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2.王太子と王太子妃
10.ぬくもり
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何かを言う気力は尽き果てた。マリッサは寝台の上でうなだれる。
引き止めるものがなくなったハロルドは部屋から出て行くのかと思ったが、微かな足音の後に近寄ってきた彼はマリッサの肩からガウンをかけてくれた。
「ごめん、マリッサ。今の僕は君を見られない」
衣擦れの音がするのは、ハロルドが改めて自身のガウンを着ているためだろう。
「でもね。僕は今、良いことを考えついたんだ。明日からクレアに渡す薬の中身を変えようと思う」
「え?」
「クレアに来てもらうためには薬が必要だから、渡さないわけにはいかない。だから代わりに、中身だけ別のものにしてしまうんだよ」
顔を上げたマリッサの目に、窓の方を向くハロルドの背が映る。
「王家秘蔵の薬をもってしても兄の容体は一進一退の状況だと聞いている。もしもあの薬がなくなってしまえば、一息に悪くなるだろうね」
密やかな声を聞き、マリッサは自分の顔から血の気が引くのが分かった。
「ハロルド……あなた、何を考えているの……?」
「簡単なことだよ。公爵が非業の死を遂げる。後には、公爵夫人と3人の子が残される。――子どもたちの後見人には僕がなるよ。離宮に置いて養育し、成人したら然るべき役職を与えよう」
喉の奥で笑い、ハロルドは窓の方へ歩み行く。少しずつ木々の影に隠れる彼の背は、まるで闇に溶け行くように見える。
「代わりに、クレアは僕のものだ……」
「ハロルド!」
「そうしたらようやく、君の青い瞳だって僕は安心して見られる。……ああ、心配する必要はないよ、マリッサ。君の立場は揺らがない。王妃にはもちろん君がなるのだし、僕のあとを継ぐのもクレアの子ではなく、君の――」
「駄目よ、ハロルド!」
立ち上がったマリッサはガウンを打ち捨てた。ハロルドの元へ駆け寄り、背を強く抱く。
「そんな心にもないことを言わないで!」
「心にもない? 僕は真剣だよ。これなら僕も君も幸せになれるだろう?」
「いいえ、いいえ! 誰も幸せになんてなれない!」
マリッサは両腕に力を籠めた。
「あなたも本当は分かっているはずよ! ほんの少ししか会わなかった私ですら分かったくらいだもの!」
あのとき机にあった小瓶はロジャーの命を繋ぐものだ。クレアにはきっと小瓶の中身がロジャーの命に見えている。だからあんなにも大事そうに胸に抱いた。
「あなたの計画は途中までなら思い通りになるでしょうね。クレアは子どもたちのためにあなたの元へ来る。でも、クレアの愛情はあなたの元に来ないわ。もしも夫と死に別れたとしても、彼女が他の男性に心を移すことはきっと無いもの。あなたは空虚なクレアを抱いて、さらなる孤独に陥るだけよ」
彼が喉の奥で小さく呻くのをマリッサは聞いた。
「王太子ハロルド。この国を継ぐ者。もしもあなたが本気になれば、今までだってネイヴィス公ロジャーの排除はできたのでしょう?」
返事はなかった。それこそがハロルドの返事だ。
「でも、今までのあなたはしなかった。だからきっと、これからもしないわ」
彼が歩き出そうとするのを許さず、マリッサは腕へさらに力を入れる。
「お願い、ハロルド。暗い方へ向かって行かないで」
やはり答えはない。
「……私が隣に居るわ。ずっと一緒に、居るから」
星明かりに照らされる静かな部屋の中、こうして立ち尽くしているとこの世でふたりきりになってしまったかのような錯覚にも陥る。彼のぬくもりをこんなに長く感じるのは初めてだと思いながら、マリッサは月明かりの影となっている背中を抱き続けた。
やがて、小さく息を吐いたハロルドが一歩を踏み出す。マリッサももう止めなかった。腕を緩めるとハロルドがマリッサの横を通り過ぎ、少しの間を置いてまた戻ってくる。
「……風邪をひくよ、マリッサ」
ハロルドがもう一度ガウンをかけてくれる。何も言わず前を合わせるマリッサの耳に、今度こそ寝室を出て行く彼の足音が聞こえた。
しばらく星の輝きを見てからマリッサが寝室を出ると、やはりハロルドはもういなかった。侍女たちは何も問うことなく「湯浴みのご用意ができております」と言って頭を下げた。
花を浮かべた良い香りの湯はほどよく熱く、冷えた体はすぐに温まった。だが、先ほど抱いた彼の体温の方がずっと温かかったようにマリッサには思えた。
(……ハロルドはどうしているのかしら)
彼も自室へ戻り、同じように体を温めているだろうか。心は冷えて暗いままだろうか。
両手で掬った湯が手から零れ落ちていくさまを見つめていると、マリッサの背後に寄った侍女がそっと声をかけてくる。
「殿下。“ご婚礼道具”からお出しするものはございますか?」
海の瞳を持つマリッサはこの国を故郷とするために嫁いで来たが、身ひとつで来たわけではもちろん、ない。
生国は豊かだ。広大な自領からの恵みはもちろん大きいが、一番の理由は交易によるもの。海向こうにある国々と、こちらの品とをやり取りすることにより、莫大な利益が得られている。
おかげでマリッサは嫁ぐにあたり、大国の王女に相応しい量の“婚礼道具”を与えてもらっていた。これらはすべて父母からの愛、『海の瞳』を持つ娘に対してのはなむけでもあるのだった。
父母が選りすぐりった“婚礼道具”は量もさることながら、種類だってかなりのものだ。
黄金や宝石などの財はもちろんのこと、美しい布地や調度品、武や知に長けた人材といったものも含まれており、更には山に囲まれたこの小さな国では持ちえないようなものもたくさんある。
例えば、書物に代表される知識、そして、幾種類もの薬。
もしもハロルドが本当に薬を替えるのならならマリッサにも手がある。医学の知識がある者に“婚礼道具”の中から適切な薬を持たせ、ネイヴィス公の屋敷へ向かわせればよい。この国の王家に伝わる薬がどれほどのものかは分からないが、マリッサの持つ薬だって決して引けは取らないだろう。
水面で揺らめく花びらを見ながらマリッサはしばらく考える。やがて、花を掬い取って答えた。
「いいえ。何も必要ないわ」
「かしこまりました」
マリッサは今日、相手に気持ちが届かない悲しみを知った。しかしそれをハロルドは、もう何年も抱えて生きている。
彼は強い人だ。だから例え気持ちが揺らいだとしても、道を踏み外すような真似はきっとしない。亡き夫への想いを抱えたクレアが嘆き悲しむ姿を見てほくそ笑むことはない。マリッサはそう、信じた。
引き止めるものがなくなったハロルドは部屋から出て行くのかと思ったが、微かな足音の後に近寄ってきた彼はマリッサの肩からガウンをかけてくれた。
「ごめん、マリッサ。今の僕は君を見られない」
衣擦れの音がするのは、ハロルドが改めて自身のガウンを着ているためだろう。
「でもね。僕は今、良いことを考えついたんだ。明日からクレアに渡す薬の中身を変えようと思う」
「え?」
「クレアに来てもらうためには薬が必要だから、渡さないわけにはいかない。だから代わりに、中身だけ別のものにしてしまうんだよ」
顔を上げたマリッサの目に、窓の方を向くハロルドの背が映る。
「王家秘蔵の薬をもってしても兄の容体は一進一退の状況だと聞いている。もしもあの薬がなくなってしまえば、一息に悪くなるだろうね」
密やかな声を聞き、マリッサは自分の顔から血の気が引くのが分かった。
「ハロルド……あなた、何を考えているの……?」
「簡単なことだよ。公爵が非業の死を遂げる。後には、公爵夫人と3人の子が残される。――子どもたちの後見人には僕がなるよ。離宮に置いて養育し、成人したら然るべき役職を与えよう」
喉の奥で笑い、ハロルドは窓の方へ歩み行く。少しずつ木々の影に隠れる彼の背は、まるで闇に溶け行くように見える。
「代わりに、クレアは僕のものだ……」
「ハロルド!」
「そうしたらようやく、君の青い瞳だって僕は安心して見られる。……ああ、心配する必要はないよ、マリッサ。君の立場は揺らがない。王妃にはもちろん君がなるのだし、僕のあとを継ぐのもクレアの子ではなく、君の――」
「駄目よ、ハロルド!」
立ち上がったマリッサはガウンを打ち捨てた。ハロルドの元へ駆け寄り、背を強く抱く。
「そんな心にもないことを言わないで!」
「心にもない? 僕は真剣だよ。これなら僕も君も幸せになれるだろう?」
「いいえ、いいえ! 誰も幸せになんてなれない!」
マリッサは両腕に力を籠めた。
「あなたも本当は分かっているはずよ! ほんの少ししか会わなかった私ですら分かったくらいだもの!」
あのとき机にあった小瓶はロジャーの命を繋ぐものだ。クレアにはきっと小瓶の中身がロジャーの命に見えている。だからあんなにも大事そうに胸に抱いた。
「あなたの計画は途中までなら思い通りになるでしょうね。クレアは子どもたちのためにあなたの元へ来る。でも、クレアの愛情はあなたの元に来ないわ。もしも夫と死に別れたとしても、彼女が他の男性に心を移すことはきっと無いもの。あなたは空虚なクレアを抱いて、さらなる孤独に陥るだけよ」
彼が喉の奥で小さく呻くのをマリッサは聞いた。
「王太子ハロルド。この国を継ぐ者。もしもあなたが本気になれば、今までだってネイヴィス公ロジャーの排除はできたのでしょう?」
返事はなかった。それこそがハロルドの返事だ。
「でも、今までのあなたはしなかった。だからきっと、これからもしないわ」
彼が歩き出そうとするのを許さず、マリッサは腕へさらに力を入れる。
「お願い、ハロルド。暗い方へ向かって行かないで」
やはり答えはない。
「……私が隣に居るわ。ずっと一緒に、居るから」
星明かりに照らされる静かな部屋の中、こうして立ち尽くしているとこの世でふたりきりになってしまったかのような錯覚にも陥る。彼のぬくもりをこんなに長く感じるのは初めてだと思いながら、マリッサは月明かりの影となっている背中を抱き続けた。
やがて、小さく息を吐いたハロルドが一歩を踏み出す。マリッサももう止めなかった。腕を緩めるとハロルドがマリッサの横を通り過ぎ、少しの間を置いてまた戻ってくる。
「……風邪をひくよ、マリッサ」
ハロルドがもう一度ガウンをかけてくれる。何も言わず前を合わせるマリッサの耳に、今度こそ寝室を出て行く彼の足音が聞こえた。
しばらく星の輝きを見てからマリッサが寝室を出ると、やはりハロルドはもういなかった。侍女たちは何も問うことなく「湯浴みのご用意ができております」と言って頭を下げた。
花を浮かべた良い香りの湯はほどよく熱く、冷えた体はすぐに温まった。だが、先ほど抱いた彼の体温の方がずっと温かかったようにマリッサには思えた。
(……ハロルドはどうしているのかしら)
彼も自室へ戻り、同じように体を温めているだろうか。心は冷えて暗いままだろうか。
両手で掬った湯が手から零れ落ちていくさまを見つめていると、マリッサの背後に寄った侍女がそっと声をかけてくる。
「殿下。“ご婚礼道具”からお出しするものはございますか?」
海の瞳を持つマリッサはこの国を故郷とするために嫁いで来たが、身ひとつで来たわけではもちろん、ない。
生国は豊かだ。広大な自領からの恵みはもちろん大きいが、一番の理由は交易によるもの。海向こうにある国々と、こちらの品とをやり取りすることにより、莫大な利益が得られている。
おかげでマリッサは嫁ぐにあたり、大国の王女に相応しい量の“婚礼道具”を与えてもらっていた。これらはすべて父母からの愛、『海の瞳』を持つ娘に対してのはなむけでもあるのだった。
父母が選りすぐりった“婚礼道具”は量もさることながら、種類だってかなりのものだ。
黄金や宝石などの財はもちろんのこと、美しい布地や調度品、武や知に長けた人材といったものも含まれており、更には山に囲まれたこの小さな国では持ちえないようなものもたくさんある。
例えば、書物に代表される知識、そして、幾種類もの薬。
もしもハロルドが本当に薬を替えるのならならマリッサにも手がある。医学の知識がある者に“婚礼道具”の中から適切な薬を持たせ、ネイヴィス公の屋敷へ向かわせればよい。この国の王家に伝わる薬がどれほどのものかは分からないが、マリッサの持つ薬だって決して引けは取らないだろう。
水面で揺らめく花びらを見ながらマリッサはしばらく考える。やがて、花を掬い取って答えた。
「いいえ。何も必要ないわ」
「かしこまりました」
マリッサは今日、相手に気持ちが届かない悲しみを知った。しかしそれをハロルドは、もう何年も抱えて生きている。
彼は強い人だ。だから例え気持ちが揺らいだとしても、道を踏み外すような真似はきっとしない。亡き夫への想いを抱えたクレアが嘆き悲しむ姿を見てほくそ笑むことはない。マリッサはそう、信じた。
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