かさなる、かさねる

ユウキ カノ

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2.秘密に触れる

2-①

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「シュウ、それなんなの」
 授業が終わって、トイレに立とうとしたときだった。こんなに汗をかいているのに、トイレにいくだけの水分がまだ身体に残っているなんて信じられない暑さのなか、目の前に座るシュウの脇を通るとき、ふと目に入ったものがあった。机に仕舞おうと閉じかけていたシュウのノートの端に、奇妙ならくがきがあったのだ。
 予習してきたのだろう、英語の教科書の訳文がきっちりとまとめられたノートの余白が、数えきれないくらいの短い横棒で埋まっていた。筆圧の低いシャーペンの筆跡が、整然と並んでいる。
 俺がなにを指しているのか気づいたシュウの表情が、一瞬青ざめたように見えた。でも気のせいだったのか、シュウは恥ずかしそうに笑って頬を掻く。
「らくがきだよ。変なの見られちゃったな」
 シュウがらくがきをしているなんて、想像もつかなかった。授業中のシュウは、全身を目に、そして耳にして先生の話を聴いている。まるでその瞬間に頭のなかのノートに書きつけているみたいに、集中していると思っていた。
「へえ、お前でもそういうのするのな。意外」
「そう、かな」
 親近感を覚えたから軽い声音で言ってみたのに、シュウはまた、ほんのわずか表情を曇らせたような気がした。優等生だと言われているのにらくがきを知られて、しまったとでも思っているんだろうか。授業をろくに聞いていない俺からすれば、らくがきくらいしていたって悪いとは思わない。
 トイレにいくことを思いだした俺は、気にすんなとだけ声をかけてその場から離れた。
 席に戻ってくると、シュウは武本となにかを話していた。武本はこうしてよくシュウのことを構っている。その表情に、さっき見た陰りはない。距離を感じていたシュウへの気持ちが、らくがきをしていると知ったことですこし近づいたように思えた。こいつも人間なのだ。
 つぎの授業中、シュウは先生から目を離すことがなかった。窓の外ばかり見ている俺がときおりシュウの背中に目を向けると、その後頭部はまっすぐ先生を追っていた。真面目なやつだ。背筋もぴんと伸びていて、高い身長がより目立っている。先生が話しているあいだは前を向いて、先生が黒板に向かえばノートに板書を書き留めている。シャーペンを持つことすら放棄している俺とは大違いだ。机の端から、ノートに描かれたあの横棒が見えて、俺はすこし機嫌がよくなった。
 授業が終わり、昼休みになった。すっかりのどが渇いた俺は、武本と、そしてシュウと、いつものように購買へ向かった。俺たちの並びは決まっていて、俺を中心に武本が右、シュウが左になるのが習慣だった。左利きの俺の左手とシュウの右手がときどきぶつかるこの位置は最初こそ落ち着かなかったけれど、いまではずいぶん慣れた。三人で並んでいると武本とシュウが左右に分かれることがわかって、この形が一番自然だと思えたからだ。
「なに飲む?」
 自販機の前まできて、武本が首を傾げる。俺は悩むまでもなく、スポーツドリンクを飲むと決めていた。小銭を投入口に押しこんでボタンを押す。落ちてきたペットボトルのふたをその場で開けて口をつけた。慣れきったあまい味が、舌のうえに広がる。
「俺コーラ」
 そう言って武本がおなじようにペットボトルを買う。シュウはパックの野菜ジュースだ。全員、いつも買うものは決まっている。それでも尋ねるのは武本の戯れのようなものだった。
 購買でパンを買って、ペットボトルと一緒に抱えながら教室に戻る。自分の机についたシュウは、太陽をちらりと見てシャツの袖をぐっと引っ張った。この暑いのに腕を出せないとは、肌が弱いというのはなんて損なんだろう。同情が胸に浮かんだのは一瞬だった。
 すぐにそんな感情も忘れて昼食に口をつける。弁当とパンを腹につめこんで、午後の授業がはじまるまでだらだらとどうでもいい会話をした。
「そういえばさっき、らくがきしてたんだよ、こいつ」
 な、とシュウに話しかける。ふと思いだして、なんとなく出たことばだった。からかうような感情がなかったと言えばうそになる。優等生にもあった弱点を白日の下にさらそうと思っているのがわかったのか、案の定シュウは戸惑ったような顔をした。それを受けて武本が目をまるくする。
「へえ、お前でもそんなんするんだな」
「な、意外だろ」
 さっき俺が漏らしたのとおなじ感想を言って、武本はうれしそうに笑った。お調子者だけれど、ひとのことを貶めたりするようなやつではない。シュウがらくがきをすると知って、俺とおなじように親近感を感じているのだ。
「それくらい俺でもするよ」
 困ったように笑いながらシュウが眉をさげた。よほど恥ずかしいのか、そのままうつむいてしまう。
「お前完璧じゃなかったんだな。安心したわ」
 そう言って、武本がシュウの肩を軽く叩いた。その瞬間、シュウの肩がおおきく跳ねる。とっさに腕をぐっと掴んで縮こまってしまったシュウを見て、俺も武本も訝しく思った。
「ど、どうした」
 なにか気に障っただろうか。俺が話を蒸し返していることに腹を立てたのかもしれない。顔色をうかがっていると、シュウは焦ったように一瞬動きを止めてから否定するように手を振った。ことばのはじめがわずかにどもる。
「い、いま一瞬寒くなったから、それだけ」
 シュウは寒がりだ。授業中も、よくこうして腕を抱いている。さっき長袖で可哀想などと思ったのは杞憂だったらしい。なんだ、と俺も武本も安堵する。変な雰囲気を払拭しようと、武本が昨日のテレビの話を振って、それに俺も乗った
 シュウがわざとらしく俺たちの会話に笑ったのを見て、かわいそうなやつだと思った。シュウはいつもこうだ。会話に乗るのがうまくなくて、俺たちと一緒にいてもなかなか混ざることができない。
 そうして同時に、自分もかわいそうだと思う。こんなふうに他人を観察して、適切な距離を測らなければひととすごすこともできないのだ。滑稽で、かわいそうだ。
 俺も、武本も、シュウも、いつだって噛みあっているようで噛みあわない視線と会話を交わして友達面をしているだけだった。目をそむけて、忘れていかなければひとは生きてはいけない。それが、俺たちにとっての日常だった。
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