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10.うまくいったりいかなかったり
10-①
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「あら、学校いくの」
玄関で靴紐を結んでいると、母親が顔を出して不思議そうに首を傾げた。久しぶりに見た俺の制服を、眩しそうな目で見ている。
「友達に会ってくる」
上がり框から腰を浮かせて振り返ると、母はうれしそうに笑った。訊きもしないし、向こうから言ってくることもないけれど、このひとはきっと、美奈子があのパン屋で働いていることを知っていて俺に買い物を頼んだのだ。美奈子に会ってからも考えこんでいる俺を、心配していたに違いない。そんな母の不安が晴れるくらいには、いま自分はすっきりした顔をしていると感じた。
「いってきます」
自転車を走らせて、田んぼ道を通りすぎていく。気づいたら稲が穂を出しはじめて、すこしふわふわしたシルエットに変わっていた。時間は必ず流れていく。そうして確実に、なにかが変わっていくのだ。
久しぶりの教室にはだれもいない。あたりまえだ。今日はまだ夏休み中で、部活をしている生徒はほとんど外か、特別教室のある棟にいる。
電気をつけているのに、窓から射す光で室内が暗くなるような天気だった。じっとしていても肌が汗で湿る暑さは半袖の俺にも堪えた。長袖ではなおのこと暑いだろう。冷房の電源を入れて、決められている温度より低く設定する。
「ごめん、待った?」
冷気が教室全体をおおうころ、廊下を走る音が聞こえて、シュウがドアから顔を覗かせた。息を弾ませた姿に笑って首を振る。あたりまえだけれど、予想どおりシュウは長袖だった。
シュウにメールを打ったのは、美奈子と会ってから三日後のことだった。学校で会いたいと言った俺に、シュウはすぐに快い返事をくれた。避けられなかったことに、まずは安堵を覚えた。
窓際にある自分たちの席に座る。ふたりとも廊下のほうを見て、横向きに並んだ。球技大会の日から、何回もこうして時間をすごした。シュウはいつでもおなじ気持ちで俺といたかもしれない。でも俺は今日、これまでとはちがう決意を持ってシュウに会いにきていた。
緊張で、心臓が飛び出てしまいそうだった。俺の気持ちを知ってか知らずか、シュウは俺が話しだすのをやわらかく笑って待っている。座りなおして、シュウのほうをまっすぐ見た。
「あのさ」
捻り出したことばは、すこし掠れてしまった。ひざのうえで合わせた手のひらに、しっとりと汗をかく。うん、とこちらを見たシュウが静かに答えた。
「俺、シュウのこと、すごいって言ったじゃん」
すごい、と言った瞬間、シュウの顔がさっと強張る。その反応は想定内だった。
「あれ、謝りたくて」
そう言うと、シュウは驚いたような表情を見せた。こんな顔をされるとは、思っていなかった。俺はシュウの信用を、一度失ってしまったのだということが、その表情から伝わってくる。あごをくっと引いて、息を吸いこむ。
「すごくなんて、ないよな」
自分でもわかる。こんなにやわらかい声を出したことは、これまで一度だってなかった。出そうと思ったことも、なかった。シュウに伝えたくて、俺の気持ちが届いたらいいと願って、慎重にことばを紡いでみる。
「ほんとはすごくなんてないよな。どうしようもなくなって、でもだれにも言えなくて、自分のなかでぐるぐるしてるしかないんだもんな」
美奈子に会ってから、考えたすえにいきついた答えだった。ひとりで耐えることの、なにがすごいと言うのだろう。俺は、また逃げようとしていたのだ。知ろうともしないで、気づこうともしないで。
「お前は、強くなんてないよな」
シュウの顔が、みるみる歪んでいく。焦げ茶色の目がうるんで、いまにも溢れだすんじゃないかと思った。
「笑ってるの、しんどいよな」
頭のなかを、いつものシュウの笑顔がとおりすぎていく。うまく笑えていない、胸のうちを隠すような笑顔。でもいま目の前にあるのは、そんな仮面はどこにもない、そのままのシュウだった。
「……そうだよ。俺、すごくなんかない」
震える息を吐きだして、シュウが口を開く。太陽が雲に隠れたのか、俺とシュウのいる場所だけが暗くなった。
「へらへら笑って、しんどいも言えない。強くなんか、ないんだ」
シュウののどが、ぐうと変な音を出す。強く唇を噛んで、泣くのを堪えているようだった。
「……ごめん。シュウの腕のこと、知りたがったくせに、ちゃんと向き合えなかった」
雲が切れて、俺とシュウが光のしたにさらされる。シュウの長袖のシャツが、白く光っていた。
「今度は、シュウのこと、受けとめたい」
ひとが泣いている姿を見ると、どうしてこちらも泣きたくなってしまうのだろう。シュウは、うつむいてしずかに涙を流していた。しずかだけれど、かつての美奈子とおなじ、身体に溜まった澱をぜんぶ吐きだすみたいな泣きかただった。
俺が泣いてはいけないと思った。そっとシュウの背中に手を伸ばす。触れるとその肩はぴくりとしたけれど、拒絶しようとはしなかった。シュウの呼吸に合わせて、手のひらで背を撫でる。シュウの身体はあたたかくて、ちいさく震えていた。
玄関で靴紐を結んでいると、母親が顔を出して不思議そうに首を傾げた。久しぶりに見た俺の制服を、眩しそうな目で見ている。
「友達に会ってくる」
上がり框から腰を浮かせて振り返ると、母はうれしそうに笑った。訊きもしないし、向こうから言ってくることもないけれど、このひとはきっと、美奈子があのパン屋で働いていることを知っていて俺に買い物を頼んだのだ。美奈子に会ってからも考えこんでいる俺を、心配していたに違いない。そんな母の不安が晴れるくらいには、いま自分はすっきりした顔をしていると感じた。
「いってきます」
自転車を走らせて、田んぼ道を通りすぎていく。気づいたら稲が穂を出しはじめて、すこしふわふわしたシルエットに変わっていた。時間は必ず流れていく。そうして確実に、なにかが変わっていくのだ。
久しぶりの教室にはだれもいない。あたりまえだ。今日はまだ夏休み中で、部活をしている生徒はほとんど外か、特別教室のある棟にいる。
電気をつけているのに、窓から射す光で室内が暗くなるような天気だった。じっとしていても肌が汗で湿る暑さは半袖の俺にも堪えた。長袖ではなおのこと暑いだろう。冷房の電源を入れて、決められている温度より低く設定する。
「ごめん、待った?」
冷気が教室全体をおおうころ、廊下を走る音が聞こえて、シュウがドアから顔を覗かせた。息を弾ませた姿に笑って首を振る。あたりまえだけれど、予想どおりシュウは長袖だった。
シュウにメールを打ったのは、美奈子と会ってから三日後のことだった。学校で会いたいと言った俺に、シュウはすぐに快い返事をくれた。避けられなかったことに、まずは安堵を覚えた。
窓際にある自分たちの席に座る。ふたりとも廊下のほうを見て、横向きに並んだ。球技大会の日から、何回もこうして時間をすごした。シュウはいつでもおなじ気持ちで俺といたかもしれない。でも俺は今日、これまでとはちがう決意を持ってシュウに会いにきていた。
緊張で、心臓が飛び出てしまいそうだった。俺の気持ちを知ってか知らずか、シュウは俺が話しだすのをやわらかく笑って待っている。座りなおして、シュウのほうをまっすぐ見た。
「あのさ」
捻り出したことばは、すこし掠れてしまった。ひざのうえで合わせた手のひらに、しっとりと汗をかく。うん、とこちらを見たシュウが静かに答えた。
「俺、シュウのこと、すごいって言ったじゃん」
すごい、と言った瞬間、シュウの顔がさっと強張る。その反応は想定内だった。
「あれ、謝りたくて」
そう言うと、シュウは驚いたような表情を見せた。こんな顔をされるとは、思っていなかった。俺はシュウの信用を、一度失ってしまったのだということが、その表情から伝わってくる。あごをくっと引いて、息を吸いこむ。
「すごくなんて、ないよな」
自分でもわかる。こんなにやわらかい声を出したことは、これまで一度だってなかった。出そうと思ったことも、なかった。シュウに伝えたくて、俺の気持ちが届いたらいいと願って、慎重にことばを紡いでみる。
「ほんとはすごくなんてないよな。どうしようもなくなって、でもだれにも言えなくて、自分のなかでぐるぐるしてるしかないんだもんな」
美奈子に会ってから、考えたすえにいきついた答えだった。ひとりで耐えることの、なにがすごいと言うのだろう。俺は、また逃げようとしていたのだ。知ろうともしないで、気づこうともしないで。
「お前は、強くなんてないよな」
シュウの顔が、みるみる歪んでいく。焦げ茶色の目がうるんで、いまにも溢れだすんじゃないかと思った。
「笑ってるの、しんどいよな」
頭のなかを、いつものシュウの笑顔がとおりすぎていく。うまく笑えていない、胸のうちを隠すような笑顔。でもいま目の前にあるのは、そんな仮面はどこにもない、そのままのシュウだった。
「……そうだよ。俺、すごくなんかない」
震える息を吐きだして、シュウが口を開く。太陽が雲に隠れたのか、俺とシュウのいる場所だけが暗くなった。
「へらへら笑って、しんどいも言えない。強くなんか、ないんだ」
シュウののどが、ぐうと変な音を出す。強く唇を噛んで、泣くのを堪えているようだった。
「……ごめん。シュウの腕のこと、知りたがったくせに、ちゃんと向き合えなかった」
雲が切れて、俺とシュウが光のしたにさらされる。シュウの長袖のシャツが、白く光っていた。
「今度は、シュウのこと、受けとめたい」
ひとが泣いている姿を見ると、どうしてこちらも泣きたくなってしまうのだろう。シュウは、うつむいてしずかに涙を流していた。しずかだけれど、かつての美奈子とおなじ、身体に溜まった澱をぜんぶ吐きだすみたいな泣きかただった。
俺が泣いてはいけないと思った。そっとシュウの背中に手を伸ばす。触れるとその肩はぴくりとしたけれど、拒絶しようとはしなかった。シュウの呼吸に合わせて、手のひらで背を撫でる。シュウの身体はあたたかくて、ちいさく震えていた。
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