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白と黒と金の
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大雪警報が出たその晩、この町のひとびとが寝てから起きるまでの間に、五十センチの雪が積もった。生まれてから十七回、きっちり毎年見てきた光景なのに、枕元の障子戸を開ける朝は、いつだって心が踊る。見渡す限り白しか存在しない世界は、実際触れるときの温度に反してほわほわと暖かそうに見えた。その「ほわほわ」が、これまでの十六回の冬よりもずっと、やわらかく輝いて見える理由を、おれは知っている。
一瞬で生まれ変わる世界。昨日までとはちがう、おれ。
「――なあ、待てって」
後ろから追いすがる声がした。振り返ると、踊るように舞う雪の向こうに黒い塊が見えた。学生服にダウンにマフラー、すべてに黒を選んだそいつは、これまた黒い頭の上に雪をこんもりと乗せて、雪のなかを歩いている。
「待ってって。おれはシティボーイなんだからさ」
雪に穴をあけるように、膝の上まで積もった雪に足を突っ込みながら、一歩一歩前へ進む。足首までを覆うハイカットのスノーブーツはもうびっしょりだ。ずっと雪が降り、道路からは地下水が飛び出し、吐く息が白く染まるこの町で、乾燥しているのは唇くらいかもしれない。
「どこいくの。なあ。待てって」
背中に雪玉の形をした声が投げつけられている。そんな錯覚を覚えながら、聞こえないふりをして吹雪のなかをいく。こんな酷い天気の日に連れ出されたら、文句のひとつも言いたくなるだろう。おれは「学校サボる」と言っただけで、後ろのあいつが「じゃあおれも」と後をついてきたのだけど。
「なあ。なんでいきなり金パツ?」
ぽてん。やわらかく握られた雪玉に似た声が、背中に当たる。昨日、親にも内緒で髪の色を抜いた。風呂場で、ドラストで買ったブリーチ剤で、頭皮をピリピリと痛めながら、おれは金髪を手に入れた。
「金パツとかさあ。おまえらしくないじゃん」
一瞬で生まれ変わる世界。昨日までとはちがう、おれ。
はあ、と息を吐く。湿気をまとった呼気は、すぐに白い雲になって吹雪にさらわれていった。短い前髪の先が凍っているのがわかる。おでこに当たって、肌から温度を奪っていく。その色が、おれらしくないらしい。
おれらしくない、てなんだろう。ちら、と後ろを振り返る。「なあ」と、もう声さえ聞こえないほどの吹雪のなかで、それでもその真っ黒な姿は輝いていた。そのきらきらが胸に刺さって、心臓をぐさぐさと刺していく。
おまえらしくないじゃん。そう言うけど、おれたち、はじめて会ってからまだ二か月だよ。おまえ、おれのなにを知ってんの。
おれだって、おまえのなにを知ってんの。なにを知って、こんな気持ちになってんの。
たとえば、東京からきた転校生だってこと。学ランのボタンのデザインが少しちがうこと。手の甲にちいさなほくろがあること。ニキビを気にしているから、体育のあとは保健室で顔を洗っていること。勉強はあんまり得意じゃないけど、漫画で得た知識がたくさんあること。机に座っているときの猫背がおっきくて、そこに触れたいと思うこと。おれなんかのこと、友だちだって言ってくれること。
転校生がやってきて、おれの世界はぜんぶ変わった。一晩で雪が世界を覆いつくすみたいに、あっという間に変わった。もう、知らないおれには戻れない。
「なんでなにも言わないんだよ」
金髪になっても、まだおれたちは友だちだろうか。クラスのなかでもちょっと微妙な立ち位置にいるおれが、急に汚い金色に髪を染めたことは、この町ではすぐ噂になる。変わっていることは許されない。だからおれは、おれの気持ちは、きっとだれにも許されない。
田んぼの真ん中、真っ白な雪と、黒い塊がふたつ。片方の頭は黒で、片方の頭は汚い金色。色はいつまで記憶に残るのか、おれはまだ十七年しか生きていないから、あんまりよくわからない。クリスマスの、大雪の日に、ふたりで学校をサボったら、おれたちはこの記憶をずっと共有して、せめてずっと友だちでいられるだろうか。
「なあ、雪こわいって。帰ろうよ」
どごん。次に背中に当たったのは、恐怖で硬く締った雪玉の声だった。ずんずん進んでいた足を止めて、身体ごと後ろに向きなおる。吹雪がいっそう強くなって、黒い塊が粒々のモザイクみたいに見えた。モザイクがかかったほうが輪郭を強く感じるなんて知らなかった。教えてくれたのは、あいつがはじめてだ。
「……ずっと、このままならいいのに」
絶対聞こえない吹雪のなか、絶対聞こえない声のおおきさで呟く。自分の気持ちを言うだけで、こんなに胸が痛くて、顔が熱くて、身体に力が入って、泣きそうになるなんて。知らなかった。ぜんぜん知らなかった。
「なんか言ったあ!?」
黒い塊が少しずつ近づいてきて、モザイクの粒々が細かくなる。雪に閉ざされた世界にいられたら、おれたちは、ずっとふたりでいられるのかもしれない。それでもいい、と思う夜も、正直あったりする。たとえば、昨日とか。
――びゅう。強い、つよい一陣の風が吹いて、次の瞬間、吹雪が止んだ。
「わ、晴れた」
黒い塊だったシルエットが、急に人間の形をして現れる。目の前に立つその姿を見て、さっき言った言葉より、鮮烈な「好き」が、全身を支配した。
「……なあ、なんで待ってくんないの?」
背が高いこと。髪がやわらかくてちょっと長いこと。いつも口の端が片方だけ上がってること。斜めに立つこと。首を傾ける癖があること。
一瞬で生まれ変わる世界。昨日までとはちがう、おれ。
「そうしたかったから。でも」
「でも?」
「なんか、どうでもよくなった」
「ははは、なにそれ! おまえらしいわ」
身体じゅうに雪の欠片をつけて、ふたりで笑った。ずいぶん進んでいた気がしたのに、立っていたのは畔道のはじまりのほうで、「雪ってこわい」と、またふたり顔を見合わせて笑った。世界は、これまで過ごした十六回の冬よりずっと、きらきらしていた。
一瞬で生まれ変わる世界。昨日までとはちがう、おれ。
「――なあ、待てって」
後ろから追いすがる声がした。振り返ると、踊るように舞う雪の向こうに黒い塊が見えた。学生服にダウンにマフラー、すべてに黒を選んだそいつは、これまた黒い頭の上に雪をこんもりと乗せて、雪のなかを歩いている。
「待ってって。おれはシティボーイなんだからさ」
雪に穴をあけるように、膝の上まで積もった雪に足を突っ込みながら、一歩一歩前へ進む。足首までを覆うハイカットのスノーブーツはもうびっしょりだ。ずっと雪が降り、道路からは地下水が飛び出し、吐く息が白く染まるこの町で、乾燥しているのは唇くらいかもしれない。
「どこいくの。なあ。待てって」
背中に雪玉の形をした声が投げつけられている。そんな錯覚を覚えながら、聞こえないふりをして吹雪のなかをいく。こんな酷い天気の日に連れ出されたら、文句のひとつも言いたくなるだろう。おれは「学校サボる」と言っただけで、後ろのあいつが「じゃあおれも」と後をついてきたのだけど。
「なあ。なんでいきなり金パツ?」
ぽてん。やわらかく握られた雪玉に似た声が、背中に当たる。昨日、親にも内緒で髪の色を抜いた。風呂場で、ドラストで買ったブリーチ剤で、頭皮をピリピリと痛めながら、おれは金髪を手に入れた。
「金パツとかさあ。おまえらしくないじゃん」
一瞬で生まれ変わる世界。昨日までとはちがう、おれ。
はあ、と息を吐く。湿気をまとった呼気は、すぐに白い雲になって吹雪にさらわれていった。短い前髪の先が凍っているのがわかる。おでこに当たって、肌から温度を奪っていく。その色が、おれらしくないらしい。
おれらしくない、てなんだろう。ちら、と後ろを振り返る。「なあ」と、もう声さえ聞こえないほどの吹雪のなかで、それでもその真っ黒な姿は輝いていた。そのきらきらが胸に刺さって、心臓をぐさぐさと刺していく。
おまえらしくないじゃん。そう言うけど、おれたち、はじめて会ってからまだ二か月だよ。おまえ、おれのなにを知ってんの。
おれだって、おまえのなにを知ってんの。なにを知って、こんな気持ちになってんの。
たとえば、東京からきた転校生だってこと。学ランのボタンのデザインが少しちがうこと。手の甲にちいさなほくろがあること。ニキビを気にしているから、体育のあとは保健室で顔を洗っていること。勉強はあんまり得意じゃないけど、漫画で得た知識がたくさんあること。机に座っているときの猫背がおっきくて、そこに触れたいと思うこと。おれなんかのこと、友だちだって言ってくれること。
転校生がやってきて、おれの世界はぜんぶ変わった。一晩で雪が世界を覆いつくすみたいに、あっという間に変わった。もう、知らないおれには戻れない。
「なんでなにも言わないんだよ」
金髪になっても、まだおれたちは友だちだろうか。クラスのなかでもちょっと微妙な立ち位置にいるおれが、急に汚い金色に髪を染めたことは、この町ではすぐ噂になる。変わっていることは許されない。だからおれは、おれの気持ちは、きっとだれにも許されない。
田んぼの真ん中、真っ白な雪と、黒い塊がふたつ。片方の頭は黒で、片方の頭は汚い金色。色はいつまで記憶に残るのか、おれはまだ十七年しか生きていないから、あんまりよくわからない。クリスマスの、大雪の日に、ふたりで学校をサボったら、おれたちはこの記憶をずっと共有して、せめてずっと友だちでいられるだろうか。
「なあ、雪こわいって。帰ろうよ」
どごん。次に背中に当たったのは、恐怖で硬く締った雪玉の声だった。ずんずん進んでいた足を止めて、身体ごと後ろに向きなおる。吹雪がいっそう強くなって、黒い塊が粒々のモザイクみたいに見えた。モザイクがかかったほうが輪郭を強く感じるなんて知らなかった。教えてくれたのは、あいつがはじめてだ。
「……ずっと、このままならいいのに」
絶対聞こえない吹雪のなか、絶対聞こえない声のおおきさで呟く。自分の気持ちを言うだけで、こんなに胸が痛くて、顔が熱くて、身体に力が入って、泣きそうになるなんて。知らなかった。ぜんぜん知らなかった。
「なんか言ったあ!?」
黒い塊が少しずつ近づいてきて、モザイクの粒々が細かくなる。雪に閉ざされた世界にいられたら、おれたちは、ずっとふたりでいられるのかもしれない。それでもいい、と思う夜も、正直あったりする。たとえば、昨日とか。
――びゅう。強い、つよい一陣の風が吹いて、次の瞬間、吹雪が止んだ。
「わ、晴れた」
黒い塊だったシルエットが、急に人間の形をして現れる。目の前に立つその姿を見て、さっき言った言葉より、鮮烈な「好き」が、全身を支配した。
「……なあ、なんで待ってくんないの?」
背が高いこと。髪がやわらかくてちょっと長いこと。いつも口の端が片方だけ上がってること。斜めに立つこと。首を傾ける癖があること。
一瞬で生まれ変わる世界。昨日までとはちがう、おれ。
「そうしたかったから。でも」
「でも?」
「なんか、どうでもよくなった」
「ははは、なにそれ! おまえらしいわ」
身体じゅうに雪の欠片をつけて、ふたりで笑った。ずいぶん進んでいた気がしたのに、立っていたのは畔道のはじまりのほうで、「雪ってこわい」と、またふたり顔を見合わせて笑った。世界は、これまで過ごした十六回の冬よりずっと、きらきらしていた。
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