こもごも

ユウキ カノ

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1.マイヒーロー

1-②

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 はじまらないわたしの時間を急かすように、また今日も、八時三十分に目覚まし時計が鳴った。ピンクのプラスチックでできたその時計の頭を、ポンと叩いて起きあがる。すこし乱暴になってしまった手つきに、盤面にプリントされた青いオーバーオールのキティちゃんがこちらをじっと見ていた。「ごめんね」ともう一度触れて時計を撫でる。
 低く唸りながら枕に顔をおしつけ、夢と決別する。寝起きは悪いほうではないのだけど、この世界で形を保つためには、かなりの勇気が必要だった。意識して息を吸うことのむずかしさは、日を増すごとにわたしに重い枷をつける。夏布団という安全地帯から、やっとの思いで抜けだす。
 眠っているあいだはずしていたブラジャーをつけて、姿見のまえに立った。肌とよくなじむ、薄いベージュのシームレス。真登(まさと)に「色気がない」と、その字面とは反対に楽しそうな声音で評される下着だ。機能的で無駄がないし、仕事で着る白いシャツからも透けないから、おなじようなものばかり持っている。
 色気がないのは下着じゃなくてわたし自身だ。第二次性徴がはじまったばかりの女の子みたいにささやかな胸の下に浮くあばらを見ると、真登がこの身体に触れようと思うことが不思議で仕方ない。わたしなら、もっとふわふわした肌に触れたいと思うのに。
 里恵ちゃんは、おっぱいが大きい。ちょっとぽっちゃりしているけれど、均整のとれたきれいな身体をしている。女性として魅力的で、でも下品じゃない。
 焦がれても手に入らないものは、この世のなかにたくさんある。そのひとつが女性的な身体だった。真登はわたしの下着について文句は言っても、わたし自身については不満を言ったことがない。わたしには不釣り合いなやさしいひとだ。
 仕事でもそれ以外でも、この時期わたしが身につけるものは決まっている。半袖と裾がふわりと広がる綿のシャツと、よく伸びるデニムパンツをはいているとき、スマートフォンがヴヴヴ、と震えた。真登だった。
『おはよ。いってらっしゃーい』
 律義に送られてきたメッセージと、文面の最後につけられた笑顔の絵文字を見て頬がゆるむ。こちらが相手のことを考えているときに、相手もこちらを思っていてくれるということのうれしさと驚きと、そして負い目みたいなものに、まだ慣れることができない。
『おはよう。いってきます』
 それだけの文章を返すのに、ずいぶん時間がかかってしまった。日課のやりとりなのだから普段とおなじ内容を書けばいいのに、それはただの惰性なんじゃないかと思うと、一から考え直さずにはいられない。だけど結局送るのは、一字一句いつもと変わらない、無味無臭のメッセージだった。
 スマートフォンをかばんに入れ、反対に辞書を取りだす。高校入学と同時に手に入れた国語辞典だった。毎日持ち歩いているせいで紙の色も変わり、表紙の角もすっかりまるくなっているけれど、わたしの大切な宝物だ。
 深く息を吸い、そして吐いて目をつむる。みっつ数えてから、辞書に指をかけて開いた。今日は半分よりすこし後ろ。たぶん、な行のページだ。

にんたい【忍耐】 苦しみ・つらさ・怒りなどを、じっとがまんすること。

 まぶたを開けて、目に入ってきたことばがそれだった。この行為に、意味はない。占いと一緒だ。とくに人生の役には立たないし、一日の生活を左右するわけでもない。自分の意志でどのあたりのページを開くか決めてもいる。これはただ、そう、儀式だ。深呼吸をして、目を閉じて、今日が無事に終わりますようにと祈る儀式。もうずっとつづけている、わたしの大切な習慣だ。
 スマートフォンと辞書、そして財布だけが入ったかばんを持って一階に降りると、夏なのにしん、とした冷たい空気がリビングを覆っていた。乱雑に置かれた雑誌やキッチンカウンターのうえの調味料が見せる生活感が、冷えた雰囲気とちぐはぐだ。古い掛け時計の秒針が、規則的に動いて音を立てる。おとうさんも、おかあさんもおねえちゃんも、みんな仕事にいっている。まるでよそのうちみたいな、わたしだけが存在する家。わたしだけが、存在しない家。
 適当に食事をして身支度を整えてから、玄関に向かう。靴箱のうえに、どこかの画家の描いたカレンダーがあった。淡い色をした麦わら帽子の女の子が、ひとりぽつんと日付の脇に立っている七月のページを、苦々しい気持ちで見つめた。
 十八歳の誕生日まで、あと一ヶ月を切った。
 家を出ると、庭の青々としたイチョウや金木犀から一匹ぶんの蝉の声が聞こえた。首にあたる髪の先が、汗ばんできた肌を刺激する。鳴きはじめたばかりのささやかな音でも、陽射しの温度を上げることができるのだ。
 おとうさんの伝手で働かせてもらっている和菓子屋さんは、このちいさな尾板の町の、中心部に伸びる商店街のなかでも、とびきり古いお店らしい。県道を挟んだ歩道にかかるアーケードが影を作り、その下にいるあいだはほんのすこしだけ涼しかった。
 昔はアーケードの代わりに雁木という屋根がたくさんあったけれど、いまはこの町にも、わずかしか残っていない。そのわずかに残った雁木のある通りを越えて、家から五分ほどで職場に着く。
 ガラスがはまった引き戸のうえに掲げられた『雪深堂(ゆきみどう)』の看板は、雨風にさらされて黒っぽくくすんでいる。かつて金色だったはずの店名は、ところどころ塗料が剥がれて、長い年月を感じさせた。この看板は、創業以来ずっと守り続けているものだと聞いたことがある。だけど、長いあいだここにあるこの店だって、こんな田舎でいつまで生き残れるかはわからない。
「おはようございます」
「ああ、おはようまゆちゃん。今日もよろしくねえ」
 店内に入ると、慣れ親しんだ甘い餡の香りが冷房の風に乗って鼻に届く。そのにおいを深く吸って声を張ると、雪深堂の女将である恵美子さんがのれんから顔を覗かせた。舞台に出るのかと思うほど濃く塗られたメイクが、彼女の笑顔の圧力をあげる。日焼け止めだけを肌につけたわたしは防御力が弱いから、その勢いに一歩下がらずにはいられない。
「もう暑いねえ」
「そうですね」
「夏の商品が出はじめたから、よろしくねえ」
「はい」
 耳にべったりくっつく恵美子さんの声を聞きながらエプロンを身につけ、肩までの髪を後ろで結う。奥の工場に顔を出してあいさつをすると、この店の主人である花本さんと、若い職人さんたちが忙しなく手を動かしていた手を止めて、店先まで響き渡るハリのある声で返事をした。
 あとはおまんじゅうや大福の並んだショーケースの奥に座り、道路に面した広いガラス戸から外を眺めているのがわたしの仕事だ。
 クッションが薄くなっていて、長時間座っていると名前も知らない骨が軋む。丸椅子に持ってきたタオルを乗せ、その上に腰をおろした。時刻は午前十時。閉店は十七時だけれど、その長い時間のあいだ、わたしが立ちあがることはほとんどない。
 夏のはじまりを感じさせる、真っ青な空にある太陽の明るさは蛍光灯のそれを簡単に超えていく。必然的に暗く見える店内から、おおきな絵画のように切り取られた七月の空を見あげていると、自分の身体がぎゅっとちいさくなってしまったような気がして息ができなくなる。肺が潰れているんじゃないかと錯覚しそうになるくらいだ。
「のど乾かない?」
 恵美子さんが顔を出して、冷たいお茶を出してくれた。出勤してまだ三十分も経っていないのにこうしてもてなされるのは、普通のことなんだろうか。ほかの店で働いたことがないからわからないけれど、きっと普通ではないのだということくらいは、わたしみたいな人間にもわかった。ありがとうございますとお礼を言って、グラスに口をつける。グラスを伝った水滴が、地味な色のエプロンにちいさなシミを作った。
 寒くない? と、椅子に座ったままのわたしを覗きこんで、恵美子さんが声をかけてくる。
「温度、あげようかあ」
 気を遣われている。その事実が、ただ肩に重かった。いえ、ちょうどいいです、それだけ答えて、身体の表面を硬くする。もちろん、身体はほんとうに硬くなったりはしない。そういうふうに意識すると、わたしを包む「空気」が、盾のように硬くなるのだ。
「そう、じゃあ、なにかあったら呼んでねえ」
 パーマのかかった茶の髪を耳にかけながら、恵美子さんは眉根をさげた。つっかけを脱いで、奥の和室へと戻っていく。恵美子さんの言う、なにか、が起こったことは、わたしが働いているこの一年半で一度もない。だけど彼女は頻繁にのれんから顔を覗かせ、わたしのようすをうかがう。そのたびに、おしりの下のタオルが、鉄板になったみたいな気分になる。
 店のまえの県道は、わたしが働いているあいだ、車の波が途切れることがない。それでも、幹線道路としては実用性の高いこの道を通る車のなかに、シャッター街で足を止めようとするものはなかった。店にお菓子を買いにくるのは、徒歩か自転車でここまでこられるひとたちばかりだ。
 赤、白、黒、紺。普通自動車、タクシー、トラック。色も形もさまざまな鉄の箱の流れをぼんやりと眺める。
 あのなかのどれひとつとして、好きだと思う車はない。まんまるな軽のブラウンが、わたしはこの世でいちばん好きだ。
「いらっしゃいませえ」
「こんにちは」
 砂の底に沈んでいきそうな意識を恵美子さんの声とお客さんのあいさつに引き戻されて、目のまえの現実にピントが合う。いらっしゃいませ、と言うために開いた口からは、引きつった声しか出なかった。
「あら、まゆちゃん」
 引き戸を開けて入ってきたのは、見覚えのある女性だった。七千人しかいないこの町には、見たことのあるひとなんてキリがないほどいるのだけれど、このひとのことははっきり覚えていた。
「前島さん、お久しぶりです」
「ほんとねえ、元気だった?」
 前島さんは、中学時代の同級生のひとり、加奈子のおかあさんだった。行事のたびに遭遇する同級生の親の顔は、いやでも覚えてしまう。この町では、それだけ同学年の人数が少ないのだ。加奈子は、学校のなかで孤立していたわたしによく声をかけてきた女子生徒だった。向こうは友達のつもりだったのだろうけど、こちらからしてみればただのおせっかいだった。
「はい、元気です。加奈子はどうしてますか」
 いくらわたしでも、客商売をしていればどんな対応が正解かくらいはわかる。心にもないことを話すのは接客の基本だ。
 それがね、と、前島さんはうれしさを隠さずに言った。
「大学受けるって言って勉強してるのよ。毎日塾いって夜遅くまで大変よ」
 大学。加奈子らしい、と真っ先に思った。大学というのがどんなところか、いまいちピンとこないけれど、その響きから受けとれる大げさなイメージは、彼女にぴったりだ。
「すごいですね、わたしには想像もつかないです」
 まずい、と直感的にわかった。こういうときに、自分の話へと引きこんではいけないのに。
「あら、まゆちゃんだってまだまだよ。これからどうするの? 高校辞めてからずいぶん経つでしょう」
 直感は当たった。余計なおせっかいが上手な親子だ、と心が叫ぶのを止められない。
「そうよお。ちょうど高校を卒業する年だし、なにかはじめてもいいんじゃなあい?」
 それまで黙ってわたしたちの会話を見ていた恵美子さんまでが、前島さんに加勢する。普段はそんなこと言ったこともないけれど、気にはなっていたのだ。だれだってはずれ者がどう生きていくかは気になるにちがいない。
 だけどわたしだって、教えてほしい。
「いえ、なんにも考えてないんです。しばらくはこのままでいいかなって」
 笑いながら、なぜか泣きだしたくなった。ぺちゃんこに座りこんで、全身ですすりあげる子どもとおなじように叫びだしたかった。おなかと胸のあいだのところがぐぐっと狭くなり、瞳まで涙を運ぶポンプみたいな動きをする。
「まあ、これからだからね」
「そうねえ、なんにでもなれるからねえ」
 さっきとおなじことをくりかえし、大人たちの顔は同情の色を見せていた。声を出したら蓋をしていたものがあふれてしまいそうで、わたしは返事の代わりにあいまいに笑い返した。
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