ハレーション

ユウキ カノ

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 あれから、真一郎とはなんども会った。カメラを持って古い通りへいくと、その先でねこと話す彼をときどき見かけた。おかげで、真一郎とねこのツーショットがわたしの手元にはたくさん残っている。そのまま日が暮れるまで、一緒に被写体を探して歩いた。
 そしてやっぱり今日も、真一郎は道端に立っていた。真っ黒な制服のそばにねこはいなくて、ひとりでぽつんと立ち尽くす後姿が、いつもよりすこしだけちいさく見える。彼らしくない背中に思わず息を飲んだわたしに気づいて、真一郎が振り向く。こちらを向いたのは、わたしが知っている笑顔の真一郎だった。
「やっぱり会えた。今日はなにを撮るの」
 おおきな歩幅で近づいてきた真一郎が問いかける。一瞬出なかった言葉の間を埋めようと、あわてて口を開いた。
「すこしぶらぶらしようと思うの。ついてくる?」
 この街はやはり道が複雑で、毎日のように通いつめているのにいまだに迷う。そばにいてほしいのはわたしのほうなのに、いつだって試すように訊いてしまうのは自信が持てないからだ。気づかれないように顔色をうかがうわたしに懐こい笑みを浮かべて、もちろん、と返してきた。
 真一郎とはじめて会ってからずいぶん経った。わたしたちは、一度も会う約束をしたことがない。お互いに携帯電話を持ち歩いていないのも理由のひとつだった。けれど、わたしたちはいまでもお互いに、どこまで踏み込んでいいのか探りあっているような気がする。どんな言葉を使うのか、どんなふうに笑うのかは知っていても、互いの詳しい事情なんて、なにひとつ知らないままなのだ。真一郎の高校について訊いた日から、徐々に低くなっていったふたりのあいだの壁を、今日は越えてみたいと思った。
 何時間経っただろうか。さんざん歩きまわって、太陽が低くなったころ、わたしは口を開いた。ねえ、と声をかけてから切り出す。
「訊いてもいいかな」
 知りたい、と思った。笑顔の向こうにいる、真一郎を。
「その制服、いまの学校の?」
 一歩先にいた真一郎がぴたりと動きを止めて振り向く。一瞬だけ表情がなくなったあと、真一郎が眉をさげた。
「そうだよ。やっぱり気になるかな」
 黒い学生服の裾をつまんで、真一郎が笑う。ときどき知らないひとにも声かけられるよ、と言う口元は弧を描いたままだった。
「どうせいかないんだから、制服なんか着なくてもいいのにね」
 そっか、とつぶやいた。安易に言葉を選んだら、真一郎が口を閉ざしてしまう気がしたからだ。視線を外して彼のつぎの声を待っていると、視界の端で制服の肩が動いたのが見えた。気が遠くなるほどの時間が経ってから、真一郎が口を開く。
「まだ枠から外れてない気になれるんだ。気休めみたいなものだけど」
 苦笑しながら真一郎が頬を掻く。でもこれ着てるとねこ受けいいんだよと、うれしそうに首を傾けた。
 わたしも、真一郎も、このまま泣いてしまうかと思った。唇を噛みしめてうつむく。真一郎が踏みこむことを許してくれたのがうれしかった。
「真一郎はねこを探してるんだね」
 慰めや労わりはいらないと思った。素直な感想をこぼしたわたしに、うん、と低く答える声は耳に心地よかった。高い位置から見おろしてくる瞳を見あげると、その目がすっと細められる。真一郎の笑顔は、いつもなにかを隠すために作られている。そのことに、最近ようやく気づいた。深入りしない適度な距離も、もうずいぶん身に着いてきた。
「ひよりは? こんなところでなにしてるの」
 真一郎の言葉に、一瞬どう答えたらいいのかわからなくなった。カメラを持って街を歩く人間の目的が、写真を撮る以外にあるんだろうか。迷いながら彼のほうをうかがうと、その顔はやっぱりまっすぐで、でもひどく穏やかだった。この子は、答えを急かしたりしない。だから、目を閉じて一生懸命考える。
 大学なんていますぐにでも辞めればいいのに、この街に残る理由はなんだろう。真一郎が制服を着続けるのと一緒だ。ふわふわとした足元を、繋ぎとめるなにかが欲しかった。大学へいかないのに、その場所に縋る自分を、いつもどこかで笑っている。灰色のもやがかかった胸のなかを必死に探して、ようやく見えた。
「……まっすぐ息をしたいの」
 声に出した途端、それが確かな答えだとわかる。いつでも、背を丸めて足元ばかり見ていた。丸められた背に圧迫された胸が苦しくて、空をじっと睨んでいた。どうしたらまっすぐ立てるのかわからないけれど、いまのわたしには、ただひらすら歩き続けることしかできないのだ。
 ふうん、と真一郎はつぶやいた。伝わっただろうかという不安は、真一郎の声を聞いて消えた。そのふうん、は軽くて、でもいやな軽さを持っていない、思いやりのあるふうんだった。
「いいね。まっすぐ息をする、か」
 いい言葉だ、と、楽しそうに笑う彼の顔を見あげてから、自分の足元に視線を落とす。紺色のスニーカーの、ちいさな汚れをじっと見つめた。わたしはまだ、こうして下を向いてばかりだ。
「できるかな」
 声に出してみると、確信が胸に満ちてきた。少なくとももう、わたしはひとりではない。不安がなくなったわけではないけれど、こわいとは感じなかった。
 空気は、あっという間に甘いにおいを放ちそうな色に染まっていた。目の前に立つ真一郎の横顔が、オレンジとピンクが混ざったような色に見える。平べったい身体がスクリーンみたいになって、きれいに夕焼けを映した。その横顔にピントを合わせてシャッターを押す。
 返事を期待したわけじゃなかった。きっとできるよ、なんて言われたら、寒気で鳥肌が立ってしまうだろう。そして思ったとおり、真一郎はそれから、目を細めて笑っただけだった。
 足元に伸びるふたり分の影がだんだん薄くなって、空の端が紺色になるころ、「帰ろうか」と真一郎がつぶやいた。
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