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第一話 子供部屋お姉さん

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「帰ったあとどうするかな……ゲーム、ゲームもなぁ……」

 家に続く帰り道をブラブラと歩きながら、俺、小笠原あきらは帰ってからの予定を考える。
 やりたいことがあるわけでも、やることがあるわけでもない。
 部活にも入っていない帰宅部だ。

 ゲームには若干飽きが来ている。
 新しい物を買うほど小遣いに余裕もない以上、やり飽きたものばかりなのだ。

 本当は勉強なんかを頑張るべきなんだろうけど、高校二年生という年齢では受験に危機感は覚えていても真剣みがない。
 直前になって焦るのだろうということは確信している。

 でもとりあえず今は、毎日をだらだらと遊んで過ごすことにしようと思っているのだ。
 後から来るから後悔。だったら頑張ってもそれほど変わらない。何かしらの後悔は絶対にやってくるからである。

 家のそばまでやってきたあと、どこからか声がした。
 しかもそれは俺を呼ぶ声だ。
 
「おーい、おーい! あっくん、あっくんじゃない!」
「え、だれ?」

 どこの誰だか知らないが、恥ずかしいあだ名で呼ぶんじゃない!
 俺を【あっくん】と呼ぶのはもう母さんくらいなのに!

 心底恥ずかしく思いながら、犯人を見つけてやろうと辺りを見回してみる。
 聞き覚えのあるような無いような声だった。
 母さんよりも若い女の声。

 一人だけ、母さん以外で俺を【あっくん】と呼ぶ人物に心当たりはある。
 だがしかし、その人物は現在この近辺にはいないはず。

「こっちこっちー! ひーさーしーぶーりー!」
「うぇ!? やっぱりことねーちゃん!?」

 俺の家のとなり、その家の2階の窓から手を振る人物を見つける。
 そこにいたのはいるはずがないと思っていた人物だった。

 大きな胸がぷるぷる揺れているのがこんな距離からでもわかる……すごい。

 にしても楽しそうな顔だ。何かいいことでもあったのか?
 ――でもなんで実家に……?
 就職して一人暮らししてるって聞いてたのに。

「ことねーちゃん、声大きい! ってかなんで実家に!?」
「まぁまぁまぁまぁ! 細かいことはほっといて、ウチにおいでよ!」
「そっちに? なんで?」
「なんでとはなんだね、なんでとは。こんな美人お姉さんが誘ってるんだよ? 据え膳食わねばなんとやらというでしょ? 膳と言わず床板までぺろりと平らげるべきじゃない?」

 おいおい、冗談だろ?
 とでも言いたげなハリウッド式の大げさなジェスチャーをされ、ちょっとだけイラっとした。
 
 そういえば何かにつけて影響受けやすい人だったような……。
 多分昨日辺り映画を見たのだろう。

「自分で美人とか言うなよな……」

 いや、まぁそうなんだけど……嫌味なくらいそうなんだけど……。
 
 美人っていうよりは可愛いって感じか?
 ぼんやりほんわかはしてるけど、それがまた隙っぽくていいんだよな……。

「わかったよ。お菓子かなんか持ってくから、ちょっとまってて」
「よし! 苦しゅうない。鍵開いてるから勝手に入ってねー」

 いきなりのできごとにちょっと驚きはするものの、悪い気はしない。
 ことねーちゃんと最後に話したのは、もうずいぶん前のことだからだ。


 俺が【ことねーちゃん】と呼ぶ人物の本名は須藤琴音と言う。
 琴音、という名前からとって【ことねーちゃん】だ。
 隣の家に住んでいて、簡単に言えば幼馴染というやつなのである。

 年齢は俺の五つ上。俺が高校二年生、十七歳なので、今のことねーちゃんは二十二歳くらいだろう。もしかしたら二十一歳かもしれない。
 誕生日は全然覚えていないのだ。小さな頃は誕生パーティなんかにも呼ばれてるはずだけど……。
 
 俺にとってことねーちゃんは大人の代表のような人だ。
 小学校に入学した時も、ことねーちゃんは卒業間近だった。
 中学も高校も一度も同じところに通えたことはない。俺が入学する頃には逃げるように卒業してしまっていたから。

 俺は一応ことねーちゃんと同じ学校を経由している。高校も、すでにことねーちゃんは卒業してしまっているので意味はなかったけど追いかけた。
 おかげで受験勉強は大変だったと記憶している。
 
 ことねーちゃんは勉強が得意だったのだ。対して俺は苦手な部類。なので高校に入ってからは結構苦労している。自分のレベルにあっていない気がする今日この頃だ。

 いつも少し先を歩く小さな大人。
 ことねーちゃんも本物の大人からすれば子供だったのだろうけど、俺には大人に見えていた。


 とりあえず家に帰って、着替える前にリビングに向かう。 
 持っていくお菓子はリビングにしかないからだ。

「母さん、このへんのお菓子適当に持って行っていい?」
「どこに? 部屋? ひとりで食べたらダメだって。ルリが怒るわよ」
「ことねーちゃん家行ってくるんだよ。なんか呼ばれた。ルリはまぁ……なんとかする」

 ルリは俺の妹だ。
 お菓子に異常な程の執着が有り、俺が食べてしまったと知れば激高するのは確実な性格をしている。
 砂糖にとりつかれているのではと思うくらいのシュガーモンスター。
 普段は割とおとなしめなのに。

「琴音ちゃん!? あの子帰ってきてるの!?」
「よくわかんないけど、いたよ。窓から手振ってた」
「就職して一人暮らしだって聞いてたけど……」

 ――そう、俺もそう聞いていた。
 だから最初はわからなかったのだ。いるはずのない人物が声をかけてくるなど予想もしないからである。

「それならまぁ……お菓子くらいいいけど。――辞めちゃったのかしら、仕事。あんまり聞くんじゃないわよ?」
「聞けないよ、そんなこと。めちゃくちゃ気まずいだろ?」

 理由がなんであれ聞くに聞けない話だ。
 仕事辞めたの? ――聞けるはずがないじゃないか。

 俺にとって、ことねーちゃんは初恋の相手でもある。今もちょっとは気になっているくらいだ。
 年上のお姉さんに憧れる気持ちは、ある程度ならみんなもわかるのではないだろうか。

 もっとも、現実的にどうこうというのはあまり考えられない。住む世界がちがうから。
 一つ年上でも先輩として大人に見えるくらいの高校生にとっては、五歳の違いは大きな隔てりだ。

 だけど一緒に遊んだことも、勉強を教えてもらったことも、学校に行くのに手を引いてもらったこともみんな覚えている。覚えていないのは誕生日の正確な日にちくらいなものだ。

 向こうは覚えているのか怪しいもんだけど。
 所詮は近所に住む年下の男子というだけでしかないのだろうから。



 鍵が掛かっていないと聞いていたので、そのまま扉を開けてみる。
 他人の家の玄関を開けると、嗅ぎ慣れない匂いが肺いっぱいに入ってきた。
 花のような甘い匂い。
 何かしらの芳香剤の匂いなのだろうが、女の人の匂いとも取れる。
 ――もっとも両親も同居しているわけで、ことねーちゃんの匂いというわけではないのだろうけど。

「おじゃましまーす。――ってマジで誰もいない?」
「ふっふっふ! お父さんは会社、お母さんはパートよ!」

 玄関横の階段の上から声がした。
 声の主はもうわかる。聞き間違えたりはしない。

 ことねーちゃんは、階段を勿体つけた速度と顔でゆっくり降りてきた。
 白いTシャツに、高校の体操着と思われる【須藤】という名前付きハーフパンツ姿だ。

 が、がっかりする私服だ……。
 
 思うも、中身は極上だった。
 ぱっつんぱっつんの胸元には水色の何かが透けている。
 同級生ではこうはならないだろうと思う存在感は、ブラックホールのように俺の視線を吸い込んでいく。

 眼福、というやつだな……。
 何食ったらこうなるんだろう……。
 確かことねーちゃんのお母さんもでかいんだよな。母さんと同い年なのに綺麗だし。――遺伝、か。
 妹のルリにも少し分けてやって欲しいものだ。


「先に飲み物部屋に持ってくの手伝ってもらっていい?」
「あ、うん。これお土産。って言っても家にあったお菓子だけど」
「おおお! わかってるなぁ、流石あっくんのお母さん! 自分では買わないけど味はすごい好きなやつ! ちょっと高いんだよね! このチョコケーキ的なやつ!」

 ちょっと高いのは事実だ。
 俺なら安いのを二つ買うくらいの値段がする。
 だが妹のルリは味にうるさいのでこういうものを欲しがる。

「まぁそのへんはルリのチョイスだけどね。バレたら怒られる」
「ルリちゃん? 元気してる?」
「俺には聞かないんだね、元気かって。ルリは元気だよ。毎日お兄お兄ってうるさいくらいだ」
「だってあっくんは元気にしか見えないし?」
「――そうだけどさ。ことねーちゃんは元気?」
「うーん……まぁ、元気、かな。あはは」
 
 頬を人差し指で掻きながら、少し下を見ながら半笑いで言う姿はとても元気には見えない。

 何かあったんだ。

 分かっても何もできない。聞くこともできない。
 無力さを感じるくらいならば知らないほうがいい。
 十七年も生きていれば、自分に出来ることの範囲くらいわかっているつもりにはなる。
 俺に出来ることはそれほどない。

「ほらほら、玄関で立ち話もなんだし、上がってよ!」
「う、うん……」

 居間に案内されて、ことねーちゃんが台所で冷蔵庫をあさる後ろ姿を眺めた。

 パンツの線が透けてる……。
 お尻エロすぎだろ……むっちむちやな!

 思わず関西弁になり、祈りさえ捧げてしまいそうになった。

 ことねーちゃんは油断しているというか、隙だらけだ。
 距離感が子供の時のまま。
 俺がそんな目を向けるという発想がないのか、男の視線を気にしていないのか。

 家の中はあまり変わったようには見えない。小さな頃の記憶と近いものだ。大きく変わったところはソファなどの家具が新調されていることくらい。
 
「ビール、ビールっ」
「ビールって、酒? 夕方から?」
「――この世には人の定めた身分や階級とは関係なく生まれついたものがいる。それこそが真実の特権階級、――親の庇護を受けし者よ……」
「え、ま、まさかニートなの? これからどうするの? というかそのセリフはダメだって!」
「あーやだやだ。大人はこれだから。死ぬの生きるのなんて言ってたら人生損しちゃうよ?」
「そんなエンジョイ&エキサイティングはダメ! 俺子供だし! というかまだ言うか!」

 名作マンガから持ってきたセリフを、何処か遠くを見ながら気取って言う姿を見ていることしかできない。
 しかもさりげなくビールの缶も開封してしまっていた。

 ニート、ニートなのか……聞く気なかったのに聞いちゃったじゃん……。

 なんとなく察してはいたが、いざ言われると反応に困ってしまう。
 何しろ平日の夕方、五時前に家にいるのだ。社会人的には考えにくい在宅時間。

 他人の家の居間で嫌な沈黙に耐える時間が続き、これは何の罰ゲームなんだ、と思っていると、ビールを一口だけ飲んで、ことねーちゃんが少し作ったような笑いを見せた。

「なんかね、最近のネットではいい年して実家にいる人のことを【子供部屋おじさん】って言うらしいよ? 私もそれになってしまったというわけさっ」
「じゃあことねーちゃんは子供部屋おば――」
「お姉さんっ! せめて【子供部屋お姉さん】!」
「わ、わかってるよっ!」

 ま、まぁおばさんって年でもないしな……。
 子供部屋お姉さん……お姉さんなのに子供部屋。
 俺も結婚とかしないとそうなるんじゃないか、もしかして。
 
「もういいから私の部屋行こっ!」
「へ、部屋?」
「リビングで何するっていうのさ。ほらほら、行くよっ!」

 部屋、女子の――年上だけど――部屋!
 き、緊張してきた……!
 昔は何も思わなかったのに、あれとかこれとか色々あるかもしれない!
 まさか俺は今日……卒業できるのか? 生まれ持った呪い、――童貞を!
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