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デジタルカメラが音を出した。不思議に思ってカメラの液晶画面を確認する。いつの間にか、ピントを合わせられないほど辺りが暗くなっていたらしい。いたた、と独り言を口にしてから、周りに誰もいないか首をひねって見まわす。普段から人通りの少ない路地には、今日もやっぱりひとの姿はなかった。カメラのストラップを手首に通して、背をそらして伸びをする。地面にひざをつけてしゃがんでいたせいで、腰や肩が硬くなっていた。深く息を吐いて足元を見ると、毎日履いてすっかりくたびれたスニーカーに、爪先を折っていた痕がついていた。
建物のうえに見えていた夕陽が屋根の向こうに消えて、ちいさな空き地が真っ暗になる。遠くから白新線の電車が走る音が聞こえてきた。腕時計で確認して、五時間目の講義が終わったばかりだと知った。同級生が乗る電車の明かりを思い浮かべながらあたりを眺める。無数に咲いたシロツメクサだけが、足元もよく見えない空間でぼんやりと光っていた。急に冷たくなった風に揺られて、その光が地面でうごめく。
今日で大学を休んだのは何回目だろうかと考えてから、そんな自分を嘲笑うように唇が歪む。今年度の履修すら決めていない。挽回できる時期はとうに過ぎていた。
闇が濃くなるにつれてどんどん肌寒くなっていく。まだ春は浅くて、昼間はあたたかくても朝晩はぐっと冷えた。部屋に帰るのは気が重い。けれどこの暗さでは、カメラはうまく言うことを聞いてくれそうにもなかった。もう一度シロツメクサに目をやってから、その場を離れる。
街灯や商店が少ないこの街の夜は暗い。おおきな国道をそれれば、そこには田んぼや畑を覆う、より深い闇が広がっている。まばらに車が走り抜ける以外に、動くものはなかった。自分の息遣いだけがこもったように耳に届く。なにげなく見あげた空は、ぼんやりと霞んでいて、天井があるような息苦しさを感じた。
空の端に残っていた橙色が完全に飲まれて薄い黒になったころ、アパートにたどり着いた。エントランスの前に立つたび、その古い建物を見あげるのがわたしの癖だった。おおきな通りから入った路地にあるアパートの二階が、わたしの住処だ。サビが目立つ階段を、一歩一歩踏みしめてのぼる。足が重くて、平坦で分厚いスニーカーのソールを恨めしく思った。階段をあがりながら探り出した鍵を、部屋のドアに差しこむ。部屋の鍵とキーホルダーがぶつかりあう甲高い音が狭い廊下に響いて、思わず息をひそめた。
電気をつけて、部屋の隅に置かれたベッドに倒れこむ。ぎし、と音を立てた床が階下の住人の癇癪を招かなかったか気になって、また息をひそめて耳を澄ませてみても、大通りから車の音が聞こえてくる以外はなにも聞こえてこなかった。この部屋に住みはじめて一年も経つのに、となりに住むひとの性別すら、わたしは知らない。
突っ伏していた顔を横に向けて、狭い部屋を見る。ベッドの足元に積まれた洋服と、ごみ袋から溢れるコンビニ弁当の容器を眺めた。泥棒に入られたかと思うほど荒れた空間に、ひとりで笑う。それ以外の床はほとんど、プリントアウトした写真で埋まっている。適当にばら撒いているように見えても、わたしはきちんと、どこにどの写真があるか把握していた。壁の白いこの部屋で、その写真の色はどれも沈んで見えた。
もっと撮りたい。部屋を眺めていると、足が勝手に貧乏ゆすりをはじめそうだった。いますぐここから出ていきたい衝動が、身体のなかで暴れる。カメラを持たずにじっとしているのはつらい。それでも衝動を抑えこもうと努力するのは、外に出ていっても夜のカメラは無力だと知っているからだ。
夕陽の熱が部屋にはまだ残っていて、思考も視界もぼんやりとかすむ。すこし前にはまだ冷たかった布団が、いまではもうずいぶんと柔らかく肌になじむようになっていた。それでもやはり夜は冷える。リモコンに手を伸ばして、空調の電源を入れる。生温かい風が、肩につく髪を揺らした。足元で丸まっていた布団と毛布を顔のそばまで持ってきてくるまる。そのまま瞼がゆっくり閉じていくのを、遠のく意識のなかで感じながら抗おうとは思わなかった。
次に目が覚めたとき、時計は午前零時を過ぎていた。眠っているあいだは気にならなかった蛍光灯の光が刺さるように目について、半分まぶたを閉じた状態でじっとしていた。夜は眠るしかないのだ。外にいても、カメラはなんの役にも立たない。このまま目を閉じればもう一度眠ってしまえる。それくらいぼんやりとした意識のなかで、うつらうつらと考えごとをする。ひとり暮らしは気楽だ。食事も風呂も着替えも、明日に先延ばしにしたって誰も怒りはしない。深夜の街はとても静かで、ものごとを考えるにはうってつけだ。
頭のなかに、この街の中心地を思い浮かべる。細い路地にひしめくように建つ建物のあいだを、わたしはカメラとちいさなかばんを持って歩いていく。明日はどこへ行こうか。狭い通りを進んでいって、映像が鮮明に思い出せなくなった場所を思い出す。その先にある被写体を想像するだけで、憂鬱な夜もあっというまに過ぎていきそうだった。もう一度眠って、早起きをしてあそこへ行こう。そう決めたら、もう眠くて明日のことは考えられなくなった。
電気を消そうか一瞬迷ってから、重いまぶたに抗うのをやめた。身体の力が一気に抜けて、呼吸がぐっと深くなる。頭のなかに路地の様子を思い浮かべながら、そうしてわたしは、眠りに落ちた。
建物のうえに見えていた夕陽が屋根の向こうに消えて、ちいさな空き地が真っ暗になる。遠くから白新線の電車が走る音が聞こえてきた。腕時計で確認して、五時間目の講義が終わったばかりだと知った。同級生が乗る電車の明かりを思い浮かべながらあたりを眺める。無数に咲いたシロツメクサだけが、足元もよく見えない空間でぼんやりと光っていた。急に冷たくなった風に揺られて、その光が地面でうごめく。
今日で大学を休んだのは何回目だろうかと考えてから、そんな自分を嘲笑うように唇が歪む。今年度の履修すら決めていない。挽回できる時期はとうに過ぎていた。
闇が濃くなるにつれてどんどん肌寒くなっていく。まだ春は浅くて、昼間はあたたかくても朝晩はぐっと冷えた。部屋に帰るのは気が重い。けれどこの暗さでは、カメラはうまく言うことを聞いてくれそうにもなかった。もう一度シロツメクサに目をやってから、その場を離れる。
街灯や商店が少ないこの街の夜は暗い。おおきな国道をそれれば、そこには田んぼや畑を覆う、より深い闇が広がっている。まばらに車が走り抜ける以外に、動くものはなかった。自分の息遣いだけがこもったように耳に届く。なにげなく見あげた空は、ぼんやりと霞んでいて、天井があるような息苦しさを感じた。
空の端に残っていた橙色が完全に飲まれて薄い黒になったころ、アパートにたどり着いた。エントランスの前に立つたび、その古い建物を見あげるのがわたしの癖だった。おおきな通りから入った路地にあるアパートの二階が、わたしの住処だ。サビが目立つ階段を、一歩一歩踏みしめてのぼる。足が重くて、平坦で分厚いスニーカーのソールを恨めしく思った。階段をあがりながら探り出した鍵を、部屋のドアに差しこむ。部屋の鍵とキーホルダーがぶつかりあう甲高い音が狭い廊下に響いて、思わず息をひそめた。
電気をつけて、部屋の隅に置かれたベッドに倒れこむ。ぎし、と音を立てた床が階下の住人の癇癪を招かなかったか気になって、また息をひそめて耳を澄ませてみても、大通りから車の音が聞こえてくる以外はなにも聞こえてこなかった。この部屋に住みはじめて一年も経つのに、となりに住むひとの性別すら、わたしは知らない。
突っ伏していた顔を横に向けて、狭い部屋を見る。ベッドの足元に積まれた洋服と、ごみ袋から溢れるコンビニ弁当の容器を眺めた。泥棒に入られたかと思うほど荒れた空間に、ひとりで笑う。それ以外の床はほとんど、プリントアウトした写真で埋まっている。適当にばら撒いているように見えても、わたしはきちんと、どこにどの写真があるか把握していた。壁の白いこの部屋で、その写真の色はどれも沈んで見えた。
もっと撮りたい。部屋を眺めていると、足が勝手に貧乏ゆすりをはじめそうだった。いますぐここから出ていきたい衝動が、身体のなかで暴れる。カメラを持たずにじっとしているのはつらい。それでも衝動を抑えこもうと努力するのは、外に出ていっても夜のカメラは無力だと知っているからだ。
夕陽の熱が部屋にはまだ残っていて、思考も視界もぼんやりとかすむ。すこし前にはまだ冷たかった布団が、いまではもうずいぶんと柔らかく肌になじむようになっていた。それでもやはり夜は冷える。リモコンに手を伸ばして、空調の電源を入れる。生温かい風が、肩につく髪を揺らした。足元で丸まっていた布団と毛布を顔のそばまで持ってきてくるまる。そのまま瞼がゆっくり閉じていくのを、遠のく意識のなかで感じながら抗おうとは思わなかった。
次に目が覚めたとき、時計は午前零時を過ぎていた。眠っているあいだは気にならなかった蛍光灯の光が刺さるように目について、半分まぶたを閉じた状態でじっとしていた。夜は眠るしかないのだ。外にいても、カメラはなんの役にも立たない。このまま目を閉じればもう一度眠ってしまえる。それくらいぼんやりとした意識のなかで、うつらうつらと考えごとをする。ひとり暮らしは気楽だ。食事も風呂も着替えも、明日に先延ばしにしたって誰も怒りはしない。深夜の街はとても静かで、ものごとを考えるにはうってつけだ。
頭のなかに、この街の中心地を思い浮かべる。細い路地にひしめくように建つ建物のあいだを、わたしはカメラとちいさなかばんを持って歩いていく。明日はどこへ行こうか。狭い通りを進んでいって、映像が鮮明に思い出せなくなった場所を思い出す。その先にある被写体を想像するだけで、憂鬱な夜もあっというまに過ぎていきそうだった。もう一度眠って、早起きをしてあそこへ行こう。そう決めたら、もう眠くて明日のことは考えられなくなった。
電気を消そうか一瞬迷ってから、重いまぶたに抗うのをやめた。身体の力が一気に抜けて、呼吸がぐっと深くなる。頭のなかに路地の様子を思い浮かべながら、そうしてわたしは、眠りに落ちた。
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