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広がる世界
六
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一方その頃、すばるにも一つの転機が訪れていた。
「なあ、やっぱ話すばっかじゃ足りねーや。外に出ようぜ。お前に町の様子を見せてやりてえ」
九朗が人の住む町へ行ったことのないすばるを外へ連れ出そうと提案してきたのである。
「外へ?」
「おう。百聞は一見に如かずって言うだろ?想像するだけじゃ限界があるってもんだ」
「それは……そうですけど」
すばるは実物を触ってみて、想像と全く違っていた夜行貝の貝殻に視線を落とす。話を聞くだけで物事を理解することは難しい。貝殻ひとつでさえそうなのだ。町全体、人の生活など想像を超えているに決まっている。
本音を言えば知りたい。この目で見てみたいと思う。けれどすばるの立場上ここで軽々しく行くとは言えない。言葉を探してうんうん唸っていると、九朗がからからと笑ってその背をひとつ叩いた。
「まあ考えてみてくれよ!案内ならいつでもしてやるから」
「あい、ありがとうございます」
九朗は色よい返事を期待していると言ってその日はそのまま答えを聞かずに神域を後にした。
その後のすばるはいつものように務めを果たし、九朗が来た日はいつもどことなく不機嫌な皓月にできた傷ひとつひとつを丹念に手当てされながら過ごす。しかも今日は獣に噛みつかれたような二の腕の傷を舐められて飛び上がるほど驚いた。
『私以外の獣の傷など』と独占欲丸出しの唸り声を上げていたのだが、すばるはすばるで羞恥に呑まれそれどころではなかったので言葉の意味を理解できない。ただただ慌てて全身を朱色に染め上げていた。
「こここ、こうげつ!も、もういいです!大丈夫です!」
「いいやまだだ。まだ血が出ている」
「そ、それは皓月が吸うから……ひっ!」
顔を真っ赤にして傷のない腕で肩を押すがびくともしない。柔らかな二の腕についた傷を舐められ滲んだ血を吸われ、徒に犬歯で傷のないところを甘噛みされてくらくらした。傷を治すのに甘噛みは必要ないはずだ。すばるに指摘する余裕はないが。
「はふ……」
傷が瘡蓋になる頃にはすっかり逆上せ上がり、巻き付けられた尻尾にくたりと身を任せきっていた。
「さあ、これでいいだろう。すばる、今日はもうお休み」
「ひゃい……」
己が舐めて癒した傷痕に満足げな皓月。一転して上機嫌な彼の手でそのまま布団に寝かし付けられたが、すっかり頭に血が昇ってしまって寝られやしなかった。
「こんなの心臓が持ちません!」
羞恥に耐え切れず布団の中で胎児のように手足を折って体を丸める。
臆病風に吹かれて閉じ込めた恋心を前触れもなく揺さぶってくる皓月。傷跡とはいえ肌を滑る舌の感触は思春期のすばるには刺激が強すぎる。羞恥心の奥に小さく灯る熱から目を逸らしたくて、ぎゅっと己の体を抱きしめた。
「何か、何か他のことを……そ、そうだ!外出!外出のことを考えましょう!」
元々夜になったらゆっくり考えようと思っていたのだ。気を紛らわせるのに丁度いいとすばるは皓月の姿をどうにか頭の隅へ追いやった。
「行ってみたいけど、一人では絶対に無理ですよね。森を出る前に迷子になる自信があります」
数少ない外出は大体が獣身の皓月に移動を任せっきりで道を歩いた記憶がない。人通りの多いところへ行ったこともないし、自分で買い物をしたこともなかった。読み書き計算はできるが金と仕事と物の価値はあまりわからない。すばるは立派な世間知らずの箱入り息子だ。
歳が近く手に職を持つ同性の人間である九朗。彼はすばるの知らないことを常識として知っていて、きっと人の世界で彼はごく一般的な若者の姿だ。
「僕、お役目以外のこと何にも知らないんですよね……」
己の無知に思わずため息が漏れた。
そもそもすばるは人でありながら人をよく知らない。自我も芽生えぬ頃から神と共に過ごし、その能力故に人から遠ざけられて育ってきた。親はおらず、親代わりも友人も神霊。神域と呼ばれる森の中の大きな屋敷に住み、守護者である皓月に厳選された人間の災いを贖って生きている。親しく言葉を交わすような人間はおらず、外出も一人では許されない。
災厄を贖うために手を伸ばせば、人々は彼をまるで神のように崇拝し額づく。他愛のない話をしたいと思っても恐れ多いと距離を置かれてしまう。決してそこいらの十代の若者のように接してはくれない。それがすばるには“お前は人ではない”と言われているように見えていた。
けれどすばるは神でもない。誰かの身代わりになる力は強いが自分自身に向けられた力に対してはただの人間と変わらない抵抗力しかない。一太刀浴びせられでもすればたちまち死んでしまうだろう。季節の変わり目に風邪をひくこともあるし蹴躓いて転んで怪我をすることもある。神のように幾千万年と生きる術も持たない。神子という生き物は人にも神にもなれない半端ものだ。
けれど九朗と出会って言葉を交わす内に自分はもっと人と近づけるのではないかと気づいた。
掌中の珠のように閉じこもって大切にされているのではなく、自ら祭壇を降りて地に足を着ければきっと。
「うん。やっぱり僕は、もっと外のことを知りたいです」
皓月たちに相談しよう。結論が出たところですっきりとした気分になったすばるは、皓月の暴挙を忘れ気持ちよく夢の世界へと旅立っていった。
「なあ、やっぱ話すばっかじゃ足りねーや。外に出ようぜ。お前に町の様子を見せてやりてえ」
九朗が人の住む町へ行ったことのないすばるを外へ連れ出そうと提案してきたのである。
「外へ?」
「おう。百聞は一見に如かずって言うだろ?想像するだけじゃ限界があるってもんだ」
「それは……そうですけど」
すばるは実物を触ってみて、想像と全く違っていた夜行貝の貝殻に視線を落とす。話を聞くだけで物事を理解することは難しい。貝殻ひとつでさえそうなのだ。町全体、人の生活など想像を超えているに決まっている。
本音を言えば知りたい。この目で見てみたいと思う。けれどすばるの立場上ここで軽々しく行くとは言えない。言葉を探してうんうん唸っていると、九朗がからからと笑ってその背をひとつ叩いた。
「まあ考えてみてくれよ!案内ならいつでもしてやるから」
「あい、ありがとうございます」
九朗は色よい返事を期待していると言ってその日はそのまま答えを聞かずに神域を後にした。
その後のすばるはいつものように務めを果たし、九朗が来た日はいつもどことなく不機嫌な皓月にできた傷ひとつひとつを丹念に手当てされながら過ごす。しかも今日は獣に噛みつかれたような二の腕の傷を舐められて飛び上がるほど驚いた。
『私以外の獣の傷など』と独占欲丸出しの唸り声を上げていたのだが、すばるはすばるで羞恥に呑まれそれどころではなかったので言葉の意味を理解できない。ただただ慌てて全身を朱色に染め上げていた。
「こここ、こうげつ!も、もういいです!大丈夫です!」
「いいやまだだ。まだ血が出ている」
「そ、それは皓月が吸うから……ひっ!」
顔を真っ赤にして傷のない腕で肩を押すがびくともしない。柔らかな二の腕についた傷を舐められ滲んだ血を吸われ、徒に犬歯で傷のないところを甘噛みされてくらくらした。傷を治すのに甘噛みは必要ないはずだ。すばるに指摘する余裕はないが。
「はふ……」
傷が瘡蓋になる頃にはすっかり逆上せ上がり、巻き付けられた尻尾にくたりと身を任せきっていた。
「さあ、これでいいだろう。すばる、今日はもうお休み」
「ひゃい……」
己が舐めて癒した傷痕に満足げな皓月。一転して上機嫌な彼の手でそのまま布団に寝かし付けられたが、すっかり頭に血が昇ってしまって寝られやしなかった。
「こんなの心臓が持ちません!」
羞恥に耐え切れず布団の中で胎児のように手足を折って体を丸める。
臆病風に吹かれて閉じ込めた恋心を前触れもなく揺さぶってくる皓月。傷跡とはいえ肌を滑る舌の感触は思春期のすばるには刺激が強すぎる。羞恥心の奥に小さく灯る熱から目を逸らしたくて、ぎゅっと己の体を抱きしめた。
「何か、何か他のことを……そ、そうだ!外出!外出のことを考えましょう!」
元々夜になったらゆっくり考えようと思っていたのだ。気を紛らわせるのに丁度いいとすばるは皓月の姿をどうにか頭の隅へ追いやった。
「行ってみたいけど、一人では絶対に無理ですよね。森を出る前に迷子になる自信があります」
数少ない外出は大体が獣身の皓月に移動を任せっきりで道を歩いた記憶がない。人通りの多いところへ行ったこともないし、自分で買い物をしたこともなかった。読み書き計算はできるが金と仕事と物の価値はあまりわからない。すばるは立派な世間知らずの箱入り息子だ。
歳が近く手に職を持つ同性の人間である九朗。彼はすばるの知らないことを常識として知っていて、きっと人の世界で彼はごく一般的な若者の姿だ。
「僕、お役目以外のこと何にも知らないんですよね……」
己の無知に思わずため息が漏れた。
そもそもすばるは人でありながら人をよく知らない。自我も芽生えぬ頃から神と共に過ごし、その能力故に人から遠ざけられて育ってきた。親はおらず、親代わりも友人も神霊。神域と呼ばれる森の中の大きな屋敷に住み、守護者である皓月に厳選された人間の災いを贖って生きている。親しく言葉を交わすような人間はおらず、外出も一人では許されない。
災厄を贖うために手を伸ばせば、人々は彼をまるで神のように崇拝し額づく。他愛のない話をしたいと思っても恐れ多いと距離を置かれてしまう。決してそこいらの十代の若者のように接してはくれない。それがすばるには“お前は人ではない”と言われているように見えていた。
けれどすばるは神でもない。誰かの身代わりになる力は強いが自分自身に向けられた力に対してはただの人間と変わらない抵抗力しかない。一太刀浴びせられでもすればたちまち死んでしまうだろう。季節の変わり目に風邪をひくこともあるし蹴躓いて転んで怪我をすることもある。神のように幾千万年と生きる術も持たない。神子という生き物は人にも神にもなれない半端ものだ。
けれど九朗と出会って言葉を交わす内に自分はもっと人と近づけるのではないかと気づいた。
掌中の珠のように閉じこもって大切にされているのではなく、自ら祭壇を降りて地に足を着ければきっと。
「うん。やっぱり僕は、もっと外のことを知りたいです」
皓月たちに相談しよう。結論が出たところですっきりとした気分になったすばるは、皓月の暴挙を忘れ気持ちよく夢の世界へと旅立っていった。
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