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部屋の電気がついていてもはっきりとわかるほど、カーテンの隙間から差す朝陽はまぶしかった。もうすこし眠っていたい衝動と闘うために、髪をがしがしとかきながら身体を伸ばす。勝ったのは健全な意志のほうだった。よし、と声に出して勢いよく起きあがる。カーテンを開いて、窓の向こうに見える青空を睨んだ。わたしが愛用している安物のカメラは明るさに弱く、こんなふうに太陽の光が強すぎると色が飛んでしまうのだ。音を立ててカーテンを閉める。部屋には、また人工的な明るさが戻ってきた。雲ひとつない青空が、わたしはあまりすきではない。
電源を切っていた携帯電話を確認すると、メールが一通届いていた。差出人の名前を一瞥して、迷ってから文面を読む。「元気ですか」という母からの連絡だった。このひとは、毎日のようにこうしてメールを送ってくる。返事なんて考えようとも思わなかった。メールを削除して携帯電話をベッドに投げる。朝から気分が悪い。
支度をしてスニーカーを履く。春物のコートはまだ必需品だ。携帯電話は電源を切って置いていくのがいつもの習慣だった。無駄なものは、なにひとつ持っていたくない。シャワーを浴びたばかりの髪の毛から、シャンプーのにおいがふわりと香った。たんすのなかに残りわずかしかなかった服を思い出して、帰ってきたら洗濯をすること、と頭のなかの予定表に書きこむ。帰宅するころには日は落ちているだろうけれど、どうせ部屋干しをするのだから、天気なんて関係ない。アパートを一歩出たら、外はやっぱり腹立たしいくらいに晴れていた。
ゆうべ思い浮かべたのは、この街の中心地である駅の周辺だった。目的地へ向かう途中も、被写体がないかとあたりを見回す。カメラはボタンひとつですぐに撮影できる状態のまま手のひらのなかに収まっていた。ファインダーを覗いていないときでも、わたしの目はカメラと同じように世界を見ている。どんな色で映るか、どれくらい光をうまく取りこめるかを予測する。そうして見つけた駐車場へ足を踏み入れた。アスファルトの隅を探すと、そこにはちいさな草があった。迷うことなく寄っていってしゃがみこむ。
ヒメオドリコソウ、という名前は小学生のときに習った名前だ。いまでも覚えているのは、その名がとてもきれいに思えたからだった。実際、そのむらさきの花は、陽射しのなかでたのしそうだった。この時期、わたしのように空き地ばかりを撮影場所にしているとこの草にはよく出会うのだけれど、今日はこの陽射しのせいで、その姿がいつも以上にうつくしかった。群れるように咲く花のなかで一際おおきいひとつを見つけて、思わずうなずく。花の背と同じ高さまでカメラをさげて、ファインダーに映っているはずの画を想像する。地面ぎりぎりに手を伸ばすために、人目もはばからずにひざをついた。ピントを合わせる機械音が聞こえてから、ぶれないようにシャッターを切る。知らずのうちに止めていた息を吐いて画面を覗くと、そこにはやっぱり、色を失って白っぽく写るヒメオドリコソウがあった。肩に力が入って、頭に血がのぼる。
この安物のコンパクトカメラで変えられるだけの設定を調整して、何度撮っても状況は変わらなかった。一気に気持ちが重くなる。そこに誰がいるわけでもないけれど、空をぐっと睨んでみた。これだから、青空は嫌いだ。
今日一日の気分は決まったようなものだった。それからはなにを見ても色が褪せて見えて、カメラを構えるのすら億劫だった。視界がぐっと低い位置まで下がっているのがわかる。姿勢が悪くなって、息が苦しくなる。最近いつもこうだ。何もかもがうまくいかない。腕時計を見ると、ちょうど大学の昼休みの時間だった。光の差しこむ学食で、学生が食事を摂る様子を思い浮かべる。昨日からなにも食べていないけれど、空腹は特に感じなかった。この腕時計のベルトの穴は、いつのまにかひとつ内側へちいさくなった。真面目に大学に通っていたころは、痩せようと努力しても変わらなかったのに、いまでは体重を減らすのはたやすいことのように思える。ただ食べなければいいのだ。食べたいと思う気持ちも、最近ではとてもちいさいものになっていた。
集中できないままもくもくと歩き続けて、そして、気づいたら知らない道に出ていた。駅までは一本道だ。間違うはずがない。きっと、ゆうべ考えていた道の先へきてしまったのだ。
「……迷った」
この街は城下町だ。迷路によく似たこの周辺の道路に入ってしまうと、ただひたすら歩き続ける以外に知っている道へ出る方法はない。だけどいまのわたしに、そうするだけの気力は残っていなかった。天気がよすぎるのも考え物だ。青空が、わたしから力を奪っていく。仕方がないから、足が向くままあてもなく狭い道を歩いていった。歩いていればいつか知っている道に出るだろう。道はつながっているのだ。慌てそうになる胸を落ち着けようと深呼吸をする。
せっかくきたかった場所にこられたのだから、楽しまなくては損だ。はじめてきた路地で、ごくごく普通のモンシロチョウが花壇に止まるのを見つけては、追いかけてカメラを構えた。モンシロチョウの白い羽が、光を弾いて画面が真っ白になる。雲が太陽にかかった瞬間を狙うようにしてカメラを構えた。どうにか上手く撮れないだろうかとカメラとにらめっこをする。
にゃあ、と鳴き声が聞こえたのはそのときだった。ねこの声につられて、一層細い道へ足を踏み入れる。カメラを構えて追いかけた先にいたのは、ねこだけではなかった。
黒い身体。それが、第一印象だった。
「お前はどっからきたんだ?」
長い手足を折り曲げて地面にひざをつけたその男の子は、抱きあげたねこに一生懸命話しかけていた。真っ黒な制服を着ているから、たぶん、わたしより若い。同じく黒い髪の真上から、さんさんと太陽の光が降り注いでいる。惹かれるようにカメラを構え直してシャッターボタンを半押しすると、耳に馴染んだジジジという音とともにカメラがピントを合わせた。カメラに画が刻まれると同時に、彼がこちらを向いた。驚いて「うわっ」と声が出て、しゃがみこんだまましりもちをつく。彼の様子を伺うと、黒い瞳がわたしを不審そうに見つめていた。その視線の力強さに押されて、思わず身体を後ろに引く。すみません、写真を撮ってるだけです、と、口にするのが精いっぱいで、彼の目から逃れるように目をそらした。わたしも彼も動こうとしない。緊張感のある時間に、耐えきれなくなりそうだった。
そのとき、彼の手のなかにいたねこがにゃあと鳴いて逃げ出した。すばやいその動きに、ふたりとも口をあけたままちいさな背中を見送る。ぷっ、と吹き出したのは彼だった。制服の袖に額を当ててしばらく笑い続ける。呼吸を乱して顔をあげた彼は、そこではじめてわたしに笑顔を向けた。真昼の空は、ぐっと高くて澄んでいる。昔からずっと建っていたような建物の並ぶ駅前の裏通りで、わたしと真一郎は出会った。
迷ったと告げると、彼は案内役を買って出てくれた。
ここらへんわかりにくいもんねと言う黒い背に着いていくと、見知った道へはすぐに出られた。わたしはずいぶん狭い範囲で迷っていたらしい。知っている場所へこられたのだから、もう別れてもいいはずなのに、わたしたちはどうすることもできずに立ち尽くしていた。まっすぐに見つめる視線が、うつむいたわたしの頭に刺さっているのがわかる。
「名前、なんていうの」
名も知らなければお礼も言えない。並んで立つとわたしの目は彼の胸の高さにあったから、ぐっと顔をあげないと彼の表情も見えなかった。
「真一郎。そっちは」
わたしが敬語を崩したからか、真一郎も軽い口調で声を出した。だけどずっと浮かべられている笑顔とその年齢から想像するほど、その言葉は嫌な軽さを持ってはいなかった。ひより、と返すと、真一郎はちいさく、ひよりね、と確かめるように口にした。その声が低くやわらかくて、わたしは真一郎と会ってはじめて、緊張が解けたような気がした。
「よかったらここらへん案内しようか。写真撮ってるんでしょ」
そう言って真一郎がまた笑う。
「時間あるなら一緒にいこう。今日は天気がいいから、ねこがたくさんいるかもしれない」
真剣な表情をしてずいぶん無邪気な言葉を言った真一郎に、今度はわたしが笑う番だった。
「あ、笑った」
わたしの顔を覗きこむように真一郎が腰を折る。まんまるの目が、楽しそうに細められた。
「ずっと無表情だったから、機嫌悪いのかと思った」
馴れ馴れしくしすぎたかもって焦ってたと、照れたように彼が笑う。それにわたしも笑い返して、カメラを持ちあげてみせる。
「いいよ、いこう」
誘いへの答えだ。ついさっきまで青空にすらいらいらしていた自分はどこかへいってしまったみたいだった。いこう、と真一郎が先に進む。うん、とうなずいて、足を一歩踏み出した。
「なにを撮りにきたの」
わたしの手に収まったカメラを覗きこむようにして、背の高い彼が背を曲げる。カメラを親指で撫でてから、真一郎を見あげた。
「花とか、風景とか」
わたしは普段、植物や建物を好んで撮影していた。動くものを撮るのは苦手だ。とくに人物は、もっとも撮りたくないものだった。相手のいきいきした表情を写真に閉じこめられないし、そもそもそういう顔をさせるのも苦手だった。人付き合いはあまり得意ではない。大学でも、友達といるよりひとりのほうが楽だった。いつかは人物を撮ってみたいと思っていながら、うまくいかないことがこわくて手を伸ばせずにいる。
「じゃあ、俺を撮ったのはなんで?」
真一郎が不思議そうに首を傾げる。それは、と口ごもる。カメラを構えるのは、心が動いたからだ。でもそれは、初対面の彼には言えそうになかった。もし本当のことを伝えて、気味悪く思われたらと思うと声が出ない。わたしの答えを待たずに、真一郎が上を向く。
「ねえ、あれ知ってるかな」
なにか考えごとをしていた真一郎が、レンギョウの花、と声に出した。その唐突な言葉に首を傾げる。
「レンギョウ?」
「そう、バナナみたいな花」
きれいだよ、こっち。そう言って真一郎が脇道へそれる。急な方向転換についていけずに、小走りになって後ろから追いかけた。彼が案内してくれた先にあったのは、生垣に咲く黄色い花だった。この時期よく見かけるちいさな春の象徴だ。
「どう?」
「すてき」
わたしの答えを聞いて、真一郎が笑顔を見せる。さっきわたしが言葉に詰まってしまったことなんて、気にしていない顔だった。その表情を認めたあと、カメラを構えて花にピントを合わせた。高さを調節するために中腰になった腰の痛みも忘れて写真を撮り続ける。太陽の光も、いまは雲の影に隠れてほどよい明るさだった。
「きれいだね」
夢中で写真を撮っていたせいで、真一郎の存在を忘れていた。振り向くと、わたしの目の高さに合わせておおきな背をかがめた真一郎の視線とかちあった。えへへ、と、なにが面白いのか彼が笑う。そのきれいな目から逃げるように、たった今撮った写真をしゃがみこんでチェックした。同じようにすとんと腰を落とした真一郎を見て、一歩後ろへさがる。髪のあいだから盗むように見あげたら、彼はあさっての方向に目を向けていた。てっきりカメラを覗きこまれるものだと思っていたから、ほっと胸を撫でおろす。撮ったものを見られるのはどこか気恥ずかしい。
「さっきの、さ」
その場に流れた変な空気を壊したくて、真一郎をまっすぐ見あげながら訊いてみる。きょとんとした顔は、制服から想像する年齢にしてはすこしおさなかった。
「さっき、ねこになに話してたの」
うつむいて、カメラを一度撫でてから問いかける。一瞬の間が空いてから、合点がいったようにああ、とつぶやいた真一郎のことを見あげた。また笑った彼の、笑顔以外の表情は、もう想像できなかった。
「ねこに会ったらとりあえず話しかけるんだ。そうしないと、どのねこが話せるやつかわかんないでしょ」
首を傾げて真一郎が笑う。彼が話すのを、黙って聞いていた。
「いままで一度も話せるねこには会ったことないんだけどね」
そう言って真一郎が頭を掻く。本当にねこが話すと思っているんだろうか。屈託のない笑顔だった。
「ふふ」
おかしな子だと思った。なんだか一気に力が抜けて、ちいさく吹き出す。背が高い彼の顔を見あげるのは一苦労なはずなのに、それを苦に思わない自分に気づいたときには、彼のとなりにいる心地よさに慣れきっていた。
電源を切っていた携帯電話を確認すると、メールが一通届いていた。差出人の名前を一瞥して、迷ってから文面を読む。「元気ですか」という母からの連絡だった。このひとは、毎日のようにこうしてメールを送ってくる。返事なんて考えようとも思わなかった。メールを削除して携帯電話をベッドに投げる。朝から気分が悪い。
支度をしてスニーカーを履く。春物のコートはまだ必需品だ。携帯電話は電源を切って置いていくのがいつもの習慣だった。無駄なものは、なにひとつ持っていたくない。シャワーを浴びたばかりの髪の毛から、シャンプーのにおいがふわりと香った。たんすのなかに残りわずかしかなかった服を思い出して、帰ってきたら洗濯をすること、と頭のなかの予定表に書きこむ。帰宅するころには日は落ちているだろうけれど、どうせ部屋干しをするのだから、天気なんて関係ない。アパートを一歩出たら、外はやっぱり腹立たしいくらいに晴れていた。
ゆうべ思い浮かべたのは、この街の中心地である駅の周辺だった。目的地へ向かう途中も、被写体がないかとあたりを見回す。カメラはボタンひとつですぐに撮影できる状態のまま手のひらのなかに収まっていた。ファインダーを覗いていないときでも、わたしの目はカメラと同じように世界を見ている。どんな色で映るか、どれくらい光をうまく取りこめるかを予測する。そうして見つけた駐車場へ足を踏み入れた。アスファルトの隅を探すと、そこにはちいさな草があった。迷うことなく寄っていってしゃがみこむ。
ヒメオドリコソウ、という名前は小学生のときに習った名前だ。いまでも覚えているのは、その名がとてもきれいに思えたからだった。実際、そのむらさきの花は、陽射しのなかでたのしそうだった。この時期、わたしのように空き地ばかりを撮影場所にしているとこの草にはよく出会うのだけれど、今日はこの陽射しのせいで、その姿がいつも以上にうつくしかった。群れるように咲く花のなかで一際おおきいひとつを見つけて、思わずうなずく。花の背と同じ高さまでカメラをさげて、ファインダーに映っているはずの画を想像する。地面ぎりぎりに手を伸ばすために、人目もはばからずにひざをついた。ピントを合わせる機械音が聞こえてから、ぶれないようにシャッターを切る。知らずのうちに止めていた息を吐いて画面を覗くと、そこにはやっぱり、色を失って白っぽく写るヒメオドリコソウがあった。肩に力が入って、頭に血がのぼる。
この安物のコンパクトカメラで変えられるだけの設定を調整して、何度撮っても状況は変わらなかった。一気に気持ちが重くなる。そこに誰がいるわけでもないけれど、空をぐっと睨んでみた。これだから、青空は嫌いだ。
今日一日の気分は決まったようなものだった。それからはなにを見ても色が褪せて見えて、カメラを構えるのすら億劫だった。視界がぐっと低い位置まで下がっているのがわかる。姿勢が悪くなって、息が苦しくなる。最近いつもこうだ。何もかもがうまくいかない。腕時計を見ると、ちょうど大学の昼休みの時間だった。光の差しこむ学食で、学生が食事を摂る様子を思い浮かべる。昨日からなにも食べていないけれど、空腹は特に感じなかった。この腕時計のベルトの穴は、いつのまにかひとつ内側へちいさくなった。真面目に大学に通っていたころは、痩せようと努力しても変わらなかったのに、いまでは体重を減らすのはたやすいことのように思える。ただ食べなければいいのだ。食べたいと思う気持ちも、最近ではとてもちいさいものになっていた。
集中できないままもくもくと歩き続けて、そして、気づいたら知らない道に出ていた。駅までは一本道だ。間違うはずがない。きっと、ゆうべ考えていた道の先へきてしまったのだ。
「……迷った」
この街は城下町だ。迷路によく似たこの周辺の道路に入ってしまうと、ただひたすら歩き続ける以外に知っている道へ出る方法はない。だけどいまのわたしに、そうするだけの気力は残っていなかった。天気がよすぎるのも考え物だ。青空が、わたしから力を奪っていく。仕方がないから、足が向くままあてもなく狭い道を歩いていった。歩いていればいつか知っている道に出るだろう。道はつながっているのだ。慌てそうになる胸を落ち着けようと深呼吸をする。
せっかくきたかった場所にこられたのだから、楽しまなくては損だ。はじめてきた路地で、ごくごく普通のモンシロチョウが花壇に止まるのを見つけては、追いかけてカメラを構えた。モンシロチョウの白い羽が、光を弾いて画面が真っ白になる。雲が太陽にかかった瞬間を狙うようにしてカメラを構えた。どうにか上手く撮れないだろうかとカメラとにらめっこをする。
にゃあ、と鳴き声が聞こえたのはそのときだった。ねこの声につられて、一層細い道へ足を踏み入れる。カメラを構えて追いかけた先にいたのは、ねこだけではなかった。
黒い身体。それが、第一印象だった。
「お前はどっからきたんだ?」
長い手足を折り曲げて地面にひざをつけたその男の子は、抱きあげたねこに一生懸命話しかけていた。真っ黒な制服を着ているから、たぶん、わたしより若い。同じく黒い髪の真上から、さんさんと太陽の光が降り注いでいる。惹かれるようにカメラを構え直してシャッターボタンを半押しすると、耳に馴染んだジジジという音とともにカメラがピントを合わせた。カメラに画が刻まれると同時に、彼がこちらを向いた。驚いて「うわっ」と声が出て、しゃがみこんだまましりもちをつく。彼の様子を伺うと、黒い瞳がわたしを不審そうに見つめていた。その視線の力強さに押されて、思わず身体を後ろに引く。すみません、写真を撮ってるだけです、と、口にするのが精いっぱいで、彼の目から逃れるように目をそらした。わたしも彼も動こうとしない。緊張感のある時間に、耐えきれなくなりそうだった。
そのとき、彼の手のなかにいたねこがにゃあと鳴いて逃げ出した。すばやいその動きに、ふたりとも口をあけたままちいさな背中を見送る。ぷっ、と吹き出したのは彼だった。制服の袖に額を当ててしばらく笑い続ける。呼吸を乱して顔をあげた彼は、そこではじめてわたしに笑顔を向けた。真昼の空は、ぐっと高くて澄んでいる。昔からずっと建っていたような建物の並ぶ駅前の裏通りで、わたしと真一郎は出会った。
迷ったと告げると、彼は案内役を買って出てくれた。
ここらへんわかりにくいもんねと言う黒い背に着いていくと、見知った道へはすぐに出られた。わたしはずいぶん狭い範囲で迷っていたらしい。知っている場所へこられたのだから、もう別れてもいいはずなのに、わたしたちはどうすることもできずに立ち尽くしていた。まっすぐに見つめる視線が、うつむいたわたしの頭に刺さっているのがわかる。
「名前、なんていうの」
名も知らなければお礼も言えない。並んで立つとわたしの目は彼の胸の高さにあったから、ぐっと顔をあげないと彼の表情も見えなかった。
「真一郎。そっちは」
わたしが敬語を崩したからか、真一郎も軽い口調で声を出した。だけどずっと浮かべられている笑顔とその年齢から想像するほど、その言葉は嫌な軽さを持ってはいなかった。ひより、と返すと、真一郎はちいさく、ひよりね、と確かめるように口にした。その声が低くやわらかくて、わたしは真一郎と会ってはじめて、緊張が解けたような気がした。
「よかったらここらへん案内しようか。写真撮ってるんでしょ」
そう言って真一郎がまた笑う。
「時間あるなら一緒にいこう。今日は天気がいいから、ねこがたくさんいるかもしれない」
真剣な表情をしてずいぶん無邪気な言葉を言った真一郎に、今度はわたしが笑う番だった。
「あ、笑った」
わたしの顔を覗きこむように真一郎が腰を折る。まんまるの目が、楽しそうに細められた。
「ずっと無表情だったから、機嫌悪いのかと思った」
馴れ馴れしくしすぎたかもって焦ってたと、照れたように彼が笑う。それにわたしも笑い返して、カメラを持ちあげてみせる。
「いいよ、いこう」
誘いへの答えだ。ついさっきまで青空にすらいらいらしていた自分はどこかへいってしまったみたいだった。いこう、と真一郎が先に進む。うん、とうなずいて、足を一歩踏み出した。
「なにを撮りにきたの」
わたしの手に収まったカメラを覗きこむようにして、背の高い彼が背を曲げる。カメラを親指で撫でてから、真一郎を見あげた。
「花とか、風景とか」
わたしは普段、植物や建物を好んで撮影していた。動くものを撮るのは苦手だ。とくに人物は、もっとも撮りたくないものだった。相手のいきいきした表情を写真に閉じこめられないし、そもそもそういう顔をさせるのも苦手だった。人付き合いはあまり得意ではない。大学でも、友達といるよりひとりのほうが楽だった。いつかは人物を撮ってみたいと思っていながら、うまくいかないことがこわくて手を伸ばせずにいる。
「じゃあ、俺を撮ったのはなんで?」
真一郎が不思議そうに首を傾げる。それは、と口ごもる。カメラを構えるのは、心が動いたからだ。でもそれは、初対面の彼には言えそうになかった。もし本当のことを伝えて、気味悪く思われたらと思うと声が出ない。わたしの答えを待たずに、真一郎が上を向く。
「ねえ、あれ知ってるかな」
なにか考えごとをしていた真一郎が、レンギョウの花、と声に出した。その唐突な言葉に首を傾げる。
「レンギョウ?」
「そう、バナナみたいな花」
きれいだよ、こっち。そう言って真一郎が脇道へそれる。急な方向転換についていけずに、小走りになって後ろから追いかけた。彼が案内してくれた先にあったのは、生垣に咲く黄色い花だった。この時期よく見かけるちいさな春の象徴だ。
「どう?」
「すてき」
わたしの答えを聞いて、真一郎が笑顔を見せる。さっきわたしが言葉に詰まってしまったことなんて、気にしていない顔だった。その表情を認めたあと、カメラを構えて花にピントを合わせた。高さを調節するために中腰になった腰の痛みも忘れて写真を撮り続ける。太陽の光も、いまは雲の影に隠れてほどよい明るさだった。
「きれいだね」
夢中で写真を撮っていたせいで、真一郎の存在を忘れていた。振り向くと、わたしの目の高さに合わせておおきな背をかがめた真一郎の視線とかちあった。えへへ、と、なにが面白いのか彼が笑う。そのきれいな目から逃げるように、たった今撮った写真をしゃがみこんでチェックした。同じようにすとんと腰を落とした真一郎を見て、一歩後ろへさがる。髪のあいだから盗むように見あげたら、彼はあさっての方向に目を向けていた。てっきりカメラを覗きこまれるものだと思っていたから、ほっと胸を撫でおろす。撮ったものを見られるのはどこか気恥ずかしい。
「さっきの、さ」
その場に流れた変な空気を壊したくて、真一郎をまっすぐ見あげながら訊いてみる。きょとんとした顔は、制服から想像する年齢にしてはすこしおさなかった。
「さっき、ねこになに話してたの」
うつむいて、カメラを一度撫でてから問いかける。一瞬の間が空いてから、合点がいったようにああ、とつぶやいた真一郎のことを見あげた。また笑った彼の、笑顔以外の表情は、もう想像できなかった。
「ねこに会ったらとりあえず話しかけるんだ。そうしないと、どのねこが話せるやつかわかんないでしょ」
首を傾げて真一郎が笑う。彼が話すのを、黙って聞いていた。
「いままで一度も話せるねこには会ったことないんだけどね」
そう言って真一郎が頭を掻く。本当にねこが話すと思っているんだろうか。屈託のない笑顔だった。
「ふふ」
おかしな子だと思った。なんだか一気に力が抜けて、ちいさく吹き出す。背が高い彼の顔を見あげるのは一苦労なはずなのに、それを苦に思わない自分に気づいたときには、彼のとなりにいる心地よさに慣れきっていた。
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