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死にたがりと、ドッペルゲンガー

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あわよくば、と言うべきか。
そんな可能性は万に一つもないと、分かっては居たのだけれども。

今、ここでアッサリ死ねたらいいのにな。

そんな事を思って、今日ここに来た。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 自分の一番好きな時間は夕方。校舎を出て、周囲に他の学生が居なくなり一人だけになれる時間。自分だけの時間を過ごす事のできる、素晴らしいとき。誰にも害されず、誰にも傷つけられず、ただ歩くだけ。自分は間違ったことをしていないのだと安心できる。

 できることなら、少しでもゆっくりしたい。そう思って歩く速度を遅くしたり、寄り道したりといった日も有ったが、そんな日は大抵、反動で夜に酷い目に合う。「何処をほっつき歩いていたのだ」、と問い詰められるのだ。定刻通り、午後6時13分。トタン屋根のボロアパートが近づくにつれて、自分の足どりが重くなるのがわかる。

「はぁ……」

 深呼吸、もとい、ため息。ここから先は、安息の時間ではない。俺に与えられるのは、登校前半の15分と、下校後半の15分だけ。それ以外は、常に警戒しなければならない。ドアノブに力をいれ、引く。いつも通り、玄関だけはキレイにしてあるドアの向こう側。そこから続くワンルームの室内は、行ってみれば人間の文化的な生活とは程遠かった。

「……ただいま、帰りました」

 返事はなかった。この部屋の主である俺の義父は、法定上は保護者と言う事になっている。保護された記憶など一寸も無いが、一緒の部屋で暮らさなければならない。そいつは今、グビグビと紙パックの日本酒を飲み干していた。

 どうだっていい。こんな人間と、必要以上の会話などしたくない。それよりも、今はとても本が読みたい気分だった。

 情けないと嘲笑われるかもしれない。だが、家の中で僅かに平穏が訪れる時間、その中で俺は本を読むことが一番の楽しみだった。現実離れした、ファンタジー冒険譚。その方が、現実の辛さをより薄めてくれる。

「もう、何回読んだんだっけ……」

 表紙の塗装が剥げるぐらいに、あるいは手垢がつく程には、何度も同じ本を繰り返し読んだ。大好きな本というのは、次にくる展開が分かっていたとしても面白く感じる。

 例えそれが、古臭いような。――剣と魔法の世界の冒険者たちが怪物と戦い、最後に邪悪な龍を打倒して。その後はみんな平和に暮らす。そんな陳腐な粗筋の本でも。それが現実離れしているほど、彼ら冒険者たちの事を想像することで、ふと自分の心が楽になっているのだ。居なくなった、『本当の家族』との思い出の本だから。

 しかし、その本が何処にも見当たらない。義父が勝手に何処かに動かしたのか?

「ごめんなさい。……あの、ここに仕舞っておいた本って……」

 恐る恐る、話しかけたくもない相手に質問をする。ヤツの機嫌が悪かったら、怒号が飛んでくるだろう。それでも、確認せずには居られなかった。

「ぁア? あの本なら売っぱらったぞ?」

 耳に届いたはずの音が、理解を得るのに時間がかかった。口から出る声が、自分でも震えているのが分かる。

「な……なんで、大事な、本だって言ったじゃないですか」
「仕方無ぇだろうがよぉ! あと10回転させたら絶対取り返せるって所で金は無くなるし、売った紙束じゃ飯食っただけで無くなるし! 結局お前のくだらない本の鑑定に時間がかかったせいで席が無くなって、今日は5万もスッちまったじゃねえか!」

 信じられない、義父コイツは家計を管理する能力が無い癖に、消費する速度だけは人一倍ある。最悪の状況を予想しつつ、質問を重ねた。

「…………昨日、残高が3万って言ってましたよね? まさか、またサラ金に」
「お前の貯金だよ! 増やして返すつもりだったんだから問題ないだろうが! 文句あんのかお前、子供ガキのクセにッ!」

 ぼうっとしていた頭では、自分の鳩尾みぞおちに打撃が入ったのを認識できなかった。狭い部屋の壁までたたきつけられ、床に置いてあった食べくさしのインスタントラーメンの汁がかかる。

「ああムカツク、俺は昼から働いていたっていうのに! テメエは学校行ってチャランポランしやがって!」

 この男は、果たして日本語を話しているのだろうか、あるいはただ理性のない獣のように吠えているだけなのだろうか。『パチンコを打つ事』を『働く』と言い換えてしまう程度には、下劣な知性しか無い事は解った。ふらついて、呆然としてしまって、もうなにもわからなくなる。強烈なキモチワルサと、喉元に襲い掛かるえづき。自分の口から、耐え難い悪臭が湧き上がる。

「コイツっ……吐きやがった!」

 酒のシミだらけの畳に俺が嘔吐したことで、余計に怒りを増した男は、乱暴に腕を振るい始めた。振動と痛みが頭に伝わる。ぶん殴られるのには慣れている、その筈なのに今日は耐えれなかった。足がふらつき、後ずさって玄関にしゃがみ込んでしまう。耐えなきゃ、義父コイツが満足するまで、無心で堪えなければ。そう思っているはずなのに。

「人様がっ! 親切でっ! 養ってやってるのによぉ!」

 言葉の切れ目切れ目に続く痛み。こんな行為は初めてではない。一緒に居てから何年もたつうちに、虐待行為に手慣れてきたのか、目立たない場所への攻撃が増えてきた。防御したり、逃げたりすることは無駄で、その行為で逆に火がつくのが義父クズなのだ、という事を、母が死んでたったの1ヶ月で学ぶ事になって。

「この――恩知らずのっ――テメェの顔見てるだけで――イラつくんだよッ!」

 反抗的な目をしている、という理由で殴られたのが始まりだった。実際は、競馬だか競輪だかで大金を溶かしたのが原因で。負けが混むたび暴力は増えて。次第に俺の生活費やバイト代にも手を出して。――それでも、俺に他に行くところが無いのは事実だった。実の父と母は、もういない。先に父が逝って、心身共に参った母が再婚相手クソッタレに騙され、狂わされ、誑かされて。コイツが本性を現したころには、家にあったはずの貯金はほとんどコイツに食いつぶされていたのだ。

「大体あの女が悪いんだ、ロクな貯金も無ェ癖にガキ一人育てるなんざ――」
「ぐっ……ぅ……お……『オマエ』はっ……!」

 普段はそんなこと、出来ないのに。母の話が口に出た瞬間、全身に血が回った感覚。義父を『お前』と吐き捨て。手元に転がっていた、アルミの灰皿を中身ごと顔面にぶちまけた。そのままの勢いで、床にあったウイスキーの小瓶で肩を殴打した。

急に痛がる素振りを見せた叔父は、急に俺から離れるように部屋の反対側へ。
屈む様に、何かをしている。携帯電話だ。俺は持っていないが、いつ契約したのだろう。やってしまった、と思う前に。電話口の会話が聞こえた。

「警察ですか――ウチのガキが――息子じゃなく――灰皿と酒瓶で俺の頭――今も俺の事を殺そうとして――」

 急に怯えたように電話口に話しかける男。俺のほうを見ちゃいなかった。今まで受けた暴力のほんの少しお返しをしただけで。急激にこいつは、被害者ヅラをするような。
 ――同じ人間だと思うだけで反吐が出る。

 近くのテーブルには、飲みかけのビール一升瓶。
 瓶のネックを掴んで、立ち上がった。今ならば、コイツの頭蓋目掛けて、『凶器コレ』を振り下ろせれば。
 全部終わりにできる。何年分もの、復讐が遂げれる。
 一瞬だけ振り返った叔父の表情が見えた。

 ――とても、怯えていた。
 さっきまで、俺を殴った男とは思えないほど、哀れで貧弱な人間の皮を被っていた。

「ゥ………………はぁ」

 手に持っていた、ビールの一升瓶を床に落とす。ゴトリ、と重い音。床にビールの染みが増えてゆく。さっきまでの苛立ちが急激に冷え込んだ。シラケかえって、何もかもが阿呆アホらしくなってしまった。電話に必死の形相で話しかけておきながら。やろうと思えば包丁でも鈍器でも持ち出して、一息で潰せそうな無防備な背中。そんなものを晒しておいて、何が『殺される』だ。

ふざけるな。
――萎え切った気分のまま、古びた玄関をバタンと閉めた。

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 鞄を背負ったまま、歩く。行く当ては今の所ない。お金もないので、本当にどうしたものだろうかと後から考えだす。別段、数日学校に行かないぐらい問題はないだろう。俺という玩具オモチャが無くなって退屈する奴らが居るだけの話だ。

 世間一般の常識でいうのならば、然るべき組織や施設が対応してくれるのだろう。……ただ、自分の場合はどうにも巡り合わせが悪くて。
まるで周囲が結託して、蟻地獄から抜け出せないように包囲されているかのようだった。以前と同じように、さっきの通報の後、どうせ警察が来て、学校の先生が来る。形だけの謝罪と上部だけの反省を義父アイツが発して、俺はそれを『受け入れなければならない』。

 担任教諭は、間違いなく俺の味方をしないだろう。厄介ごとは早々に終わらせ、優秀な生徒に目をかけたいのが普段の生活からも分かる。俺の体に『目立たない様に』つけられた痣や傷跡も、果たして家で負傷したものか、学校でできたものかはわからない。俺の学校生活イジメを『よく観察している、優秀な』筈の先生は、それらをなるべく表沙汰にはしたくない。

 一度、『不幸な事に』俺がイジメられていたことを別学級の先生が目撃したことがある。加害者に1時間の説教の後、面談室に呼び出され、握手をするよう教師に要求された。加害生徒クソヤロウの顔を見た。……半笑いだった。握手の手を跳ねのけた、その瞬間、うちの担任の女教師は――俺に対して激高した。

 協調性が無いから孤立するのだとか、謝ったのに許せないなど人としてどうなのか、とか。ボイスレコーダーでも持っていれば、面白い事に使えただろうになぁと。今になって悔やむ。
もっとも、スマホどころか携帯だって持っていない自分には縁のない話ではあったのだが。ああ、思い出して来たら何だか面白くなってきてしまった。笑いが、とまらない。

「ぁハ……きヒっ、かははッ……」

 通行人が、怪訝な目線をこちらに向けてくる。思い出し笑いをしただけだというのに、なにもそこまで変な奴を見るかのような顔をしないでほしかった。
――ああ。怖くなってくるから、そんな目で見ないでくれ。責めるような、見たくない物を見てしまったような目で。悪事を犯した者を見るような表情を向けないでくれ。

――お前のせいだ。何事も。自分の招いた結果だ。君が悪いんだ。自己責任だ。人に顔向けできない事があるのだろう。

 自分の声で、自分を責める声がする。聞こえるはずもないのに、ソレは自分の声で俺自身を苦しめ、羽交い締めにする。無意味で空虚な人生を歩む事になったのは、結果として自分の為したことのツケなのだと。

 不思議な話だ。ソレは無数の車が行き交う交差点の『線』で、電車のプラットフォームの点字ブロックの『線』で、あるいは高層ビルの柵という『線』で。『区切られた一線』から飛び出してしまえば、あっという間に何もかもを『オシマイ』にできる。そう考えてしまえば、何故自分は今まで生きてきたのだろうかとすら思えてくる。

「ハハっ……」

 凶器すくいになる鉄塊が、あちらこちらで勝手に走ってくれているのだ。――だとしたら。これから、俺が生きている意味なんてあるのだろうか。失敗ばかりしかしてこなかった俺が、前に進む方法などない。ならば、スパッと終わらせるのが『正しいたやすい』事なのではないか。

 ひどい思い出ばかりが、湧き上がっては俺の頭を重く苦しめてくる。脳ミソの代わりにドブでも詰め込まれたかのように、苦しくて重い。

 優秀なスポーツ選手。優れた業績を残した研究者。あるいは、テレビに映されるアイドルや芸能人。書店の棚に自分の作品を収めることのできた作家。額縁に飾られた絵画を描いた芸術家。そんな輝かしく、素晴らしい人間たちの活躍を見て。

――ソイツらに対して、無性に腹の立つ自分が居た。素直に称賛できない自分が居た。彼ら彼女らにとっての絶頂の刻ゴールデンタイム。死後の名声だろうと、自分には絶対に手に入れられないものを、奴らは簡単に手に取って、時には簡単に放り捨てることすらする。

 いや、もしかしたら。自分は世間一般の『普通の人』にだって、そんな目を向けていた。きっと一生を賭けたって、手の届かない喜び。『なんでもない幸せ』、そんな風に言われるものが、絶対に手の届かないものだと知っていたから。

 普通の人なら簡単に出来ることが、通常通りに経験しているはずのことが、俺には得られなかった。手に入れることが、できなかった。――それはまぁ、仕方がない。つまり自分には、相応の人間としての価値だとか、才覚とかが備わっていなかったのだろう。俺はつまり、人間未満だったという事だ

 わざわざ痛い思いを追加注文する趣味は無い。終わった後で、人身事故で遅延だ何だと見知らぬ人にすら恨み事を言われるのは、何となくイヤだった。あと、その辺の運転手の人生をぶち壊しにする勇気も無かった。

――案外、自分の命に執着する所があったのだろうか。そんな考えが浮かぶが、否定材料が多すぎた。『一線』を踏み出すことを勇気だというのなら、俺には勇気が無かった。トボトボと、行く当てもなく歩く。遠く、暗い方に。人のなるべくいない方に。

 そして、辿り着く。数分か、数十分か、時間の感覚がよくわからない。ただ、人のいない所に歩き続けて、辿り着いた。もう暗くなる空の下で、俺を待ち構えていたのは鈍色に染まった廃墟だった。名を、『ニューサンルート』というようだ。既に字の色が薄くなった看板に、そう書かれている。

 明らかに住人なんて一人もいない、オンボロのアパート群。耐震基準の関係で住人が全員退去したらしいが、ホームレスが住んでいるだの犯罪者の隠れ家になっているだの、はたまた迷惑な餌やりをする人がいたせいで狂犬の住処になっているだの。妙な噂には事欠かない場所だった。

 そんな噂の中でも、特段に怪しくて、誰も信じないウワサがあった。
 あの廃墟は、人の魂を喰らう。
 あやかしや亡霊たちの住処となって、生きている人間を襲わんと待ち構えている。
 誰かがそう話しているのを聞いて、馬鹿馬鹿しい話だと。そう思っていたのに。
 あわよくば、と言うべきか。
 そんな可能性は万に一つもないと、分かっては居たのだけれども。

 今、ここでアッサリ死ねたらいいのにな。
 そんな事を思って、今日ここに来た。


 一人きりになりたかった。
 どこだっていい。階段を上がって、空きっぱなしのドアを潜る。畳すらない、コンクリ打ちっぱなしの床。そこに、鞄と同時に自分の体を放り出す。夕日はすでに沈んでいて、月明かりがほんのわずか、差し込んでいる。もう、動きたくない。このまま床でずっと留まることしか、できそうにない。

「無差別殺人犯でも、野犬でも、もういっそ亡霊とか呪いでもいいからさ」

 誰にも聞かれていないのに、勝手に話す。そういう所が嫌われる。

「殺してくれよ」

 自分で決着をつける勇気がないから、最期まで他人任せ。

「終わらせてくれ」

 救いなんて存在しないと信じ切っている癖に、こんな時にだけ何かを信じる。

「辛くて、しんどくて……それでも生き続けなければいけないなんて」

 たまらなく滑稽。嘲笑されるのも無理はない。周りは同じように生きているというのに。

「もう……嫌なんだ」

 逃避に自己否定、諦念に支配された人間。誰がそんな奴を助けるというのだ。

「生きて……いたく……ない」

 人間が社会性の生物だというのなら、俺は人間ではなかったのだろう。

 ――――外からの月明かりすら、消えてしまった。数秒のうちに、だろうか。急激に寒気が襲ってくる。すきま風が吹いているわけでもないのに、気温が突然下がったかのように。吸い込む息も、重くて冷え切った、濁ったものに。

 冷たく、淀んだ重い空気。息を吸って、吐くだけの行為すら困難になる。全身が金縛りにあったかのように――いや、間違いなく指の一つも動かすことが出来なかった。目だけは動いて、辺りを見る。

 ひび割れた、白灰色のコンクリ床。そこから、燻った煙の様に黒色をした何かが立ち昇って。およそ、『尋常ならざるモノ』が近づいてきているのが分かった。徐々に『ソレ』らは、十数個の塊に別れてゆく。ベトリ、と床に張り付いて実体を得た粘液は、先端を尖らせながら此方に近づいてきた。

 四方から、正体不明の怪物が迫ってくる。だけど、焦る感情は無かった。あるいは、切れた豆電球のように感情が動かない。そんな中思ったのは、これならば、別に迷惑をかけることなく静かに消えれる、ということ。腕の一本が、俺の頭に近づいて、徐々に触れようとしてくる。

目を、閉じた――――

「がッ、あァ゛ッ!?」

全身に、強烈な痛みが走る。
既に動けない俺の四肢に纏わりついた『手』は、俺の両手、両足を掴んで。
ぐい、とチーズでも割くかのように『正反対』に引っ張っていた。

「ぐう゛ッ!?」

いや、似たような事を学校でされた事はあるにしても。
今の俺は体調不良で、しかも金縛り。もがく事が出来ないまま、激痛に耐える他ない。
――なんで。何でこんなことを。

更に浮き出てきた『手』どもは、身体じゅうに纏わりついて、身体の部分部分を引っ張ってくる。昔に何かの映像で見た、草食動物の死体に群がって貪るライオンの様子を思い出す。

「ギ、が゛あ゛っ!? お゛ゴお゛っ……!?」

ぬらりと、腐臭を漂わせながら俺の全身に絡みついてくる無数の手。コンクリ床に身体が沈むはずもないのに、沼に引き込むかのように、下に、下に俺を引っ張る。押しつぶされる形になる俺の身体から、ギシリ、とカラダの軋む音が、聞こえるはずも無いのに響いた気がした。潰れそうな体躯と、吐き気のする光景と、叫ぶことすら許されない痛みと、暗くなる視界。

恐怖なんて無かったはず、なのに。
生きたくはなかった。だけど、苦しみたくは無かった。
楽にして欲しかった。
――それなのに、最期の望みすら、叶えられないのか?

「う……ガボっ゛……」

焼き切れそうな脳と思考、そして見開いた目に。
黒々とした手とは違う何かが飛び込んでくる。

僅かに輝く月光の中から、細い腕が飛び込んで俺の胸元に飛び込んでくる。
無数の『手』どもを振りほどいて、やってきたソレを。
思わず、俺は掴んで――――

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「――きて、起きてっ!」

誰かから、呼ばれている。足音が近づいて、身体を揺さぶられた。頭がグラグラして、気分が悪い。視界に飛び込んできたのは、知らない女だった。どうやら必死の形相で、こちらを見つめている。咄嗟に離れようと、脚に力を入れようとした。
しかし。

「良かっ――たぁーっ!」

突然、彼女がこちらに体当たりを仕掛けてきた。そのまま、腕で羽交い締めにしてくる。体勢を整えられないまま、再び床に身体をぶつけてしまった。

「あ゛痛っ!?」
「あぁーっ!? ごめん、ごめんっ! でも、ずっと探してたんだよっ!」

突然タックルを仕掛けてきたかと思えば、ソイツは俺の頭に手を当て、逃げられないようにしてくる。いや、撫でている、のか? 少なくとも、面識のある人間ではない。なのに、俺の事を知っているかのような反応。訳が分からなかった。

「探して、って……あぁ、警察とかですか」
「へ? 警察? そんなとこに用事なんて無いでしょ?」

別の用事でこちらを探していたのか、しかし見当もつかない。キョトンとした顔で俺を見ている彼女は、当たり前のことを言うかのように。

「ほら、帰ろうよ。そろそろ帰らないと母さん心配するよ」
「――母は、居ません。数年前に……」
「え? いや今朝普通に寝過ごしてたじゃない。朝食が非常食のカンパンになった恨みは分かるけど、そんな超シリアスに死んだみたいに演技しなくても」
「………………はぃ?」

 どうも会話が噛み合わない。

「まさか、さっき頭を打った時に脳震盪みたいになって記憶が……」
「いや、そんなに激しく打ってはないんですけど。そもそも、あなたは誰なんですか」

 会話するのもだるいのに、こうもハイテンションな人に巻き込まれるとは。少し不躾に、拒絶するように強く言った。そうすると彼女は余計に驚いたかのような顔をする。

「ガーン! そんな、私の事も忘れちゃったフリなんて……よよよ……まさか、昨日隠してあったチョコレートを食べた恨みで……?」
「食べ物関連の失態、多い……?」
「ふむむ……さては学校の奴等に変な事吹き込まれて、こんな事やらされてるって訳ね? 分かったわ、それなら家まで協力してあげる」

そうして腕を引きあげるようにして、俺を立ち上がらせた彼女はこう告げた。

「私は、あなたの姉。双川夏羽ふたかわなつは。ほら、一緒に家に帰ろ?」

――俺と同じ苗字で、姉を名乗る存在。当惑し、思わず顔をあげてしまう。ちょうど夏綺と目があってしまう。怯みかけた俺に近づいて、彼女が。

「『初めて』、目を見てくれたね」

 そう微笑む。

 分からない。だけど、行く当てもない。腕を引かれている状況で、拒絶して突き放す気力は無かった。

 廃屋の一室から出た時、外は夕暮れだった。ひょっとしてあの建屋で1日失神でもしていたのだろうか。
そう思って彼女ナツハに尋ねる。

「もう、あそこで一日経っちゃったんですっけ」
「……むむぅ。日付まで忘れたフリをするよう『指示イジメ』られるとは……今日は5月の1日!」

 義父に殴られ、逃亡した日と同じ、5月1日。時間が巻き戻った――などとは、誰も信じるわけがない。つまりコイツも、俺を騙して馬鹿にするためにやってきた誰かと言う事だ。きっと、あの廃墟で俺は一日中失神していて。今この女が嘘をついているというだけの話だろう。見たことは無いが、他校の生徒がうちの学校の噂でも聞きつけたか、友人同士でツテがあるのだろうか。

「――タチの悪い冗談は止めてくれませんか」
「こっちのセリフだよっ! こうなったら手を引いてでも連れて帰ってやるからね!」

 手どころか、腕ごと。身体にひっつけるように。俺と彼女ナツハが横に並ぶ形で。もし仮に、彼女を振りほどけばセクハラの主張でもするのだろうか。いや、この状況に追い込まれた時点ですでにアウトだ。どこかで写真を隠し撮りしている奴が居るはず。そして写真をちらつかせて、適当な事をいって俺をまた貶めるのだ。

「どこか、痛いところは無い?」

耳元で囁く女。返答の必要を感じることがないから、沈黙を貫く。

「家に帰ったら手当てしてあげるからね」

期待してはいない。どうせそこで、またリンチされて怪我が増えるだけだ。連れて行かれる場所に、トボトボと行くしかない。

――数分、歩いただろうか。辿り着いたのは、一軒家が並び立つ住宅街。少し意外だった。いつも学校の奴らが俺を誘って行く先といえば、目立たない裏路地。あるいは誰も来ないような空き地。知っている大人に露見すれば、一応はマズいことになるからだ。住宅街に誘うということは、親公認かはたまた留守か。

「ここだよ、ほら」

『双川』と表札のある、立派な二階建ての一軒家。俺の住んでいるオンボロアパートとは、『同じ苗字』でありながら大違いだと自嘲したくもなる。殆ど引きずられるように、玄関まで連れて行かれて。

「ただいまー!」
「あら、お帰りなさい」

響いた、彼女の母親と思しき声。『親公認でイジメ』の方だったか、と納得しかけて。ふと、小奇麗にレースまで敷かれた、下駄箱の上の写真をふと目にする。

――写真の中に、『俺』が居た。その隣にナツハ、左右には、記憶より少し老けているかもしれないが、居なくなった両親。俺の笑顔はぎこちないものの、全員が笑っている。……こんな写真を、撮った覚えは、無い。その、はず。

「待って……ちょっと待ってくれ……?」
「ん? 写真立てがどうかしたの?」
「この……この写真。一体、どうやって……」
「どうやって、って……その辺の人にカメラ貸して撮ってもらったでしょ?」

いや、この写真を無理矢理作ることは、技術的には不可能ではない。例え俺の父親が3年前、母が2年前に逝って。その直前の写真が有れば、今の技術ならワザと老けたように加工することだってできるはずだ。

「あら、どうしたの冬樹……? なんだかグッタリしてないかしら?」

浮かんだ疑問は、しかしそれ以上の衝撃で消し飛ばされる。数年前、自ら身体を壊して、早々に逝ってしまった自分の母親が。それと全く同じ姿の女性が、目の前に。
――家の奥からやってきたのは、俺の母。双川由比が、そこに居た。

 呼吸していない事に、十数秒気がつかなかった。

「な…………なんで…………」
「フユくん、朝ごはん用意できなかったからってそこまで過激なリアクションしなくても……! あれはアタシが悪かったから……!」

ゴメンのポーズで謝ってくる母。そんな小粋なジョークのようなフリをされても。
情報処理できる状態にない。

「フユくんグロッキー気味なんで連れてくねー」
「ちょっと、待っ――」

思わぬ状況に、抵抗する力も無いままに2階の部屋に連れて行かれる。ドアには「Natsuha」だの「猛獣注意:熊」だの、「速度制限:20 L」だの、意味の分からないステッカーが大量に張ってある。その部屋のベッドに、殆ど投げ出されるように俺の身体は押し込められた。

その上に、にこやかに覆い被さってくる彼女ナツハ
――今まで、この体勢を取られたときは。リンチや脅し、痛い思いなど、酷い目にしか遭わなかったのに。
今日だけは、怯えとか、恐怖とか。そんな感情が起きなかった。

「ねぇ。ビックリ、した?」

そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべる。親しい人に向けるような。きっと誰からも、俺には向けられたことのない表情。俺を押し倒した状況から、ゴロリと夏希が転がって平行に寝ころんでくる。さっき耳元で囁かれた言葉に、少し考えて返答する。

「――今でも、質の悪い冗談だと思っている。俺の母親そっくりの人を連れてきて、俺の姉を名乗りながら自宅に連れ込んで。
こうやって無防備になった状態から、普段俺をサンドバッグにしてる奴らが突然飛び出して。いつものように殴られるんだ、って怖い気分はある」

……でも。奇妙な感覚だが、自分の記憶が、あやふやになっているのを感じている。

「『分からないんだ』。あんな写真を撮った記憶なんて無いのに、ひょっとしたら撮ってたかもしれない、なんて思い始めている。
始めて見る『姉ちゃん』の部屋なのに、『何時もの部屋』だって記憶がある。
俺はここ数年、1人っきりだった記憶しか無い筈なのに」

初めて出会ったはずの人間なのに、なんで夏羽の事が「信用できる人だ」と今は思えるのだろう。
――その言葉は飲み込む。その代わりに、絞りだした一言。

「お前は……誰なんだよ、『夏羽ナツハ姉ちゃん』」

知っている。だけど、初めて知った人間。俺の記憶が狂っているのか、それともただのイタズラ続きなのか。彼女は顔を寄せて、少しだけ寂しそうな顔をした。

「苦い記憶が、まだ一部残ってるみたいね……だけど、混乱はさせたくないから。キチンと言うよ」

ぎゅっ、と抱きしめられた。
温かい体温が、服越しにでも伝わってくる。

「――『ワタシ』は、あの廃墟に閉じ込められていた霊の一部、あるいは妖怪。貴方の命を奪って、今ここに居ることが出来る存在」

……理解が、追いつかない。でも、超常の仕業でなければ、説明のつかない事ばかり。

「死を望んだ貴方を、喰らおうとした無数の亡者に。襲われて、苦しんでいた貴方が見えて。――ワタシは、我慢できなかった。生きているのに、死を望むなんて。
あるいは、死を望むほどに過酷な命を生きなければならないなんて」

……記憶が、蘇る。恐怖の夜の、感覚が。

「貴方は間際に、殆ど無意識的に。『これ以上、苦しみたくない』と願った。
――そう願ってくれたおかげで、他の亡者どもとは違う『契約』を結ぶことが出来たの」

抱きしめられる力が、少しだけ強くなる。片手が、俺の頭に触れ。髪を梳くかのように、頭を撫でられた。硬直した俺の身体は、跳ねのける事も、逃げ出すことも出来ない。金縛りの感覚とは、少し違う。緊張のあまり、何をしたらいいのか、分からない。

「神様も、幽霊も、悪魔も。存在を人間から『信じて』もらわないと存在できない。貴方が……手を握り返してくれたから。私は、貴方の姉として今ここに来ることができた」

泥に、闇に包まれた瞬間。絶望に沈んで、凍えていた時。
僅かに見えた誰かの手。その手を取った記憶。
おぼろげに、覚えている。
初めて握った、温かい掌の感覚。

……でも。抱き着かれた身体を、力強く押し返す。

「――だったら、放っておけばいいだろ」
「フユキ……」

幽霊が、身体を取り戻したかった。理由が分かったのなら、どうだっていい。つまり俺は、彼女が身体を取り戻すためのキッカケを作ったということだろう。目的が果たされたのであれば、コイツはすぐに俺を更に利用しようとする。もう、半端に期待するのも御免だ。

「もうアンタにとって、俺は用済みって事だろう。さっさと妖怪らしく呪い殺すなり、苦しめるなりすればいいさ」

 口走る言葉は、何処までも相手の気分を害する。そうすべきではない、といのは簡単に想像できるのに。……あるいは。俺は、もう期待するのは嫌だった。期待されるのも、いやだった。だから、とことんまで失望されてしまえば。それで良かったのに。

「どうして……だよ……」

 『ナツハ』が、現実をこれほどまでに歪める力を持った妖怪ならば。俺の存在に成り代わって、ただ生きるだけでよかったはずだろうに。どうして、『ナツ姉ちゃん』は、まだオレの事を強く抱きしめているのだろう。

「お前に、関係ないだろ……ッ!」

 生きたくなかった。両親が居なくなったのは、自分のせいだったから。義父と母の間を取り持てなかったのも、自分が上手くやればよかった。学校で打ち解けられないのは、結局は自分の問題だった。何をしてもうまくできない、自分に状況を改善する事はできたはずなのに、やれなかった。

 『僕』なんかが、生きていたってしょうがないじゃないか。

「ボクが死のうが生きようが、関係ないだろっ! 地縛霊から抜け出せたんだったら、さっさと何処かに行けばいいじゃないか!」

 父が死ぬきっかけを作ったのは僕だった。交通事故。2人でサイクリングに行ったときに、父か少し疲れ、僕は少し先の自販機で待つと言って先行してしまった。遅れてきた父は、青色だった横断歩道を自転車で走行していた。そこに、飲酒運転の車が突っ込むまでは。

 10:0で、補償額は相当なものだったらしい。何処からそれを聞きつけたのか、優しい仮面を被ったクズが母に近づいた。心が壊れかけた母には、ソレにすがるしかなかった。僕も慣れようと努力した。再婚し、仮初の幸せが戻ったかのように見えたが、ある日お金の使い道を母が義父に尋ねた日から、地獄が始まった。僕は、立ち向かうことが出来なかった。

 そして母は狂い、自らを呪い、風邪薬を買い込むようになった。シロップの咳止めを大量に。総合感冒薬の黄色い錠剤を、ラムネ菓子のように砕いて飲み干して。そしてすぐに体を壊して、あっけなく逝った。直前に、僕に泣きながら詫びていた。

「どちらも、君のせいじゃない。君でも、難しかったんだ」

 罪は裁かれなければならない。もしも、僕が正しく行動できていれば。誰も喪うことなく、幸せにくらせていたのに、そうできなかったのは。結局は、最悪の結果を引き当ててしまった自分自身が悪いのだ。ならば、罪深いのは僕だ。裁かれなければならないのも、また僕だ。

「そうじゃない。君と出会って、君の記憶を知った。悪いのは君じゃない」

 抱き寄せられる。ハグされるだけで、ヒトはストレスが減るらしい。知らない人のはずなのに、いつもしてもらっていた安心感。ずっとココに居たいと思いたくなる。何時ぶりになるだろうか。人前で、呼吸をしているのに苦しくない。身体を束縛されているのに、気持ちが和らぐ。背中から伝わる腕の感触が、温かい。

「ずっと、君は堪えていたんだよね。不幸な運命と、変えれたかもしれないという思い付きに」

 1分間に60の刻みで、微睡みに誘うかのようにナツハは、ボクの背中を打つ。何故か、目の前の彼女の姿がぼやける。顔に水がかかったみたいに、視界が潤む。なのに、あたたかい。分からない。だけど、心の奥底にあったものを吐き出してしまう。

「生きていたくない。僕は生きていちゃ、いけないんだ。周りを、不幸にするし、苦しめる。だから、僕なんか、居なくなった方が、良い」

 死にたいとは、言えなかった。それは身勝手で、自分本位な行動と発言だったから。ひきつけでも起こしたかのように、しゃくりあげてしまって。言葉が、上手く継げない。そんな情けない姿を晒してしまってもなお、ナツキは囁いてきた。

「もしも、『なりたい自分』になれたら。どうなりたい?」

 答えなんて、決まり切っていた。

「――――そんなの、ない。そんな自分に、なれるわけがない」

 変わることなんてできない。自分が存在することが全ての損失なのだから、より良い自分の状態は、そもそも『居ないこと』だ。

 だけど、『ナツハ』は。そんなボクの答えを一笑に付す訳でもなく、ただ微笑んで語り掛ける。

「双川ナツハ。そして、ワタシの妖怪としての名前は――――ドッペルゲンガー」
 廃墟で襲ってきた無数の黒い手を思い出す。妖怪。ドッペルゲンガー。現実離れした言葉は、しかし彼女の顔を見た瞬間に事実として露になる。短髪だった髪の毛が、今や腰にかかるまでのロングヘアーに。背丈はボクと同じぐらいだったのに、いつの間にかボクより背が高くなっている。

「人の姿を模倣し、自我を、寿命を、あるいはその人自身の存在だって奪う妖怪」
 
 ようやく合点が行く。ナツハは、ドッペルゲンガーとして僕の存在を消すつもりだと。だけど。せめて、僕の姿にだけはなってほしくなかった。最期に見るのが、一番醜いものなのは耐え難い。

「だから、私は奪うの。君の過去痛みも、未来恐れも、存在絶望も」

 そう差し出された手は、ボクの腕を掴んで。
 ――とろん、と。自分の身体が波のように揺らいだ感覚を覚える。
 さっきの『なりたい自分』への答えが、ようやく見つかった気がする。

「わからない……どうなりたいのかも、望む自分が何なのかも。……でも。もしかしたら、ボクは『ナツハ』の様に有りたかったのかもしれない」

 家族を自分のせいで失うこともなく。明るく朗らかで。人の悲しみを嘲笑う事なく、無視するでもなく。向き合って、包み込んでくれた。カサブタだらけで、やさぐれた僕にはそうは振る舞えない。出会って数時間と経っていないのに、そんな事を思う。

「――君が、誰にもなりたくないって言うのなら」

 夏羽の瞳が、ボクを見据える。少しだけ寂しそうに『彼女』が笑って。

『ひっくり返してあげる』

 掴まれた腕が、徐々に泡立つ。沸騰寸前のお湯の様に、ポコリ、ポコリと膨らんでは弾ける。痛みも、熱さも無い。やがてその異常箇所は、腕全体、そして肩から体中に広がる。

「ドッペルゲンガーの因果も、君自身の在り方も。君が――『理想のナツハ』を創造想像してくれたら。そうすれば、逆に君が『ふたご』になればいい。私が、君を変えてみせる」

 眠気に襲われた。目を閉じれば、きっと僕は『終わる』のだろう。凄まじい一日だった。だけど、最期は痛みも、苦痛もなく。初めて親愛の情を感じた人と出会えて。――案外、悪くはなかった。そして、意識を、手離し――

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ぱちり、と目が開いて。やってしまった、とまた思う。また『夏羽お姉ちゃん』のベッドで眠ってしまっていた。イケない事だと解っているのに。こんなところをもしもお姉ちゃんに見られでもしたら――

「あ~っ、『冬海ふゆみちゃん』またアタシのベッドで! うりうり~」
「ひゃめっ、くすぐったいって~!」

 やってしまった。不安なことがあると、夏羽お姉ちゃんのベッドに入ってしまう癖が、小さい頃から治らない。高校に入ってまで、こんな事が続いてしまっている。だけど、その度に夏羽お姉ちゃんは優しいのだ。

「――何か、悲しいことがあった?」

 同じ毛布にくるまって、夏羽お姉ちゃんの使っている柔らかな香水の匂いが伝わってくる。――いいなぁ。『ワタシ』もそういうの使おうかな、なんて思いながら。

「変な夢、見たの。――夢の中で、アタシは男子で。家族はいなくて一人っきり。イジメられてる……のはアタシもだけど、もっと酷いことされてて。それで、ずっと苦しい思いをして、最後にお姉ちゃんに出逢うの」

 夢の話、なんてバカバカしいのに。何故か『夏羽お姉ちゃん』には何でも話せてしまう。そして、アタシの心が読めているかのように、不安をほどく言葉をくれる。

「辛い夢だった?」
「――――とっても。お姉ちゃんが傍に居なかったし、父さんも母さんも。生きていて、楽しいって思える瞬間が無いような気がしてたの」

 夢の登場人物、のセリフが口からそのまま出てきたみたいに。アタシは、暗い言葉を口にした。アタシが、もしも家族全て喪って誰にも救われる事が無かったら。『彼』のように、それでもなんとか生きようとしただろうか。

「そっ……か。悲しかっただろうね、それは」
「も、もうっ……頭、撫でないでよっ……」

 恥ずかしさ半分、ホッと安心するのがもう半分。でも、なんだか今日は調子が違っていた。――夏羽お姉ちゃんが、泣いている。

「お姉ちゃん……? どうして、夏ねぇが泣いてるの……?」
「……冬樹くん、君の存在を狂わせなければ。ワタシはドッペルゲンガーで居られないから、存在できなかった。だから、『君を私の複製ふたごにした』んだ」

 知らない名前のはず、なのに。その言葉が、冬海アタシに向けられている事がわかる。

「せめてもの償いで、過去を全てまっさらに出来れば良かったのに……辛い記憶を、全てを変える事は出来なかった」

 夏羽ねぇの手が、冬海アタシのスカートの上に触れ。ちょうど、『アソコ』を触られてしまい、ピクンと身体が跳ねる。

「全部を自然な形で納めることは出来なかった。でも、お互いの『存在が揺らいでいる』現状なら。『君の望む私』にも、『君の望む君自身にも』なれる。お互いの常識だって、望めば歪められる」
 
 真剣に、どこか決意めいたお姉ちゃんが。とてもカッコよく見えた。誰かを助けようとする、ファンタジーの勇者のような。そんな思いを、率直に口に出す。

「――夏羽ねぇって、格好いいよね。背も高くて、長い髪だけどガーリーじゃなくてクール、っていうか。クラスの人や担任の先生からも色々頼られて、部活もすごく活躍してて……『アタシも双子で似てるはず』なのに、どうしてこんなに違うんだろ」

 眠気のせいだったのかもしれない。でも、どこか『ぼんやり』としていた夏羽姉の姿がハッキリ見えるようになる。まるで、アタシの望んだ姿に変身してくれたみたいに。……そんな事、起こりっこないのに。

「双子なのに、アタシは全然お姉ちゃんに似てないなぁ……今日も、筆箱がゴミ箱に捨てられてて。それなのに、黙って拾うことしかできなかったの」
「……『姿はソックリの、カワイイ女の子』なのにね。どうして皆、そんな酷い事ができるのかしら。……こうやって、ぎゅーってくっついてたら。お互いにどっちがどっちか、分からなくなってしまえばいいのに」

 筆箱だけじゃなかった。引き出しの、鞄の中身全てが、誰かの飲みかけのジュースと一緒くたになってゴミ箱に打ち付けられていた。――それは、『あくむ』での話だったかも。

「あっ……?」

 キリッとした、それでも優しさに満ちた夏羽お姉ちゃんの表情が、一瞬見開かれる。驚いたまま、何かを呟いた。

「そうか、そこはどうしても改竄できないのね……でも……うん。君が苦しくない方向には調節しておかなくては……」

 そう言いながらも、夏羽姉はアタシのスカートの内側で、手をまさぐる。突然のことで、冬海アタシは素頓狂な声をあげてしまった。アタシが女とも、男とも言い切れない存在。アタシがイジメられる原因となった、あたしの肉棒。それを、夏羽姉はぎゅうと掴んだ。

「ぴぇっ……!? お姉ちゃん、なんで……!?」
「『昔から、冬海ふゆちゃんを安心させるためにやってたじゃない』。辛い事があったら、こうやって慰めてあげてたんだから」

 とろん、と頭が蕩けるような感覚。――そうだっけ。……そうだった。小さな頃はもっとひどくて、毎日のようにお姉ちゃんに甘えていたんだっけ。でも、今日は急に恥ずかしくなってしまった。何故だろう。

「ほら。そんなに身体を強張らせなくていいから」
「う、うん……ひうっ♡」

『いつもの事』のはずなのに、お姉ちゃんに『ソコ』を握られるだけで、アタシは身震いに耐えられなくなる。普段なら無くなって欲しい、自らの汚点の一つが。夏羽姉に触れられている時だけは、幸せを感じさせる器官になってくれる。

「ショーツの中じゃ、もう収まりつかないでしょ? 私の袖口に入れてあげる」

 毛布がはぎ取られ、少し暖気が飛ぶ。夏羽姉が制服のワイシャツの袖口ボタンを緩めて、冬海あたしの『ソコ』にあてがう。柔らかい指先に摘まれ、皮を剝かれた瞬間、ため息が漏れた。

「はわぁ……♡」
「んふふー♡ こうやるのもまた良いよね♡」

 アタシは横になったまま、夏羽姉はベッドに座りながら。アタシの『ソレ』は、スッポリとお姉ちゃんのワイシャツの袖口に隠れていて、僅かな上下移動と敏感な刺激が伝わってくる。何もしていないのに、心臓が鼓動を早めた。

「あうっ……♡♡ はぁぅっ……♡♡」
「私とソックリなのに、そんなに蕩けた表情するんだもの。楽しくって……♡」

リズミカルに、段々と早く。アタシの怒張したおちんちんを、夏羽姉は慣れきった手付きで扱く。ガマンなんて、できようもない。

「ひぁっ――♡♡♡♡」

 夏羽姉の爪が、一瞬『冬海アタシの肉棒』に食い込んだ瞬間。情けない声を出して、腰が浮く。気がついたときには、射精してしまっていた。お姉ちゃんの服が、アタシので。

「ご、ごめんなさいっ! アタシが、お姉ちゃんの、汚しちゃって……!」

 でも、夏羽姉はワイシャツで精液を『わざと』拭うようにして。その臭いを、あまつさえ嗅いだりした。そして、クスリと。小悪魔てんしの様に笑顔をくれる。

「気にしないで。それにこの匂い、冬海ふゆちゃんのだって思うと、不思議な感じ」

 夏羽姉のワイシャツから開放され、アタシにとって隠しておきたい場所が露わになる。血管が表面に浮き出てグロテスクですらある。己の浅ましい欲望を隠そうともしない。吐精したばかりのペニスが、未だに熱を発していた。

 他の人と違う、それだけで排斥は生じうる。それが人に隠したいもの、個人の努力で何とかならない特性なら、なおさらソレは強烈な疎外を生む。夏羽姉おねえちゃんと同じ様に女性でありながら、冬海アタシは男性としての性を有する。あるいは、どちらにもなり切れない。アタシは自分の身体を嫌っている。――今、この時間を除いて。
 
「はむっ……♡♡ くちゅっ♡♡♡ ちゃぷっ♡♡」
「く、咥えっ♡♡ ゃぁっ……♡♡♡ んうぅう♡♡♡」

 まだ中身の残っている状態で、更に吸い込むようにフェラされて。去りかけた快楽の渦に、再び飲み込まれる。冬海《ジブン》の穢れた部分すら、呑みこまれて清められる。

「っぷはぁっ♡♡ ――やっぱり、夏羽ワタシもこんな感覚は久々だから。もっと行き着く所まで、イキたいよね♡」

 夏羽姉の唾液が妖しくテラテラと輝き、アタシのおちんちんを暖かく被覆する。そのまま、アタシに馬乗りになるように、ゆっくり、ゆっくりと近づいてきた。ペニスに、艶めかしい感覚が伝わるのと同時に。夏羽姉が絞り出すように声をあげたり

「あっ――あ゛ァ゛ッ――」
「夏羽姉……? 痛い、の……?」

 『何か』を裂いたような感覚が、アタシにも伝わってきた。ほぼ同時に、生暖かい温度に包まれて。『何か』が、おかしいような、気がする。『いつもシてるはず』の事なのに、何で『夏羽姉にとってはハジメテ』なのだろう。

「違う、のっ……痛いのが、嬉しくって……はぁっ……♡ 今、生きてるって、思えるっ、から……」

 涙目のまま、夏羽姉は笑顔を向ける。本当に眩しいほどの笑みで、見ているこちらさえ、心の強張りを解かれるような。だらりと垂らしていたアタシの掌を、指と指を重ねるようにして夏羽姉が掴む。

「でもっ……ワタシも、少し……キモチヨクなりたいからっ……」
「うんっ……!」

 お互いの手を強く握って、少しだけアタシは腰を突き動かす。ぱつん、ぱつんと、肉体同士が軽く触れ合い、音が弾ける。優しい姉の顔が、情欲を貪るメスの顔に変わってゆく。

「ふっ♡ ふうっ♡♡ はっ♡♡ はあっ♡♡♡♡」
「んっ、んうっ、はっ、あっ♡ そっ♡♡ ソコっ♡♡♡ もっとっ♡♡♡♡」

 お互いの荒い呼吸に、少しずつ嬌声が混ざる。夏羽姉と違う、一番イヤなところ。それがあるおかげで、お姉ちゃんと繋がることができると言うのは、なんて皮肉な事なのだろう。きっと家族以外に、お姉ちゃん以外にアタシのコレを受け入れてくれるヒトなんて、居ないだろうに。

「射精したばかりなのにっ♡♡♡ もう、ワタシの膣内なかで大きくしちゃってっ♡♡♡♡」
「ごめっ……♡♡ はしたない、よねっ……♡♡」
「いいのよっ♡♡ その代わりっ……♡♡ 私も、冬海ふゆちゃんのことっ♡♡♡ 犯したべちゃうよっ♡♡♡♡」

 やや乱暴に、アタシが着ているワイシャツの胸部分だけボタンを外された。既に勃っている左乳首に、夏羽姉はむしゃぶりつくように倒れ込んだ。当然、体勢が変わればより深くに挿入されて。

「く、うぅっ……♡♡ おちんちん、ぜんぶっ……♡♡♡」
「お゛、う゛ぅっ……♡♡ ふぅっ……♡♡ ちゅうぅっ♡♡♡ 冬海ふゆちゃんのおっぱい、おいしいなぁっ♡♡♡♡」

 お姉ちゃんの舌先で舐められるだけで、膨らみかけのおっぱいは性感帯に変わってしまう。アソコが、おっぱいが、夏羽お姉ちゃんに重なっている所が。全部が気持ちよくなる。永久に続きそうな、悦楽の波。ふと、夏羽お姉ちゃんが動きを止めて。冬海アタシの事を真っ直ぐと見つめて、問いかけてきた。

「ねぇっ……私っ……♡♡ 冬海ふゆみちゃんを幸せに、できてる、かなっ♡♡♡ 今、生きてて、良いって……思える?」

 そんなの、決まってる。

「関係ないよっ……お姉ちゃんが居てくれたら、それだけでっ……♡♡♡」

 自分でも驚くぐらいの力で、夏羽姉を抱きしめてしまう。なんて弱々しい、自立できない人間の叫びなのだろう。でも夏羽姉は、パアッと笑顔を赫かせて。

「嬉しいっ……♡♡ ワタシもっ♡♡ 同じ、だからっ……♡♡♡♡」

 前後不覚。喘ぎ声と呼吸音、そして肌と肌のぶつかり合う音。限界はすぐそこまで来ていた。

「夏羽♡♡ ねぇっ♡♡ もう、げんかい、かもっ♡♡♡♡」
「いいよっ♡♡ 一緒に、イこうっ♡♡♡」

 寸前、夏羽姉の手足がアタシの身体に絡みつく。ぎゅうっ♡♡ と抱きしめられた瞬間、アタマが多幸感に包まれて。ぐい、と腰を奥深くまで。堪えることなんて出来ず、内側に溜め込んだモノを放出した。

「うぐっ♡♡ あ゛っ♡♡♡ はぁっ♡♡♡♡」
「ん゛っ♡♡♡ きたっ♡♡♡ 膣内おくにっ♡♡♡ どくどくって♡♡ きてるう゛っ♡♡♡」

 喘ぎ声と共に、互いに脱力し、放出しきった感覚。下半身が生温かく、ベタつく。アタシの上に夏羽姉が被さってきた。お姉ちゃんの髪から匂いが漂ってきて、なんだか安心してしまう。――急に、また眠たくなってしまった。さっき、布団で昼寝したばっかりなのに。

「お姉……ちゃん……なんだろ、眠たくなって……」
「ふふっ……大丈夫。少し疲れたのかもね。ゆっくり休んで」
「ありがと……う……あのね、お姉ちゃん。大好き、だよ――」

 何とか言いたい事を口にして、意識を、手放し――――

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ウエットティッシュで冬海の身体に残る『彼』の残滓を拭い、換えの毛布で冬海を再び眠らせて。――夏羽ワタシは、鼻歌交じりに自分の服を着替える。あの匂いは好きだし、もう少し着ていても良かったが。『明日も学校に行ける』のだから、洗濯はしておかなければ。

「すぅーっ……♡♡」

 袖口に溜まった、冬海ちゃんのニオイ。べたついて、生温かくて、頭がクラクラする匂い。ずっと嗅いでいたくなりそう。こんな感覚を味わえることが幸せで、耐えられない。まだ痛みを伝える股が、キュンと疼きを伝えてくる。もう一度シたいという欲求は、今は一度抑えなくては。

 最早遠い記憶になりつつあるが、『妖怪』としてあの廃墟にずっと閉じ込められていた冷たい感覚。それを、一刻も早く消し去ってしまいたかった。新しい『日常』に、自分を早く慣れさせたい。

「生身の肉体を得る事が、こんなに有難い事なんて……」

冬樹カレ』には感謝しなくてはならない。彼があの廃墟に来て、ワタシを選んでくれなければ。今の夏羽ワタシは存在できなかっただろう。
――だが、彼の問いかけに事実だけを答えていた訳ではない。

 彼の言う通り、ワタシはドッペルゲンガーとして彼の存在全てを奪うだけで、何の問題もなかった。彼になり替わって、外の世界に出るだけで満足だった。――それを、直前で私は。どうして半端な形であれ、『冬海ふゆみ』として再定義したのだろう。

「……難儀なものね。イジメの理由だけすり替わって、結果を変えれないなんて。この世界でも、アナタは弱った存在のまま。周囲に虐げられている」

冬樹カレ』が聞いたら嫌がるだけとは思うが。彼に取り憑き、繋がった時に、その記憶も私に転写された。きっと私は、彼に同情したのだろう。私が生を望むのと反面、彼は生に執着できなかった。いっそくらい闇に溶け込みたいと願う程には、彼の見た世界は歪んでいた。

「抱えた暗い想いの全てを、癒す事は出来なかった」

『彼』は、最期まで声をあげなかった。自分に降りかかる不幸、その全ての原因が自分自身にあると『誤認』してしまったから。そして、その不幸全てを甘んじて受け入れる事こそが『人として正しい』と誤解した事こそが、さらに彼を不幸にした。

「未だに『この子』を害する奴等が残っている、だから」

 今の『夏羽』は、思い出すことができる。クラスで冬海を虐めている奴ら。見て見ぬ振りをする教師。そして、前の世界で彼を徹底的に苦しめた唯一の『家族』。それを咎める方法も分かっている。例え『彼』が許していても、『私』は赦すつもりなどない。

「『ワタシ』が、代わりに報復してあげる」

 『人間としての夏羽自身』に、固く言い切ってみせた。『彼』が人間としての理性を選び、そして復讐を選ばず耐え続けていたのだから。『あやかし』である夏羽は、その道理に従わない。弱肉強食の理論を選び、冬樹を傷つけていたのはそいつ等自身なのだ。ならば、より大きな力で従わされるのは道理だろう。

 窓の外の風景。満月の真下に、あの廃墟が見える。――あの中に未だ潜む『妖怪達』。そいつらを使役してでも、私を好いてくれるヒトの為に。彼女を害する全てを、排除する。なんだってやってやる。

 冬海の寝息が聞こえる。起こさないように、そっと部屋を離れた。
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