贄の神子と月明かりの神様

木島

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贄の神子の誕生

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 皓月がその子供と出会ったのは、凍てつく様な冬の夜だった。
 神聖な、凛とした空気が漂う広い神殿の中、皓月は膝をつき静かに首を垂れている。
 その耳に入るのは穏やかな息遣い。まだ赤子と言っても過言ではない子供の穏やかな寝息だけが静かな空間に響いている。
 皓月はその子に見えるために荘厳なる神殿に訪れていた。
 柔らかな、一見して上質なものと分かる布に包まれた子は、とてもとても美しい人に抱き抱えられている。
 美しい人はほっそりとした女性とも男性ともつかぬ見目を持ち、肩で切り揃えた白銀の髪に真白い肌をしていた。薄紫の着物を纏ったその人は”ひと”のような姿をしているが、頭上には髪色と同じ獣の耳があり、大きな一本の尾をゆったりと揺らめかせている。

 美しい人は、神格を持つ狐の長であった。
 司るのは冬。故にその姿は新雪のように真白く美しい。白い睫毛から覗く瞳は南天のように赤く一際目が惹いていた。その冬の神は音を吸い込む積雪のように静かに佇み、一つ高いところから皓月を見下ろしている。

 そして皓月は、その狐の長に仕える銀狐であった。
 主人と趣を異にする短い銀鼠色の髪をした皓月にも、狐の耳と尾が存在する。白い狩衣を纏った長身の肢体から伸びた尾の数は三本で、一本一本はやや小ぶりだ。皓月という名を持つこの男も神の一柱であり、司るは月光。故に彼の纏う空気は冴え冴えとし、切れ長の目元に黄金色の瞳は闇夜に浮かぶ月のようであった。

 主は母のように優しく子を腕に抱き、優しげな眼差しで子と皓月を交互に見つめる。
「よく来てくれたね」
 そして、主は首を垂れている皓月に向かってこう言った。
「皓月、今日から君はこの子の守護者だ」
 主はゆっくりと皓月の元へ歩み寄り、目の前で膝を折りその子をそっと差し出した。そこで初めて、皓月は子の顔をしっかりと目にする。

 子は玉のように愛らしい子だった。
 年の頃は、ようやっと一つになったばかりだろう頃合いだ。外の雪に似合いの、真白い肌に赤子特有の紅潮した頬。濡場玉の髪に何もかも小さな姿形。夢を見ているのか、母の乳を求めているのか、もぐもぐと動く唇は愛らしさを誘った。

 主から子を差し出された皓月は、その姿に目を奪われただ見つめることしかできなかった。
「皓月」
「は、はいっ」
 声に僅かな呆れを滲ませて主は皓月を呼ぶ。慌てて頭を上げると、主は優しげに笑っていた。
 なよやかな手つきで皓月の手を取り、小さな小さな子の頬に触れさせる。
「六花様……!」
「ふふ、そう簡単に壊れたりなんてしないよ。大丈夫」
 柔らかく滑らかな頬に触れ、皓月は慌てた。このように柔らかな生き物に大柄な己が触れては、壊してしまうのではないかと緊張が走る。
「さぁ、抱いてあげて」
 だがそんな皓月の動揺も意に介さず、六花と呼ばれた人は子を抱くように促す。
 皓月は怯えた様子で小さく首を横に振った。触れるだけでも恐る恐るであるのに、抱き抱えるなどとてもできない。然し六花は皓月の困惑を理解していてそれに緩く首を振った。
 今からこの子を守る腕は、目の前の皓月となるのだ。抱き抱えることを恐れては話が進まない。
「皓月、これは君の役目だよ」
 そう促されてやっと、皓月は子を六花の腕から己の腕へと移動させる。子は抱き抱える腕が変わっても身動ぎ一つせず静かに眠っていた。小さな体は軽く、だがしっかりとした命の重みを有している。
「あぁ……」
 安心しきって己の腕の中で穏やかに眠る命。その命を守護する者に選ばれたことに、皓月は己の心が歓喜するのを感じた。
 湧き上がる喜びを、どう言葉にすればいいのか分からない。
「六花様、この子の名は、何と」
 子から視線を逸らすこともできず、じっとその姿を見つめたまま皓月は六花に問うた。主へのその態度は無礼と取られても致し方ない行動だったが、六花は咎めなかった。
 子に心奪われる皓月に対し、優しくその子の名を紡いでやる。
「その子の名は、すばる。大神から授かりし冠位は星だ」
「すばる……」
 良い名だ、と小さく皓月は子に呼びかける。その顔はもうすっかり守護者としての顔だった。
 その様子に六花も微笑ましい思いがする。ほっそりとした白い掌を伸ばし、眠るすばるの艶やかな黒髪を梳いてやった。
「人の世で生きるにはこの子の力は強すぎる。大神から加護を頂き、守護者を置き、神子として生きるのが最善の道だろう」
 すばるがこの世に生を授かった時、大神の慈悲に従い神の世へ召し上げたのは六花だった。そのおかげか、六花はほんの僅かな時しか過ごしていないすばるへ親にも似た思いを抱いている。
「この子が命を全うするその時まで、守護は任せたよ」
今この時より、すばるは六花の手を離れる。それを名残惜しむように六花はすばるの髪を梳き続けた。一抹の寂しさを感じるが、不安はない。すばるをしっかりと抱き抱える皓月の存在が六花に安堵を与えていたからだ。
「この皓月、命に代えてもそのお役目を果たしてみせましょう」
 皓月ならばこの幼子の命数尽きるその時まで、守り共に添ってくれるだろう。そう六花は確信して美しい微笑を浮かべた。
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