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1.弟と兄と兄の妻
1.夜に迎える客人(ハロルド)
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小さな離宮の大きな寝室で、ハロルドは客人の訪れをそわそわと待っていた。
今夜のハロルドは「兄夫婦をもてなす弟」だ。
14歳の誕生日を迎え、隣国の王女との婚約も決まったハロルドは父王の正式な跡継ぎ、つまり王太子として近日中に王宮内へ住まいを移す。その前に一人前であることを示すため、客として訪れる兄夫婦を自分の差配で歓待する。――ということになっている。
今回訪れる8歳違いのロジャーは兄といっても腹違いの兄。彼の母は騎士階級の女性であり、おかげで王位継承権は無いも同然の低さだ。
そのためロジャーは2年前に継承権を返上し、臣下にくだることを宣言、代わりに得た爵位と、そして彼と同い年の妻とを伴い、既に王宮からは離れている。
ロジャーと、彼の妻クレア。
ふたりのことを思い出して、ハロルドはごくりと生唾を飲み込む。
今回はそのクレアこそが真の”客人”だった。
下位貴族の娘であるクレアは、ハロルドの母である王妃の侍女を務めていた。
美貌で名高いクレアには多くの男性が言い寄っていたようだが、彼女が最後に選んだのはロジャーだった。この事実が宮殿内を駆け巡った翌日は、多くの男が目を腫らしてしていたという。
実を言えば、ハロルドもそのひとりだった。
クレアは本当に美しい。黄金の髪も、晴れた空のような青い瞳も、薄紅に色づく唇も、控えめな微笑みも、なにもかもが目を引いた。
理由をつけて母に会いに行くハロルドを、周囲の人々は「殿下は本当に母君がお好きですね」と言っていたが、実を言えばハロルドは、クレアを見るために母のもとへ通っていたのだ。
もちろんクレアとの身分差は承知していた。年齢だって8つも離れている。彼女を王妃にと望むことはできない。だからといって、惹かれずにいられるほど冷静にもなれなかった。それほどにクレアは魅力的だったのだ。
彼女が同い年の兄を選び、共に城から去って行く後ろ姿を見る時の気持ちは今でも思い出せる。悔しくて悲しくて、胸がつぶれそうなほどだった。次期国王という立場さえなければ、12歳のハロルドはみっともなく彼女に追いすがって泣きわめいたかもしれない。
――だが。
寝間着姿のハロルドは寝台に腰かけ、冷えた両手を握り合わせる。
部屋は寒くなどない。寝室から去る前に使用人たちがきちんと温度を管理してくれた。――裸になっても寒くない程度の温度に。
(……裸)
どきどきという胸の音を鎮めるためにも、座学で学んだ手順を思いだそうとしたちょうどそのとき、部屋の中にノックの音が響きわたる。
音は密やかだったが、今までが静かだった分だけ、まるで雷鳴が轟いたかのような気がした。反射的に寝台から立ち上がり、ハロルドは「入れ」と言う。声が思いのほか上ずっていて恥ずかしくなったが、現れた人物を見た瞬間にそれも吹き飛んだ。
薄暗い中でそこだけ光が当たっているかのような気がするのは、待望のクレアがいるためだ。
美しい刺繍を施した紅のマントで身を包んだ彼女は顔を下に向けている。王太子となるハロルドへ礼をとっているだけなのだが、なんとなく彼女が泣いているような気がしてハロルドは不安になった。声を掛けようとしたのだが、それより早く場を制した者が居た。
「今宵はお招きありがとうございます、殿下」
朗々とした声で述べたのは、クレアの横で頭を下げるロジャーだった。まさか彼までこの寝室へやってくるとは思っていなかった。言葉が出なかったハロルドの戸惑いを感じ取ったのだろう、頭を下げたままで兄は続ける。
「私はご挨拶に伺っただけ。すぐに退出いたしますのでご心配には及びません」
「そのような……ああ、どうぞ顔を上げてください。お越しくださって感謝いたします、兄上」
「礼には及びません。それに私は既に臣へと下った身です。兄とはお呼び下さいますな」
顔を上げたロジャーは、母譲りと噂される端正な顔に笑みを浮かべる。王宮内の女性たちを、そしてクレアを虜にした笑みだ。そう思うと、心の奥底に黒いものがじわりと染み出す。
「今の私は誠心誠意、王家にご奉仕することしか考えておりませぬ。もちろん妻も同じ気持ちでおります。――そうだな、クレア?」
はい、と答えたか細い声は震えていた。やはり泣いているのだろうかと不安になるが、ロジャーは堂々とした態度のままハロルドに向かって言う。
「既に妻の準備は整っております。あとは殿下のお心のままに」
退出の挨拶を述べてもう一度頭を下げると、ロジャーは早々に部屋から去ってしまった。おそらく用意された他の部屋で休むのだろう。これで、寝室にはハロルドとクレアのふたりきりだ。
しかし出鼻を挫かれたハロルドは、この後どう振る舞って良いのか分からなくなってしまった。
(確か座学では、飲み物を……いや、あれは寝室に誘う前だったっけ? ええと、もう寝室にいる場合は……)
考えながらクレアを見て、ハロルドは一番大事なことを思い出した。彼女はまだ、頭を下げたままなのだ。
「クレア。顔を上げて」
彼女の目が濡れていたらどうしようかと思いながらも言うと、クレアはようやく身を起こす。その顔に涙はなく、昔通りの微笑みだけがあったので、ハロルドはようやく肩の力を抜いた。
「お久しぶりでございます、殿下。お近くへ寄ってもよろしいでしょうか」
「もちろん。……今日は、来てくれてありがとう」
「先ほど夫のロジャーも申しましたが、これも臣下の務めですわ。王家と殿下のおためになるのでしたら喜んで」
「……臣下の、務め……」
からからに乾いた口で、ハロルドはクレアの言葉を繰り返す。その言葉からは、彼女が望んで今夜を迎えたわけではないことが窺えた。
当然だ。ロジャーは愛妻家としても知られている。今回のことも、すべてはハロルドとロジャーの父である国王の命令によるものでしかない。そうでなければ彼女がこの部屋へくるはずもないのだ。
今夜のハロルドは「兄夫婦をもてなす弟」だ。
14歳の誕生日を迎え、隣国の王女との婚約も決まったハロルドは父王の正式な跡継ぎ、つまり王太子として近日中に王宮内へ住まいを移す。その前に一人前であることを示すため、客として訪れる兄夫婦を自分の差配で歓待する。――ということになっている。
今回訪れる8歳違いのロジャーは兄といっても腹違いの兄。彼の母は騎士階級の女性であり、おかげで王位継承権は無いも同然の低さだ。
そのためロジャーは2年前に継承権を返上し、臣下にくだることを宣言、代わりに得た爵位と、そして彼と同い年の妻とを伴い、既に王宮からは離れている。
ロジャーと、彼の妻クレア。
ふたりのことを思い出して、ハロルドはごくりと生唾を飲み込む。
今回はそのクレアこそが真の”客人”だった。
下位貴族の娘であるクレアは、ハロルドの母である王妃の侍女を務めていた。
美貌で名高いクレアには多くの男性が言い寄っていたようだが、彼女が最後に選んだのはロジャーだった。この事実が宮殿内を駆け巡った翌日は、多くの男が目を腫らしてしていたという。
実を言えば、ハロルドもそのひとりだった。
クレアは本当に美しい。黄金の髪も、晴れた空のような青い瞳も、薄紅に色づく唇も、控えめな微笑みも、なにもかもが目を引いた。
理由をつけて母に会いに行くハロルドを、周囲の人々は「殿下は本当に母君がお好きですね」と言っていたが、実を言えばハロルドは、クレアを見るために母のもとへ通っていたのだ。
もちろんクレアとの身分差は承知していた。年齢だって8つも離れている。彼女を王妃にと望むことはできない。だからといって、惹かれずにいられるほど冷静にもなれなかった。それほどにクレアは魅力的だったのだ。
彼女が同い年の兄を選び、共に城から去って行く後ろ姿を見る時の気持ちは今でも思い出せる。悔しくて悲しくて、胸がつぶれそうなほどだった。次期国王という立場さえなければ、12歳のハロルドはみっともなく彼女に追いすがって泣きわめいたかもしれない。
――だが。
寝間着姿のハロルドは寝台に腰かけ、冷えた両手を握り合わせる。
部屋は寒くなどない。寝室から去る前に使用人たちがきちんと温度を管理してくれた。――裸になっても寒くない程度の温度に。
(……裸)
どきどきという胸の音を鎮めるためにも、座学で学んだ手順を思いだそうとしたちょうどそのとき、部屋の中にノックの音が響きわたる。
音は密やかだったが、今までが静かだった分だけ、まるで雷鳴が轟いたかのような気がした。反射的に寝台から立ち上がり、ハロルドは「入れ」と言う。声が思いのほか上ずっていて恥ずかしくなったが、現れた人物を見た瞬間にそれも吹き飛んだ。
薄暗い中でそこだけ光が当たっているかのような気がするのは、待望のクレアがいるためだ。
美しい刺繍を施した紅のマントで身を包んだ彼女は顔を下に向けている。王太子となるハロルドへ礼をとっているだけなのだが、なんとなく彼女が泣いているような気がしてハロルドは不安になった。声を掛けようとしたのだが、それより早く場を制した者が居た。
「今宵はお招きありがとうございます、殿下」
朗々とした声で述べたのは、クレアの横で頭を下げるロジャーだった。まさか彼までこの寝室へやってくるとは思っていなかった。言葉が出なかったハロルドの戸惑いを感じ取ったのだろう、頭を下げたままで兄は続ける。
「私はご挨拶に伺っただけ。すぐに退出いたしますのでご心配には及びません」
「そのような……ああ、どうぞ顔を上げてください。お越しくださって感謝いたします、兄上」
「礼には及びません。それに私は既に臣へと下った身です。兄とはお呼び下さいますな」
顔を上げたロジャーは、母譲りと噂される端正な顔に笑みを浮かべる。王宮内の女性たちを、そしてクレアを虜にした笑みだ。そう思うと、心の奥底に黒いものがじわりと染み出す。
「今の私は誠心誠意、王家にご奉仕することしか考えておりませぬ。もちろん妻も同じ気持ちでおります。――そうだな、クレア?」
はい、と答えたか細い声は震えていた。やはり泣いているのだろうかと不安になるが、ロジャーは堂々とした態度のままハロルドに向かって言う。
「既に妻の準備は整っております。あとは殿下のお心のままに」
退出の挨拶を述べてもう一度頭を下げると、ロジャーは早々に部屋から去ってしまった。おそらく用意された他の部屋で休むのだろう。これで、寝室にはハロルドとクレアのふたりきりだ。
しかし出鼻を挫かれたハロルドは、この後どう振る舞って良いのか分からなくなってしまった。
(確か座学では、飲み物を……いや、あれは寝室に誘う前だったっけ? ええと、もう寝室にいる場合は……)
考えながらクレアを見て、ハロルドは一番大事なことを思い出した。彼女はまだ、頭を下げたままなのだ。
「クレア。顔を上げて」
彼女の目が濡れていたらどうしようかと思いながらも言うと、クレアはようやく身を起こす。その顔に涙はなく、昔通りの微笑みだけがあったので、ハロルドはようやく肩の力を抜いた。
「お久しぶりでございます、殿下。お近くへ寄ってもよろしいでしょうか」
「もちろん。……今日は、来てくれてありがとう」
「先ほど夫のロジャーも申しましたが、これも臣下の務めですわ。王家と殿下のおためになるのでしたら喜んで」
「……臣下の、務め……」
からからに乾いた口で、ハロルドはクレアの言葉を繰り返す。その言葉からは、彼女が望んで今夜を迎えたわけではないことが窺えた。
当然だ。ロジャーは愛妻家としても知られている。今回のことも、すべてはハロルドとロジャーの父である国王の命令によるものでしかない。そうでなければ彼女がこの部屋へくるはずもないのだ。
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