贄の神子と月明かりの神様

木島

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変調の兆し

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 雨が屋根を打つ音が聞こえる。
 垂れ下がる御簾で司会を遮られた静かな部屋に響くその雨音に耳を傾け、ころりころりと手元にある毬を転がす女が一人。彼女は重い着物を幾重にも身に纏い、手入れの行き届いた美しい黒髪を床に垂れるほど長く伸ばしている。
 彼女の名は章子。緋の国の皇帝の第二皇女であり、夢見の神子と呼ばれる娘であった。

「夢を見るのです。何度も、何度も」

 ころり、手毬を転がしながら章子は呟く。雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声はただ一人、御簾を挟んで部屋の隅に控えている男だけに届いていた。

「こんなにも何度も、はっきりとした像を持った夢を見るのは初めて……わたくし、怖いわ」

 ふるりと体を震わせて章子は自分で自分を抱きしめる。
 夢見の神子と言え彼女の血はかなり薄まっている。見えるのは一年に一度程度で、その内容もはっきり見えるわけではなかった。いつも抽象的な像からどうにか意図を読み取って予言としていた章子の夢がはっきりとした形を見せたのは数か月前のこと。
 母が病に倒れ、死の床に臥す夢を見た。老若男女問わず、貴族平民問わず次々に病魔に倒れもがき苦しむ夢を見た。黒とも赤ともつかぬ色をした汚泥のような塊が蠢き大地を腐らせ人々の全てを飲み込んでいく。体の穴という穴から血を垂れ流す者、全身が何度も膿み爛れて元の姿がわからなくなるほどに崩れ落ちている者、骨と皮のようにやせ細り乾いた木乃伊のようになっている者。彼らの救いを求める手は肉が腐り落ち腐臭を放つ。目を背けたくなる地獄のような光景だった。
 それを何度も何度も見せられるのだ。

「ねえ、あなた。わたくしはこの夢を現実にしたくないの。数えきれないくらいに沢山の人がもがき苦しみ、命を落としていく……そんなものを現実にしてはいけないわ」
「章子様……」

 独白のようにぽつりぽつりと呟いていた章子が御簾の向こうに向かって言葉をかける。
 男が名を呼ぶと、章子は二枚並んだ御簾の間から扇を差し込んで持ち上げ男にその顔を僅かに晒す。晒された章子の顔は緋の国随一と呼ばれるほどに美しい。だが、章子の愁いを帯びた黒く美しい瞳を男は眉一つ動かすことなく受け止めていた。

「ねえ頼康、あなたにお願いがあるの」

 章子は頼康と呼んだ男を誰もが溜息を吐く美しい微笑みを浮かべて手招く。頼康がその招きに応じて御簾の近くに寄ると、彼女は扇で己の口元と耳を寄せた頼康の顔を隠して内緒ごとを告げた。

「あなたは剛力の神子。わたくしと同じように神のご加護を持つあなたならきっと、贄の神子を連れ出すことができるはず。彼の方を神域から連れ出してわたくしの元へ連れてきてちょうだい。そして、未曽有の危機を彼の方のお力で救っていただきたいの」

 頼康は瞠目した。とんでもないことを言い出した自国の皇女をまじまじと見つめるが、当の本人はけろりとしている。
 贄の神子は不可侵の存在。彼はどこの国にも所属せず独立した存在として人理を超えた厄災の身代わりになっている。それは彼が存在を公表した時に国として交わした約束だったはずだ。彼女はそれを反故にしようとしているのだ。

「よく考えてみて?彼の方は神域という安全な場所に閉じこもり、救う人を選り好みしているの。それは我々神子の正しい姿と言えるのかしら?生贄の神子ならば、こういう時こそ人々のためにその身を捧げるべきではなくて?」
「それは……」

 返答できずにいる頼康に首を傾げる章子。彼女の言葉は随分と横暴だ。横暴だが一理あると頼康も思ってしまった。人々に正体不明の病魔が襲いかかろうとしている今、贄の神子に思うところがあるのは頼康も同じであったのだ。
 頼康は表情を引き締めると居住まいを正し、床に手をつき章子に向かって深く首を垂れた。

「お任せを。身命を賭して必ずや贄の神子殿を説得してみせましょう」
「ああ、頼もしい。頼みましたよ頼康。わたくしの神子」
「承知いたしました」

 提案を受け入れた頼康に嬉しげな声をあげる章子。さっそく準備があるのでとその場を辞した頼康の後ろ姿を御簾越しに見送り、すっかり気配が消えたところで彼女はうっそりと笑った。
 うまくいった。これで頼康は贄の神子を連れてきてくれるだろう。章子は白魚のように白く美しい手のひらを見つめる。

 この手が、全身が膿み爛れ、苦しさに喉を掻きむしりぼろぼろと髪が抜け落ちていく夢を見た。最後には血を吐いて意識を失って、恐らくその時章子は死ぬのだろう。恐ろしくて恐ろしくて、章子はいつも目を覚まして一番に鏡に自分の姿を映して何も変わらない様子に安堵するのだ。
 この美しい姿が損なわれるなどあってはならない。緋の国の皇女章子はこの国で最も美しく在らねばならないのだから。

「あんな未来、認めるわけにはいかないわ。わたくしはまだ死にたくない。母上のような哀れな姿になどなりたくないわ。わたくしのために、贄の神子には力を尽くしていただかなければ。だって彼の方はこのために生まれた神子だもの。否やはない……そうでしょう?」

 ふふふ、と静かに笑う声が誰もいない部屋に微かに響く。人々のためと嘯きながら、実際は己のために贄の神子を求める。誰もいないと思っているからこそ溢れる本音。
 それを頼康は柱の影に姿を隠して聞いていた。

(わたくしのため、それが本音か。章子様の身勝手も困ったものだ)

 気配を消してその場を離れる道すがら頼康は溜息を吐く。
 章子はこの国で最も高貴なる血筋の姫。手中の球のように可愛がられ、皇帝に溺愛されて生きてきた。彼女は非常に自己肯定感と自尊心の高い娘だ。自分をよく見せたいという願望が強く、普段は慈悲深く嫋やかな姫として振る舞っている。
 その姫が溢した本音に頼康は呆れた。

「神に授かりしこの力は万人のために揮うもの。章子様にも贄の神子殿にも是非、その心をご理解いただきたいものだな」

 頼康は剛力の神子。剛力の神子として怪異と戦う父に育てられ、自身も進んでその道を選んだ。今も病が増え始めた同時期に各地で活発に活動し始めた妖を退治する仕事をしている。
 先祖が力を授かったのは現世の人々を神々と共に守るため。ならばその血を継ぐ我々も人々を守るために命をかけるべきだ。非常事態が迫っている今なら尚のことそうするべきだと頼康は思っている。

(章子様に賛同する訳ではないが、贄の神子に更なる力を尽くしてもらうのは同意見だ。ここは彼女の思惑に乗らせてもらおうか)

 恐らくこれは彼女の両親も知るところだろう。そうでなければ二人きりで会うことなどできるはずがない。これは公的な依頼ではなく、内密に事を起こせという暗示。好都合だと頼康は早速準備を始めるために御所を後にした。

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