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2.秘密に触れる
2-②
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暑い日にランをするのは嫌いじゃなかった。太陽の光を遮るものがなにもない学校の周囲を、ただひたすらにぐるぐると回る。久しぶりの晴天に、知らず知らずのうちに走るペースがあがっていた。水を吐くほど飲んで、また走るを繰り返すその単調なトレーニングが俺は好きだった。ひとりで走っているから争う相手なんかいないけれど、だれより汗を流し、呼吸を乱すことが心地よかった。太陽はまんまるだし、砂っぽい風も自分には似合っていると思った。こんな天気のいい日に気持ちが沈んでいる人間なんていないだろう。梅雨になってから浮かずにいた気分なんて忘れてしまったみたいだ。
夕陽が住宅街のなかに飲みこまれていくまで、俺はひたすら走りつづけた。グラウンドで練習している部員が引き上げるころを見計らって、部室で制服に着替える。エアコンは設置されていないこの部屋の室温は、夏がはじまる前から我慢できる限界を越えていた。
この前の大会で、唯一部に残っていた山村先輩は決勝にも残れなかった。引退が決まったレースのあと、先輩は涙を流したらしい。大会には同行しなかった俺に、武本が教えてくれた。タイムなんかにこだわるから、人前で泣くなんて醜態をさらしたのだ。そんな話を聞かされて、競技に戻る気なんて起こるわけがなかった。
陸上部に所属していれば、走っていることに理由ができる。だれにも、なにも言われない。俺にとってこの場所は、それ以上の価値のあるところではなかった。
三年生のいなくなった部室はこれまでよりずっと広く感じる。同級生と一年生は俺の部活に対するスタンスに口出ししてきたりはしない。物理的に空間が広く使えるという理由だけでなく、呼吸をするのが楽だ。
着替えをしながらかばんのなかを確認すると、そこにあるはずの携帯電話がないことに気づいた。きっと教室に置いてきたのだ。
「携帯忘れてきた」
「え、教室? めんどくさいな」
「こればっかりは仕方ないからな」
おつかれ、と武本に声をかけて、校舎のなかに戻る。外も暑いけれど、屋内は風がないぶん蒸し暑さが増していた。開いている窓から、金属のバットがボールを叩く甲高い音がする。廊下を伝った楽器の音が、遠く離れた音楽室から響いていた。陸上部は練習を終えたけれど、野球部や吹奏楽部は日が暮れてもまだ練習を続けるらしい。その音の騒々しさが、蒸した空気をより煩わしく感じさせた。
吹奏楽部の合奏しているなかから、クラリネットの音だけをはっきりと区別できた。まだあの楽器のやわらかな音を聞きとれる自分に驚く。ひとは忘れなければ生きてはいけない。そのはずなのに、俺はまだ覚えている。
二階にある教室まであがるころには、首から汗が垂れていた。さっき走っていたときに感じていた気持ちのいいものとはちがう、不快な汗だ。まくったシャツの袖であごを拭いながら机のなかを探ると、そこには思ったとおり携帯電話があった。暑さでやられたのか充電はほとんどなかったけれど、もう帰るだけだから気にもしない。窓の外から、野球部の叫び声が聞こえる。
一階に降りて、人気のない廊下をゆっくり歩く。トイレまで近づくと、なかからドアの開く音がした。人影が見えて、注意をそちらにそらす。トイレの奥の小窓から、外灯の明かりが差して逆光になっている。光を背にしてそこにいたのは、シュウだった。
なにしてんの、と声をかけようとして、でもできなかった。うつむいて苦しそうな顔が、目の前にあったからだ。逆光のせいだけでなく、シュウは顔色が悪そうだった。嫌な予感が、ふと胸をよぎる。
「明……」
こちらに気づいたシュウが俺の名前を呼ぶ。その表情はあきらかに動揺していた。目がゆらゆらと左右に揺れて俺の手元を見る。そして、腕をぎゅっと掴んだ。それは寒いときにするシュウのくせだった。つられて、シュウの腕を見る。名前を呼んだきり黙りこんだシュウと俺との無言の時間が続いた。
そのときだった。シュウの左の手のひらに、なにかが一筋流れていくのが見えた。つるつるしたリボンみたいなそれが血だと気づくまでに、長くはかからなかった。瞬間、一気に記憶の蓋が開く。
「シュウ、それ」
俺が震えながら口走るのと、シュウが俺の視線に気づくのは同時だった。自分の手のひらを見たシュウの顔色が真っ白になって、そののどがひゅっと音を立てる。こんなに暑いのに、シュウの周りだけ一気に気温が下がったような錯覚すら感じる。目を見開いて震えるシュウの表情を、なんと表わしたらいいだろう。俺はこんな顔をしている人間を見たことはない。ないけれど、それはまるで、ドラマなんかで見たことのある、屋上から飛び降りる直前の人間の表情みたいだった。直感的に、ここが一階でよかったと思う。そうでなければ、シュウは俺を突き飛ばして廊下の窓から身を投げていたんじゃないだろうかと思うほど、それは絶望的な表情だった。
シュウの腕から流れる血液の正体に覚えがあった。そして、頭の端に彼女の姿が浮かぶ。忘れたはずの記憶、仕舞いこんでいた後悔。胃がぐっとちいさくなって口のなかに酸っぱいものが広がる。シュウの腕から目をそらしても、吐き気は止まらなかった。指先が、なにかにおびえるように震えている。突然の自分の変化に驚いた。
あのころのことが、こんなにも自分にとってシコリになっているなんて。
青い顔をしたシュウが目の前にいるのに、なんと口にしたらいいのかわからなくなった。さっきよりずっと重くなった沈黙が、ふたりのあいだに横たわる。
「ごめん」
俺が声を出そうとするより先に、シュウが口を開いた。視線をあげて背の高いシュウを見ると、うつむいて眉を寄せていた。声は静かなのに、まるで叫んでいるように見えた。それ以上立ち入ってくれるなと、そう言っているような口ぶりだ。
開け放たれた窓の外から聞こえるはずの野球部の声が遠くなる。暗く冷たいトイレの前で、渇いたのどからなんとかことばをしぼりだす。
「……これ、使って」
セカンドバッグのなかには、トレーニングで使うための救急セットが入っている。それを探し出してシュウに手渡した。せめて、消毒液が役に立てばいいと思った。
「じゃあ」
シュウの胸に押しつけるようにセットを渡して踵を返す。いつのまにか吹奏楽部の演奏も聞こえない。廊下を小走りで通り抜けながら、シュウの手首に流れた鮮血の色が脳裏にこびりついて離れなかった。
このまま学校の敷地内にいるとシュウに会ってしまうかもしれない。一刻も早く帰ろうと校舎の端の自転車置き場に急いだ。校舎の陰になったその場所は、じめじめとしていて寒気がした。
自転車にまたがって冷静になる。血が出ていた。怪我をしていたということだ。シャツは染まっていなかったから、きっと袖口のごく近いところを傷つけたんだろう。
――傷つけた。そこまで考えて、茹だるような暑さのなかで身震いした。あれは、自分でやったものなんだろうか。シュウが、自分を? 想像できなくて、またひとつ震えた。
外灯もまばらな田んぼ道を、頼りない自転車のライトだけで進んでいく。山の向こうにまだ太陽の気配があるけれど、道路の白線が沈んで見えるくらいには暗かった。毎日自転車で通学していて、脇をすり抜けていく車に轢かれたら、と考えたことは数えきれないほどある。事故にあえば怪我をする。怪我をすれば血が出るのだ。そうして、またシュウの手のひらの赤を思いだす。みぞおちがキリキリと痛んで、腹を片手で押さえながら走った。
夕陽が住宅街のなかに飲みこまれていくまで、俺はひたすら走りつづけた。グラウンドで練習している部員が引き上げるころを見計らって、部室で制服に着替える。エアコンは設置されていないこの部屋の室温は、夏がはじまる前から我慢できる限界を越えていた。
この前の大会で、唯一部に残っていた山村先輩は決勝にも残れなかった。引退が決まったレースのあと、先輩は涙を流したらしい。大会には同行しなかった俺に、武本が教えてくれた。タイムなんかにこだわるから、人前で泣くなんて醜態をさらしたのだ。そんな話を聞かされて、競技に戻る気なんて起こるわけがなかった。
陸上部に所属していれば、走っていることに理由ができる。だれにも、なにも言われない。俺にとってこの場所は、それ以上の価値のあるところではなかった。
三年生のいなくなった部室はこれまでよりずっと広く感じる。同級生と一年生は俺の部活に対するスタンスに口出ししてきたりはしない。物理的に空間が広く使えるという理由だけでなく、呼吸をするのが楽だ。
着替えをしながらかばんのなかを確認すると、そこにあるはずの携帯電話がないことに気づいた。きっと教室に置いてきたのだ。
「携帯忘れてきた」
「え、教室? めんどくさいな」
「こればっかりは仕方ないからな」
おつかれ、と武本に声をかけて、校舎のなかに戻る。外も暑いけれど、屋内は風がないぶん蒸し暑さが増していた。開いている窓から、金属のバットがボールを叩く甲高い音がする。廊下を伝った楽器の音が、遠く離れた音楽室から響いていた。陸上部は練習を終えたけれど、野球部や吹奏楽部は日が暮れてもまだ練習を続けるらしい。その音の騒々しさが、蒸した空気をより煩わしく感じさせた。
吹奏楽部の合奏しているなかから、クラリネットの音だけをはっきりと区別できた。まだあの楽器のやわらかな音を聞きとれる自分に驚く。ひとは忘れなければ生きてはいけない。そのはずなのに、俺はまだ覚えている。
二階にある教室まであがるころには、首から汗が垂れていた。さっき走っていたときに感じていた気持ちのいいものとはちがう、不快な汗だ。まくったシャツの袖であごを拭いながら机のなかを探ると、そこには思ったとおり携帯電話があった。暑さでやられたのか充電はほとんどなかったけれど、もう帰るだけだから気にもしない。窓の外から、野球部の叫び声が聞こえる。
一階に降りて、人気のない廊下をゆっくり歩く。トイレまで近づくと、なかからドアの開く音がした。人影が見えて、注意をそちらにそらす。トイレの奥の小窓から、外灯の明かりが差して逆光になっている。光を背にしてそこにいたのは、シュウだった。
なにしてんの、と声をかけようとして、でもできなかった。うつむいて苦しそうな顔が、目の前にあったからだ。逆光のせいだけでなく、シュウは顔色が悪そうだった。嫌な予感が、ふと胸をよぎる。
「明……」
こちらに気づいたシュウが俺の名前を呼ぶ。その表情はあきらかに動揺していた。目がゆらゆらと左右に揺れて俺の手元を見る。そして、腕をぎゅっと掴んだ。それは寒いときにするシュウのくせだった。つられて、シュウの腕を見る。名前を呼んだきり黙りこんだシュウと俺との無言の時間が続いた。
そのときだった。シュウの左の手のひらに、なにかが一筋流れていくのが見えた。つるつるしたリボンみたいなそれが血だと気づくまでに、長くはかからなかった。瞬間、一気に記憶の蓋が開く。
「シュウ、それ」
俺が震えながら口走るのと、シュウが俺の視線に気づくのは同時だった。自分の手のひらを見たシュウの顔色が真っ白になって、そののどがひゅっと音を立てる。こんなに暑いのに、シュウの周りだけ一気に気温が下がったような錯覚すら感じる。目を見開いて震えるシュウの表情を、なんと表わしたらいいだろう。俺はこんな顔をしている人間を見たことはない。ないけれど、それはまるで、ドラマなんかで見たことのある、屋上から飛び降りる直前の人間の表情みたいだった。直感的に、ここが一階でよかったと思う。そうでなければ、シュウは俺を突き飛ばして廊下の窓から身を投げていたんじゃないだろうかと思うほど、それは絶望的な表情だった。
シュウの腕から流れる血液の正体に覚えがあった。そして、頭の端に彼女の姿が浮かぶ。忘れたはずの記憶、仕舞いこんでいた後悔。胃がぐっとちいさくなって口のなかに酸っぱいものが広がる。シュウの腕から目をそらしても、吐き気は止まらなかった。指先が、なにかにおびえるように震えている。突然の自分の変化に驚いた。
あのころのことが、こんなにも自分にとってシコリになっているなんて。
青い顔をしたシュウが目の前にいるのに、なんと口にしたらいいのかわからなくなった。さっきよりずっと重くなった沈黙が、ふたりのあいだに横たわる。
「ごめん」
俺が声を出そうとするより先に、シュウが口を開いた。視線をあげて背の高いシュウを見ると、うつむいて眉を寄せていた。声は静かなのに、まるで叫んでいるように見えた。それ以上立ち入ってくれるなと、そう言っているような口ぶりだ。
開け放たれた窓の外から聞こえるはずの野球部の声が遠くなる。暗く冷たいトイレの前で、渇いたのどからなんとかことばをしぼりだす。
「……これ、使って」
セカンドバッグのなかには、トレーニングで使うための救急セットが入っている。それを探し出してシュウに手渡した。せめて、消毒液が役に立てばいいと思った。
「じゃあ」
シュウの胸に押しつけるようにセットを渡して踵を返す。いつのまにか吹奏楽部の演奏も聞こえない。廊下を小走りで通り抜けながら、シュウの手首に流れた鮮血の色が脳裏にこびりついて離れなかった。
このまま学校の敷地内にいるとシュウに会ってしまうかもしれない。一刻も早く帰ろうと校舎の端の自転車置き場に急いだ。校舎の陰になったその場所は、じめじめとしていて寒気がした。
自転車にまたがって冷静になる。血が出ていた。怪我をしていたということだ。シャツは染まっていなかったから、きっと袖口のごく近いところを傷つけたんだろう。
――傷つけた。そこまで考えて、茹だるような暑さのなかで身震いした。あれは、自分でやったものなんだろうか。シュウが、自分を? 想像できなくて、またひとつ震えた。
外灯もまばらな田んぼ道を、頼りない自転車のライトだけで進んでいく。山の向こうにまだ太陽の気配があるけれど、道路の白線が沈んで見えるくらいには暗かった。毎日自転車で通学していて、脇をすり抜けていく車に轢かれたら、と考えたことは数えきれないほどある。事故にあえば怪我をする。怪我をすれば血が出るのだ。そうして、またシュウの手のひらの赤を思いだす。みぞおちがキリキリと痛んで、腹を片手で押さえながら走った。
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