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7.近づいたと思ったら
7-①
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期末テストが終わると、あとは夏休みを待つだけだった。夏休みに入る直前に行われる球技大会は、準備もほとんどしないから体育祭のときのように練習したりはしない。運動が比較的得意な生徒が集まるうちのクラスでも、球技大会の勝ち負けにこだわるやつはほとんどいなかった。お祭りほどたのしいものでもなく、競技会ほど真剣にやるものでもない。だらだらとしたゆるい雰囲気のある行事だ。
夏休みを目前にして、教室の暑さはいよいよ耐えられないところまできていた。猛暑日を記録する日も増えるなか、エアコンは依然として稼働しない。長期休暇中しか使ってはいけないという校則も考えものだった。こんな暑さのなかでは、授業にやる気なんて出るわけがない。薄い紙で作られた教科書が、自分の汗でしわしわになっていく。プリントも同じで、シャーペンで書くと普段より色が薄くなってしまった。
それでもシュウは、汗ひとつかいていなかった。あいかわらず長袖のシャツを着ているのに、その肌はいつもさらりとしている。体質なのか、うらやましいとすら思う涼しげな姿だった。
暑さは嫌いではない。けれど、教室でじっとしていなければいけないときの暑さは堪えるのがせいいっぱいだった。腕に張りつくプリントを疎ましく思いながら放課後を待つ。
教室では不快にしか感じられなかった暑さも、ウェアを着るととたんに心地よい温度に感じられた。現金だと思う。梅雨が終わって一週間、どんどん乾いていく風に、気持ちが高揚していくのがわかった。
深呼吸をひとつして、左足を前に踏み出す。校門を出て校庭のほうにまわり、あぜ道を駆け抜けていく。雨を十分に吸った稲が、陽射しのなかでまぶしいほどにまっすぐ伸びて輝いていた。田んぼの水のにおいが、梅雨前より濃く土の気配をまとっている。
普段走っているときはあごをあげないように注意しているのに、どこまでも抜けるような青い空を見あげながら走ることをやめられそうになかった。いまよりもほんのすこし力をこめて足を蹴りあげたら、この空の向こうまで飛んでいけるかもしれない。そんな予感さえ感じさせる天気だ。
グラウンドでは、武本をはじめとする陸上部のやつらが練習をしていた。土ぼこりをあげるトラックのうえで、各々がタイムを測っているのが見える。野球部やサッカー部のあげるおおきな声の合間に、スタートの合図をする笛の音が響いていた。
みんな一様に真剣なまなざしをしていた。真剣といえば聞こえはいいけれど、その表情はタイムを見るたびに歪んでいる。思うようにタイムが出ないことはよくある。そして俺は、もうその経験から解放されたのだ。なににも縛られずに走ることはこんなにも心地いいのに、どうしてみんな速さにこだわりつづけるのかわからない。
俺はこの快感をだれかに押しつける気はなかった。あいつらのタイムへのこだわりも、だから理解しようとはしない。
ぐるぐると学校の周りを走りつづけて、陽が傾いてきた。田んぼのほうにまわったとき、グラウンドの連中が練習を終えたのがわかった。俺も走るのをやめて部室へと戻る。
いい気分というのは、どうして長続きしないのだろう。部室のドアを開けると、この前の大会で引退したはずの山村先輩がいた。
「……おつかれさまです」
一瞬だけ合った目をすっとそらして、口のなかでぼそぼそと声を出した。武本に腹を小突かれたけれど、できれば話したくない相手なのはわかっているはずだ。先輩に向けた背中に視線を感じる。なにか言いたいことがあるのかもしれない。いや、あるに決まっている。俺にタイムのために走れと言いたいのだろう。それに気づいていながら、先輩のことを無視しつづけた。
「おつかれさまでした」
手早く着替えて部室を出る。いつもは「おつかれ」としか言わない俺がわざわざ敬語を使った理由をわかっているはずの先輩からは、なんの応えもなかった。
夏休みを目前にして、教室の暑さはいよいよ耐えられないところまできていた。猛暑日を記録する日も増えるなか、エアコンは依然として稼働しない。長期休暇中しか使ってはいけないという校則も考えものだった。こんな暑さのなかでは、授業にやる気なんて出るわけがない。薄い紙で作られた教科書が、自分の汗でしわしわになっていく。プリントも同じで、シャーペンで書くと普段より色が薄くなってしまった。
それでもシュウは、汗ひとつかいていなかった。あいかわらず長袖のシャツを着ているのに、その肌はいつもさらりとしている。体質なのか、うらやましいとすら思う涼しげな姿だった。
暑さは嫌いではない。けれど、教室でじっとしていなければいけないときの暑さは堪えるのがせいいっぱいだった。腕に張りつくプリントを疎ましく思いながら放課後を待つ。
教室では不快にしか感じられなかった暑さも、ウェアを着るととたんに心地よい温度に感じられた。現金だと思う。梅雨が終わって一週間、どんどん乾いていく風に、気持ちが高揚していくのがわかった。
深呼吸をひとつして、左足を前に踏み出す。校門を出て校庭のほうにまわり、あぜ道を駆け抜けていく。雨を十分に吸った稲が、陽射しのなかでまぶしいほどにまっすぐ伸びて輝いていた。田んぼの水のにおいが、梅雨前より濃く土の気配をまとっている。
普段走っているときはあごをあげないように注意しているのに、どこまでも抜けるような青い空を見あげながら走ることをやめられそうになかった。いまよりもほんのすこし力をこめて足を蹴りあげたら、この空の向こうまで飛んでいけるかもしれない。そんな予感さえ感じさせる天気だ。
グラウンドでは、武本をはじめとする陸上部のやつらが練習をしていた。土ぼこりをあげるトラックのうえで、各々がタイムを測っているのが見える。野球部やサッカー部のあげるおおきな声の合間に、スタートの合図をする笛の音が響いていた。
みんな一様に真剣なまなざしをしていた。真剣といえば聞こえはいいけれど、その表情はタイムを見るたびに歪んでいる。思うようにタイムが出ないことはよくある。そして俺は、もうその経験から解放されたのだ。なににも縛られずに走ることはこんなにも心地いいのに、どうしてみんな速さにこだわりつづけるのかわからない。
俺はこの快感をだれかに押しつける気はなかった。あいつらのタイムへのこだわりも、だから理解しようとはしない。
ぐるぐると学校の周りを走りつづけて、陽が傾いてきた。田んぼのほうにまわったとき、グラウンドの連中が練習を終えたのがわかった。俺も走るのをやめて部室へと戻る。
いい気分というのは、どうして長続きしないのだろう。部室のドアを開けると、この前の大会で引退したはずの山村先輩がいた。
「……おつかれさまです」
一瞬だけ合った目をすっとそらして、口のなかでぼそぼそと声を出した。武本に腹を小突かれたけれど、できれば話したくない相手なのはわかっているはずだ。先輩に向けた背中に視線を感じる。なにか言いたいことがあるのかもしれない。いや、あるに決まっている。俺にタイムのために走れと言いたいのだろう。それに気づいていながら、先輩のことを無視しつづけた。
「おつかれさまでした」
手早く着替えて部室を出る。いつもは「おつかれ」としか言わない俺がわざわざ敬語を使った理由をわかっているはずの先輩からは、なんの応えもなかった。
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