ハレーション

ユウキ カノ

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 梅雨が明けて、太陽はまたうんざりするような強い光を空から放っていた。肌を焼くその光が、目の奥をぎゅっと縮こまらせる。真一郎とわたしは、駅の近くのちいさな広場で並んで座っていた。青々と生い茂る木々の葉が、わたしたちの頭上で風に揺られて音を出す。強い陽射しのなかで、木陰は驚くほど涼しかった。
 やわらかな土の地面を踏みしめて、青い空いっぱいに手を伸ばす緑のにおいを吸いこむ。梅雨のあいだしっかり水分をためこんだ地面は、しっとりとしていた。
 雨が弱くなっていった梅雨の終わり、真一郎を探しに街へいった。ひさしぶりに抜けるように高い青空が見えたあの日、わたしは朝早く家を出た。なんとなく、そのほうが真一郎に会える気がしたからだ。会うことが習慣になっていたころに感じていた緊張感が、ほんのすこしだけ喉を締めつける。
 ほとんど夏とおなじだけの熱量を持った光のなかで、わたしはひさしぶりにカメラを手にして外を歩いた。用心のために閉じた傘を持って、カメラを構えて、もうすぐ時季の終わるアジサイを撮って歩く。アジサイ独特の苦い香りをかぎながら切るシャッターは、きれいな色の花を切り取った。
 そうしてアジサイを追いかけてたどりついた駅で、真一郎を見つけたのだ。長いあいだ目にしていなかったその姿に、心の底から安堵する。白いシャツを着た真一郎は、水たまりの残る道端で、やはりねこを抱いていた。ひかりを弾く背中は、ピンと伸びていた。夏の学生服を着た彼はとても新鮮で、姿を見つけたときもほんとうに真一郎かどうかわからなかった。シャツの袖から伸びる彼の腕は、わたしとは比べ物にならないほど太い。黒を纏っていない真一郎の顔は、それまで見たどんなときよりさっぱりしていた。
「ひさしぶりだね」
 声をかけると彼は顔をあげて、目が垂れて見えるほど思いっきり笑った。
「ひさしぶり」
 わたしとあいさつをしているあいだも、ねこは真一郎の顔面めがけて前足を繰り出した。はは、と声をあげながらそれを楽しそうに見ている彼を、同じ目線でカメラに閉じこめた。人物を撮るのは苦手だったのに、真一郎を撮るのは不思議とうまくいく。彼も、わたしに付き合っているうちにカメラを向けられることにずいぶん慣れたようで、柔らかい表情をするようになっていた。わたしの部屋に置かれたコルクボードにはいま、真一郎の写った写真がいくつも飾られている。ひとつとして同じ表情をしていない彼が明るい部屋のなかで笑っている様子は、これまでのわたしの生活からは想像もできない光景だった。
「ねえ、おべんと食べようよ」
 カメラをさげて真一郎の姿を直接見る。ねこを抱いていた彼が、きょとんとしてこちらを向いた。何度も顔を合わせていたのに、育ち盛りの真一郎がものを食べるところを一度も見たことがなかった。
「わたし、作ってくるよ」
 断られるのがこわくて、先に口を開いた。大丈夫。彼はわたしを待っていてくれるひとだからと、自分に言い聞かせる。今度は驚いた顔をした真一郎が、ねこを抱えていた手を離した。ねこはちらりとこちらを見たあと、陽気な足取りで歩いていった。
「楽しみだ」
 ねこの姿をふたりで見送ってから、真一郎が口を開いた。うえから射す太陽の光で陰になっていても、その笑顔は眩しかった。それが、わたしと真一郎のはじめての約束になった。
 そうして今日が、その約束の日だった。
「どう、おいしい?」
 ふたりのあいだに置いた弁当箱を見おろしながら尋ねる。ふたり分の箱のなかにはいろんな色があって、印象は悪くない。真一郎は男の子だから肉料理をたくさん作って、でも野菜も忘れずに入れた。早起きをして、狭い台所で作った力作だった。真一郎に会えない雨のなかで、わたしは料理に精を出した。
 もともと、料理なんてほとんどしたことがなかった。なにを作るべきか、どう作るべきかまったくわからなかったわたしは、本屋にいって、何十分も悩んで料理本を買った。頭のなかで、スーパーに並んだ旬の食材を想像しながら選んだ本だった。お弁当箱を買って、そこに詰められる量を考えて、つたない絵でイメージ図も描いた。そうして紙に食材を書きだして、スーパーで買い物をしているあいだ、うまく表現できないほど浮き足立っている自分がいた。
「おいしいよ」
 口いっぱいにつくねを頬張った真一郎が、目を細めて笑う。その姿を見ながら、つくねの作り方を思いだした。
 ねぎをみじん切りにする。うっかりすると粒がおおきくなってしまうから、たしかめるように包丁を上下させるのだ。豆腐を水切りして、みじん切りしたねぎと一緒に鶏ひき肉に混ぜる。手にまとわりつく肉の感触を楽しみながら、粘りが出るまでよく練る。うまくスプーンで丸められるようになるまで、何回も練習した。フライパンでたねを焼いて、しっかり計っておいた調味料を加えた瞬間の、食欲をそそるにおいを思いだす。フライパンのうえで感じたしょうゆの香ばしいにおいを、彼は感じてくれているだろうか。見慣れたその表情にほっとしたのに、つい試すような台詞が口から出てくる。
「うそでしょ」
 喉を鳴らして飲みこんでから、真一郎が真面目な顔をしてこちらを向く。
「おいしいって言ってるんだから信じてよ」
 おいしいよ、と繰り返しながら、見たことのないような真剣な目で彼はつづいて混ぜご飯を頬張った。焼いた鮭をほぐして、叩いた梅干しと大葉をご飯に混ぜたものだ。うまく焼けるようになるまで、焦がした鮭を何度もひとりで食べた。大葉をほそい千切りにすることも最初はできなかった。いま真一郎が口にしているなかにも、まだうまく切れていない大葉が混じっているはずだ。自信のなさから軽い気持ちで放った自分の言葉に、恥ずかしくなって足元を見る。複雑な色をした綿のスカートが、風できれいに揺れていた。真一郎に会うために、スカートをはいて出かけたのは今日がはじめてだった。部屋の床でぐちゃぐちゃになっていたそれを、青空の見える窓辺に干した。カーテンを開けるようになったのは、つい最近のことだ。
 大事なものに触れるみたいにそっとなすの味噌炒めに手をつける真一郎が、目を細めて目の前を見る。その横顔をそっと盗み見ながら、わたしも同じように口を動かしてきんぴらを食べた。ごぼうとにんじんだけではなくて、ピーマンと豚肉も一緒に炒めたものだ。ささがきという切り方を知ったのは生まれてはじめてだった。初心者が包丁で指を切るなんて漫画みたいな話が、実際に起こることなのだということもはじめて知った。じっくり味わいながら、自分が作った料理の味を客観的に確認する。しょっぱすぎるような気がするけれど、決してまずくはない味だ。
 風は、さわやかでやさしかった。わたしと真一郎のあいだを、ほんのすこしだけたゆたって、ふっと吹きぬけていく。思わず眠りに落ちてしまいそうな、心地のいい午後だった。晴れなんて苦手なだけだったのに、真一郎といると、そんなことも気にならないくらい落ち着いた。
「気持ちいいね」
 ふっと満足げなため息をついて、真一郎が声を漏らした。真一郎の青いシャツに、木漏れ日がまだらになってうつっている。彼の制服以外の姿を見たのははじめてだった。しばらく会わないうちに、彼の真っ黒な髪はすこし伸びたような気がする。耳にかかる短い髪が、くすぐったそうに見えた。
 わたしの部屋には、もう写真は散らばっていない。山積みになっていた服も、きちんとたたまれて、クローゼットに収まっている。ゴミもちゃんと捨てたし、天気がいい日に窓を開けるようにもなった。ちいさくなりつづけていた腕時計の輪は、いつのときからかおおきさが変わらなくなっている。
 あの日、弁当の約束をして帰宅してから、カメラのなかに残したままの写真を印刷した。ねこを抱いて、夏服に身を包んだ真一郎の横顔が、プリンタによって形をもった存在として生み出される。そうしてその写真を、部屋にあるコルクボードの前にかざしてみた。これまでカメラに閉じこめてきた真一郎のいろんな表情が、そこにはある。
 その日撮った写真を、どうしても彼に見せたかった。細い路地のまんなかにしゃがみこんだ真一郎とねこのうえから差しこむ、幾何学模様をしたひかり。プリンタが吐き出したその写真を見て、肩から力がすっと抜けた。このままでいいのだと、言われたような気がする。すぐそこに、それはあった。わたしの世界は、こんなにも明るかったんだ。
「真一郎、これ見て」
 この世界はひどくまぶしかった。ずっとうつむいていたから、それに気づかなかっただけで。かばんのなかから、封筒に入った写真を取り出す。木の葉のすきまでちいさなつぶになった陽射しが、真一郎の顔をまだらに映し出した。
「見て、これ」
 真一郎に、この街のひかりを教えてあげたかった。きっと喜ぶだろう。彼は、不思議なものがすきだから。
 まぶしそうに目を細めて、真一郎が写真を見る。その瞳にも、ひかりは見えるだろうか。じっと写真に見入ったままの横顔がどんな表情を浮かべるか、緑の葉のあいだから見えるひかりのつぶを眺めて待っていた。
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