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28:猫に鰹節
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波乱の昼食をなんとか終え、俺と福山はユキと学食で別れて3限目の講義へと向かった。
今日は5限目まで必須科目がある日だったので福山とは5限目まで一緒だったのだが、福山は講義が始まっても休憩時間になってもずっとうわの空で、俺が話し掛けても生返事ばかりだった。
なんだか気の毒になってきて5限目前の休憩時間には、おやつに取っておいた焼きそばパンを一つ分けてやった。
福山は少し驚いた顔で俺から焼きそばパンを受け取ると「まさかケチなお前が大好物を分けてくれるなんて……俺ってそんな哀れに見えるのかぁ……」と大きなため息を吐き、パンに齧りついた。
そんな失礼な口が利けるのならきっと大丈夫だろうと少々安心しつつ、俺も焼きそばパンに食らいついた。
そうこうしていたら5限目も遂に終わり、まだまだ心ここにあらずといった感じの呆けた福山の背中を励ますようにバンと一度叩いてから「じゃあな!」と別れを告げ、急いで部室へと向かった。
ユキに会える事が嬉しくて自然とにやけそうになる顔を必死に引き締めつつ、部室の扉をそっと開いた。
「あ!コウ君いらっしゃい!今日は5限目まである日だったんだね!」
少々緩んでしまった顔を隠すようにやや俯き加減で部室に入った俺の耳に、穏やかなヒロ先輩の声が響いた。
いつもならこの穏やかな掛け声に続いて豊国が「こんにちは!」と元気よく声を出し、ユキと高野がほぼ同時くらいに声を掛けて来るのだが、この日はヒロ先輩の声だけが聞こえ、その後に続く声は聞こえなかった。
俺はその事を不思議に思いながら扉を閉めて改めて部室の中に視線を戻し、視界に飛び込んできた光景にぎょっとして思わず後ずさって扉に背中をぶつけた。
だってその光景は、あまりにも異常だったからだ。
普段は1番奥の部室を見渡せるように配置された机の中央に、窓を背にして身体の大きなヒロ先輩がどんと座っており、その机の左端の小さなスペースに豊国がちょこんと座っている。
そしてその机とL字型になるように置かれた長机を高野が1人で使っていて、高野のいる長机に対面するように置かれた部室の扉側にある長机に俺とユキが座っている。
その長机でも奥側がユキの定位置で、遅く来ることが多い俺は扉に1番近い手前の席に座っている。
以前はユキが奥の長机をヒロ先輩と卒業した先輩の3人で使っていたそうだが、高野が来てからは高野がユキの場所を占領してしまい、ユキは仕方なく今の位置に移動したそうだ。
俺が入部してからは、ずっとそれが定位置だったはずなのだが……
今、俺の目の前にはその普段の光景と全く違うものが広がっていた。
俺の定位置には、高野だと思われる人物がパイプ椅子に浅く腰を掛けた状態で、俺に背を向けた中腰の豊国にしがみ付いていた。
いつも高野が着ているダサいネルシャツを纏った両腕は、豊国の脇から背中に回されて、豊国のTシャツにはしっかり指まで食い込んでおり、これまたいつものダサいオーバーサイズ気味のチノパンを着た両脚は、豊国の腰回りにがっしりと巻きついていた。
まさに『しがみついている』としか表現できない、その異様な事態に俺は言葉を失った。
高野の顔はこちらからは見えないが、多分、豊国の胸元辺りに埋められているんだろう。
こ、これは……一体全体どういう状態なんだ!??
困惑し過ぎて止まってしまった俺に「おい!速水!ともかくこっちに来い!」と、いつも高野の定位置にいるユキが必死の形相で俺を手招きしていた。
俺は高野と豊国の2人を困惑顔で凝視しつつ、恐る恐るその机の横をそっと通り過ぎてユキのいる奥の長机に向かった。
「あ!速水先輩!こんにちは!」
やっと俺が視界に入ったからなのか、それまで黙って高野を受け止めていた豊国がこちらを向いて大きな口を更に横に広げてにっこりと笑い、俺に視線を合わせて挨拶してきた。
こんな異常な状況だというのにいつも通り過ぎる豊国の挨拶に、俺は引き攣った笑顔になったが「よぉ……」と右手を上げて答えてすぐにユキの隣の席に着いた。
その席からは、高野と豊国の様子が更にはっきりと見えた。
やっぱり高野の顔は豊国の胸元に埋められており、四肢で豊国を抱き込んでいた。
高野は余程勢いよく豊国に抱きついたのか、2人の足元辺りには高野の分厚い眼鏡や豊国のバックパックなどが散乱していた。
まさにコアラ状態としか言い表せないのだが……子供が必死で母親にしがみついてる感じというよりも……なんだかしがみつく高野からは、言いようのない生々しいさを感じた。
そうだ。まるでセックスの体位、駅弁みたいなんだ。
高野から普段は感じた事がない性的な何かが漂っていて、俺は思わず息を呑んだ。
2人を眺めて唖然としてしまった俺の肩をユキが掴み、耳元のすぐ側に口を寄せてきた。
「おい、速水!呆けてる場合じゃねぇぞ!」
「うぁッツ!」
耳元でいきなり大きな声で叫ばれ俺は反射的に耳を塞ぎ、ユキに向き直った。
「ユキ!てめぇ耳元で叫ぶんじゃねぇよ!っていうか……何なのこれ?一体全体、何がどうしてこうなったんだぁ?!!っていうか豊国を助けてやらなくていいのかぁ!?」
俺の怒涛の質問に、ユキが焦った様子で「だって!」と叫んだ。
「だってひぃ君が放っておいて大丈夫だって……!高野の好きにさせてやってくれって言うんだもん……そもそも豊国が『大丈夫です』て言うし……俺だって部室に来たら今日は高野が既にその席に座ってて、俺がいくら「どけっ!」て言っても何も答えずに扉を凝視したままで退かないし……豊国が来たら来たで『サクちゃんだけが僕を分かってくれる!』みたいな事を叫んだかと思ったら、いきなり抱きついちゃって全然離れないしで……もう何が何だか分かんねぇんだもん……!」
ユキが情けない顔をし、唇を尖らせて俯いた。
俺はそんなユキの説明を聞いて、更に困惑してしまった。
待て待て!ということは……この状態は4限目が終わった時からずっとって事かぁ!?
まさか高野は、かれこれ1時間以上も豊国にしがみついてるということなのか……?
考えれば考えるほど混乱し、だとしたら豊国はずっとあんな中腰状態でかなりキツいんじゃないだろうか?と心配になってきた。
「おいおい、豊国!お前の腰は大丈夫か?高野が離れてくれないなら、俺が引き剥がしてやろうか?」
心配から俺の口から漏れたその言葉に、高野がビクンと身体を揺らしたかと思うと絶対に離れないとばかりにより強く豊国にしがみついてしまった。
「ッツ!……速水先輩、ご心配ありがとうございます!でも、俺は大学に入るまでずっと野球やってたんです!だから腰は自慢じゃないですが、これでもかなり強いんですよ。訓練に比べればこれぐらい全然平気です!蓮先輩、大丈夫ですよ。俺はどこにも行きませんから、気が済むまで甘えて下さい。俺は蓮先輩の事が大好きですから!」
高野に強く締めつけられて一瞬痛そうな顔をした豊国だが、すぐに俺と高野を安心させるように笑顔で朗らかな声を出した。
本人がそう言うなら俺はそれ以上は何も言えないので「そ、そっか……」と引き攣った笑顔を向けるしかなかった。
ユキも黙って俯いたままだし、この状況をどうしたものかと思っていたら、ごほんとかなりわざとらしいヒロ先輩の咳払いが聞こえた。
「あ~コウ君。あのね、蓮君の事はサクちゃんもこう言ってくれてるし、心配だろうけど暫く好きにさせてあげてくれるかな?いつも気を張って強がってる蓮君がこんなに無邪気に甘えてるんだから……好きにさせてあげたいんだ」
なんでもない事のように、いつも通り穏やかに話すヒロ先輩にもびっくりしたのだが……それよりも豊国もヒロ先輩もこの高野の奇行を『甘えてる』と判断している事が、俺を更に驚愕させた。
しかもヒロ先輩からすると、これが『無邪気』に見えるというのだから驚きだ。
「えっとぉ……ヒロ先輩がそういうなら、豊国も納得してる事だし……俺はまぁ良いんですが……あれって『甘えてる』んですか?」
あからさまに呆れた声が出てしまったが、俺は豊国と高野の方を指差しながらヒロ先輩に視線を向けた。
ヒロ先輩はそんな俺に、細い目をより細めて「そうだね。蓮君の事を知らなければ、ちょっと変わった甘え方だと思っちゃうよね」と穏やかに微笑んだ。
「俺も去年はよく蓮君に急に抱きつかれたりしたもんだよ。まぁでもあそこまで熱烈な抱擁ではなかったけどね。蓮君はね、何故か人から見失われる事が頻繁にあるらしくて、子供の頃は実は自分は透明人間なんじゃないかとかなり悩んでいたんだって。だから自分を見付けてくれる人には執着しちゃう癖があるみたいだよ」
確かに俺も頻繁に高野を見失う……というか、何故か発見できない事が多々あったので、申し訳ない気持ちになってしまった。
悩んでいたとは知らなかった。
いつも不気味に笑ってみせていたのは、それを必死に隠すための自己防衛だったって事か……
「とはいえ俺も蓮君が書いた脚本を読んだから注意深く蓮君を探すようにしてただけで、実は気を抜いちゃうとたまに蓮君を見失っちゃうんだけどね……」
申し訳ないという俺の心情を察してくれたのか、ヒロ先輩も恥ずかしそうに肩を竦めてそう白状した。
「でもね、サクちゃんは入部してからただの一度も蓮君を見失った事が無いんだ。俺もいつもびっくりするんだけど、サクちゃんだけはいつでもいとも簡単に蓮君を見つけちゃうんだよ。蓮君は今までその事に全然気付いてなかったみたいだから、きっと今日やっとその事に気付いてああやって全身で喜びを表現してるんだと思うんだ」
ヒロ先輩が高野の方へと視線を動かしたので、俺も導かれるようにヒロ先輩から高野の方へと視線を向けた。
そう言われたら、この異様な光景が心温まるものに見えてきたから不思議だ。
「多分、蓮君にとっては天地がひっくり返るような出来事だったんだよ。ずっと誰にも……親にさえ見失われちゃう自分は、この先も孤独な人生なんだろうなと思ってたんだろうし……頑張って見つけようとする俺にさえ、嬉しそうに身体を寄せてきた蓮君だもん。苦労せずにすぐに蓮君が見つけられるサクちゃんは、蓮君にとってはまさにヒーローなんだと思うよ。だから今は好きな様にさせてあげてよ」
ヒロ先輩のその言葉に、高野は豊国の胸元に顔を埋めたまま「Yes、サクちゃんはMy messiahなんだ……」と小さく囁いて、またぎゅっと抱きつく力を強めた。
すると豊国は「メサイア……?」と一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに大きな口をより大きく広げて微笑み、高野の背中をポンポンと優しく叩いた。
「メサイアが何か分かりませんが、蓮先輩が嬉しいなら俺も嬉しいです!俺は蓮先輩の書いた脚本を初めて雑誌で読んでから、ずっと大ファンなんです!!大好きな蓮先輩の為なら、これくらいお安い御世ですよ!どうぞ思う存分、たっぷり甘えて下さい!」
その豊国の言葉に俺が「雑誌?なんで高野の脚本が?」と不思議そうに呟いたら、「あぁそれはね」とヒロ先輩が説明してくれた
「去年、蓮君の一番最初に書いた脚本が映画雑誌の脚本コンクールで入賞したからだよ。それでその雑誌にその脚本の一部が掲載されたんだ。サクちゃんには入部してからすぐに、俺が取っておいた原本のノートを貸してあげたんだ。蓮君が書くホラーはなんて言うか……とてもリアルで引き込まれるんだよね。その脚本も怖いだじゃなくて、凄く考えさせられる話しでね……あれは本当に素晴らしい脚本だったよね?サクちゃん。あ、ちなみにメサイアはメシア、つまり救世主って意味だよ」
豊国は「救世主!!?いやいや、俺はそんなんじゃ……!」と酷く慌ててブンブンと首を横に振った。
「俺なんかはそんな凄い人じゃありません!!本当に凄いのは蓮先輩です!あの話……俺はすっごく好きなんです!あんなに残酷なのにとても美しい話で……初めて雑誌で1章を読んだだけで俺はすげぇ感銘を受けて、あれを書いた人にいつかお会いしたいとずぅ~~っと思ってたんです!だから蓮先輩にお会いできて……側で創作活動を見られて、俺は本当に嬉しいんです!!」
俺は2人の話を聞いて、段々その脚本を読んでみたくなってしまった。
この前に読ませて貰った高野のホラーの脚本も、かなりリアルで恐ろしかった……
が、確かに主人公が誰にも探して貰えない理由と生き方について考えさせられるところが多々あった。
「……それ、そんなに凄い話だったんですか?」
好奇心に勝てず、思わず聞いてしまった。
するとヒロ先輩より早く豊国が勢いよく俺の方を向いて、「もちろんです!」叫んだ。
「タイトルは『仮面の下』ていうんですが、物心つく前からとある理由で家族に表に出ることを禁止された男の子が、大きくなって外に出れられるようになってから自分の容姿が理解できず、自分は酷く醜いと思い込んでしまい、最後まで本当の自分の姿が認識できずに苦悩し、恋した相手にも自分の容姿に自信が持てないことから間違った方法で愛を告げてしまい、遂には狂ってしまうって話なんですが、もう描写が美しくて……これを書いた人はきっと身も心も美しいんだろうなって思ってたら、本当にその通りでした!」
それまで強く力を込めて豊国に抱きついていた高野の四肢から力が抜け、高野がやっと豊国を解放した。
「サクちゃん……僕は、醜くないのかい?」
そっと豊国の胸元から顔を上げた高野が、らしくなく不安げにそう囁いた。
豊国を見上げた高野の大きな瞳は、醜いなんて言葉など浮かびようがないほど美しかった。
豊国はブンブンと首を横に振って中腰だった腰を伸ばし、パイプ椅子に座る高野の頬を両手で掴んだ。
「蓮先輩はと~っても綺麗ですよ!初めて蓮先輩の顔をちゃんと見た時、俺はあまりに美しさに息が止まりそうでしたもん!いつも眼鏡かけてて勿体無いって思ってました!蓮先輩が女性だったら、俺は絶対に恋してたと思います!でもそうだったら俺なんてきっとこんなふうに話もできなかったでしょうし、蓮先輩が男性だから俺達はこうやって友達になれたんですもんね!蓮先輩が男性で俺はラッキーでしたよ!」
さりげなく最後の最後で残酷な言葉を吐いた豊国に「こいつすげぇ」と思いつつ高野に目をやると、高野はそれでも諦めないとばかりに、再びガバッと豊国の胸元に飛び込んだ。
「あはは、蓮先輩、まだ甘えたいですか?いいですよ!蓮先輩って猫みたいで可愛いですね!髪の毛もふわふわですし」
再び全身で高野を受け止めた豊国は、これまたなんでもない事のように高野の少しカールした髪にまるで猫の頭を撫でるかのように触れた。
すると高野は本当に猫のように、豊国の胸元に顔を擦りつけた。
それはまるで猫がまたたびに酔ってるような……
いや、違うな。
どちらかと言えば猫が目の前に置かれた好物の鰹節に興奮し、飛びかかる直前のような危うさがあった。
「俺の実家で猫を飼ってるんで、なんだか懐かしいです。大学入ってから一人暮らしで全然猫に会えてないんですよね……」
豊国はそんな事を言いながら優しく、とても優しく甘える高野の髪を撫で続けた。
今日は5限目まで必須科目がある日だったので福山とは5限目まで一緒だったのだが、福山は講義が始まっても休憩時間になってもずっとうわの空で、俺が話し掛けても生返事ばかりだった。
なんだか気の毒になってきて5限目前の休憩時間には、おやつに取っておいた焼きそばパンを一つ分けてやった。
福山は少し驚いた顔で俺から焼きそばパンを受け取ると「まさかケチなお前が大好物を分けてくれるなんて……俺ってそんな哀れに見えるのかぁ……」と大きなため息を吐き、パンに齧りついた。
そんな失礼な口が利けるのならきっと大丈夫だろうと少々安心しつつ、俺も焼きそばパンに食らいついた。
そうこうしていたら5限目も遂に終わり、まだまだ心ここにあらずといった感じの呆けた福山の背中を励ますようにバンと一度叩いてから「じゃあな!」と別れを告げ、急いで部室へと向かった。
ユキに会える事が嬉しくて自然とにやけそうになる顔を必死に引き締めつつ、部室の扉をそっと開いた。
「あ!コウ君いらっしゃい!今日は5限目まである日だったんだね!」
少々緩んでしまった顔を隠すようにやや俯き加減で部室に入った俺の耳に、穏やかなヒロ先輩の声が響いた。
いつもならこの穏やかな掛け声に続いて豊国が「こんにちは!」と元気よく声を出し、ユキと高野がほぼ同時くらいに声を掛けて来るのだが、この日はヒロ先輩の声だけが聞こえ、その後に続く声は聞こえなかった。
俺はその事を不思議に思いながら扉を閉めて改めて部室の中に視線を戻し、視界に飛び込んできた光景にぎょっとして思わず後ずさって扉に背中をぶつけた。
だってその光景は、あまりにも異常だったからだ。
普段は1番奥の部室を見渡せるように配置された机の中央に、窓を背にして身体の大きなヒロ先輩がどんと座っており、その机の左端の小さなスペースに豊国がちょこんと座っている。
そしてその机とL字型になるように置かれた長机を高野が1人で使っていて、高野のいる長机に対面するように置かれた部室の扉側にある長机に俺とユキが座っている。
その長机でも奥側がユキの定位置で、遅く来ることが多い俺は扉に1番近い手前の席に座っている。
以前はユキが奥の長机をヒロ先輩と卒業した先輩の3人で使っていたそうだが、高野が来てからは高野がユキの場所を占領してしまい、ユキは仕方なく今の位置に移動したそうだ。
俺が入部してからは、ずっとそれが定位置だったはずなのだが……
今、俺の目の前にはその普段の光景と全く違うものが広がっていた。
俺の定位置には、高野だと思われる人物がパイプ椅子に浅く腰を掛けた状態で、俺に背を向けた中腰の豊国にしがみ付いていた。
いつも高野が着ているダサいネルシャツを纏った両腕は、豊国の脇から背中に回されて、豊国のTシャツにはしっかり指まで食い込んでおり、これまたいつものダサいオーバーサイズ気味のチノパンを着た両脚は、豊国の腰回りにがっしりと巻きついていた。
まさに『しがみついている』としか表現できない、その異様な事態に俺は言葉を失った。
高野の顔はこちらからは見えないが、多分、豊国の胸元辺りに埋められているんだろう。
こ、これは……一体全体どういう状態なんだ!??
困惑し過ぎて止まってしまった俺に「おい!速水!ともかくこっちに来い!」と、いつも高野の定位置にいるユキが必死の形相で俺を手招きしていた。
俺は高野と豊国の2人を困惑顔で凝視しつつ、恐る恐るその机の横をそっと通り過ぎてユキのいる奥の長机に向かった。
「あ!速水先輩!こんにちは!」
やっと俺が視界に入ったからなのか、それまで黙って高野を受け止めていた豊国がこちらを向いて大きな口を更に横に広げてにっこりと笑い、俺に視線を合わせて挨拶してきた。
こんな異常な状況だというのにいつも通り過ぎる豊国の挨拶に、俺は引き攣った笑顔になったが「よぉ……」と右手を上げて答えてすぐにユキの隣の席に着いた。
その席からは、高野と豊国の様子が更にはっきりと見えた。
やっぱり高野の顔は豊国の胸元に埋められており、四肢で豊国を抱き込んでいた。
高野は余程勢いよく豊国に抱きついたのか、2人の足元辺りには高野の分厚い眼鏡や豊国のバックパックなどが散乱していた。
まさにコアラ状態としか言い表せないのだが……子供が必死で母親にしがみついてる感じというよりも……なんだかしがみつく高野からは、言いようのない生々しいさを感じた。
そうだ。まるでセックスの体位、駅弁みたいなんだ。
高野から普段は感じた事がない性的な何かが漂っていて、俺は思わず息を呑んだ。
2人を眺めて唖然としてしまった俺の肩をユキが掴み、耳元のすぐ側に口を寄せてきた。
「おい、速水!呆けてる場合じゃねぇぞ!」
「うぁッツ!」
耳元でいきなり大きな声で叫ばれ俺は反射的に耳を塞ぎ、ユキに向き直った。
「ユキ!てめぇ耳元で叫ぶんじゃねぇよ!っていうか……何なのこれ?一体全体、何がどうしてこうなったんだぁ?!!っていうか豊国を助けてやらなくていいのかぁ!?」
俺の怒涛の質問に、ユキが焦った様子で「だって!」と叫んだ。
「だってひぃ君が放っておいて大丈夫だって……!高野の好きにさせてやってくれって言うんだもん……そもそも豊国が『大丈夫です』て言うし……俺だって部室に来たら今日は高野が既にその席に座ってて、俺がいくら「どけっ!」て言っても何も答えずに扉を凝視したままで退かないし……豊国が来たら来たで『サクちゃんだけが僕を分かってくれる!』みたいな事を叫んだかと思ったら、いきなり抱きついちゃって全然離れないしで……もう何が何だか分かんねぇんだもん……!」
ユキが情けない顔をし、唇を尖らせて俯いた。
俺はそんなユキの説明を聞いて、更に困惑してしまった。
待て待て!ということは……この状態は4限目が終わった時からずっとって事かぁ!?
まさか高野は、かれこれ1時間以上も豊国にしがみついてるということなのか……?
考えれば考えるほど混乱し、だとしたら豊国はずっとあんな中腰状態でかなりキツいんじゃないだろうか?と心配になってきた。
「おいおい、豊国!お前の腰は大丈夫か?高野が離れてくれないなら、俺が引き剥がしてやろうか?」
心配から俺の口から漏れたその言葉に、高野がビクンと身体を揺らしたかと思うと絶対に離れないとばかりにより強く豊国にしがみついてしまった。
「ッツ!……速水先輩、ご心配ありがとうございます!でも、俺は大学に入るまでずっと野球やってたんです!だから腰は自慢じゃないですが、これでもかなり強いんですよ。訓練に比べればこれぐらい全然平気です!蓮先輩、大丈夫ですよ。俺はどこにも行きませんから、気が済むまで甘えて下さい。俺は蓮先輩の事が大好きですから!」
高野に強く締めつけられて一瞬痛そうな顔をした豊国だが、すぐに俺と高野を安心させるように笑顔で朗らかな声を出した。
本人がそう言うなら俺はそれ以上は何も言えないので「そ、そっか……」と引き攣った笑顔を向けるしかなかった。
ユキも黙って俯いたままだし、この状況をどうしたものかと思っていたら、ごほんとかなりわざとらしいヒロ先輩の咳払いが聞こえた。
「あ~コウ君。あのね、蓮君の事はサクちゃんもこう言ってくれてるし、心配だろうけど暫く好きにさせてあげてくれるかな?いつも気を張って強がってる蓮君がこんなに無邪気に甘えてるんだから……好きにさせてあげたいんだ」
なんでもない事のように、いつも通り穏やかに話すヒロ先輩にもびっくりしたのだが……それよりも豊国もヒロ先輩もこの高野の奇行を『甘えてる』と判断している事が、俺を更に驚愕させた。
しかもヒロ先輩からすると、これが『無邪気』に見えるというのだから驚きだ。
「えっとぉ……ヒロ先輩がそういうなら、豊国も納得してる事だし……俺はまぁ良いんですが……あれって『甘えてる』んですか?」
あからさまに呆れた声が出てしまったが、俺は豊国と高野の方を指差しながらヒロ先輩に視線を向けた。
ヒロ先輩はそんな俺に、細い目をより細めて「そうだね。蓮君の事を知らなければ、ちょっと変わった甘え方だと思っちゃうよね」と穏やかに微笑んだ。
「俺も去年はよく蓮君に急に抱きつかれたりしたもんだよ。まぁでもあそこまで熱烈な抱擁ではなかったけどね。蓮君はね、何故か人から見失われる事が頻繁にあるらしくて、子供の頃は実は自分は透明人間なんじゃないかとかなり悩んでいたんだって。だから自分を見付けてくれる人には執着しちゃう癖があるみたいだよ」
確かに俺も頻繁に高野を見失う……というか、何故か発見できない事が多々あったので、申し訳ない気持ちになってしまった。
悩んでいたとは知らなかった。
いつも不気味に笑ってみせていたのは、それを必死に隠すための自己防衛だったって事か……
「とはいえ俺も蓮君が書いた脚本を読んだから注意深く蓮君を探すようにしてただけで、実は気を抜いちゃうとたまに蓮君を見失っちゃうんだけどね……」
申し訳ないという俺の心情を察してくれたのか、ヒロ先輩も恥ずかしそうに肩を竦めてそう白状した。
「でもね、サクちゃんは入部してからただの一度も蓮君を見失った事が無いんだ。俺もいつもびっくりするんだけど、サクちゃんだけはいつでもいとも簡単に蓮君を見つけちゃうんだよ。蓮君は今までその事に全然気付いてなかったみたいだから、きっと今日やっとその事に気付いてああやって全身で喜びを表現してるんだと思うんだ」
ヒロ先輩が高野の方へと視線を動かしたので、俺も導かれるようにヒロ先輩から高野の方へと視線を向けた。
そう言われたら、この異様な光景が心温まるものに見えてきたから不思議だ。
「多分、蓮君にとっては天地がひっくり返るような出来事だったんだよ。ずっと誰にも……親にさえ見失われちゃう自分は、この先も孤独な人生なんだろうなと思ってたんだろうし……頑張って見つけようとする俺にさえ、嬉しそうに身体を寄せてきた蓮君だもん。苦労せずにすぐに蓮君が見つけられるサクちゃんは、蓮君にとってはまさにヒーローなんだと思うよ。だから今は好きな様にさせてあげてよ」
ヒロ先輩のその言葉に、高野は豊国の胸元に顔を埋めたまま「Yes、サクちゃんはMy messiahなんだ……」と小さく囁いて、またぎゅっと抱きつく力を強めた。
すると豊国は「メサイア……?」と一瞬キョトンとした顔をしたが、すぐに大きな口をより大きく広げて微笑み、高野の背中をポンポンと優しく叩いた。
「メサイアが何か分かりませんが、蓮先輩が嬉しいなら俺も嬉しいです!俺は蓮先輩の書いた脚本を初めて雑誌で読んでから、ずっと大ファンなんです!!大好きな蓮先輩の為なら、これくらいお安い御世ですよ!どうぞ思う存分、たっぷり甘えて下さい!」
その豊国の言葉に俺が「雑誌?なんで高野の脚本が?」と不思議そうに呟いたら、「あぁそれはね」とヒロ先輩が説明してくれた
「去年、蓮君の一番最初に書いた脚本が映画雑誌の脚本コンクールで入賞したからだよ。それでその雑誌にその脚本の一部が掲載されたんだ。サクちゃんには入部してからすぐに、俺が取っておいた原本のノートを貸してあげたんだ。蓮君が書くホラーはなんて言うか……とてもリアルで引き込まれるんだよね。その脚本も怖いだじゃなくて、凄く考えさせられる話しでね……あれは本当に素晴らしい脚本だったよね?サクちゃん。あ、ちなみにメサイアはメシア、つまり救世主って意味だよ」
豊国は「救世主!!?いやいや、俺はそんなんじゃ……!」と酷く慌ててブンブンと首を横に振った。
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好奇心に勝てず、思わず聞いてしまった。
するとヒロ先輩より早く豊国が勢いよく俺の方を向いて、「もちろんです!」叫んだ。
「タイトルは『仮面の下』ていうんですが、物心つく前からとある理由で家族に表に出ることを禁止された男の子が、大きくなって外に出れられるようになってから自分の容姿が理解できず、自分は酷く醜いと思い込んでしまい、最後まで本当の自分の姿が認識できずに苦悩し、恋した相手にも自分の容姿に自信が持てないことから間違った方法で愛を告げてしまい、遂には狂ってしまうって話なんですが、もう描写が美しくて……これを書いた人はきっと身も心も美しいんだろうなって思ってたら、本当にその通りでした!」
それまで強く力を込めて豊国に抱きついていた高野の四肢から力が抜け、高野がやっと豊国を解放した。
「サクちゃん……僕は、醜くないのかい?」
そっと豊国の胸元から顔を上げた高野が、らしくなく不安げにそう囁いた。
豊国を見上げた高野の大きな瞳は、醜いなんて言葉など浮かびようがないほど美しかった。
豊国はブンブンと首を横に振って中腰だった腰を伸ばし、パイプ椅子に座る高野の頬を両手で掴んだ。
「蓮先輩はと~っても綺麗ですよ!初めて蓮先輩の顔をちゃんと見た時、俺はあまりに美しさに息が止まりそうでしたもん!いつも眼鏡かけてて勿体無いって思ってました!蓮先輩が女性だったら、俺は絶対に恋してたと思います!でもそうだったら俺なんてきっとこんなふうに話もできなかったでしょうし、蓮先輩が男性だから俺達はこうやって友達になれたんですもんね!蓮先輩が男性で俺はラッキーでしたよ!」
さりげなく最後の最後で残酷な言葉を吐いた豊国に「こいつすげぇ」と思いつつ高野に目をやると、高野はそれでも諦めないとばかりに、再びガバッと豊国の胸元に飛び込んだ。
「あはは、蓮先輩、まだ甘えたいですか?いいですよ!蓮先輩って猫みたいで可愛いですね!髪の毛もふわふわですし」
再び全身で高野を受け止めた豊国は、これまたなんでもない事のように高野の少しカールした髪にまるで猫の頭を撫でるかのように触れた。
すると高野は本当に猫のように、豊国の胸元に顔を擦りつけた。
それはまるで猫がまたたびに酔ってるような……
いや、違うな。
どちらかと言えば猫が目の前に置かれた好物の鰹節に興奮し、飛びかかる直前のような危うさがあった。
「俺の実家で猫を飼ってるんで、なんだか懐かしいです。大学入ってから一人暮らしで全然猫に会えてないんですよね……」
豊国はそんな事を言いながら優しく、とても優しく甘える高野の髪を撫で続けた。
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そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
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【完結】I adore you
ひつじのめい
BL
幼馴染みの蒼はルックスはモテる要素しかないのに、性格まで良くて羨ましく思いながらも夏樹は蒼の事を1番の友達だと思っていた。
そんな時、夏樹に彼女が出来た事が引き金となり2人の関係に変化が訪れる。
※小説家になろうさんでも公開しているものを修正しています。
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