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前日から楽しみにしていた昼食を手に入れた彼女は、形が崩れないように優しくバックの中へ入れると、上機嫌な勢いのまま、いつもの公園へ向かう。その軽快な足取りには午前中の仕事のミスをまるできにしている様子はなかった。

 ほんの数時間前までトイレの個室で泣きながら、俺をバックから出して握り締めていた彼女の姿はどこにもない。一方的に励まし続けた甲斐がある。

 途中の歩道橋を歩いていると、丁度真ん中に差し掛かったあたりで、動物のか細い鳴き声がした。

「うん? どこだろう……あ、Qちゃん。どうしよう」

 彼女は俺をバックから取り出すとゆっくりと声のほうに駆け寄りる。そこには手すりの上に座る猫が一匹。よく見ると小刻みに震えていた。歩道橋の下は幾台もの大型車が間を置かず轟音を鳴らしながら通る。

「そこ、危ないよ。猫ちゃん! お名前はなあに? この子はQちゃん。人形星人のQちゃん。よろしくね」

「やめとけ。平気だ。動物って言うのはそういうところでも以外と平気なんだ。むしろ得意ないくらだ」聞こえる訳がないのにいつも心の中で話しかけてしまう。彼女も毎日、俺に話しかけていた。もちろん俺の返答は聞こえない。そんな心地よい平行線の関係。

「Qちゃん、私がこの子を助ける。頑張る!」そういってバックに俺を戻す。彼女は放っておけない良いヤツ。

 こいうときはいつも、俺はただ見守ることしかできない。

「そこでじっとしてるんだよ。よし、抱きしめちゃうぞ!」そういうとバックが激しく揺さぶられ、その揺れが治まると彼女の切迫した息遣いがバックの中まで聞こえた。

「あ、ど、どうしよう、なんで、ああ、助けて……手の力……もう……いっ、手が痛い、ぎゅっぅぢゃん助けて。力がも……あ、人、階段……きた。こっち見て……スマホ、じゃなくて、こっ……ち、ヘッドホンで聞こえな、い、か……もう、手が――」

「どうした、おい。頼む、誰か! こっちきて助けてくれえええ。聞こえないのかよおお」俺はバックの中から声に出ない声を叫び続けた。

 そして、一瞬浮いた。俺はバックからアスファルトに放り出されながら何度か回る。

 目の前には青空、いくつか白い雲が浮かぶ。ヘッドホンの男が歩道橋の上から一瞬覗くと、すぐに顔を引っ込めた。

 俺の真横を濡れたタイヤの前輪が止まる。タイヤには彼女の髪。

 

 ***



 踵が上手くスニーカーに納まらず、土間の床のタイルを爪先でトントン、と蹴り強引に押し込める。

 背後から床をそっと踏み込む足音とが近づいた。

「どこにいくの? こんな遅くに……」

 霧になって消えそうな小さな声。振り返ると母が胸のあたりで両手を握り立っている。

「ごめん、起こしたよね? コンビニ、少し、歩きたくなって。行ってくるね」

「何もこんな遅くに……深夜よ。明日の朝、買いに行くから。何が欲しいの。だから……ね」

「でも、昼はまだ出たくない……すぐ帰ってくるから……」

 玄関ドアに手をかけて僕は振り向かずに答えると。気を付けてね、と母は小さい声でいう。

 今まで僕が夜遅く家を出ることはなかった。高校生の身分では間違いなく補導されるだろう。でも、この数か月、一切外出をしなかった僕にすれば、良い兆候だと思って母は真夜中の外出を許可したのだろう。

 夜の空気は肌寒いけれど最後の外出した時の日中の頃よりも暖かい。僕は厚いジャンパーを選んだこと少し後悔した。規則だって並ぶ街灯を頼りに歩く、街灯から次の街灯までは少し距離がある。その間にぼんやりと溜まっている暗闇はこの時に最も相応しい。光を持たない者が歩くことはできない時間。

「こんばんは」

 地面から体が離れるかと思うほど僕は驚いて、光の届かない闇をあちらこちら見渡す。

「ここだ。街灯の下」

 街灯の柱に白い人形が寄りかかっていた。手の平を少しはみ出すくらいの大きさの白い体に、頭には青いベレー帽を被る。新品のようなハリはないが、決して雑に扱われていたようにも見えなかった。

「こんばんは」紛れもなく、僕の正面にいる人形からの声。

 誰かが僕をからかうための細工だと思い。挨拶を交わすことなく、歩く速度を速める。

 数本の街灯を通り抜けてようやく、速度を緩めるながら背中にジワリと汗が湿る。

「どうして、通り過ぎる? 挨拶は基本中だ。たとえ深夜であっても、人形が相手でも」僕は声のする街灯の下を恐る恐る見ると、いた。あの人形がまた街灯の下にいる。「わあああ」僕は叫び声をあげて走り出すその瞬間にバランスを崩して転び、うつ伏に全身を叩きつけ、慌てて起き上がる。

「大丈夫か。ひとつお願いしたことがあるんだ。それは明日、俺に付き合ってほしい」

 人形は僕への心配は形だけで済ませると淡々と目的を話す。饒舌に語る姿は正体不明からやってくる恐怖心は薄まった。でも、新たに撒かれた恐怖の種を僕は見逃せなかった。

 〇どうして僕なんだ〇心の中に疑問が浮かぶ。

「あした、迎えに行くから家で待っていてくれ」

 当たり前のように家まで知っているという。それは脅迫のような気配はなく、苦手な知り合いの感覚があった。「わかったよ……」僕がそう言いながら、手足についた埃を払う。汚れは少しも落ちない。

「そういえば、自己紹介がまだだったな。Qちゃん。そういう名だ」

「Qちゃん……分かったよ。あ、あしたは何時ごろ……」

「迎えにいくから大丈夫だ」

「そ、そう……僕は帰るね」

「いいのか? 用事があったからこんな遅くに外出してきたんじゃないのか?」

「だ、大丈夫」僕はそう返事をすると来た道をほんの少し早歩きで戻る。

 帰宅すると幸いにも母に会うことはなかった。この上下ともに汚れた服をみたらきっと大変なことになっていたと思った。だが、どんなことを言われても転倒しただけだと僕は無理にでも押し通すつもりでいた。

 ベットへ横になると僕はあしたのことで頭がいっぱいになる。心臓の奥から体の疲れがどっと溢れ、身を任せた。

 

 虫が窓ガラスにぶつかる音。それは続けざまに。寝ていた体に少しずつ意識が広がる。

「寝てるのか。そろそろお昼だ。行こう」

 Qちゃんが窓に張り付いていた。「あ、あ、うん」返事をするとQちゃんは窓から離れていなくなった。

 僕は母に気づかれないように足音を殺し、扉を開ける音を極力押させて家を出ると、足元にQちゃんが仰向けでよこになり、抱えるように言われたので僕は両手のてのひらに収めた。

 そこからはQちゃんの的確な指示で誘導され、ついた所は女性客が6人ほど並ぶパン屋。窓から見える店内は焼き立てのこんがりとしたパンがたくさん並ぶ。意識をしていなかった食欲が目覚めて唾液を口に送る。

 僕は列に並び、ようやく店内に入ると「あった、あのサンドイッチを取れ」小声でそういう彼はどこか嬉しそう。Qちゃんは僕の左手に張り付き、僕は空いた右手でサンドイッチ手に取っる。手に張り付くよな芸が出来るなら、僕が両手で優しく包み込むように彼を運ぶ必要があったのか。一瞬頭を巡った。

 店員さんからはレジで、この店の一番のおすすめで普段は売り切れることもある、と教えてくれた。その代わりコンビニのサンドイッチに比べると値段がものすごく高い。なんてグルメな人形。それも人の金で。非常な人形。

 お店をでると、またすぐに僕は指示されるがままに歩く。そして見えてきたものは、中央に噴水のある大きな公園。僕も休みに利用していた。必ずこの公園に来たら、噴水前のベンチに腰を下ろしてヘッドホンでお気に入りの曲を聴く。

 僕はいつものように中央を目指す。「おい。木の下だ。紫外線がそのまま降り注ぐだろ」Qちゃんが紫外線を気にしていたこに驚く。Qちゃんは冗談ではなく本気で注意をしてくれているようだった。僕はQちゃんの条件にあう端の木の下にあるベンチへ座る。

「あのサンドイッチを食べないのか。お腹すいているだろ」

「あれ、僕の? Qちゃんだと思ってた」僕がそいうと彼は、俺は人形なのにこいつは何を言っているんだ、というような無言の空気を漂わせる。

 僕は黙るQちゃんを横に置いて、大きく口をあけて一口。サンドイッチは絶品だった。食べながらも値段がちらつく以外は。

 Qちゃんは僕が食べ終わるのをみるとすぐに、次の場所に向かう指示を出す。

 公園を出ると来た道とは違うに向かう。その道は知っている。外に出ることができないきっかけの場所に繋がる。

 少し歩くと見えてきた。あの歩道橋。歩道橋の柱の下には白や赤などの花手向けられていた。

 数か月前、女性が猫を助けようとして転落死があった場所。その様子はたまたま車載カメラに映っていた。女性が必死でしがみついている様子と階段を上がって近くにきても助けない男性。世間は無関心だと大騒ぎになった。

 Qちゃんは歩道橋を越えるように僕にいった。

 階段を上り、歩道橋の下を大型車が通る度に冷や汗が全身から出る。僕の中の記憶が再生されていく。歩道橋から覗き込んだ時の映像が鮮明に蘇る。

 バックから飛び散る書類やポーチにハンカチと手付かずのサンドイッチ、トラックの後輪が体に乗った動くことがない女性。トラックの横には人形がいた。彼は、僕を見ていたんだ。

 歩道橋の真ん中、そこにも花が供えられてあった。そこで僕は足を止める。「どうした?」Qちゃんのその問いかけに何も答えられない。Qちゃんを見ることができない。

「まさか、お前をここで殺すとでも思っているか? 突き落とすと?  俺は悪霊になったつもりはない」

「ご、ごめん……」

「やめろ。ヘッドホンをしてスマホを見ながら歩いてから気づかなかった? そうだろ?」

「ごめん……ごめん。あの時。僕が気づいていれば……ずっと、後悔を……ここへ来るのも怖くて……花も供えにこれなかった……」

「昨日、もしもお前がヘッドホンつけてスマホを見ながら歩いていたら事情は変わっていた……かもな」

「これから……僕は……ど、どうすれば、僕はどうすればいいの……」

「原因を潰しにいく。それでお前の力が必要だ」

 僕は歩道橋でQちゃんの計画を聞く。

 

 歩道橋を下りると猫の鳴き声が聞こえる。

 Qちゃんの計画通りに雑居ビルの並びを歩きながら横目でビルとビルの間を見て回る。すると、男性が体を屈め、段ボールに入った猫が顔をちょこっと顔を出す場面を捉えた。

 僕の足は硬直した。

 男の右手にはカナヅチが見えていたから。

 「わあああああああ」僕はこれまで一度も出したことがない腹の底から大声をあげながら男に向かって走り出した。

 罪滅ぼしのために。



 ***

 

 僕は慣れない左手でスープを飲む。右手は使えない。振り下ろされたカナヅチが右の肩にめり込み、骨にヒビが入り入院した。他にもいくつか軽い打撲はあるけれどそれで済んだのは、カナヅチを持っていた男が僕を殴る最中に突然、自分の首を押さえながら倒れて亡くなったからだろう。

 何もかもQちゃんの計画通り。そもそも、あの男はずいぶん前から猫をカナヅチで痛めつけて、自由に動けなくしてから歩道橋の端において落ちるのを楽しんでいた。

 あの日、彼女が助けようとしていた猫も。

 Qちゃんの計画は僕が突進する背中に張り付き、体当たりをし、機会を見計らって背中から男の口の中にQちゃんが飛び込み、窒息させる。無事、思いを遂げた。

「世間じゃお前はヒーローになってる。体を張って猫を救った」

 Qちゃんはどいうわけか、よくお見舞いに来てくれている。

「あの日は、自分にご褒美だといって週に一度のパン屋へ買いに行く日だった。彼女は奮発してお高いサンドイッチを買うんだ。選び抜かれたハムとクリームチーズとトマトをご自慢の食パンで挟んだ人気商品」

 僕がうなづきながらきく。

「ダイエットをすると宣言した時も変わらず買うんだ。紫外線を避けて迷子になったこともあったっけ、笑えるだろう。なんて……いい日々だった」

 Qちゃんはお見舞いに来るたび彼女の話をする。

「人形が話せるようになるんだから。また彼女に会えることだってあるだろう。まだ計画はないけどな」決まって最後はこういう。

「その時……また……手伝うよ」僕は必ずこう返す。
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