贄の神子と月明かりの神様

木島

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 見晴らしの良い高い崖の上に立って眼下を見下ろす。
 目に入るのは巨大な蛇がとぐろを巻くように広がる瘴気の渦。
 それは人や動物の体に纏わりつき、入り込み、その肉体を不治の病に浸すもの。穢れ堕ちた神の残滓。
 この場所も本来は人が立っていられるような場所じゃない。渦巻く瘴気の端とは言え、人が耐えられる瘴気の濃さはとうに超えている。
 ぴりぴりと肌を刺す痛みを感じる。
 早く、早くしなければ。僕は息苦しさを誤魔化すように大きく二、三度息を吸い込み、手にした小さなお守り袋からそっと中身を取り出した。
 穢れた空気が漂う空間においても美しく、きらきらと輝く透明な鉱石。小指の爪ほどの大きさのそれは、僕が唯一屋敷から持ち出したものだった。
 僕は小さな石を固く握りしめ、縋るように額に当てる。
 そして願う。口には出せない心の底からの想いを。

 どうか、どうか。

 大神様、冬の神様、どうか叶えてください。僕の愛するあの人が、幾久しく幸福でありますよう。

 百年、千年先も愛しい人が笑顔でいられますよう。

 しつこいくらいに何度も何度も石に願って、焦れた人影に声をかけられる。わかってる。時間がない。もう行かなくちゃ。
 眼下に広がる瘴気の渦をもう一度見つめ、ありったけの願いを込めた石を胸に握りしめる。
 そうして一歩、足を踏み出した。
 一歩、また一歩。もう進めないほど端に来て、小石が小さな音を立てて崖の下へと転がり落ちる。あれは数秒先の僕の姿だ。
 
 怖い、怖い、怖い!

「でも、行かなくちゃ。この日のために僕は生まれてきたんだから」
 震える体を叱責し、今にも息絶えそうな人影を見る。消えかかった命の灯火を全てつぎ込んだような強い眼に頷きだけを返し、すうと大きく息を吸う。

 怖いから目を閉じて、愛しい人の姿を脳裏に描いて、僕は崖下へと身を投げた。

「さようなら……愛しています。僕のお月様」




 僕の記憶は、ここまで。
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