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わし座(+アンティノウス座)
消えた星座の記憶
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……意識がふと身体に戻った時、青年は茶黒く泥濘した世界に居るのだと気付いた。
次第に様々な感覚が研ぎ澄まされていく。濁流の音が耳のすぐ横で流れて行くのが分かる。全身に冷たいものが覆い被さる。とてもとても寒い。
そうか、今の自分は汚れた河に流されている。自ら入水してつま先の付かない河底に辿り着き、水の勢いに任せて流されている最中なのだ。
取り込もうとした空気が全て泥水に代わり、肺に水が流れ込んで激しく水中でもがいた。
――息が出来ない、苦しい、寒い、死んでしまう! いや、それが目的だったではないか。しかし水の中で息絶えようとする事が、こんなにも辛く苦しいことだったとは。一思いに死ぬつもりが、一瞬でも助かりたいと魂の叫びが脳裏を過ぎる。
青年は流される中で涙していた。本当は神に身を捧げる為に入水したのだ。だがこんなにも生に抗って、これで神に示しがつくだろうか。
――祈ろう。いずれ天使達が我が身を持ち上げて、神の元に連れて行ってくれる。そして乞うのだ。我が身を煌めく星と変え、最愛の人の幸せと栄光をいつまでも照らし続けたいと……。
青年がもがくのを止めた瞬間、何かに強く引き上げられる感覚がした。そして大勢の男達のざわめく声が聞こえ、その中から確かに、最愛の人の愛おしい声が聞こえた。
「――アンティノウス!! あぁ……何故こんな事を……!」
その声はローマ帝国第十四代皇帝ハドリアヌスであった。
皇帝は自国拡大の為に遥々南の砂国まで遠征に行き、見事勝利を収めて帝都に帰還する途中だった。それが今、皇帝は震える手で青年の体を抱き締め、普段見せない涙を流して大声で嗚咽している。
アンティノウスと呼ばれる青年は、元々奴隷の出身だった。それが類稀なる美貌ゆえに皇帝ハドリアヌスの寵児となり、こうして遠い地の戦でも皇帝の傍に置かれていた。
アンティノウスは、身も心も全てを皇帝に捧げていた。そして皇帝も奴隷出身の青年に、身に余る程の寵愛を与えていたのだった。二人は確かに愛し合っていた。それが青年にとってはとても誇らしく、喜ばしく思っていた。
だが、いつの頃からだろうか。アンティノウスが尊敬の眼差しで見上げていた皇帝の目線は、徐々に低くなっていった。
アンティノウスが成長したのだ。そして滑らかな肌や髪は次第に艶を無くし、張りを失い萎んでいく。皇帝が新しい土地を手に入れれば、そこから自分の代わりを幾人も連れて来るだろう。それがアンティノウスにとって、どんな未来をもたらすのか。
――だから決めたのだ。この身が美しいうちに、永遠の捧げ物を差し上げようと。
「ハ、ハドリアヌスさ、ま……今でも、私を……あい、して……おいでですか……」
「当たり前であろう! 何故その身を粗末にした!? 申してみよアンティノウス!!」
皇帝ハドリアヌスは、国内外で賢帝であると讃えられている。それが自我を忘れて取り乱し、怒りと悲しみに溢れた姿は、今まで誰も見た事がない。
しかしアンティノウスにとって、それこそが本当に見たい愛する人の姿だった。自分の為に取り乱し、涙を流している。嗚咽する皇帝を見て、アンティノウスは自分がどれだけ大切に思われていたのかようやく理解できる。だが、その代償はあまりにも大き過ぎるものだった。
「……貴方を、愛しているからこそ……私の命は天に瞬く星となり……貴方の栄光を永遠に……輝かす、のです……」
その声は微かで、愛する人の耳に届いたか分からない。アンティノウスは掠れていく視界の中、皇帝の泣きじゃくる愛おしい表情に微笑んで、ゆっくりと瞳を閉じた。
* * *
ローマ帝国・第十四代皇帝ハドリアヌスの生きた時代から、遠い遠い遙か未来。
人間と言われた種族をはじめ、銀河に生きる全ての種族が交わり進化に進化を重ねた。やがて彼らは身体や性別という殻を超越した、恒星から産まれ落ちる星ビトとなった。
恒星は守護星と呼ばれ、星ビトは自身の守護星と命を共有した。その為どちらかの命が終われば、もう一方も同時に今生を終える。
この星ビト達が生きる世界『全天オデュッセイア』は、夜空を彩る八十八星座を元に八十八の国で構成されていた。この世界は王制だ。地位は一等級から三十四等級まで存在し、各国の最輝星の守護星を持つ星ビトが王となり自国を統治している。
そして王以外の星ビト達は、守護星の等級によって戦士であるのか、または平民として生きるのかが決められる。その為この全天オデュッセイアでは、守護星が何等級であるかが、星ビトの人生を左右する大きな役割を持っていた。
「――貴方を愛しているからこそ、私の命は天に瞬く星となり、貴方の栄光を永遠に輝かすのです……か……」
鷲国、四等級イータ星を守護星に持つ青年べゼクは、毎晩河で溺れる夢を見る。彼は物心ついた頃から何十回、何百回と同じ場面を見続けていた。
そして今夜もまだ夜が明けないうちに夢にうなされ、彼はぐっしょりと大量の汗をかいて目覚め、寝る事を諦めた。
なぜ同じ夢を見るのか理由は分からない。最後に聞こえる哀しげな言葉も、今では一字一句違わず唱えてしまえる様になっていた。
その夢を見る様になって以来、べゼクは当然ながら熟睡できた事は一度もない。そのせいで彼はいつも寝不足で、朝日の強い光に照りつけられると眩暈を起こして具合が悪くなっていた。
自分が生きているのか死んでいるのか分からない意識の中、それでも彼には心を休められる場所が一つだけ存在した。べゼクが住まう村から、暫し北へ歩いた所に建つ美術館がそれである。
そしてべゼクは、夜の不安と心身の怠さを少しでも解消する為に、今日もその美術館へと足を運んだのであった。
美術館は大昔に文明を築き上げていた、『人間』という種族の建造物を参考に造られたものだという。その館内には、太古の昔から受け継がれてきた歴史書、調度品、文化物、民芸品がひしめき合って並んでいる。
その中でも、館内の中央に置かれた美しい青年の巨大な石像。べゼクはその前の椅子に座って、像を見上げるのが日課となっていた。
石像はベゼクと同じ年の頃に見える。大きな瞳にバランスの良い鼻筋。クルクルと巻かれた髪は、彼の癖毛とそっくりだ。
毎日その石像を見上げていると、時に心が深く休まり、時にとても眠くなり、時にとても悲しくなって涙を流すこともある。同時に何かとても大事な事を忘れている気がして、彼は答えを求めてつい長居してしまっていた。
ベゼクが色んな感情に想いを馳せながら見上げていると、とある日、片眼鏡をかけた優しそうな男がベゼクの隣で立ち止まり声をかけてきた。
「……毎日この石像を眺めているというのは、君かね?」
「ア、アルシャイン様!? は、はい! そうです!」
べゼクの傍に来たのは、この美術館を建てた男、二等級の守護星を持つアルシャインであった。
アルシャインは鷲国・君主『アルタイル王』直属の騎士隊長を担っている。しかしそれだけに留まらず、勉学にも優れて学者となり、正に文武両道を体現した偉大な人物として知られていた。更に部下や民衆達の心に寄り添う姿は、歴史の中でも指折りの賢将だと国内外で謳われている。
無論、ベゼクもこのアルシャインに強い憧れを抱いていた。だが、それだけではない。以前ベゼクが不眠のせいで目眩を起こし倒れた時、アルシャインに助けられ手厚く介抱してもらった事をベゼクは鮮明に覚えている。
――あの時、大きく温かい掌で持ち上げられ、逞しい腕に抱きかかえられた。瞼を閉じているせいで視界は真っ暗なのに、包容力のある肌の感触と優しい声だけは聞こえる。自分を抱き締めてくれているのは、騎士隊長アルシャインだ。ベゼクは自身を介抱する声色でそう気付き、暗闇の中でも安心して身を預ける事ができた。
どこか懐かしいとさえ思えたのである。しかしなぜそう感じたのか分からない。ただその懐かしさが泣いてしまうほど嬉しくて、ベゼクはアルシャインの腕の中で久しぶりの深い眠りにつけたのだった――
それ以来ベゼクは、アルシャインを特別な眼差しで見つめ、賢将の凛々しい姿を見る度に心が熱くなった。
しかし相手は皆が憧れる雲の上の人だ。自身が賢将と馴れ馴れしくするなど、できる筈も無い。それが今、憧れの人が自分に近づき、声をかけてくれている。賢将の凛々しい瞳に自身が映り、存在を気にかけてもらっている。
ベゼクはいつもの眠気が吹き飛び、体中の血液が一気に沸騰して心臓が飛び出そうになった。
「まさか、賢将であらせられるアルシャイン様から、直々にお声を掛けてくださるとは……!!」
「君は……ベゼク君と言ったな?」
「えっ!? ぼ、僕の事をご存知で……!?」
まさか憧れの賢将に名前を覚えられていたとは、べゼクは露ほどにも思っていなかった。しかも落ち着いた声色で自身の名を呼ばれ、青年の顔が否応なく真っ赤になる。しかしアルシャインは、自分の事でべゼクが慌てているとは気付いていない。
「ベゼク君。なぜ君は毎日この石像を眺めている?」
アルシャインは冷静な表情を崩さないまま、ベゼクの肩にそっと右手を置いて一つの疑問を投げかけた。
「君は、よっぽどこの石像を気に入っているように見える……」
「は、はい! そ、それはですね……あの……ここに座ってこの石像を眺めていると、自然に心が休まるんです……」
「ほう、心が休まると……」
「……実は僕、毎晩河で溺れる夢を見て、夜も眠れません。だから毎朝寝不足でフラフラになるんですが、不思議とこの石像を見ると、疲れが癒されるというか、ホッと出来るというか……」
「何……その夢、もっと詳しく聞かせてくれないか」
「えっ?」
アルシャインはベゼクの言葉に異常な興味を示し、急に目を見開いた。威厳ある大きな体でベゼクの目の前に立ちはだかり、青年の華奢な両肩を強く掴んだ。
「何故、毎晩河で溺れる夢を見る? 何か理由となるものは分かるか?」
普段冷静で優しい面持ちの賢将とは、雰囲気がまるで違う。掴まれた肩は痛みすら感じ、しかしアルシャインの必死な表情に、ベゼクは拒む言葉すら吐き出せない。
「ベゼク君! 河というのはどんな河だ!? 景色は!? 建物は!? 些細な事でも良い、教えてくれ!」
「あの、景色は……こ、この国やオデュッセイアの様な景色ではなく、見た事のない不思議な景色でした……その……茶色いサラサラとした土が一面に広がってて……で、でも、僕はその茶色い土に流れる大きな河で溺れてしまうんです……ご、ごめんなさい! それ以上分かりません……建物とかも分かりません……アルシャイン様に失礼があったら謝ります!」
ベゼクは完全に怯んでしまっていた。毎日ここを訪れるのが迷惑だったのだろうか。
憧れと恋焦がれていた相手を怒らせてしまったのなら、もうここには来れないだろう。そう思うと、幾つもの悲しみがベゼクの心を打ち、彼は萎縮して顔を俯かせてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……迷惑でしたら、もうここへは来ませんから……」
「あ、いや……違うのだ。君に怒っているわけではない。突然興奮してしまい、私こそすまない……」
怯えるベゼクに気付いたアルシャインも直ぐさま冷静になり、掴んでいた両肩を離して一歩身を引いた。
「君を怖がらせてしまったのなら申し訳ない……では、話題を変えよう。ベゼク君は、この石像が誰であるか知っているか?」
「い、いえ……」
ベゼクは未だ怯えた表情のまま、微かに顔を見上げる。その視線の先に映るアルシャインは、石像の青年を愛おしくも悲しそうに見つめていた。
「……この石像はな、太古の昔、宇宙の片隅で文明を繁栄させた『人間』という種族の『アンティノウス』という青年だ」
「アン、ティノウ、ス……?」
「そうだな……君が知らないのも無理はない。ただ、この青年は実在した人物で、絶世の美青年だったと言われている。そしてこの人物は当時の皇帝の寵児として愛され、遠征の途中、河で溺れ死んだのだ」
「河で溺死!?」
ベゼクは毎晩河で溺れる夢を見る。ベゼクがこの石像に惹かれる理由は、単なる偶然だろうか。
「だが、本題はここからだ。アンティノウスの話はこれに終わらぬ。彼を心から愛していた皇帝ハドリアヌスは、その悲しみから天空の星空にアンティノウスを描き、この者の魂を星座に召し上げたのだ」
「え? でもそんな創世神話、全天オデュッセイアの、どの国のお話にも無かったような……」
ベゼクの疑問に、アルシャインは大きく頷いた。
「アンティノウス座は我々の国の星座、わし座のすぐ下に存在した。そして私の守護星はアンティノウス座の頭部を、君の守護星は心臓を司っていたのだ。だが、全天オデュッセイアが制定される時、実在した人物を国名に出来ないという理由で、アンティノウス座はわし座の一部として消えていったのだ……」
「そ、そんな……僕の守護星が消えた星座の一部だったのですか!?」
ベゼクは気が遠くなりそうになった。数えきれない思いや感情が、頭の中で渦巻いている。
アンティノウス座の存在など、今まで全く知らなかった。ではなぜベゼクは、自然にこの石像に吸い寄れられて行ったのだろうか?
「どうして……僕は……なんで……? じゃあ、毎晩見る夢は……? 僕は一体……?」
頭を抱えて項垂れるベゼクに、アルシャインは優しく手を添えて背中をさすった。
混乱するのも無理はない。アルシャインはベゼクの心を汲み、細い腰と右手を支えて狼狽える青年を立ち上がらせた。
「……君にぜひ見せたい物がある。一緒に行こう」
アルシャインが向かったのは、美術館の地下にある考古学研究室だった。
細く長い階段をしばらく降り、向かう先の明かりが大きくなると、部屋の中の様子を目の当たりにしてベゼクは言葉を失った。
「これは……!! アンティノウスの石像や絵画がいっぱい!!」
部屋は決して広くはない。研究室と言っても、アルシャイン一人が使うための質素な空間である。その中に、毎日眺めていた石像と同じ顔の像や絵画が、ひしめき合う程に置かれている。そのどれもが綺麗に手入れされ、大事に安置されていた。
「君に見せたい物はそれらではない。この布で覆った胸像だ」
それは部屋の一番奥、透明な硝子箱の中で一際大事に保管されていた。
そして蓋を開けて覆った布を取り外せば、中には二体の胸像が仲睦まじく寄り添うように置かれていた。
「あ……もしかしてこれって……」
一つは周りと同じ顔のアンティノウスの胸像だ。だがもう一つは全く違う、成人男性の男らしい胸像が並べられている。
「僕、知ってます……この顔、見覚えが…………!!」
ベゼクは思わず男の像の石頬を撫でた。すると脳裏にあの夢の景色が鮮明に蘇り、石像の男の血が通った笑顔、怒る顔、勇ましい顔、悲しむ顔が次々と脳裏に浮かんだ。
指先から意識の裏に向かって、思い出したかった記憶が噴水のように湧き出てくる。
――そうだった。皇帝ハドリアヌスに愛されてとても幸せだった。皇帝はいつも自分に優しくしてくれて、いつも傍に置かせてくれて、一日に何度も愛の言葉を囁いてくれた。奴隷だった自分を宮廷に召し上げてくれて、毎日これ以上ない幸せを噛み締めていた――
ベゼクの心に、アンティノウスの感情が雪崩れ込んでくる。頬には大粒の涙が滝のように溢れ出ていた。
「そう、思い出しました。ううん、これは僕の昔の記憶ではなく、アンティノウスの感情が訴えてるだけかも知れませんが……確かにこの顔を、ハドリアヌス様をとても愛していた……来世で地獄に落ちても良いぐらい、深く深く愛していました……」
「ベゼク……」
「でも、その幸せの裏で不安もあったのです。いつか、皇帝に捨てられてしまうのではないかと……」
ベゼクの両手が震えている。永遠とも思える時間、ずっと封印されていた記憶が壺をひっくり返したように溢れ出し、ベゼク自身どこまで許容できるか分からない。
その姿にアルシャインはそっと傍に寄り添い、慰めるようにベゼクの手を優しく握った。
「辛かったら、無理に話さんでも良いのだぞ……」
しかしベゼクは首を横に振った。そして潤んだ瞳でアルシャインを見つめ、どうしても聞いて欲しいと震える口元で声を振り絞った。
「……アンティノウスは少年の時、王宮へ召し上げられました。つまり皇帝は、少年であるアンティノウスを気に入っていたのです。ですがアンティノウスは成長して男らしくなっていく。皇帝はその姿を望んでおられないと思ったんです……」
「そして新たな寵児を見つけた時は、自分が捨てられると?」
ベゼクは涙を流しながら頷いた。だからこそ、捨てられる前に自分の命を神に捧げた。それがあの夢であった事も。
そしてベゼクは、脳裏にこびり付いたあの言葉が頭を過ぎった。
「――貴方を愛しているからこそ、私の命は天に瞬く星となり……」
半ば無意識に出た言葉だった。今ならこの言葉の意味が理解できる。
何度も夢の中で聞こえていた言葉は、アンティノウスが息を引き取る間際、愛しいハドリアヌスへ向けた最期の言葉であった。
「貴方の栄光を永遠に輝かすのです……だろう? ベゼクよ……」
「――っ!? アルシャイン様!? なぜその言葉を!?」
ベゼクが傍を見上げると、瞳を赤くさせたアルシャインがベゼクを見つめていた。
「当たり前だ……愛する人と交わした最期の言葉、史実にも誰にも知られていない二人だけの言葉……絶対に忘れるわけがないではないか」
そう言い終わらないうちにアルシャインがベゼクの身体を抱き寄せ、可憐な癖毛に顔を埋めた。
「ようやくっ! ようやく見つけたぞ! ずっと探し続けていた! アンティノウスの生まれ変わりを!!」
アルシャインの身体と両手が震えている。そして感情を抑え切れず、ベゼクの耳元で何度も嗚咽する。
ベゼクもその声を聞いて全てを察した。
「アルシャイン様、もしかして貴方様は……」
ベゼクの言葉に、アルシャインの抱き締める腕の力が一層強くなった。もう絶対に離さないと言わんばかりに、ベゼクの髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。
「……私は、アンティノウスの死をずっと悔やんできた。その思いを拭い切れず、生まれ変わる度にアンティノウスの面影を探し続けたのだ。ここにある石像や絵画は、全て前世の私が造らせた美術品だ。だが、ある時私は気付いた。自分自身がこうやって記憶を残しているのだ。きっとアンティノウスの魂も、同じように何度も転生して記憶を残し、生きているのではないかと……」
「それが……僕だった…………」
「ああ、そうだ。やっと見つけたぞ。もう何百と生まれ変わったか数えきれない。長い長い孤独だった……だが、やっとその苦しみからも解放される……」
ベゼクは夢の正体が分からず、長い間苦しみ続けてきた。しかし、ハドリアヌスだったアルシャインは、それ以上に長い時間、自責の念に駆られ苦しみ続けていたに違いない。
本当に辛かったのは、全てを知っていても何もできなかったアルシャインの方だったのではないか。
「ベゼク……いや、アンティノウスよ。すまない、本当にすまなかった……」
震えて謝る声が、痛々しくベゼクの心へ突き刺さる。そしてその思いに応えるよう、ベゼクはアルシャインの広い背中をそっと抱き返した。
「僕は……アンティノウスだった時のハドリアヌス様も、ベゼクである時のアルシャイン様も、両方とても尊敬しています。アルシャイン様はとても優しいのにお強くて、それでいてとても聡明で……僕が寝不足からの眩暈で倒れた時も丁寧に介抱してくれて……今だけでもたくさん感謝しています」
その言葉に、アルシャインは少し驚いた様子だった。まさかベゼクが現在の自分の事まで見ていてくれていたとは、微塵も考えていなかったのだろう。
抱きしめ合った腕を解かないまま、アルシャインは少しはにかんでベゼクに優しい眼差しを向けた。
「君が眩暈で倒れた時、私は君をアンティノウスに似た子供だと感じたのだ。そして君が毎日美術館に足を運んでくれるようになって、あの少年がアンティノウスの生まれ変わりなら……と心の中でずっと考えていた」
「えっ!? 僕の事なんか眼中にないと思ってたのに……そんな事思ってたんですか!? な、なんか恥ずかしいなぁ!」
実は、石像を眺めている姿をアルシャインに毎日見られていた。ベゼクは自分が一体どんな顔をしていたのだろうと想像すると、だらしの無いふ抜けた表情しか思い浮かばず、恥ずかしくなってどこかへ隠れてしまいたくなった。
だが慌てる青年へ向けるアルシャインの眼差しは、それすらも可愛いと感じて慈愛に満ち溢れている。
「ベゼクよ……昔のようになって欲しいとまでは言わん。しかし、この積年の想い、せめて私の傍にいてくれないだろうか……」
「僕でいいのですか!? 嬉しいです……勿論です!! アルシャイン様のお傍に居られるのなら、こんな幸せなことはありません!! あ、でも……僕はいつも寝不足だから、またご迷惑かけてしまうかも……」
不安を吐露するのも無理はない。しかしアルシャインの力強い掌が華奢な肩を覆い、暖かな安心を分け与えてくれた。
「眠れないと言うなら、安心して眠りにつくまで昔話を聞かせてやろう。それでも悪夢にうなされると言うのなら、この私も一緒になってその苦しみを共有する所存だ」
「アルシャイン様…………」
確か昔も、こんな風に優しく抱きしめてくれる事があった。ベゼクはアルシャインの中にあるハドリアヌスの面影を、確かに感じ取っていた。
昔の記憶とは違う幸せな思い出を、後世の自分に向けてたくさん作ってあげよう。そして長年の想いを、今生で目一杯叶えてあげるのだ。
ベゼクは心の中で強く決意し、広くて逞しい胸の中へ深く顔を埋めるのだった。
次第に様々な感覚が研ぎ澄まされていく。濁流の音が耳のすぐ横で流れて行くのが分かる。全身に冷たいものが覆い被さる。とてもとても寒い。
そうか、今の自分は汚れた河に流されている。自ら入水してつま先の付かない河底に辿り着き、水の勢いに任せて流されている最中なのだ。
取り込もうとした空気が全て泥水に代わり、肺に水が流れ込んで激しく水中でもがいた。
――息が出来ない、苦しい、寒い、死んでしまう! いや、それが目的だったではないか。しかし水の中で息絶えようとする事が、こんなにも辛く苦しいことだったとは。一思いに死ぬつもりが、一瞬でも助かりたいと魂の叫びが脳裏を過ぎる。
青年は流される中で涙していた。本当は神に身を捧げる為に入水したのだ。だがこんなにも生に抗って、これで神に示しがつくだろうか。
――祈ろう。いずれ天使達が我が身を持ち上げて、神の元に連れて行ってくれる。そして乞うのだ。我が身を煌めく星と変え、最愛の人の幸せと栄光をいつまでも照らし続けたいと……。
青年がもがくのを止めた瞬間、何かに強く引き上げられる感覚がした。そして大勢の男達のざわめく声が聞こえ、その中から確かに、最愛の人の愛おしい声が聞こえた。
「――アンティノウス!! あぁ……何故こんな事を……!」
その声はローマ帝国第十四代皇帝ハドリアヌスであった。
皇帝は自国拡大の為に遥々南の砂国まで遠征に行き、見事勝利を収めて帝都に帰還する途中だった。それが今、皇帝は震える手で青年の体を抱き締め、普段見せない涙を流して大声で嗚咽している。
アンティノウスと呼ばれる青年は、元々奴隷の出身だった。それが類稀なる美貌ゆえに皇帝ハドリアヌスの寵児となり、こうして遠い地の戦でも皇帝の傍に置かれていた。
アンティノウスは、身も心も全てを皇帝に捧げていた。そして皇帝も奴隷出身の青年に、身に余る程の寵愛を与えていたのだった。二人は確かに愛し合っていた。それが青年にとってはとても誇らしく、喜ばしく思っていた。
だが、いつの頃からだろうか。アンティノウスが尊敬の眼差しで見上げていた皇帝の目線は、徐々に低くなっていった。
アンティノウスが成長したのだ。そして滑らかな肌や髪は次第に艶を無くし、張りを失い萎んでいく。皇帝が新しい土地を手に入れれば、そこから自分の代わりを幾人も連れて来るだろう。それがアンティノウスにとって、どんな未来をもたらすのか。
――だから決めたのだ。この身が美しいうちに、永遠の捧げ物を差し上げようと。
「ハ、ハドリアヌスさ、ま……今でも、私を……あい、して……おいでですか……」
「当たり前であろう! 何故その身を粗末にした!? 申してみよアンティノウス!!」
皇帝ハドリアヌスは、国内外で賢帝であると讃えられている。それが自我を忘れて取り乱し、怒りと悲しみに溢れた姿は、今まで誰も見た事がない。
しかしアンティノウスにとって、それこそが本当に見たい愛する人の姿だった。自分の為に取り乱し、涙を流している。嗚咽する皇帝を見て、アンティノウスは自分がどれだけ大切に思われていたのかようやく理解できる。だが、その代償はあまりにも大き過ぎるものだった。
「……貴方を、愛しているからこそ……私の命は天に瞬く星となり……貴方の栄光を永遠に……輝かす、のです……」
その声は微かで、愛する人の耳に届いたか分からない。アンティノウスは掠れていく視界の中、皇帝の泣きじゃくる愛おしい表情に微笑んで、ゆっくりと瞳を閉じた。
* * *
ローマ帝国・第十四代皇帝ハドリアヌスの生きた時代から、遠い遠い遙か未来。
人間と言われた種族をはじめ、銀河に生きる全ての種族が交わり進化に進化を重ねた。やがて彼らは身体や性別という殻を超越した、恒星から産まれ落ちる星ビトとなった。
恒星は守護星と呼ばれ、星ビトは自身の守護星と命を共有した。その為どちらかの命が終われば、もう一方も同時に今生を終える。
この星ビト達が生きる世界『全天オデュッセイア』は、夜空を彩る八十八星座を元に八十八の国で構成されていた。この世界は王制だ。地位は一等級から三十四等級まで存在し、各国の最輝星の守護星を持つ星ビトが王となり自国を統治している。
そして王以外の星ビト達は、守護星の等級によって戦士であるのか、または平民として生きるのかが決められる。その為この全天オデュッセイアでは、守護星が何等級であるかが、星ビトの人生を左右する大きな役割を持っていた。
「――貴方を愛しているからこそ、私の命は天に瞬く星となり、貴方の栄光を永遠に輝かすのです……か……」
鷲国、四等級イータ星を守護星に持つ青年べゼクは、毎晩河で溺れる夢を見る。彼は物心ついた頃から何十回、何百回と同じ場面を見続けていた。
そして今夜もまだ夜が明けないうちに夢にうなされ、彼はぐっしょりと大量の汗をかいて目覚め、寝る事を諦めた。
なぜ同じ夢を見るのか理由は分からない。最後に聞こえる哀しげな言葉も、今では一字一句違わず唱えてしまえる様になっていた。
その夢を見る様になって以来、べゼクは当然ながら熟睡できた事は一度もない。そのせいで彼はいつも寝不足で、朝日の強い光に照りつけられると眩暈を起こして具合が悪くなっていた。
自分が生きているのか死んでいるのか分からない意識の中、それでも彼には心を休められる場所が一つだけ存在した。べゼクが住まう村から、暫し北へ歩いた所に建つ美術館がそれである。
そしてべゼクは、夜の不安と心身の怠さを少しでも解消する為に、今日もその美術館へと足を運んだのであった。
美術館は大昔に文明を築き上げていた、『人間』という種族の建造物を参考に造られたものだという。その館内には、太古の昔から受け継がれてきた歴史書、調度品、文化物、民芸品がひしめき合って並んでいる。
その中でも、館内の中央に置かれた美しい青年の巨大な石像。べゼクはその前の椅子に座って、像を見上げるのが日課となっていた。
石像はベゼクと同じ年の頃に見える。大きな瞳にバランスの良い鼻筋。クルクルと巻かれた髪は、彼の癖毛とそっくりだ。
毎日その石像を見上げていると、時に心が深く休まり、時にとても眠くなり、時にとても悲しくなって涙を流すこともある。同時に何かとても大事な事を忘れている気がして、彼は答えを求めてつい長居してしまっていた。
ベゼクが色んな感情に想いを馳せながら見上げていると、とある日、片眼鏡をかけた優しそうな男がベゼクの隣で立ち止まり声をかけてきた。
「……毎日この石像を眺めているというのは、君かね?」
「ア、アルシャイン様!? は、はい! そうです!」
べゼクの傍に来たのは、この美術館を建てた男、二等級の守護星を持つアルシャインであった。
アルシャインは鷲国・君主『アルタイル王』直属の騎士隊長を担っている。しかしそれだけに留まらず、勉学にも優れて学者となり、正に文武両道を体現した偉大な人物として知られていた。更に部下や民衆達の心に寄り添う姿は、歴史の中でも指折りの賢将だと国内外で謳われている。
無論、ベゼクもこのアルシャインに強い憧れを抱いていた。だが、それだけではない。以前ベゼクが不眠のせいで目眩を起こし倒れた時、アルシャインに助けられ手厚く介抱してもらった事をベゼクは鮮明に覚えている。
――あの時、大きく温かい掌で持ち上げられ、逞しい腕に抱きかかえられた。瞼を閉じているせいで視界は真っ暗なのに、包容力のある肌の感触と優しい声だけは聞こえる。自分を抱き締めてくれているのは、騎士隊長アルシャインだ。ベゼクは自身を介抱する声色でそう気付き、暗闇の中でも安心して身を預ける事ができた。
どこか懐かしいとさえ思えたのである。しかしなぜそう感じたのか分からない。ただその懐かしさが泣いてしまうほど嬉しくて、ベゼクはアルシャインの腕の中で久しぶりの深い眠りにつけたのだった――
それ以来ベゼクは、アルシャインを特別な眼差しで見つめ、賢将の凛々しい姿を見る度に心が熱くなった。
しかし相手は皆が憧れる雲の上の人だ。自身が賢将と馴れ馴れしくするなど、できる筈も無い。それが今、憧れの人が自分に近づき、声をかけてくれている。賢将の凛々しい瞳に自身が映り、存在を気にかけてもらっている。
ベゼクはいつもの眠気が吹き飛び、体中の血液が一気に沸騰して心臓が飛び出そうになった。
「まさか、賢将であらせられるアルシャイン様から、直々にお声を掛けてくださるとは……!!」
「君は……ベゼク君と言ったな?」
「えっ!? ぼ、僕の事をご存知で……!?」
まさか憧れの賢将に名前を覚えられていたとは、べゼクは露ほどにも思っていなかった。しかも落ち着いた声色で自身の名を呼ばれ、青年の顔が否応なく真っ赤になる。しかしアルシャインは、自分の事でべゼクが慌てているとは気付いていない。
「ベゼク君。なぜ君は毎日この石像を眺めている?」
アルシャインは冷静な表情を崩さないまま、ベゼクの肩にそっと右手を置いて一つの疑問を投げかけた。
「君は、よっぽどこの石像を気に入っているように見える……」
「は、はい! そ、それはですね……あの……ここに座ってこの石像を眺めていると、自然に心が休まるんです……」
「ほう、心が休まると……」
「……実は僕、毎晩河で溺れる夢を見て、夜も眠れません。だから毎朝寝不足でフラフラになるんですが、不思議とこの石像を見ると、疲れが癒されるというか、ホッと出来るというか……」
「何……その夢、もっと詳しく聞かせてくれないか」
「えっ?」
アルシャインはベゼクの言葉に異常な興味を示し、急に目を見開いた。威厳ある大きな体でベゼクの目の前に立ちはだかり、青年の華奢な両肩を強く掴んだ。
「何故、毎晩河で溺れる夢を見る? 何か理由となるものは分かるか?」
普段冷静で優しい面持ちの賢将とは、雰囲気がまるで違う。掴まれた肩は痛みすら感じ、しかしアルシャインの必死な表情に、ベゼクは拒む言葉すら吐き出せない。
「ベゼク君! 河というのはどんな河だ!? 景色は!? 建物は!? 些細な事でも良い、教えてくれ!」
「あの、景色は……こ、この国やオデュッセイアの様な景色ではなく、見た事のない不思議な景色でした……その……茶色いサラサラとした土が一面に広がってて……で、でも、僕はその茶色い土に流れる大きな河で溺れてしまうんです……ご、ごめんなさい! それ以上分かりません……建物とかも分かりません……アルシャイン様に失礼があったら謝ります!」
ベゼクは完全に怯んでしまっていた。毎日ここを訪れるのが迷惑だったのだろうか。
憧れと恋焦がれていた相手を怒らせてしまったのなら、もうここには来れないだろう。そう思うと、幾つもの悲しみがベゼクの心を打ち、彼は萎縮して顔を俯かせてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……迷惑でしたら、もうここへは来ませんから……」
「あ、いや……違うのだ。君に怒っているわけではない。突然興奮してしまい、私こそすまない……」
怯えるベゼクに気付いたアルシャインも直ぐさま冷静になり、掴んでいた両肩を離して一歩身を引いた。
「君を怖がらせてしまったのなら申し訳ない……では、話題を変えよう。ベゼク君は、この石像が誰であるか知っているか?」
「い、いえ……」
ベゼクは未だ怯えた表情のまま、微かに顔を見上げる。その視線の先に映るアルシャインは、石像の青年を愛おしくも悲しそうに見つめていた。
「……この石像はな、太古の昔、宇宙の片隅で文明を繁栄させた『人間』という種族の『アンティノウス』という青年だ」
「アン、ティノウ、ス……?」
「そうだな……君が知らないのも無理はない。ただ、この青年は実在した人物で、絶世の美青年だったと言われている。そしてこの人物は当時の皇帝の寵児として愛され、遠征の途中、河で溺れ死んだのだ」
「河で溺死!?」
ベゼクは毎晩河で溺れる夢を見る。ベゼクがこの石像に惹かれる理由は、単なる偶然だろうか。
「だが、本題はここからだ。アンティノウスの話はこれに終わらぬ。彼を心から愛していた皇帝ハドリアヌスは、その悲しみから天空の星空にアンティノウスを描き、この者の魂を星座に召し上げたのだ」
「え? でもそんな創世神話、全天オデュッセイアの、どの国のお話にも無かったような……」
ベゼクの疑問に、アルシャインは大きく頷いた。
「アンティノウス座は我々の国の星座、わし座のすぐ下に存在した。そして私の守護星はアンティノウス座の頭部を、君の守護星は心臓を司っていたのだ。だが、全天オデュッセイアが制定される時、実在した人物を国名に出来ないという理由で、アンティノウス座はわし座の一部として消えていったのだ……」
「そ、そんな……僕の守護星が消えた星座の一部だったのですか!?」
ベゼクは気が遠くなりそうになった。数えきれない思いや感情が、頭の中で渦巻いている。
アンティノウス座の存在など、今まで全く知らなかった。ではなぜベゼクは、自然にこの石像に吸い寄れられて行ったのだろうか?
「どうして……僕は……なんで……? じゃあ、毎晩見る夢は……? 僕は一体……?」
頭を抱えて項垂れるベゼクに、アルシャインは優しく手を添えて背中をさすった。
混乱するのも無理はない。アルシャインはベゼクの心を汲み、細い腰と右手を支えて狼狽える青年を立ち上がらせた。
「……君にぜひ見せたい物がある。一緒に行こう」
アルシャインが向かったのは、美術館の地下にある考古学研究室だった。
細く長い階段をしばらく降り、向かう先の明かりが大きくなると、部屋の中の様子を目の当たりにしてベゼクは言葉を失った。
「これは……!! アンティノウスの石像や絵画がいっぱい!!」
部屋は決して広くはない。研究室と言っても、アルシャイン一人が使うための質素な空間である。その中に、毎日眺めていた石像と同じ顔の像や絵画が、ひしめき合う程に置かれている。そのどれもが綺麗に手入れされ、大事に安置されていた。
「君に見せたい物はそれらではない。この布で覆った胸像だ」
それは部屋の一番奥、透明な硝子箱の中で一際大事に保管されていた。
そして蓋を開けて覆った布を取り外せば、中には二体の胸像が仲睦まじく寄り添うように置かれていた。
「あ……もしかしてこれって……」
一つは周りと同じ顔のアンティノウスの胸像だ。だがもう一つは全く違う、成人男性の男らしい胸像が並べられている。
「僕、知ってます……この顔、見覚えが…………!!」
ベゼクは思わず男の像の石頬を撫でた。すると脳裏にあの夢の景色が鮮明に蘇り、石像の男の血が通った笑顔、怒る顔、勇ましい顔、悲しむ顔が次々と脳裏に浮かんだ。
指先から意識の裏に向かって、思い出したかった記憶が噴水のように湧き出てくる。
――そうだった。皇帝ハドリアヌスに愛されてとても幸せだった。皇帝はいつも自分に優しくしてくれて、いつも傍に置かせてくれて、一日に何度も愛の言葉を囁いてくれた。奴隷だった自分を宮廷に召し上げてくれて、毎日これ以上ない幸せを噛み締めていた――
ベゼクの心に、アンティノウスの感情が雪崩れ込んでくる。頬には大粒の涙が滝のように溢れ出ていた。
「そう、思い出しました。ううん、これは僕の昔の記憶ではなく、アンティノウスの感情が訴えてるだけかも知れませんが……確かにこの顔を、ハドリアヌス様をとても愛していた……来世で地獄に落ちても良いぐらい、深く深く愛していました……」
「ベゼク……」
「でも、その幸せの裏で不安もあったのです。いつか、皇帝に捨てられてしまうのではないかと……」
ベゼクの両手が震えている。永遠とも思える時間、ずっと封印されていた記憶が壺をひっくり返したように溢れ出し、ベゼク自身どこまで許容できるか分からない。
その姿にアルシャインはそっと傍に寄り添い、慰めるようにベゼクの手を優しく握った。
「辛かったら、無理に話さんでも良いのだぞ……」
しかしベゼクは首を横に振った。そして潤んだ瞳でアルシャインを見つめ、どうしても聞いて欲しいと震える口元で声を振り絞った。
「……アンティノウスは少年の時、王宮へ召し上げられました。つまり皇帝は、少年であるアンティノウスを気に入っていたのです。ですがアンティノウスは成長して男らしくなっていく。皇帝はその姿を望んでおられないと思ったんです……」
「そして新たな寵児を見つけた時は、自分が捨てられると?」
ベゼクは涙を流しながら頷いた。だからこそ、捨てられる前に自分の命を神に捧げた。それがあの夢であった事も。
そしてベゼクは、脳裏にこびり付いたあの言葉が頭を過ぎった。
「――貴方を愛しているからこそ、私の命は天に瞬く星となり……」
半ば無意識に出た言葉だった。今ならこの言葉の意味が理解できる。
何度も夢の中で聞こえていた言葉は、アンティノウスが息を引き取る間際、愛しいハドリアヌスへ向けた最期の言葉であった。
「貴方の栄光を永遠に輝かすのです……だろう? ベゼクよ……」
「――っ!? アルシャイン様!? なぜその言葉を!?」
ベゼクが傍を見上げると、瞳を赤くさせたアルシャインがベゼクを見つめていた。
「当たり前だ……愛する人と交わした最期の言葉、史実にも誰にも知られていない二人だけの言葉……絶対に忘れるわけがないではないか」
そう言い終わらないうちにアルシャインがベゼクの身体を抱き寄せ、可憐な癖毛に顔を埋めた。
「ようやくっ! ようやく見つけたぞ! ずっと探し続けていた! アンティノウスの生まれ変わりを!!」
アルシャインの身体と両手が震えている。そして感情を抑え切れず、ベゼクの耳元で何度も嗚咽する。
ベゼクもその声を聞いて全てを察した。
「アルシャイン様、もしかして貴方様は……」
ベゼクの言葉に、アルシャインの抱き締める腕の力が一層強くなった。もう絶対に離さないと言わんばかりに、ベゼクの髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。
「……私は、アンティノウスの死をずっと悔やんできた。その思いを拭い切れず、生まれ変わる度にアンティノウスの面影を探し続けたのだ。ここにある石像や絵画は、全て前世の私が造らせた美術品だ。だが、ある時私は気付いた。自分自身がこうやって記憶を残しているのだ。きっとアンティノウスの魂も、同じように何度も転生して記憶を残し、生きているのではないかと……」
「それが……僕だった…………」
「ああ、そうだ。やっと見つけたぞ。もう何百と生まれ変わったか数えきれない。長い長い孤独だった……だが、やっとその苦しみからも解放される……」
ベゼクは夢の正体が分からず、長い間苦しみ続けてきた。しかし、ハドリアヌスだったアルシャインは、それ以上に長い時間、自責の念に駆られ苦しみ続けていたに違いない。
本当に辛かったのは、全てを知っていても何もできなかったアルシャインの方だったのではないか。
「ベゼク……いや、アンティノウスよ。すまない、本当にすまなかった……」
震えて謝る声が、痛々しくベゼクの心へ突き刺さる。そしてその思いに応えるよう、ベゼクはアルシャインの広い背中をそっと抱き返した。
「僕は……アンティノウスだった時のハドリアヌス様も、ベゼクである時のアルシャイン様も、両方とても尊敬しています。アルシャイン様はとても優しいのにお強くて、それでいてとても聡明で……僕が寝不足からの眩暈で倒れた時も丁寧に介抱してくれて……今だけでもたくさん感謝しています」
その言葉に、アルシャインは少し驚いた様子だった。まさかベゼクが現在の自分の事まで見ていてくれていたとは、微塵も考えていなかったのだろう。
抱きしめ合った腕を解かないまま、アルシャインは少しはにかんでベゼクに優しい眼差しを向けた。
「君が眩暈で倒れた時、私は君をアンティノウスに似た子供だと感じたのだ。そして君が毎日美術館に足を運んでくれるようになって、あの少年がアンティノウスの生まれ変わりなら……と心の中でずっと考えていた」
「えっ!? 僕の事なんか眼中にないと思ってたのに……そんな事思ってたんですか!? な、なんか恥ずかしいなぁ!」
実は、石像を眺めている姿をアルシャインに毎日見られていた。ベゼクは自分が一体どんな顔をしていたのだろうと想像すると、だらしの無いふ抜けた表情しか思い浮かばず、恥ずかしくなってどこかへ隠れてしまいたくなった。
だが慌てる青年へ向けるアルシャインの眼差しは、それすらも可愛いと感じて慈愛に満ち溢れている。
「ベゼクよ……昔のようになって欲しいとまでは言わん。しかし、この積年の想い、せめて私の傍にいてくれないだろうか……」
「僕でいいのですか!? 嬉しいです……勿論です!! アルシャイン様のお傍に居られるのなら、こんな幸せなことはありません!! あ、でも……僕はいつも寝不足だから、またご迷惑かけてしまうかも……」
不安を吐露するのも無理はない。しかしアルシャインの力強い掌が華奢な肩を覆い、暖かな安心を分け与えてくれた。
「眠れないと言うなら、安心して眠りにつくまで昔話を聞かせてやろう。それでも悪夢にうなされると言うのなら、この私も一緒になってその苦しみを共有する所存だ」
「アルシャイン様…………」
確か昔も、こんな風に優しく抱きしめてくれる事があった。ベゼクはアルシャインの中にあるハドリアヌスの面影を、確かに感じ取っていた。
昔の記憶とは違う幸せな思い出を、後世の自分に向けてたくさん作ってあげよう。そして長年の想いを、今生で目一杯叶えてあげるのだ。
ベゼクは心の中で強く決意し、広くて逞しい胸の中へ深く顔を埋めるのだった。
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