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1章

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 しばらくして鈴が落ち着いてから、織之助はゆっくりと指を髪から離した。

「で、鈴」
「……はい」

 ずびっとだらしない音を響かせて鼻を啜りつつ織之助の顔を窺う。
 先ほどまでの甘さを孕んだ瞳を潜め、仕事モードに切り替わった織之助に鈴も背筋を伸ばした。

「お前は今どこに住んでるんだ」

 思いがけない質問に思わず首を傾げる。

「どこって……千葉の」

 東京から近いような遠いようなところにある地名を言うと、織之助が眉を寄せてため息混じりに吐き出した。

「片道一時間半かかるじゃないか」
「……なにせお金が」

 新入社員の手取りなんてたかが知れている。
 個人的にユニットバスが嫌だったので相応の部屋を予算内で見つけるとなると、都内はキツかった。
 通勤はたしかに苦ではあるけれど、背に腹は変えられない――と鈴が心の中でぼやいていると、織之助が眉間を伸ばすように指を当てていた。

(え、千葉に住んでるのなにか問題ある?)

 開発部では何も言われなかったし、なんなら他にも千葉住みの人はいたはずだ。
 織之助が何をそんなに悩んでいるのかわからず、疑問符が頭に浮かぶ。

「――よし。わかった」

 しばらく思案をしていた織之助はややあってから一人頷いて鈴を見た。

「今日からウチに来い。そんな片道一時間半かけて通勤する時間秘書にはないからな」
「はあ……はい?」

 流れで納得しかけて――慌てて踏みとどまる。
 いまなんて?
 怪訝な表情で見上げた鈴に、今度は織之助が首を傾げた。

「なんだ。問題あるのか」

 いやいやいやいや。

「問題しかないですよ。ていうかナチュラルにブラック宣言しないでください」

 一時間半かけて通勤する時間がないってどういうことだ。 
 終電がなくなるってこと? 始発じゃ間に合わないってこと?
 ――どちらにせよ笑えない。

「ここから徒歩10分の場所にある」
「好立地……!」

 まさかの通勤が徒歩圏内という魅力的な誘いに目が眩む。
 が、すんでのところで食いしばった。

「いやいや、いくら立地が良くても無理ですって」

 一向に頷こうとしない鈴に対して、織之助が試すように目を眇めた。

「じゃあ自分でこの辺の部屋を借りて住むのか」
「ここらへん家賃いくらすると思ってるんですか……!」

 今住んでいる間取りと同じ部屋に住もうとしたら桁が一つ変わってくるような場所だ。
 鈴の財布にそんな余裕はない。

「なら一択だろう」
「お、横暴……」

 軽く家賃計算をして頭を抱えた鈴を織之助は淡々と詰めた。
 あっさり逃げ道を潰されて、ぐうっと唸りながらなんとか他の方法を探す。

(一緒に住むとか、いきなりすぎて無理!)

 うんうん言いながら案を捻り出そうと試行錯誤する鈴に、織之助がわずかに眉をひそめた。

「今さら一緒に住んでも昔と変わらないんじゃないのか」
「そっ、今と昔は違いますよ」
「どこが」

 どこって。
 ――いや、逆になんで一緒だと思うんだ。
 あまりの言い分に驚いてを顔を上げると、織之助はとても冗談を言ったようには見えない顔で鈴をじっと眺めていた。
 どうやら本当にわかっていないらしい。

「どこもかしこもです。今世ではまだ出会って一日ですよ?」

 前世の記憶はあれども、今世では出会って間もない――なんならまだ一日も経っていないじゃないか。
 そんななか二人で一緒に住むのはハードルが高すぎる。
 鈴が必死の形相で織之助に向かうと、織之助はさらに眉間の皺を深くした。

「……前世は無かったことにしたいと」
「そうっ……そういうわけじゃないですけど!」

 とんでもない方向に話が飛んで思わず目を剥く。
 ――前世を無かったことにしたいなんて、そんなこと思ったことない。
 織之助に会うまでは死ねないと息巻いて今まで生きてきたし、出会った今は織之助のためならなんでもしたいとさえ思う。
 それは前世のときから変わらない。変えようと考えたこともない。
 前世があるから今の自分がいる。
 鈴がぐっと拳を握り締めてまっすぐ織之助を見た。

「私は織之助さまと生きていた過去も、これから生きていく未来も、全部無かったことにはしたくないです」

 強い意志で伝えると、織之助が少し困ったように息を吐き出した。

(あ、あれ。……もしかして迷惑だった⁉︎)

「あの、別にこれは私がそう思っているだけなので織之助さまには何も強要しませんし……。私が邪魔なら影から見守るだけでも全然」

 言いながら、――いやこれストーカー宣言では?
 思い直して慌てて声を止めた。が、もう遅い。

(口にする前に考えろ、って織之助さまに怒られたことあったな……)

 過去の叱責を思い出して口角が引き攣るの感じつつ、視線をそれとなく外す。
 不自然に言葉を切って目を逸らした鈴に、織之助がそっと手を伸ばした。
 何事かと身構えた鈴の輪郭を長い指がなぞって――そのまま顎を掬う。
 強制的に視線が絡み、鈴が息を呑んだ。
 日本人にしては色素の薄い瞳がはっきりとした熱を持って鈴を刺す。

「俺は前世を思い出してから、お前のことを考えなかった日はない」

 その言葉に胸がぎゅうぎゅうと締め付けられた。
 鼻の奥が痛んで、うっかりすればまた泣いてしまいそうになる。

「別に昔みたいに身の回りのことをやれってわけじゃない」

 顎下をくすぐるように指が動き、

「一緒にいたいんだ――……鈴」

 懇願するような視線は甘くて強くて簡単に逸らすことができない。
 ――ずるい。
 言葉が喉の奥で消える。
 こうやってお願いされて断われるわけがない。
 織之助もそれはよくわかってるはずだ。わかっていて、やっている。
 だから――

「ずるいです……」

 悔し紛れに絞り出した声を聞いて、織之助がかすかに目尻を緩ませた。

「そんなの、お前が一番よく知ってるだろう」

 親指が唇を掠め、その熱さにまた動けなくなる。
 
(ほんとにずるい)

 最後にもう一度だけ心の中でつぶやいて、鈴は降参するように首を縦に振った。

 
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