上 下
3 / 4

祈りに意味などないわけなくて

しおりを挟む
 家のドアを開けて、駅の前を通りすぎて、てくてく歩いてだいたい五分くらい。部屋を借りるときの決め手になったいつものラーメン屋は、普段と変わらず行列ができていた。券売機で『豚骨醤油ラーメン』の食券を買って、店舗の壁に沿う行列の最後尾に並ぶ。「今夜は寒気が流れ込み、広い範囲で雪になるでしょう」。テレビで気象予報士が言っていたとおり、コートとパーカーの隙間を縫って、北風が素肌を撫でる。
 スマートフォンを眺めるためだけに、寒空の下へと指先をさらす気にはなれなかった。列に連なるほかの客には連れがいて、おれはひとりポケットに手を入れて、乾いたアスファルトをじっと見ていた。頭上で光る店の看板に照らされて、足もとにひとつの影が伸びる。となりにいるはずの存在がそこにないだけで、冬の寒さはいっそう厳しく感じる。ぽっかり空いた身体の右側に集中した意識が、より身体の芯を冷やしていった。
「お客さま、順番前後してもよろしいでしょうか」
「ああ、はい」
「では二番目にお待ちのお客さま、カウンターのお席へどうぞ」
 目の前のグループを追い越して、あたたかい店内へと招かれる。一番奥の席について深呼吸をしたとたん、豚骨の香りをまとった、脂っぽい湯気が肺を満たした。最高だ、ともう一度息を吸い込む。同時に、その湯気の向こうに慣れ親しんだ香水のにおいがないことに胸がチリ、と震えた。食事の邪魔になると何度も文句を言ったその香りにさえ、ひとは感情のスイッチを見いだすことができるらしい。
 ラーメンを待つあいだ、横目で店内を見まわした。小鉢に分けてもらったラーメンをすする子どもとそれを見つめる大人、おれと同じくひとりでラーメンに向き合う作業着姿のひと、学生風のグループと、カウンターの横には男女がひとりずつ。その奥から、ラーメン鉢を両手に持った店員がやってくる。
「お待たせしましたー、豚骨醤油おふたつです」
「わー! おいしそうですね」
「でしょ。さ、はやく食べちゃおう」
 横に座る男女は、それぞれスーツを身に着けていた。律儀に手を合わせて、「いただきます」と声を揃える。そういえば、香水のにおいをさせていた主も、食事の前後には必ずあいさつをしていた。湯気越しに聞こえるその声を、おれはどんなときでも愛していた。
「後ろから失礼しまーす、豚骨醬油ラーメンです」
「ありがとうございます」
 ごとん。重量感のある音を立てて、目の前にラーメンが置かれた。ごゆっくりどうぞ、の笑顔とともにラーメンを運んできた店員が去っていってから、食事に向き合う。食べる前でも、この幸福な食べものの味を知っている。すこし白濁した茶色のスープ、ざくざくのメンマと、とろとろのチャーシュー、細くて四角い麺がその下で箸に掬われるのを待っていた。「いただきます」と、声に出してつぶやく。
「――うわ、うまい」
「ね! やっぱり間違いないわ、この店」
 となりの男女が一足先に感想を言い合う声がした。追いかけるように、おれもスープをすする。唇につくこってりした脂と、舌を流れていく絶妙な濃さの塩分が、冷えた腹に落ちていった。うまい。間違いなく、いつものように変わらず、百点満点のうまさだ。麺を口にめいっぱい入れて、鉢から連れてきたスープといっしょに噛む、この瞬間の幸せは、なにものにも代えがたい。
「チャーシューもうまいすね。肉っぽいのにやわらかくて、不思議な感じ」
「わかる。がんばった案件のあととか、わたしチャーシュー麺にしちゃうくらいだもん」
 おれもとなりにならって、チャーシューを舌の上に放りこむ。口に入れたそばから、肉の繊維がほろほろと崩れていった。解けた麻のひもみたいにふわふわになった肉が、染みこんだタレの味をにじませる。そのタレがレンゲで掬ったスープと混じって、また別の最高を連れてくる。
 ず、ず。はふ、はふ。かちゃ、かちゃ。はあ、はあ。店のなかに会話がないラーメン屋は、それだけで店のクオリティを表現している。おれが今食っているラーメンも、となりの男女が食っているラーメンも、過不足なく、不変のうまさでそこにある。この味が、ずっとここにあればいいと願わずにはいられない。
 そして、この豚骨醬油のにおいを邪魔する香水のにおいが、ここにあったらいいのにと、思わずにはいられない。
 レンゲでちまちまと掬うのも惜しくて、器を持って口をつける。飲み切ったスープのあとには、ぽろぽろとやわらかな骨の粒だけが底に残った。舌で触れた唇がべとべとだ。でも、この唇で交わすキスは、どんなときより気持ちよくて、幸せだった。そんな記憶ばかりが、不在の右側をくっきりとさせていく。
 ごちそうさまでした、とおれが箸を置くのと同時に、となりの男女もあたたかなため息をついた。
「はあー。うまかったです。いいすね、大晦日にラーメン」
「うん、よかった。人生初、大晦日ラーメン」
 カウンターの隅には日めくりのカレンダーが置いてある。二〇二三年、十二月三十一日、日曜日。朱色で印刷されたその文字が、今日という日の特別さを際立たせる。
「でも、小町さんこの店よくくるんですよね」
「くるよー。いつもひとりでくるの」
「わかります、ラーメンて急にひとりで食べたくなるときがある」
 カウンターに用意された箱からティッシュを引き抜いて、唇を拭う。もう一枚拝借して、今度はカウンターに落ちたスープの点々を拭いた。
「ひとりで対峙したいんだよね」
 ひとりで対峙したい。その価値が、ここのラーメンにはあると思う。引っ越しのために内見をしたとき、この店に出会ってしまったから、おれは今この街に住んでいる。
「でも今日は、向井くんといっしょでよかったよ」
 女性が、はっきりした口調で言った。ひとりで対峙したいラーメンに、今日はきみがいてよかった。そんなふうに思える相手には、一生で何人出会えるだろう。
「――おれも、小町さんといっしょでよかったです」
 そこまで聞いて、席を立つ。ラーメンを食べたい。ときにはひとりで、だけどほんとうはふたりで。店の外に出たら、もうあたたかな空気は待っていない。コートとパーカーの上から、北風が肌を撫でていく。
 ラーメンを食べる前は冷たかった指先が、じんわり熱を持っている。スマートフォンを取り出して、店のダクトの下に立った。寒さに肩を竦めながら、降ってくる豚骨の香りで暖を取る。テケテケテテン、テケテケテテン。出るかもしれない、出ないかもしれない。賭けみたいなこの行為の長さを、呼び出し音の回数がしっかりと教えてくれる。
『――もしもし』
 出た、と思ったら、力が抜けた。急に風が寒くなくなって、右側にぽっかりあった空白を、豚骨の香りが埋めていく。
「おつかれ?」
『はは、なんで疑問形?』
 ダクトから漏れる豚骨のにおい、その向こうから感じる香水の香り。すぐそばにいなくたって、鼻が、頭が、心臓が、肌が、そのノートを覚えている。
「疲れてないかも、と思って」
『疲れたよ。大みそかまで仕事ってないよね』
「たしかに」
 今朝、嫌そうに出勤していった背中をベッドから見つめていた。掛布団から出ていくその身体にそっと手を触れて、「がんばれ」と声をかけた。それから、だいたい十時間くらい経っただろうか。
『それで? なあに、電話なんかしてきて』
 耳をくすぐる声がひどく甘くて、脳みそに絡みつく。頭蓋骨のなかでとろとろになっていく脳を想像しながら目をつむった。そのまま全身が溶けてしまいそうだ。自宅だったら、まぶたを閉じたとたんに心地よさで眠ってしまったかもしれない。
「――ほんとうにおいしかったです。教えてもらえてよかった」
 背後から気配がした。振り返るとさっきの男女が店から出てきたところで、あいさつをする声が聞こえてくる。
「じゃあ、向井くん、わたしはここで」
「はい。お疲れさまでした、よいお年を」
「よいお年を」
 丁寧に頭を下げて、ふたりはそれぞれ反対の道へと歩いていった。様になっていたきれいなスーツはきっと、この店の豚骨の香りをまとったまま、クリーニング店へ持っていかれるにちがいない。
『ねえ、聞いてる? なんで電話してきたの』
 口を尖らせてふてくされている声がする。電波に乗っている成分だけなのに、あいつの姿を鮮明に思い浮かべることができるのは、おれのひとつの才能だろう。豚の脂でやわらかくなった唇を舐めて、想像する。
「ラーメン食ってるおまえ、見たいなあって思ってさ」
『一緒に食べるんじゃなくて?』
「おれはもう食ったから」
 胃のなかはずっしり重くて、でもぜんぜん不快じゃなかった。その重さが、錨みたいにおれをこの世界にとどめてくれる。地獄にも落ちない。天国にも昇らない。地球の、地上の、アスファルトの上に、ちゃんと立てるようにしてくれる。
『はは、ひどいね。待っててくれなかったんだ』
「食ってたら、おまえに会いたくなったんだよ」
 電気信号になった声が、くつくつと笑う音がする。のどの奥で噛み殺しているような笑いかたが、愛おしくてくすぐったい。
『これからふたりで年越しするのに待てなかったの?』
「……待てなかったから、電話してるんですよ」
 ひとりで食べるラーメンは最高だ。でもふたりで食べるラーメンは、きっともっと最高だ。この街にはじめて降りたった内見の日、ふたりで入ったラーメン屋が、この街での生活のきっかけになったように。ときにはひとりでもいいけれど、やっぱりおれは、ふたりでいたかった。
『なあにそれ。かわいいなあ。食べちゃいたい』
「おれはいいからラーメン食ってくれ。はやくしないと店閉まる」
『はいはい。仰せのとおりに。走っていくからこのまま話してて』
 はあ。空に向かって吐き出した息が白い雲になる。舌に残る豚骨醤油の香りが、これからくるあいつの口のなかにも広がるのを想像したら、どうしようもなく幸せで、どうしようもなく泣きたくなった。
 よいお年をお迎えください。って、いい言葉だ。神さまとか仏さまとか、もしこの世界に存在するなら、たぶん、おれは間違いなく、いい年を迎えると思う。だって電話をしながら、おれの前でラーメンを食べるために走ってくれるひとがいる。
『あ、』
「どうした?」
『雪降ってきた』
「え――あ、」
『うん?』
「こっちも、降ってきた」
 ひらひら、ふわふわ。今にも消えそうな雪の欠片が空から降ってくる。これくらいのやさしさで、これくらいの儚さで、誰のもとにも幸せがやってきたらいい。
 いつもひとりでラーメン食ってる小町さんにも、彼女とラーメン食ってた向井くんにも、あのひとにも、あのひとにも、あのひとにも。よい年が訪れますように。どうか。どうか。
しおりを挟む

処理中です...