音が聞こえて、どんどん近づいてきたかと思うと、角の向こうで止まったのがわかった。
踵を返して、曲がり角へ駆け足で近寄る。期待で高鳴る胸を押さえつけて、ちがうかもしれない、と言い聞かせた。でも、間違いない。あのエンジン音は、慣れ親しんだまんまるな軽のブラウンのものだ。
意を決して角を覗く。榎田の家のカーポートに、里恵ちゃんの車があった。ドアが閉まる音がして、車の陰から里恵ちゃんの姿が現れる。
「里恵ちゃん」
思わずおおきな声が漏れそうになって、口元を覆ったわたしの手は、つぎの瞬間、わたしの悲鳴を隠した。
わずか、十メートル先。そこには、たしかに里恵ちゃんがいた。だけどわたしの心は、そのひとが里恵ちゃんであると認めることを拒否した。ふっくらとまるくて、やさしさが形を持って生まれてきたみたいな里恵ちゃんの身体は、もうそこになかった。ぶかぶかの服のなかで泳ぐ里恵ちゃんの腕には、骨が浮いている。乾いた髪が頬に影を作って、その瞳は暗かった。引きずるように足を動かして、里恵ちゃんはゆっくりと家のなかへと消えていった。
突然苦しくなって、そこではじめて、自分が息を止めていたことに気づいた。声をかけることすら、できなかった。
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後悔と同時に、恐怖が胸を支配する。
里恵ちゃんがあのままだったらどうしよう。もう一生、あたたかくてやわらかな里恵ちゃんに会えなかったら、わたしはどうしたらいいのだろう。
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