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猫さまたちと家族

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 圭ちゃんとケンカをした。圭ちゃん、というのは、ぼくの恋人で、もうすぐ付き合いはじめて三年になる。三日、三週間、三ヶ月、三年。世間のあらゆる恋人にとって「三」がつく区切りはなにかと転機になる――そんな言説があるらしい、というのは知っていた。だから、恋人になって三年になろうとしているこの冬、ぼくは圭ちゃんにとくにやさしくしようと誓っていた。
 長く付き合っていくには、意図的に行動を制御することも必要だと思う。甘やかして、甘やかして、あー、しあわせだー、って心の底から思ってもらえるように、圭ちゃんの家にくる回数も増やした。いっぱいスキンシップをして、いっぱい好きだよって言って、できるだけ長くふたりでいる時間を作れるよう毎日を過ごしている。
「圭ちゃん、どうしたの」
 それなのにぼくは、もうすぐ三年の記念日を迎ようっていう今日、圭ちゃんとケンカをした。厳密に言うと、圭ちゃんを怒らせてしまった。「おまえ帰れよ」と言われたその理由もわからないまま、圭ちゃんはソファの端で丸くなっている。
「圭ちゃん、ねえ、どうしたの。教えてくんないと、帰れないよ」
 ふたりでイチャイチャしながら作った料理が、テーブルの上で温度を失っていく。こんな簡単に、ぼくたちの過ごした三年の熱量が冷めていくなんて信じたくない。足掻け、ぼく。みっともなくていい。足掻いて、圭ちゃんと十三年めも二十三年めも、そのもっと先も一緒に迎えるために、足掻け。
「圭ちゃん、こっち見て」
 ソファに腰かけた身体が、圭ちゃんのいるほうへ少し傾く。ふたり分の体重を受け止めてきたやわらかなスプリングが、いつものぼくらの形に近づいた。頭からブランケットをかぶった圭ちゃんの表情は読めない。だけど、腰のあたりに触れたぼくの膝頭を、圭ちゃんが嫌がる気配はなかった。
 圭ちゃんに触れるときの正解はわからない。せっかくいい雰囲気になっても怒られるときはあるし、寸前まで素っ気ない態度を取っていたと思ったら急に甘えん坊になることだってある。ひとつだけたしかなのは、圭ちゃんのイエスとノーは、わかりやすいってことだけだ。
「圭ちゃん、今日、なんの日か知ってる?」
 ぼくの話なんか絶対聞いてやるもんか。そう圭ちゃんの背中が言っている。でも同時に、少し尖っている耳は、ぴくりと動いてぼくの声に集中していた。
「……猫の日だろ」
 やっぱりだ。ブランケットの向こうから返ってきた答えは、重くて、低くて、苦々しい声に乗っかっていたけれど、しっかり会話になっている。圭ちゃんは、ノーなときは徹底的にノーなのだ。これなら、いける。
「なあんでそんなに嫌そうかなあ」
 圭ちゃんは猫に好かれるタイプだ。地域猫に遭遇すれば向こうから勝手に寄ってくる。ぼくは動物に警戒されるたちなので、正直うらやましい。
「……おれは、猫は嫌いだ」
 ぎゅう、と音がしそうなくらいきつく、圭ちゃんは自分の膝を抱いた。ブランケットで濾された「嫌い」の言葉は、ほんの少しだけやわらかくなって、ぼくのところへ届く。
「ワガママだし、騒がしいし、自分のことしか考えてないし、すぐ太るし、気まぐれだし……とにかく、好きじゃない」
 つぶやく圭ちゃんのうしろ姿に、見えないはずの動物の耳としっぽが見える。どちらもしょんぼりと元気がなくて、いつもの威勢のいいようすからは想像がつかない。
「それって同族嫌悪?」
「ちげえよ。なんだよ同族嫌悪って」
 声を張りながら、圭ちゃんは振り向いた。幻覚として見えている耳としっぽが、一瞬でぶわっと大きくなる。これで本人に自覚がないのだから不思議だ。圭ちゃんは自分を人間と勘ちがいしている巨大な猫なのかもしれない。
「圭ちゃんはすごく猫っぽいと思うよ」
 ブランケットからはみ出した圭ちゃんの手に指先をくっつける。抵抗されなかったので、今度もイエスだ。そのまま手をつないで、圭ちゃんのしっとりした肌に親指を這わせる。怒った猫みたいに硬くなっていた身体から、少しずつ緊張が抜けていくのが皮膚を伝わってわかった。
「ワガママで、おバカさんで、騒がしくて、自己中で、すぐ太って、気まぐれで、ちょっとおバカさんなのが猫なんでしょ? 圭ちゃんそのものじゃん」
「バカって二回言ったな?」
 はあ。笑みが混じったため息と一緒に、ブランケットにくるまれていた上半身がくるりとこちらを向いた。いける。大丈夫。今日の圭ちゃんはイエスマンだ。
「ねえ、今日がなんの日か知ってる?」
 なー。鳴き声がして、圭ちゃんと手をつないだそのすぐ横、ぼくの脚の隙間に猫がするりとやってくる。ふたり分プラスちょっとおデブな猫一匹分。その体重を支えるソファが、いつもの形にくにゃりと歪んだ。
「今日はね、圭ちゃんとケンカして仲直りする日だよ」
 なー。圭ちゃんの脚に顔をくっつけて、猫がすりすりと頬をこする。見おろす圭ちゃんの表情は、もうっすかり絆されていた。
「ほら、ぽにょも仲直りしようって言ってる」
 なー。有名な映画のキャラクターに似ていたから名付けたその名前は、呼ぶだけでぼくたちにしあわせを与えてくれる。圭ちゃんと、ぽにょ。このふたつの命と名前は、ぼくにとっての魔法だ。
「……あんまり、ぽにょに構うな」
 唇を尖らせて、圭ちゃんが言う。不本意なんだろう、背けられた顔がかわいくて、勝手に頬がゆるんでしまう。
「うん? それは、圭ちゃんをもっと構えっていうリクエスト?」
 からかいたくなって、首を傾けながら問いかけた。それに圭ちゃんは、ちげえよ、と断固とした声で答える。
「ぽにょも、おまえも、おれのものだろ」まっすぐ見つめる切れ長の瞳が、まるで猫みたいだ。そんな感想の端っこから、圭ちゃんのびっくり台詞が飛んでくる。「おれを蚊帳の外にするな……ふたりとも嫌いになる」
「わあ!」
 なー。ぼくの大声に、ぽにょが非難の声を上げた。最近足しげく通った圭ちゃんの部屋で、もしかしたらぼくは、圭ちゃんよりぽにょのほうを構いすぎていたかもしれない。だってかわいいのだ。
「なんだよ」
 圭ちゃんとぽにょへの愛に、優劣なんかない。それはきっと、圭ちゃんだってわかっている。わかっていても文句を言いたいのが、ワガママで、おバカさんで、騒がしくて、自己中で、すぐ太って、気まぐれで、ちょっとおバカさんな圭ちゃんだ。
「ぽにょ、おまえのご主人さまはかわいいなあ」
 なー。その鳴き声が肯定を意味するものなのか、正確なところはわからない。
「はあ? ぽにょのほうが圧倒的にかわいいだろうが」
 なー。でもぽにょは、圭ちゃんのこの言葉には、たぶん同意したのだろう。
「さっきまで猫は嫌いだ、とか言ってたくせに」
 なー。ぽにょが鳴くのに合わせて、ぼくも似た声を出す。
 圭ちゃんと付き合うようになって、もうすぐ三年。ぼくと付き合う寸前に圭ちゃんに拾われたというぽにょとも、もう三年も一緒にいる。文字どおりかけがえのない、大事なだいじな三年だ。
 完全に機嫌が直った圭ちゃんが、ぽにょを抱いて頬ずりする。
「ごめんな、ぽにょ。嫌いなんて言って。こいつの愛が重すぎるんだわ。おれのことも、おまえのことも、大好きで仕方ないんだってさ」
「おっしゃるとおりです」
 三のつく区切りはこわい。十三年めも、二十三年めも、その先もきっと、ずっとこわい。でもまあ圭ちゃんとぽにょとなら、ああ駄目だって思ったときでも、なんとかなるかなって思える。
「あー、しあわせだなあ」
 ぽにょの低い鼻先を指でくすぐる。その戯れにぽにょが夢中になっている隙をついて、圭ちゃんの唇にキスをした。
「なんだそれ」
 こちらを見る切れ長の瞳が、合計四つ。そのまなざしに乗せられた愛情の色に、一生大事にしようと誓う。なんて言ったってぼくは、猫さまたちの家族なのだ。
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