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9.邂逅
9-②
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「……あ、きら、くん」
ギンガムチェックのエプロンをして、美奈子がそこに立っていた。長かった髪があごのところで切りそろえられていて、ずいぶん大人びたように見える。
とっさに彼女の腕を見ると、そこは長袖のカーディガンにおおわれていた。シュウの白い背中が目に浮かぶ。美奈子は、その腕にまだ秘密を持っているのだ。
「あら、剣持さんのところの」
店の奥から、恰幅のいい女性が顔を出した。この町で知らないひとを見つけるほうが至難の業だ。このパン屋の息子はひとつうえの先輩だったし、俺を知らないわけがない。
「……っ、あの」
うつむいていた美奈子が、突然おおきな声を出す。この場で、美奈子がことばを発するとは予想していなかった。圧倒されている俺に視線をやりながら、女性に向かって頭をさげる。
「いま、休憩入ってもいいですか。その、彼と、話がしたくて」
美奈子の必死な様子に、女性はなにかを察したようだった。きっと美奈子はあいかわらず真面目なのだろう。彼女の頼みをめずらしそうに見ながら、でもあたたかく女性は受け入れた。
「いいよ、いっておいで」
「ありがとうございます……!」
まだ呆気にとられている俺の前で、話はどんどん進んでいた。美奈子がエプロンを外し、いったん店の奥に消えたかと思うと再び姿を見せる。
「あ、あの、明くん。話、いいかな」
レジを出て近づいてきた彼女は、やはり華奢で、夏だというのに肌が白かった。
「……うん」
付き合っていたころとなにも変わらない、つまり最後に会ったときとはずいぶん変わった美奈子の様子に、俺は驚いていた。今度会ったときには、ひどく罵られても仕方ないと思っていたのに。
公園にいこう、と美奈子はそう言って、俺の前をずんずん歩いていた。七分丈のパンツからすっと伸びるふくらはぎが、光を弾いている。さっき土手からパン屋にくるまでに通った道を、ふたりで戻っていく。春には桜が、初夏には菖蒲が咲く公園に入ると、東屋のベンチに腰をおろした。ひとがひとり座れる距離の半分をあけて、美奈子のとなりに座る。あたりは真昼の陽射しで、芝生がまぶしく光っていた。屋根があってよかった。こんなにも燦々と輝く太陽のしたにいたら、美奈子の肌が焼けてしまう。
「久しぶりだね、元気だった?」
しばらくの沈黙のあと、美奈子はすこし固い笑顔でこちらを見た。訊かれてから、俺がするべき質問だったんじゃないかと後悔する。
「元気だよ」
まっすぐに美奈子の目を見れなかった。そらした視線で彼女の左腕を不躾に見てしまわないように、美奈子のまつげの先に神経を集中させる。
「あいかわらず走ってるの?」
俺のジャージ姿を一瞥して、美奈子は質問を重ねた。落ち着いていて、やわらかな声だ。記憶のなかにある彼女の印象となにも変わらない。
「ああ。いま走ってきた帰り」
そっかあ、と美奈子が笑う。それきり美奈子は指先をあわせて、そこに視線を落とした。これでは昔と同じだ。美奈子のことを見ていなかった、見ようともしなかったあのころと、俺はなにも変わっていない。
そんなのは嫌だと思った。逃げてしまったあのときを、何度悔やんだか知れない。いま、美奈子は笑ってくれているじゃないか。すこしでも、彼女になにかことばを伝えたかった。
公園の端にあるこの場所は遊具からも遠く離れていて、おそらくそこにいるだろう子どもの声も聞こえない。とっくに盛りの終わったあじさいの株が並ぶ小路を眺める。
「……あの店で働いてんの」
なんとか絞りだした声は、のどに絡まってうまく聞こえなかった。それでも美奈子はわかったのか、俺が話しかけたことでうれしそうな笑みを浮かべた。
「そうなの。まだはじめたばっかりなんだけどね」
たのしいよ、そう言って照れたように髪を耳にかける。美奈子は、たしかに美奈子だ。けれどおとなしかった当時よりもずっと、ずっと明るく見えた。
「……その、高校は」
中学の卒業式、進路予定表に書いてあった「未定」の文字を覚えている。あのあと美奈子がどうしているのか、俺はなにも知らなかった。
「いまね、通信制の高校に通ってるの」
一瞬視線をさまよわせたあと、美奈子は笑って言った。それから、まるで俺に訊かれるのを待っていたかのように、美奈子の口からことばが溢れ出てくる。
中学を卒業してからしばらくは家に引きこもったままだったけれど、徐々に家の外に出られるようになったこと。今年の春に一念発起して、高校に入ると決めたこと。しばらく断っていた社会とのかかわりを取り戻したくて、二ヶ月前からパン屋で働きはじめたこと。いまがとてもたのしいこと。
まるでだれかに話すのを待っていたかのように、すらすらと話が流れていった。それはひとりごとにも聞こえて、きっと何度も何度も、自分のなかで反芻したことばなのだろうとわかった。
「……強いな、美奈子は」
おおきく深呼吸をして話終えた姿を受けとめてから、浮かんできた感想をそのまま口にする。すると美奈子はこちらを見て、眉を歪めながら唇の端をあげた。似つかわしくない表情に戸惑う。
「それ、ほめてるつもり?」
不満げな声音が耳に届く。ほめていると自分では思っていた。ほめるなんてうえからものを言うみたいな言い方じゃなくて、むしろ尊敬の念すら感じている。もしも俺がおなじ立場だったら、こんなふうに笑える日はこなかったかもしれない。
「明くん、昔と変わってないね」
突然様子の変わった彼女の物言いにどきりとする。自分の手のひらを弄んで目を伏せる美奈子が次のことばを紡ぐのを、ただ待っていることしかできなかった。
ギンガムチェックのエプロンをして、美奈子がそこに立っていた。長かった髪があごのところで切りそろえられていて、ずいぶん大人びたように見える。
とっさに彼女の腕を見ると、そこは長袖のカーディガンにおおわれていた。シュウの白い背中が目に浮かぶ。美奈子は、その腕にまだ秘密を持っているのだ。
「あら、剣持さんのところの」
店の奥から、恰幅のいい女性が顔を出した。この町で知らないひとを見つけるほうが至難の業だ。このパン屋の息子はひとつうえの先輩だったし、俺を知らないわけがない。
「……っ、あの」
うつむいていた美奈子が、突然おおきな声を出す。この場で、美奈子がことばを発するとは予想していなかった。圧倒されている俺に視線をやりながら、女性に向かって頭をさげる。
「いま、休憩入ってもいいですか。その、彼と、話がしたくて」
美奈子の必死な様子に、女性はなにかを察したようだった。きっと美奈子はあいかわらず真面目なのだろう。彼女の頼みをめずらしそうに見ながら、でもあたたかく女性は受け入れた。
「いいよ、いっておいで」
「ありがとうございます……!」
まだ呆気にとられている俺の前で、話はどんどん進んでいた。美奈子がエプロンを外し、いったん店の奥に消えたかと思うと再び姿を見せる。
「あ、あの、明くん。話、いいかな」
レジを出て近づいてきた彼女は、やはり華奢で、夏だというのに肌が白かった。
「……うん」
付き合っていたころとなにも変わらない、つまり最後に会ったときとはずいぶん変わった美奈子の様子に、俺は驚いていた。今度会ったときには、ひどく罵られても仕方ないと思っていたのに。
公園にいこう、と美奈子はそう言って、俺の前をずんずん歩いていた。七分丈のパンツからすっと伸びるふくらはぎが、光を弾いている。さっき土手からパン屋にくるまでに通った道を、ふたりで戻っていく。春には桜が、初夏には菖蒲が咲く公園に入ると、東屋のベンチに腰をおろした。ひとがひとり座れる距離の半分をあけて、美奈子のとなりに座る。あたりは真昼の陽射しで、芝生がまぶしく光っていた。屋根があってよかった。こんなにも燦々と輝く太陽のしたにいたら、美奈子の肌が焼けてしまう。
「久しぶりだね、元気だった?」
しばらくの沈黙のあと、美奈子はすこし固い笑顔でこちらを見た。訊かれてから、俺がするべき質問だったんじゃないかと後悔する。
「元気だよ」
まっすぐに美奈子の目を見れなかった。そらした視線で彼女の左腕を不躾に見てしまわないように、美奈子のまつげの先に神経を集中させる。
「あいかわらず走ってるの?」
俺のジャージ姿を一瞥して、美奈子は質問を重ねた。落ち着いていて、やわらかな声だ。記憶のなかにある彼女の印象となにも変わらない。
「ああ。いま走ってきた帰り」
そっかあ、と美奈子が笑う。それきり美奈子は指先をあわせて、そこに視線を落とした。これでは昔と同じだ。美奈子のことを見ていなかった、見ようともしなかったあのころと、俺はなにも変わっていない。
そんなのは嫌だと思った。逃げてしまったあのときを、何度悔やんだか知れない。いま、美奈子は笑ってくれているじゃないか。すこしでも、彼女になにかことばを伝えたかった。
公園の端にあるこの場所は遊具からも遠く離れていて、おそらくそこにいるだろう子どもの声も聞こえない。とっくに盛りの終わったあじさいの株が並ぶ小路を眺める。
「……あの店で働いてんの」
なんとか絞りだした声は、のどに絡まってうまく聞こえなかった。それでも美奈子はわかったのか、俺が話しかけたことでうれしそうな笑みを浮かべた。
「そうなの。まだはじめたばっかりなんだけどね」
たのしいよ、そう言って照れたように髪を耳にかける。美奈子は、たしかに美奈子だ。けれどおとなしかった当時よりもずっと、ずっと明るく見えた。
「……その、高校は」
中学の卒業式、進路予定表に書いてあった「未定」の文字を覚えている。あのあと美奈子がどうしているのか、俺はなにも知らなかった。
「いまね、通信制の高校に通ってるの」
一瞬視線をさまよわせたあと、美奈子は笑って言った。それから、まるで俺に訊かれるのを待っていたかのように、美奈子の口からことばが溢れ出てくる。
中学を卒業してからしばらくは家に引きこもったままだったけれど、徐々に家の外に出られるようになったこと。今年の春に一念発起して、高校に入ると決めたこと。しばらく断っていた社会とのかかわりを取り戻したくて、二ヶ月前からパン屋で働きはじめたこと。いまがとてもたのしいこと。
まるでだれかに話すのを待っていたかのように、すらすらと話が流れていった。それはひとりごとにも聞こえて、きっと何度も何度も、自分のなかで反芻したことばなのだろうとわかった。
「……強いな、美奈子は」
おおきく深呼吸をして話終えた姿を受けとめてから、浮かんできた感想をそのまま口にする。すると美奈子はこちらを見て、眉を歪めながら唇の端をあげた。似つかわしくない表情に戸惑う。
「それ、ほめてるつもり?」
不満げな声音が耳に届く。ほめていると自分では思っていた。ほめるなんてうえからものを言うみたいな言い方じゃなくて、むしろ尊敬の念すら感じている。もしも俺がおなじ立場だったら、こんなふうに笑える日はこなかったかもしれない。
「明くん、昔と変わってないね」
突然様子の変わった彼女の物言いにどきりとする。自分の手のひらを弄んで目を伏せる美奈子が次のことばを紡ぐのを、ただ待っていることしかできなかった。
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