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2.王太子と王太子妃
5.クレアという名
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「妃殿下」
呼ばれてマリッサははっとする。顔を上げると身支度はきちんと終えられていた。
「王太子殿下もお支度が整っておられます」
侍女が言うと同時にハロルドが姿を見せた。うつむきながら歩く彼に、マリッサは声をかける。
「おはようございます、ハロルド」
「うん。おはよう、マリッサ」
やはりマリッサへ一瞥もくれることなく、ハロルドは扉の方へ向かう。分かっていても気落ちするが、マリッサは己を奮い立たせて声をかけた。
「ハロルド。よろしければ一緒に朝食をいかが?」
この後のハロルドはいつも「用事があるから、またの機会にね」との言葉を残して足早に去るのが常だ。今回も同じだろうと思ったのだが、ハロルドは何かを思い付いたかのように足を止める。黙って床を見つめ、しばらくの後に「そうだね」と呟いた。
「……食べて行こうかな」
自分で誘ったにもかかわらず、聞こえて来た言葉が信じられなくてマリッサは耳を疑った。この半年、夫と共に過ごした時間は公の場を除けば5日ごとの夜だけ。まさか彼が私的な時間をマリッサに使ってくれるとは思わなかった。
しかし、思わず漏らしたらしい侍女の小さな歓声が、マリッサの聞いた言葉が幻でなかったと示してくれる。それはハロルドの元にも届いたようで、振り返った彼はほんの少し口の端を上げた。
「朝食の時間を一緒に過ごすのは初めてだね」
「ええ……ええ、そうね」
相変わらずハロルドは顔を見てくれないが、それでも構わないとマリッサは思った。何しろ「朝食を一緒に食べよう」との誘いに初めてうなずいてくれたのだ。
きっとこれから彼は少しずつ打ち解けてくれる。そうしたらいつか、マリッサの顔を見て微笑んでくれる日だって来るに違いない。故国で見た、あの絵姿のように。
厨房へ料理を取りに行く侍女が弾むような足取りで部屋を出る。まるで夢を見ているようだ、と思いながらマリッサが続き部屋へハロルドを案内しようとした時、部屋の中にノックの音が響いた。廊下側の扉からの音なので誰かが訪ねて来たようだ。侍女が応対に出て、すぐに困惑した表情で戻って来る。
「王太子殿下。お側付きの方がお見えです」
「僕の? なんだろう?」
どうやらハロルドにとっても訪問は意外だったようだ。ならば急ぎの用事ができたのかもしれない。ようやくふたりで朝食がとれるはずのこの時間を邪魔をして欲しくないが、そうもいかないことはマリッサにだって分かっていた。帰ってもらって、と言いたい心を押し殺して告げる。
「お通しして」
侍女は初老の男性を連れて戻ってきた。一礼した彼は、マリッサから少し離れて立つハロルドにそっと耳打ちをする。瞬間、ハロルドの背が大きく震えたのをマリッサは見た。
「――クレアが?」
続いて聞こえた声は控えめではあったが、隠しきれない喜びがにじみ出ていた。ハロルドがこんなに嬉しそうな声をあげるのを聞くのは初めてだった。それが女性の名を呼ぶ声だったことに、マリッサの胸の奥がざわめく。
やがて男性と二言三言交わし、ハロルドはマリッサに背を向けたままで大きめの声を出した。
「マリッサ、ごめん。用事ができたから、朝食はまた今度にするよ」
何となく予想はしていたとはいえ、改めて言われるとやはり落胆は激しい。それでもマリッサは努めていつも通りの声を出す。
「分かったわ。またの機会にご一緒しましょうね、ハロルド」
しかしハロルドは、もうマリッサの声など聞いてもいないようだった。返事をすることも退出の挨拶をすることもなく、今にも走り出しそうな様子で扉へ向かう。申し訳なさそうな様子を見せる初老の男性だけが丁寧にマリッサへ挨拶を述べ――そして、この日の朝もあっけなく夫は去ってしまった。
「……そんな……」
愕然とした様子を見せる侍女に向け、マリッサは何とか微笑みを作る。
「仕方ないわ。ハロルドは王太子、忙しい身なのだもの」
「……ですが」
「仕方ないのよ。ね? それに今日は初めて『一緒に食事をする』って言ってくれたでしょう? ……だから、次の時には……」
震える両手に気付かれないよう、マリッサはそっと握り合わせる。
(……そうよ。次の時は、きっと……)
次に寝室へ訪れた際、ハロルドは非礼を詫びてくれるはずだ。そのときに改めて食事の約束をすればいい。食べたいものの希望も聞いて、互いの好きなものばかりを机に並べて。今度こそふたりでゆっくりと食事をするのだ。
――そう思っていたのだが、6日経っても、7日経っても、ハロルドはマリッサの寝室に姿を見せなかった。
呼ばれてマリッサははっとする。顔を上げると身支度はきちんと終えられていた。
「王太子殿下もお支度が整っておられます」
侍女が言うと同時にハロルドが姿を見せた。うつむきながら歩く彼に、マリッサは声をかける。
「おはようございます、ハロルド」
「うん。おはよう、マリッサ」
やはりマリッサへ一瞥もくれることなく、ハロルドは扉の方へ向かう。分かっていても気落ちするが、マリッサは己を奮い立たせて声をかけた。
「ハロルド。よろしければ一緒に朝食をいかが?」
この後のハロルドはいつも「用事があるから、またの機会にね」との言葉を残して足早に去るのが常だ。今回も同じだろうと思ったのだが、ハロルドは何かを思い付いたかのように足を止める。黙って床を見つめ、しばらくの後に「そうだね」と呟いた。
「……食べて行こうかな」
自分で誘ったにもかかわらず、聞こえて来た言葉が信じられなくてマリッサは耳を疑った。この半年、夫と共に過ごした時間は公の場を除けば5日ごとの夜だけ。まさか彼が私的な時間をマリッサに使ってくれるとは思わなかった。
しかし、思わず漏らしたらしい侍女の小さな歓声が、マリッサの聞いた言葉が幻でなかったと示してくれる。それはハロルドの元にも届いたようで、振り返った彼はほんの少し口の端を上げた。
「朝食の時間を一緒に過ごすのは初めてだね」
「ええ……ええ、そうね」
相変わらずハロルドは顔を見てくれないが、それでも構わないとマリッサは思った。何しろ「朝食を一緒に食べよう」との誘いに初めてうなずいてくれたのだ。
きっとこれから彼は少しずつ打ち解けてくれる。そうしたらいつか、マリッサの顔を見て微笑んでくれる日だって来るに違いない。故国で見た、あの絵姿のように。
厨房へ料理を取りに行く侍女が弾むような足取りで部屋を出る。まるで夢を見ているようだ、と思いながらマリッサが続き部屋へハロルドを案内しようとした時、部屋の中にノックの音が響いた。廊下側の扉からの音なので誰かが訪ねて来たようだ。侍女が応対に出て、すぐに困惑した表情で戻って来る。
「王太子殿下。お側付きの方がお見えです」
「僕の? なんだろう?」
どうやらハロルドにとっても訪問は意外だったようだ。ならば急ぎの用事ができたのかもしれない。ようやくふたりで朝食がとれるはずのこの時間を邪魔をして欲しくないが、そうもいかないことはマリッサにだって分かっていた。帰ってもらって、と言いたい心を押し殺して告げる。
「お通しして」
侍女は初老の男性を連れて戻ってきた。一礼した彼は、マリッサから少し離れて立つハロルドにそっと耳打ちをする。瞬間、ハロルドの背が大きく震えたのをマリッサは見た。
「――クレアが?」
続いて聞こえた声は控えめではあったが、隠しきれない喜びがにじみ出ていた。ハロルドがこんなに嬉しそうな声をあげるのを聞くのは初めてだった。それが女性の名を呼ぶ声だったことに、マリッサの胸の奥がざわめく。
やがて男性と二言三言交わし、ハロルドはマリッサに背を向けたままで大きめの声を出した。
「マリッサ、ごめん。用事ができたから、朝食はまた今度にするよ」
何となく予想はしていたとはいえ、改めて言われるとやはり落胆は激しい。それでもマリッサは努めていつも通りの声を出す。
「分かったわ。またの機会にご一緒しましょうね、ハロルド」
しかしハロルドは、もうマリッサの声など聞いてもいないようだった。返事をすることも退出の挨拶をすることもなく、今にも走り出しそうな様子で扉へ向かう。申し訳なさそうな様子を見せる初老の男性だけが丁寧にマリッサへ挨拶を述べ――そして、この日の朝もあっけなく夫は去ってしまった。
「……そんな……」
愕然とした様子を見せる侍女に向け、マリッサは何とか微笑みを作る。
「仕方ないわ。ハロルドは王太子、忙しい身なのだもの」
「……ですが」
「仕方ないのよ。ね? それに今日は初めて『一緒に食事をする』って言ってくれたでしょう? ……だから、次の時には……」
震える両手に気付かれないよう、マリッサはそっと握り合わせる。
(……そうよ。次の時は、きっと……)
次に寝室へ訪れた際、ハロルドは非礼を詫びてくれるはずだ。そのときに改めて食事の約束をすればいい。食べたいものの希望も聞いて、互いの好きなものばかりを机に並べて。今度こそふたりでゆっくりと食事をするのだ。
――そう思っていたのだが、6日経っても、7日経っても、ハロルドはマリッサの寝室に姿を見せなかった。
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