ハレーション

ユウキ カノ

文字の大きさ
上 下
6 / 8

6.

しおりを挟む
 あれから、真一郎とはなんども会った。カメラを持って古い通りへいくと、その先でねこと話す彼をときどき見かけた。おかげで、真一郎とねこのツーショットがわたしの手元にはたくさん残っている。そのまま日が暮れるまで、一緒に被写体を探して歩いた。
 そしてやっぱり今日も、真一郎は道端に立っていた。真っ黒な制服のそばにねこはいなくて、ひとりでぽつんと立ち尽くす後姿が、いつもよりすこしだけちいさく見える。彼らしくない背中に思わず息を飲んだわたしに気づいて、真一郎が振り向く。こちらを向いたのは、わたしが知っている笑顔の真一郎だった。
「やっぱり会えた。今日はなにを撮るの」
 おおきな歩幅で近づいてきた真一郎が問いかける。一瞬出なかった言葉の間を埋めようと、あわてて口を開いた。
「すこしぶらぶらしようと思うの。ついてくる?」
 この街はやはり道が複雑で、毎日のように通いつめているのにいまだに迷う。そばにいてほしいのはわたしのほうなのに、いつだって試すように訊いてしまうのは自信が持てないからだ。気づかれないように顔色をうかがうわたしに懐こい笑みを浮かべて、もちろん、と返してきた。
 真一郎とはじめて会ってからずいぶん経った。わたしたちは、一度も会う約束をしたことがない。お互いに携帯電話を持ち歩いていないのも理由のひとつだった。けれど、わたしたちはいまでもお互いに、どこまで踏み込んでいいのか探りあっているような気がする。どんな言葉を使うのか、どんなふうに笑うのかは知っていても、互いの詳しい事情なんて、なにひとつ知らないままなのだ。真一郎の高校について訊いた日から、徐々に低くなっていったふたりのあいだの壁を、今日は越えてみたいと思った。
 何時間経っただろうか。さんざん歩きまわって、太陽が低くなったころ、わたしは口を開いた。ねえ、と声をかけてから切り出す。
「訊いてもいいかな」
 知りたい、と思った。笑顔の向こうにいる、真一郎を。
「その制服、いまの学校の?」
 一歩先にいた真一郎がぴたりと動きを止めて振り向く。一瞬だけ表情がなくなったあと、真一郎が眉をさげた。
「そうだよ。やっぱり気になるかな」
 黒い学生服の裾をつまんで、真一郎が笑う。ときどき知らないひとにも声かけられるよ、と言う口元は弧を描いたままだった。
「どうせいかないんだから、制服なんか着なくてもいいのにね」
 そっか、とつぶやいた。安易に言葉を選んだら、真一郎が口を閉ざしてしまう気がしたからだ。視線を外して彼のつぎの声を待っていると、視界の端で制服の肩が動いたのが見えた。気が遠くなるほどの時間が経ってから、真一郎が口を開く。
「まだ枠から外れてない気になれるんだ。気休めみたいなものだけど」
 苦笑しながら真一郎が頬を掻く。でもこれ着てるとねこ受けいいんだよと、うれしそうに首を傾けた。
 わたしも、真一郎も、このまま泣いてしまうかと思った。唇を噛みしめてうつむく。真一郎が踏みこむことを許してくれたのがうれしかった。
「真一郎はねこを探してるんだね」
 慰めや労わりはいらないと思った。素直な感想をこぼしたわたしに、うん、と低く答える声は耳に心地よかった。高い位置から見おろしてくる瞳を見あげると、その目がすっと細められる。真一郎の笑顔は、いつもなにかを隠すために作られている。そのことに、最近ようやく気づいた。深入りしない適度な距離も、もうずいぶん身に着いてきた。
「ひよりは? こんなところでなにしてるの」
 真一郎の言葉に、一瞬どう答えたらいいのかわからなくなった。カメラを持って街を歩く人間の目的が、写真を撮る以外にあるんだろうか。迷いながら彼のほうをうかがうと、その顔はやっぱりまっすぐで、でもひどく穏やかだった。この子は、答えを急かしたりしない。だから、目を閉じて一生懸命考える。
 大学なんていますぐにでも辞めればいいのに、この街に残る理由はなんだろう。真一郎が制服を着続けるのと一緒だ。ふわふわとした足元を、繋ぎとめるなにかが欲しかった。大学へいかないのに、その場所に縋る自分を、いつもどこかで笑っている。灰色のもやがかかった胸のなかを必死に探して、ようやく見えた。
「……まっすぐ息をしたいの」
 声に出した途端、それが確かな答えだとわかる。いつでも、背を丸めて足元ばかり見ていた。丸められた背に圧迫された胸が苦しくて、空をじっと睨んでいた。どうしたらまっすぐ立てるのかわからないけれど、いまのわたしには、ただひらすら歩き続けることしかできないのだ。
 ふうん、と真一郎はつぶやいた。伝わっただろうかという不安は、真一郎の声を聞いて消えた。そのふうん、は軽くて、でもいやな軽さを持っていない、思いやりのあるふうんだった。
「いいね。まっすぐ息をする、か」
 いい言葉だ、と、楽しそうに笑う彼の顔を見あげてから、自分の足元に視線を落とす。紺色のスニーカーの、ちいさな汚れをじっと見つめた。わたしはまだ、こうして下を向いてばかりだ。
「できるかな」
 声に出してみると、確信が胸に満ちてきた。少なくとももう、わたしはひとりではない。不安がなくなったわけではないけれど、こわいとは感じなかった。
 空気は、あっという間に甘いにおいを放ちそうな色に染まっていた。目の前に立つ真一郎の横顔が、オレンジとピンクが混ざったような色に見える。平べったい身体がスクリーンみたいになって、きれいに夕焼けを映した。その横顔にピントを合わせてシャッターを押す。
 返事を期待したわけじゃなかった。きっとできるよ、なんて言われたら、寒気で鳥肌が立ってしまうだろう。そして思ったとおり、真一郎はそれから、目を細めて笑っただけだった。
 足元に伸びるふたり分の影がだんだん薄くなって、空の端が紺色になるころ、「帰ろうか」と真一郎がつぶやいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

教え子に手を出した塾講師の話

神谷 愛
恋愛
バイトしている塾に通い始めた女生徒の担任になった私は授業をし、その中で一線を越えてしまう話

続きは第一図書室で

蒼キるり
BL
高校生になったばかりの佐武直斗は図書室で出会った同級生の東原浩也とひょんなことからキスの練習をする仲になる。 友人と恋の狭間で揺れる青春ラブストーリー。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

将棋部の眼鏡美少女を抱いた

junk
青春
将棋部の青春恋愛ストーリーです

処理中です...