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5.5巻
5.5-2
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「この子は、上の娘御じゃな?」
「はい。先生とお会いするのは初めてですわね」
ミリエルがそう言うと、ドゥナンはふむふむとうなずきながら口を開く。
「おまえさんの上の息子にも赤子の頃に一度会ったきりじゃからなぁ」
顎に手を当てて考え込むドゥナンに、ミリエルはにこにこと微笑みかけている。
すると、ドゥナンは思い出したかのようにアマリーに向き直った。
「おお、すまん。まだ自己紹介をしておらんかったな。儂はザカリアス・ドゥナン。昔、君の母上の先生をしておってな」
(ザカリアス・ドゥナン……ザカリアス……ドゥナン……って、ええっ?)
頭の中で彼の名を何度か繰り返したアマリーは、あることに気づき、目を見開いた。
ザカリアス・ドゥナン。この国の者ならば、子供でも知っている有名人だ。
十年ほど前、南方の大国ヴィントス皇国が、クレセニアに隣するハルデア公国に侵攻してきたことがあった。
当時のヴィントスの王は、自らを王より上位の存在――皇帝と称し、北上しながら侵略を重ね、領土を広げていた。
クレセニアとヴィントスの間には、いくつかの小国が存在していたが、ヴィントスの勢いは凄まじく、クレセニアもいつ自国にまで魔の手が及ぶかと警戒を強めていた。
そんな中、クレセニアの南にあるメリアル王国を陥落させたヴィントスは、ハルデア公国へと次の標的を定める。
ハルデアもメリアルと同じ道を辿ると思われたが、それを見越して同盟関係にあるクレセニアから魔法師団が派遣されていたため、難を逃れたのだった。
他の同盟国の援軍が駆けつけるまで、見事にハルデア国境の砦を守り切ったクレセニアの魔法使いたちは、生きた英雄として称賛された。
その魔法師団で団長を務めていたのが、ドゥナンその人だった。
彼はその戦の後、一線を退いて後進の育成に励んでいたが、最近では国王から与えられた領地で悠々自適な生活を送っていた。
だが、引退後も王都を訪れた際は、進んでこういった奉仕活動に参加している。
(ど、どうしよう! そんなすごい人が目の前にいるなんて!)
英雄の一人を前に、内心大慌てのアマリーだったが、きちんと挨拶をしなければと心を落ち着かせて口を開く。
「あのっ、申し遅れました。わたしはアマリーシェ・フラウ・リヒトルーチェと申します」
アマリーの緊張気味な自己紹介に、ドゥナンはうんうんと満面の笑みでうなずく。
「これは丁寧な挨拶をありがとう。いやいや、さすがミリエルの子だけあって、利発で美しい娘御じゃな」
ドゥナンの褒め言葉に、アマリーは恥ずかしくなって目を伏せた。
そのうち室内にいた他の者たちも集まり、声をかけてくる。彼らの自己紹介を聞いたアマリーは、驚きながらも丁寧に挨拶を返した。
(すごい……名門貴族の奥方ばかりだし、ドゥナン閣下だけじゃなく、他の人も皆、一度は名前を聞いたことのある名士ばかりだわ)
彼らのように社会的地位の高い者たちが、率先して奉仕活動をしている。その事実がアマリーには嬉しく、この国の人間であることが誇らしかった。
†
「では皆様、そろそろよろしいでしょうか?」
アマリーの緊張も解け、周囲に馴染んだ頃。世話役の神官が時計を見て、全員に声をかけた。
続いて皆、神官の後についてぞろぞろと部屋を出る。アマリーたちは列をなして、しんと静まり返った廊下を無言で進んで行った。
やがて、かすかなざわめきが耳に届いた。それは次第に大きくなり、一同は祈りの間に続く扉の前に辿り着いた。
重々しい両開きの扉がゆっくりと開かれると同時に、アマリーの目に入ったのは、大勢の人間で埋め尽くされた広間だった。
人々は、正面の五柱の神々を象った彫像から距離を置いたところに列を作っている。
皆がアマリーたちを待ち構えていたのか、ある者はその顔に喜色を浮かべ、ある者は祈るように手を組んだ。
アマリーが一種異様な雰囲気に呑まれていると、その肩をミリエルが優しく抱いた。
「わたくしはこれから治療に回るわ。貴女はわたくしだけではなく、皆の手伝いをお願い。そうね……列の誘導やお薬の用意なんかもお願いできるかしら?」
「はい」
母から明確な役割を与えられたことで、アマリーは少しだけ落ち着きを取り戻す。
彼女は、今の自分に出来ることを精一杯するしかないと、列に並んだ人々の誘導や、引退した薬師の指示のもと薬を手渡したりと動き始めた。
そのうち余裕が出てくると、特に具合の悪そうな者を先に診てくれるよう神官に訴えるなど、己の判断で動けるようになっていた。
はたから見れば、アマリーは十分役に立っているのだが、彼女としては、治癒魔法も中途半端にしか使えず、薬や医療の知識があるわけでもない自分が役立たずに思えて仕方なかった。
(わたし程度の魔力では、ほんの数人の、しかも簡単な傷を癒すだけで、いっぱいいっぱい。こんな時は、魔力をたくさん持っているユアンやルーナが羨ましいわ)
アマリーは心の中で自嘲する。
自分には兄のように何でもこなせる才覚はないし、弟や妹のように人より抜きん出た魔力もない。
それなりに勉強はできたが、ただそれだけだ。名のある貴族の家に生まれたとはいえ、飛び抜けた能力もなく、誰かの力になれるわけでもない人間――それがアマリーの自己評価だった。
魔法王国と呼ばれるクレセニアにおいて、魔法の才の有無は特に劣等感を煽る。
だが、アマリーに魔法の才がないわけではない。一般的な魔法使いになるには十分な魔力があり、それを使う技術もある。
今はまだ十代半ばの少女で未熟なのは当然のこと。劣等感を抱く必要はないのだが、いかんせん彼女の家族が規格外すぎた。
それゆえ、アマリーの魔力に対する基準が無意識のうちに上がってしまったのだ。
(ユアンやルーナなら、もっとここにいる皆の役に立てたのかしら……)
アマリーは内心でそうつぶやく。ただそれは、自分では病人を助けることが出来ない事実への歯がゆさのせいで、決して弟妹への妬みではなかった。
だからこそ、人の役に立てないことを苦にしてしまうのかもしれない。
もともとアマリーは、妬みや嫉みといった昏い感情にとらわれない、前向きな性格をしている。それが彼女の長所であり、その明るさに家族全員が照らされているのだ。
「アマリー嬢、すまんがミンティはわかるかね?」
ふいに声をかけられ、アマリーは物思いから脱して振り向いた。
呼んだのは、長い間、王都で薬師をしていた老紳士。王宮にも出入りし、その功績から准男爵の位まで授けられた人物だ。
「ミンティですか……?」
尋ねられたものの、それが何を指す言葉かさえアマリーにはわからない。
「ああ、すまんな」
彼女の戸惑った様子に気づくと、老紳士は気にするなとばかりに微笑んだ。そして椅子から立ち上がり、近くのテーブルに広げられていた薬――それらは乾燥させた薬草をすり潰した粉や、新鮮な実などだ――の中から一つを手にする。
「ミンティはこれじゃよ。ほら、こうするとスッと爽やかな、良い香りがするじゃろう? これは消化不良の解消や鎮痛などの効果があるんじゃ」
乾燥させて刻んだミンティの葉を指で揉むと、老紳士が言うように清涼感溢れる香りがした。
「良い香りですね」
「他にも、お茶にして飲んだり、小さな袋に詰めて枕元に置いておいたりすると、よく眠れるという効果もあるんじゃよ」
老紳士はアマリーに説明しつつも、目の前の患者にテキパキと処置を施していく。
今日参加している奉仕活動の面々の中で、この老紳士だけは魔法ではなく、薬で治療を行っている。アマリーの目には、それが新鮮に映った。
魔法はすぐに病気や怪我を治すことができるが、薬は効くまでに時間がかかるし、使い方を誤れば毒になることもある。
そのため、治癒魔法は重宝されるのだが、そういった魔法を扱える人間は少ない。
医者や薬師も誰もがなれるわけではないが、生まれつき持っている魔力や魔法の才能とは違い、その技能は努力次第で誰でも身につけることが出来る。手に入らない天賦の才を欲しがるより、よっぽど現実的だ。
(魔法使いじゃなくて、薬師……。薬師になら、努力すればなれるかもしれない。それならわたしでもきっと、たくさんの人の役に立てるわ)
その希望が、アマリーを一気に奮い立たせる。母親のように多くの人を助けられる人間になりたい――そのための道が、彼女の目の前に開いた気がした。
(わたし、薬について学んでみたい! そして色んな人を助けられるようになりたい!)
それは、アマリーの夢が見つかった瞬間だった。
神殿から帰る馬車の中、アマリーはミリエルへと告げた。
「母様、わたしやりたいことが出来たの」
「まあ、それは何かしら?」
微笑みながら先を促すミリエルに、アマリーはひとつうなずいて話し出す。
「今日お手伝いをしてて思ったの。わたし、これからどれだけ魔法を勉強したとしても、ユアンやルーナには遠く及ばないわ」
自嘲するようなアマリーの言葉を、ミリエルは否定しようと口を開きかけた。しかしそれを、アマリーは笑顔で制す。
「これは本当のことだからいいの。それに、あの子たちが規格外なだけであって、わたしだってもっと頑張れば、それなりに魔法使いとしてもやっていけるってことはわかってる」
「アマリー……」
「でもね、少しだけあの子たちが羨ましいなって気持ちもあったの。だって、魔法がたくさん使えればドゥナン様のように、国を守ることが出来るし、母様のように人々を助けることも出来る。そうやって何かの役に立てることが羨ましかったの」
アマリーは、何も言わずに耳を傾けてくれる母の手を握りしめた。
「でもね、今日気づいたの。魔法使いだけじゃなくて、薬師や医師だって、とても大事で必要な職業なんだって」
「そうね。良い薬師や医師は、時に魔法以上の奇跡を起こすわ」
「そうなの! だからね、わたし、薬について学んでみたい。それで薬師に……ううん、薬師でなくてもいいの。薬の知識を学んで、それを生かせるようになりたい」
アマリーの決意に、ミリエルは目を見開くと、次いでにっこりと微笑んだ。
「自分で決めたなら、ちゃんと頑張るのよ?」
「はい!」
元気に返事をするアマリーに、ミリエルはわざとらしく厳しい表情を浮かべた。
「それから、魔法もちゃんと学びなさい。魔法だけではないわ、他の勉強もよ。色んなことを学ぶこと。それはきっと貴女の力になるから」
「ええ、わかったわ。母様、わたし頑張る!」
目を輝かせて将来の夢を語る娘に、ミリエルは満足そうにうなずいたのだった。
†
休日が終わり、学院に戻ったアマリーは、さっそく薬師になるためにはどうすればいいかを調べることにした。
その結果わかったのは、薬師の多くは先人に師事することによって、一人前になれるということだった。
だが、学院に通っているアマリーが弟子入りなど出来るはずもない。薬師の道は閉ざされてしまったかに思えたが、薬草学の教師に相談することによって別の道が開けた。
魔法使いだけでなく、技師や研究者など様々な分野の人材を育成しているレングランド学院には、もちろん薬草学の講座もある。そこで学べば、薬師に師事するのとなんら変わらない知識を得られると、教師は太鼓判を捺してくれたのだ。
しかし、受講したくとも今は前期日程の半ば。途中からの参加は原則認められていないため、後期授業の受講申し込みが出来るまで待つしかない。
だが学ぶ意欲に満ち溢れている彼女にとっては、それまでの数ヶ月間を待つのすらもどかしい。そこでアマリーがもう一度件の教師に相談したところ、『自分は無理だが、うってつけの人物がいる』と、ある非常勤講師を紹介してもらえることになったのだ。
これは『学びたい者に、最善の環境を』というレングランド学院の基本方針によるもの。おかげでアマリーは、少しも待つことなく薬師の勉強を始められることになった。
「うーん、ここでいいのよね?」
入学してから一度も足を踏み入れたことのない区域を歩きながら、アマリーは独りごちた。
(この辺りは初めて来たけど、本当に人気がないわね。まぁ、学院の敷地内で危険な目に遭うようなことはないと思うけど……)
レングランド学院は、現国王が住む白焔宮が建てられる前まで王宮があった場所だ。それだけに曰くありげな建物や立入禁止区域が多く存在するのだが、王宮当時の強固な防犯設備に加え、魔法や最新の魔道具などによってきちんと守られている。
学院の出入りも厳しくチェックされているため、不審者が入り込むようなことはない。もちろん、生徒や教員、研究所の職員も含めて問題を起こす者はいないので、学院内の治安は良かった。
ただ、アマリーが現在歩いている場所は校舎の裏手で薄暗く、周囲には樹齢百年以上の木々が鬱蒼と生えているため、なんとなく不気味な雰囲気を醸し出していた。そのためか、昼間でも人気はない。
そんな薄暗い道を歩いてしばらくすると、アマリーの視界が急に開けた。
彼女は意外なものを目の当たりにし、思わず足を止める。
林の中にぽっかり開いた空間の中央には、平屋の建物。その横には倍ほどの高さの倉庫が建っている。どちらも石を積み上げた壁に、時間を経て黒ずんだと思われる木の窓枠。屋根もところどころ汚れており、くすんだ赤褐色をしていた。
建物の周囲は芝生が広がっているが、手入れがほとんどされていないのか、ところどころに雑草が交ざっている。よく見れば、背丈の高い草の向こうに、菜園らしきものが埋れていた。
「なんでこんなところに一軒家が……?」
レングランド学院の敷地内に、一見、民家のような建物があるのだ。アマリーが驚くのも無理はない。
「と、とにかく入ってみなくっちゃ」
道を間違えてしまったのだろうか、という内心の動揺を抑え込み、アマリーは平屋の玄関ポーチへ向かう。
表面がささくれ立った年代ものの木製のドアの中央には、周りとまったく調和の取れていない厳かな鷲を象った青銅のドアノッカーがある。
彼女は輪の部分を手に取ると、勢いよくそれを叩きつけた。
周囲が静かなせいか、思った以上にノッカーの音が響く。しかし、しばらく待ってみても声どころか、物音すらしなかった。
「……留守?」
講師を紹介してくれた教師には、この時間に訪れるようにと言われている。
(もう一回だけ試してみよう)
そう思い、アマリーはドアノッカーを今度は先程より強く叩いた。次の瞬間、中からガタンッという大きな音が聞こえてきた。
(何!?)
アマリーが驚いていると、慌しい足音が玄関へと近づいてくる。思わず彼女が一歩、二歩と後退ると、内側からドアが開いた。
「何か用ですか?」
不機嫌さをまったく隠すことのないぶっきらぼうな声が、アマリーの頭上から降ってくる。
扉から現れたのは、ぼさぼさの亜麻色の髪を持つ男だった。瞳の色も判別しにくいほど分厚い眼鏡。背はかなり高いようだが、猫背気味なのでそこまで威圧感を感じない。
黒のジャケットやズボン、白いシャツは仕立ての良いものなのだが、上に羽織った白衣が汚れているため、すべてが台無しになっている。
「あ、あの……ヒューイ・エストランザ先生ですか?」
アマリーはおそるおそる彼を見上げて声をかけた。すると男は、不機嫌な表情から一転、戸惑った様子で彼女を見る。
「そうだけど……君は?」
「わたし、アマリーシェ・リヒトルーチェと申します。タウンゼント先生から連絡があったかと思うのですが」
「タウンゼント……?」
ヒューイは、アマリーの言葉にいちいち驚いた表情を見せる。彼女はそれを不思議に思いながらも、念のため自分がここに来た経緯を説明することにした。
「トラヴィス・タウンゼント先生です。わたしが薬草学について学びたいと相談したところ、貴方を紹介していただけるとおっしゃったので、ここに来ました」
「ああ! あれか!」
ヒューイは思い出したように声をあげると、自分の頭をガシガシと乱暴に掻き毟る。
「あの……」
「すまない。聞いてはいたが、すっかり忘れていたんだよ。まぁ、とりあえず入って」
アマリーはヒューイに促されるまま、家の中に足を踏み入れた。
玄関を開けてすぐには、木製のベンチと観葉植物が置かれている。そこから奥に向かって真っ直ぐに廊下が続いていた。
木目そのままの壁には、青銅製のランプが取り付けられており、素朴な佇まいを演出している。その左右に二つずつ、そして奥の突き当たりに一つドアがあった。
「こっちへ来て」
「はい」
ヒューイは突き当たりの手前にある右側のドアを開け、アマリーを振り返る。先に入れということなのだろうと、アマリーはうなずいて室内へ入った。
どうやらそこは書斎らしい。壁際に背の高い本棚が二つ並び、その近くには大きな執務机が置かれている。
ドアの近くには来客用のソファではなく、一般家庭にありそうな四角いテーブルと四脚の椅子が置かれていた。
「そこに座って」
アマリーは、示されたテーブルの椅子に腰を下ろす。それを見てヒューイも向かい側の椅子に座った。
「君の希望は、とりあえず後期の授業が始まるまでの間、放課後を利用して薬草学を学びたいということでよかったかい?」
「はい。ご迷惑をおかけすると思いますが、わたしが出来ることはなんでもしますから!」
席を立たんばかりに意気込むアマリーを制し、ヒューイは淡々と告げる。
「うん。薬草学について教えるのは構わない。ただ、それと引き換えといってはなんだけど、君に僕の手伝いをしてもらいたいと思っているんだ」
「手伝いですか?」
アマリーが聞き返すと、ヒューイは窓際の執務机を指差した。
机の上には大雑把にまとめられた紙の束が、いくつも山のように積み重ねられている。
「見ての通り、僕は整理整頓というやつがとても苦手でね。ここは机の上だけで済んでいるけど、研究室はかなりまずい状況になっている」
「はぁ……」
「君にはその整理……というか部屋の掃除も含め、多くの雑用を言いつけることになる。貴族の令嬢がやるような仕事じゃないけど、それでも大丈夫?」
リヒトルーチェ公爵家令嬢というのをわかった上で、雑用を言い付ける――アマリーは彼が言外にそう宣言しているのだと理解した。
(つまり、それが嫌ならこの話もなしってことね)
ヒューイの意図を納得した上で、アマリーははっきりと彼に告げた。
「大丈夫です。寮では自分のことは自分でしているので、慣れています。問題ありません」
「そっか。なら、いつここに来てもらうかを決めよう。そうだな……週三回。曜日は、君が都合のいい日を決めてくれて構わない。時間は放課後になってからだね」
「大丈夫です。一日おきに通うのでもいいですか?」
「うん、問題ないよ。それから肝心の勉強についてだけど、君は何か希望があるかい?」
「希望ですか?」
「そう。基礎の基礎から全部教えてほしいとか、まず自分で調べることから始めて、わからないところを中心に教えてほしいとか。……どうしたい?」
ヒューイの問いかけに、アマリーは反射的に答えていた。
「わたしは、何から学べばいいのかわからないくらいの初心者です。けれど知識を与えられるだけではなく、自分で調べて身に付けることが大事だとも思っています。だから先生には、勉強の方針に対するアドバイスをしてもらうことと、わたしが自力で学んだ知識が間違っていないか、足りないところはないかを確認していただきたいです」
「なるほど。……うん、向学心もあるし、かといって自分を過大評価しているわけでもない。生徒としてはなかなか理想的だと思うよ」
「そ、そうですか?」
「うん、僕としてはありがたい」
ヒューイはそう言って、ニコリと微笑んだ。
分厚い眼鏡の奥で小さく見えていた瞳が細められる。それは無邪気な少年のような笑顔で親しみやすく、密かに緊張していたアマリーを和ませた。
「じゃあそうだな……今日から始めてもいいけど、どうする?」
「はい! 是非お願いします」
「本当にやる気なんだね」
面白がるようなヒューイの言葉に、はしたなかったとアマリーは赤くなって俯く。そんな彼女の頭に、ポンッと温かな手が乗せられた。
「さっきも言ったけど、向学心があるのは良いことだよ」
「は、はい」
子供のように頭を撫でられ、アマリーはまた恥ずかしくなって目を伏せる。
自分より下の弟妹がいるため、頭を撫でることは多くても、撫でられることはあまりなかったのだ。ヒューイの行動は、アマリーにくすぐったいような、でも嬉しいような、複雑な気持ちを呼び起こした。
「僕の指導は厳しいよ」
ヒューイはアマリーの頭に手を置いたまま身を屈め、その赤く染まる顔を覗き込む。彼女は分厚い眼鏡越しに見える若草色の瞳にドキリとしながらも、大きくうなずいた。
それを確認したヒューイは、アマリーの頭の上から手を離す。
彼の手の感触がなくなると、それを残念に思う自分がいることに、彼女は心の中で首を傾げた。
「じゃあ、とりあえず今日は君がどんな薬草をどれだけ知っているか、ここに全部書き出してもらおうか。出来れば特徴や効能なども書いてみて。絵に描いてもいいから」
「わかりました」
「僕はその間、書類仕事をしているから、終わったら声をかけてくれるかな。君の書き出したものをもとに、講義をしよう」
「はい!」
アマリーは元気に返事をすると、早速とばかりに差し出された紙に目を落とす。
あの奉仕活動の日から、図書館などで自分なりに調べて勉強していたのだ。その努力を披露できる意味でも手は抜けない。
(えっと、ミンティにマロウ、ステリア、カモミール、ジルド……)
アマリーは心の中で知っている薬草の名を挙げながら、用紙に記入していく。それらの効能や特徴も、余白に覚えている限り書いた。
一方、ヒューイは宣言した通り、アマリーの様子を一切窺うことなく机に向かって仕事をしている。
(何も口出ししないのね……)
指示は出されているものの、あまりの放置状態に、アマリーは困惑しながらヒューイに目を向けた。しかしその視線にも気づかないのか、彼が顔を上げる様子はない。それが何だか見捨てられたように感じた次の瞬間、そんな風に考えている自分にも驚く。
(先生のことを気にしてる場合じゃないでしょ!)
気を取り直すようにふるふると首を振ると、アマリーは再度与えられた課題に取り組むことにした。
しばらく沈黙が続く。部屋に響くのは、羽ペンが紙の上を滑る音と、紙を捲る音くらいだ。
知っている薬草をすべて記入し終えると、アマリーは顔を上げてヒューイに声をかけた。
「あの……出来ました」
「ああ、了解」
ヒューイはうなずくと、すぐさま席を立ってアマリーの向かいの椅子に腰掛ける。そして、彼女が書き込んだ用紙をじっと見つめた。
「――君は薬草について学んだことがなかったんだよね」
「はい。校外学習などで調べたことはありますが、それくらいです」
「そっか。なら、この効能や外観の特徴なんかは自分で調べたのかな?」
「はい! 図書館で薬草図鑑や資料集を見て調べました」
「それは立派なことだね」
お世辞や嫌味ではなく、心から感嘆しているヒューイの言葉。アマリーは自分の努力を評価してもらえたのが嬉しくて頬を緩めた。
「はい。先生とお会いするのは初めてですわね」
ミリエルがそう言うと、ドゥナンはふむふむとうなずきながら口を開く。
「おまえさんの上の息子にも赤子の頃に一度会ったきりじゃからなぁ」
顎に手を当てて考え込むドゥナンに、ミリエルはにこにこと微笑みかけている。
すると、ドゥナンは思い出したかのようにアマリーに向き直った。
「おお、すまん。まだ自己紹介をしておらんかったな。儂はザカリアス・ドゥナン。昔、君の母上の先生をしておってな」
(ザカリアス・ドゥナン……ザカリアス……ドゥナン……って、ええっ?)
頭の中で彼の名を何度か繰り返したアマリーは、あることに気づき、目を見開いた。
ザカリアス・ドゥナン。この国の者ならば、子供でも知っている有名人だ。
十年ほど前、南方の大国ヴィントス皇国が、クレセニアに隣するハルデア公国に侵攻してきたことがあった。
当時のヴィントスの王は、自らを王より上位の存在――皇帝と称し、北上しながら侵略を重ね、領土を広げていた。
クレセニアとヴィントスの間には、いくつかの小国が存在していたが、ヴィントスの勢いは凄まじく、クレセニアもいつ自国にまで魔の手が及ぶかと警戒を強めていた。
そんな中、クレセニアの南にあるメリアル王国を陥落させたヴィントスは、ハルデア公国へと次の標的を定める。
ハルデアもメリアルと同じ道を辿ると思われたが、それを見越して同盟関係にあるクレセニアから魔法師団が派遣されていたため、難を逃れたのだった。
他の同盟国の援軍が駆けつけるまで、見事にハルデア国境の砦を守り切ったクレセニアの魔法使いたちは、生きた英雄として称賛された。
その魔法師団で団長を務めていたのが、ドゥナンその人だった。
彼はその戦の後、一線を退いて後進の育成に励んでいたが、最近では国王から与えられた領地で悠々自適な生活を送っていた。
だが、引退後も王都を訪れた際は、進んでこういった奉仕活動に参加している。
(ど、どうしよう! そんなすごい人が目の前にいるなんて!)
英雄の一人を前に、内心大慌てのアマリーだったが、きちんと挨拶をしなければと心を落ち着かせて口を開く。
「あのっ、申し遅れました。わたしはアマリーシェ・フラウ・リヒトルーチェと申します」
アマリーの緊張気味な自己紹介に、ドゥナンはうんうんと満面の笑みでうなずく。
「これは丁寧な挨拶をありがとう。いやいや、さすがミリエルの子だけあって、利発で美しい娘御じゃな」
ドゥナンの褒め言葉に、アマリーは恥ずかしくなって目を伏せた。
そのうち室内にいた他の者たちも集まり、声をかけてくる。彼らの自己紹介を聞いたアマリーは、驚きながらも丁寧に挨拶を返した。
(すごい……名門貴族の奥方ばかりだし、ドゥナン閣下だけじゃなく、他の人も皆、一度は名前を聞いたことのある名士ばかりだわ)
彼らのように社会的地位の高い者たちが、率先して奉仕活動をしている。その事実がアマリーには嬉しく、この国の人間であることが誇らしかった。
†
「では皆様、そろそろよろしいでしょうか?」
アマリーの緊張も解け、周囲に馴染んだ頃。世話役の神官が時計を見て、全員に声をかけた。
続いて皆、神官の後についてぞろぞろと部屋を出る。アマリーたちは列をなして、しんと静まり返った廊下を無言で進んで行った。
やがて、かすかなざわめきが耳に届いた。それは次第に大きくなり、一同は祈りの間に続く扉の前に辿り着いた。
重々しい両開きの扉がゆっくりと開かれると同時に、アマリーの目に入ったのは、大勢の人間で埋め尽くされた広間だった。
人々は、正面の五柱の神々を象った彫像から距離を置いたところに列を作っている。
皆がアマリーたちを待ち構えていたのか、ある者はその顔に喜色を浮かべ、ある者は祈るように手を組んだ。
アマリーが一種異様な雰囲気に呑まれていると、その肩をミリエルが優しく抱いた。
「わたくしはこれから治療に回るわ。貴女はわたくしだけではなく、皆の手伝いをお願い。そうね……列の誘導やお薬の用意なんかもお願いできるかしら?」
「はい」
母から明確な役割を与えられたことで、アマリーは少しだけ落ち着きを取り戻す。
彼女は、今の自分に出来ることを精一杯するしかないと、列に並んだ人々の誘導や、引退した薬師の指示のもと薬を手渡したりと動き始めた。
そのうち余裕が出てくると、特に具合の悪そうな者を先に診てくれるよう神官に訴えるなど、己の判断で動けるようになっていた。
はたから見れば、アマリーは十分役に立っているのだが、彼女としては、治癒魔法も中途半端にしか使えず、薬や医療の知識があるわけでもない自分が役立たずに思えて仕方なかった。
(わたし程度の魔力では、ほんの数人の、しかも簡単な傷を癒すだけで、いっぱいいっぱい。こんな時は、魔力をたくさん持っているユアンやルーナが羨ましいわ)
アマリーは心の中で自嘲する。
自分には兄のように何でもこなせる才覚はないし、弟や妹のように人より抜きん出た魔力もない。
それなりに勉強はできたが、ただそれだけだ。名のある貴族の家に生まれたとはいえ、飛び抜けた能力もなく、誰かの力になれるわけでもない人間――それがアマリーの自己評価だった。
魔法王国と呼ばれるクレセニアにおいて、魔法の才の有無は特に劣等感を煽る。
だが、アマリーに魔法の才がないわけではない。一般的な魔法使いになるには十分な魔力があり、それを使う技術もある。
今はまだ十代半ばの少女で未熟なのは当然のこと。劣等感を抱く必要はないのだが、いかんせん彼女の家族が規格外すぎた。
それゆえ、アマリーの魔力に対する基準が無意識のうちに上がってしまったのだ。
(ユアンやルーナなら、もっとここにいる皆の役に立てたのかしら……)
アマリーは内心でそうつぶやく。ただそれは、自分では病人を助けることが出来ない事実への歯がゆさのせいで、決して弟妹への妬みではなかった。
だからこそ、人の役に立てないことを苦にしてしまうのかもしれない。
もともとアマリーは、妬みや嫉みといった昏い感情にとらわれない、前向きな性格をしている。それが彼女の長所であり、その明るさに家族全員が照らされているのだ。
「アマリー嬢、すまんがミンティはわかるかね?」
ふいに声をかけられ、アマリーは物思いから脱して振り向いた。
呼んだのは、長い間、王都で薬師をしていた老紳士。王宮にも出入りし、その功績から准男爵の位まで授けられた人物だ。
「ミンティですか……?」
尋ねられたものの、それが何を指す言葉かさえアマリーにはわからない。
「ああ、すまんな」
彼女の戸惑った様子に気づくと、老紳士は気にするなとばかりに微笑んだ。そして椅子から立ち上がり、近くのテーブルに広げられていた薬――それらは乾燥させた薬草をすり潰した粉や、新鮮な実などだ――の中から一つを手にする。
「ミンティはこれじゃよ。ほら、こうするとスッと爽やかな、良い香りがするじゃろう? これは消化不良の解消や鎮痛などの効果があるんじゃ」
乾燥させて刻んだミンティの葉を指で揉むと、老紳士が言うように清涼感溢れる香りがした。
「良い香りですね」
「他にも、お茶にして飲んだり、小さな袋に詰めて枕元に置いておいたりすると、よく眠れるという効果もあるんじゃよ」
老紳士はアマリーに説明しつつも、目の前の患者にテキパキと処置を施していく。
今日参加している奉仕活動の面々の中で、この老紳士だけは魔法ではなく、薬で治療を行っている。アマリーの目には、それが新鮮に映った。
魔法はすぐに病気や怪我を治すことができるが、薬は効くまでに時間がかかるし、使い方を誤れば毒になることもある。
そのため、治癒魔法は重宝されるのだが、そういった魔法を扱える人間は少ない。
医者や薬師も誰もがなれるわけではないが、生まれつき持っている魔力や魔法の才能とは違い、その技能は努力次第で誰でも身につけることが出来る。手に入らない天賦の才を欲しがるより、よっぽど現実的だ。
(魔法使いじゃなくて、薬師……。薬師になら、努力すればなれるかもしれない。それならわたしでもきっと、たくさんの人の役に立てるわ)
その希望が、アマリーを一気に奮い立たせる。母親のように多くの人を助けられる人間になりたい――そのための道が、彼女の目の前に開いた気がした。
(わたし、薬について学んでみたい! そして色んな人を助けられるようになりたい!)
それは、アマリーの夢が見つかった瞬間だった。
神殿から帰る馬車の中、アマリーはミリエルへと告げた。
「母様、わたしやりたいことが出来たの」
「まあ、それは何かしら?」
微笑みながら先を促すミリエルに、アマリーはひとつうなずいて話し出す。
「今日お手伝いをしてて思ったの。わたし、これからどれだけ魔法を勉強したとしても、ユアンやルーナには遠く及ばないわ」
自嘲するようなアマリーの言葉を、ミリエルは否定しようと口を開きかけた。しかしそれを、アマリーは笑顔で制す。
「これは本当のことだからいいの。それに、あの子たちが規格外なだけであって、わたしだってもっと頑張れば、それなりに魔法使いとしてもやっていけるってことはわかってる」
「アマリー……」
「でもね、少しだけあの子たちが羨ましいなって気持ちもあったの。だって、魔法がたくさん使えればドゥナン様のように、国を守ることが出来るし、母様のように人々を助けることも出来る。そうやって何かの役に立てることが羨ましかったの」
アマリーは、何も言わずに耳を傾けてくれる母の手を握りしめた。
「でもね、今日気づいたの。魔法使いだけじゃなくて、薬師や医師だって、とても大事で必要な職業なんだって」
「そうね。良い薬師や医師は、時に魔法以上の奇跡を起こすわ」
「そうなの! だからね、わたし、薬について学んでみたい。それで薬師に……ううん、薬師でなくてもいいの。薬の知識を学んで、それを生かせるようになりたい」
アマリーの決意に、ミリエルは目を見開くと、次いでにっこりと微笑んだ。
「自分で決めたなら、ちゃんと頑張るのよ?」
「はい!」
元気に返事をするアマリーに、ミリエルはわざとらしく厳しい表情を浮かべた。
「それから、魔法もちゃんと学びなさい。魔法だけではないわ、他の勉強もよ。色んなことを学ぶこと。それはきっと貴女の力になるから」
「ええ、わかったわ。母様、わたし頑張る!」
目を輝かせて将来の夢を語る娘に、ミリエルは満足そうにうなずいたのだった。
†
休日が終わり、学院に戻ったアマリーは、さっそく薬師になるためにはどうすればいいかを調べることにした。
その結果わかったのは、薬師の多くは先人に師事することによって、一人前になれるということだった。
だが、学院に通っているアマリーが弟子入りなど出来るはずもない。薬師の道は閉ざされてしまったかに思えたが、薬草学の教師に相談することによって別の道が開けた。
魔法使いだけでなく、技師や研究者など様々な分野の人材を育成しているレングランド学院には、もちろん薬草学の講座もある。そこで学べば、薬師に師事するのとなんら変わらない知識を得られると、教師は太鼓判を捺してくれたのだ。
しかし、受講したくとも今は前期日程の半ば。途中からの参加は原則認められていないため、後期授業の受講申し込みが出来るまで待つしかない。
だが学ぶ意欲に満ち溢れている彼女にとっては、それまでの数ヶ月間を待つのすらもどかしい。そこでアマリーがもう一度件の教師に相談したところ、『自分は無理だが、うってつけの人物がいる』と、ある非常勤講師を紹介してもらえることになったのだ。
これは『学びたい者に、最善の環境を』というレングランド学院の基本方針によるもの。おかげでアマリーは、少しも待つことなく薬師の勉強を始められることになった。
「うーん、ここでいいのよね?」
入学してから一度も足を踏み入れたことのない区域を歩きながら、アマリーは独りごちた。
(この辺りは初めて来たけど、本当に人気がないわね。まぁ、学院の敷地内で危険な目に遭うようなことはないと思うけど……)
レングランド学院は、現国王が住む白焔宮が建てられる前まで王宮があった場所だ。それだけに曰くありげな建物や立入禁止区域が多く存在するのだが、王宮当時の強固な防犯設備に加え、魔法や最新の魔道具などによってきちんと守られている。
学院の出入りも厳しくチェックされているため、不審者が入り込むようなことはない。もちろん、生徒や教員、研究所の職員も含めて問題を起こす者はいないので、学院内の治安は良かった。
ただ、アマリーが現在歩いている場所は校舎の裏手で薄暗く、周囲には樹齢百年以上の木々が鬱蒼と生えているため、なんとなく不気味な雰囲気を醸し出していた。そのためか、昼間でも人気はない。
そんな薄暗い道を歩いてしばらくすると、アマリーの視界が急に開けた。
彼女は意外なものを目の当たりにし、思わず足を止める。
林の中にぽっかり開いた空間の中央には、平屋の建物。その横には倍ほどの高さの倉庫が建っている。どちらも石を積み上げた壁に、時間を経て黒ずんだと思われる木の窓枠。屋根もところどころ汚れており、くすんだ赤褐色をしていた。
建物の周囲は芝生が広がっているが、手入れがほとんどされていないのか、ところどころに雑草が交ざっている。よく見れば、背丈の高い草の向こうに、菜園らしきものが埋れていた。
「なんでこんなところに一軒家が……?」
レングランド学院の敷地内に、一見、民家のような建物があるのだ。アマリーが驚くのも無理はない。
「と、とにかく入ってみなくっちゃ」
道を間違えてしまったのだろうか、という内心の動揺を抑え込み、アマリーは平屋の玄関ポーチへ向かう。
表面がささくれ立った年代ものの木製のドアの中央には、周りとまったく調和の取れていない厳かな鷲を象った青銅のドアノッカーがある。
彼女は輪の部分を手に取ると、勢いよくそれを叩きつけた。
周囲が静かなせいか、思った以上にノッカーの音が響く。しかし、しばらく待ってみても声どころか、物音すらしなかった。
「……留守?」
講師を紹介してくれた教師には、この時間に訪れるようにと言われている。
(もう一回だけ試してみよう)
そう思い、アマリーはドアノッカーを今度は先程より強く叩いた。次の瞬間、中からガタンッという大きな音が聞こえてきた。
(何!?)
アマリーが驚いていると、慌しい足音が玄関へと近づいてくる。思わず彼女が一歩、二歩と後退ると、内側からドアが開いた。
「何か用ですか?」
不機嫌さをまったく隠すことのないぶっきらぼうな声が、アマリーの頭上から降ってくる。
扉から現れたのは、ぼさぼさの亜麻色の髪を持つ男だった。瞳の色も判別しにくいほど分厚い眼鏡。背はかなり高いようだが、猫背気味なのでそこまで威圧感を感じない。
黒のジャケットやズボン、白いシャツは仕立ての良いものなのだが、上に羽織った白衣が汚れているため、すべてが台無しになっている。
「あ、あの……ヒューイ・エストランザ先生ですか?」
アマリーはおそるおそる彼を見上げて声をかけた。すると男は、不機嫌な表情から一転、戸惑った様子で彼女を見る。
「そうだけど……君は?」
「わたし、アマリーシェ・リヒトルーチェと申します。タウンゼント先生から連絡があったかと思うのですが」
「タウンゼント……?」
ヒューイは、アマリーの言葉にいちいち驚いた表情を見せる。彼女はそれを不思議に思いながらも、念のため自分がここに来た経緯を説明することにした。
「トラヴィス・タウンゼント先生です。わたしが薬草学について学びたいと相談したところ、貴方を紹介していただけるとおっしゃったので、ここに来ました」
「ああ! あれか!」
ヒューイは思い出したように声をあげると、自分の頭をガシガシと乱暴に掻き毟る。
「あの……」
「すまない。聞いてはいたが、すっかり忘れていたんだよ。まぁ、とりあえず入って」
アマリーはヒューイに促されるまま、家の中に足を踏み入れた。
玄関を開けてすぐには、木製のベンチと観葉植物が置かれている。そこから奥に向かって真っ直ぐに廊下が続いていた。
木目そのままの壁には、青銅製のランプが取り付けられており、素朴な佇まいを演出している。その左右に二つずつ、そして奥の突き当たりに一つドアがあった。
「こっちへ来て」
「はい」
ヒューイは突き当たりの手前にある右側のドアを開け、アマリーを振り返る。先に入れということなのだろうと、アマリーはうなずいて室内へ入った。
どうやらそこは書斎らしい。壁際に背の高い本棚が二つ並び、その近くには大きな執務机が置かれている。
ドアの近くには来客用のソファではなく、一般家庭にありそうな四角いテーブルと四脚の椅子が置かれていた。
「そこに座って」
アマリーは、示されたテーブルの椅子に腰を下ろす。それを見てヒューイも向かい側の椅子に座った。
「君の希望は、とりあえず後期の授業が始まるまでの間、放課後を利用して薬草学を学びたいということでよかったかい?」
「はい。ご迷惑をおかけすると思いますが、わたしが出来ることはなんでもしますから!」
席を立たんばかりに意気込むアマリーを制し、ヒューイは淡々と告げる。
「うん。薬草学について教えるのは構わない。ただ、それと引き換えといってはなんだけど、君に僕の手伝いをしてもらいたいと思っているんだ」
「手伝いですか?」
アマリーが聞き返すと、ヒューイは窓際の執務机を指差した。
机の上には大雑把にまとめられた紙の束が、いくつも山のように積み重ねられている。
「見ての通り、僕は整理整頓というやつがとても苦手でね。ここは机の上だけで済んでいるけど、研究室はかなりまずい状況になっている」
「はぁ……」
「君にはその整理……というか部屋の掃除も含め、多くの雑用を言いつけることになる。貴族の令嬢がやるような仕事じゃないけど、それでも大丈夫?」
リヒトルーチェ公爵家令嬢というのをわかった上で、雑用を言い付ける――アマリーは彼が言外にそう宣言しているのだと理解した。
(つまり、それが嫌ならこの話もなしってことね)
ヒューイの意図を納得した上で、アマリーははっきりと彼に告げた。
「大丈夫です。寮では自分のことは自分でしているので、慣れています。問題ありません」
「そっか。なら、いつここに来てもらうかを決めよう。そうだな……週三回。曜日は、君が都合のいい日を決めてくれて構わない。時間は放課後になってからだね」
「大丈夫です。一日おきに通うのでもいいですか?」
「うん、問題ないよ。それから肝心の勉強についてだけど、君は何か希望があるかい?」
「希望ですか?」
「そう。基礎の基礎から全部教えてほしいとか、まず自分で調べることから始めて、わからないところを中心に教えてほしいとか。……どうしたい?」
ヒューイの問いかけに、アマリーは反射的に答えていた。
「わたしは、何から学べばいいのかわからないくらいの初心者です。けれど知識を与えられるだけではなく、自分で調べて身に付けることが大事だとも思っています。だから先生には、勉強の方針に対するアドバイスをしてもらうことと、わたしが自力で学んだ知識が間違っていないか、足りないところはないかを確認していただきたいです」
「なるほど。……うん、向学心もあるし、かといって自分を過大評価しているわけでもない。生徒としてはなかなか理想的だと思うよ」
「そ、そうですか?」
「うん、僕としてはありがたい」
ヒューイはそう言って、ニコリと微笑んだ。
分厚い眼鏡の奥で小さく見えていた瞳が細められる。それは無邪気な少年のような笑顔で親しみやすく、密かに緊張していたアマリーを和ませた。
「じゃあそうだな……今日から始めてもいいけど、どうする?」
「はい! 是非お願いします」
「本当にやる気なんだね」
面白がるようなヒューイの言葉に、はしたなかったとアマリーは赤くなって俯く。そんな彼女の頭に、ポンッと温かな手が乗せられた。
「さっきも言ったけど、向学心があるのは良いことだよ」
「は、はい」
子供のように頭を撫でられ、アマリーはまた恥ずかしくなって目を伏せる。
自分より下の弟妹がいるため、頭を撫でることは多くても、撫でられることはあまりなかったのだ。ヒューイの行動は、アマリーにくすぐったいような、でも嬉しいような、複雑な気持ちを呼び起こした。
「僕の指導は厳しいよ」
ヒューイはアマリーの頭に手を置いたまま身を屈め、その赤く染まる顔を覗き込む。彼女は分厚い眼鏡越しに見える若草色の瞳にドキリとしながらも、大きくうなずいた。
それを確認したヒューイは、アマリーの頭の上から手を離す。
彼の手の感触がなくなると、それを残念に思う自分がいることに、彼女は心の中で首を傾げた。
「じゃあ、とりあえず今日は君がどんな薬草をどれだけ知っているか、ここに全部書き出してもらおうか。出来れば特徴や効能なども書いてみて。絵に描いてもいいから」
「わかりました」
「僕はその間、書類仕事をしているから、終わったら声をかけてくれるかな。君の書き出したものをもとに、講義をしよう」
「はい!」
アマリーは元気に返事をすると、早速とばかりに差し出された紙に目を落とす。
あの奉仕活動の日から、図書館などで自分なりに調べて勉強していたのだ。その努力を披露できる意味でも手は抜けない。
(えっと、ミンティにマロウ、ステリア、カモミール、ジルド……)
アマリーは心の中で知っている薬草の名を挙げながら、用紙に記入していく。それらの効能や特徴も、余白に覚えている限り書いた。
一方、ヒューイは宣言した通り、アマリーの様子を一切窺うことなく机に向かって仕事をしている。
(何も口出ししないのね……)
指示は出されているものの、あまりの放置状態に、アマリーは困惑しながらヒューイに目を向けた。しかしその視線にも気づかないのか、彼が顔を上げる様子はない。それが何だか見捨てられたように感じた次の瞬間、そんな風に考えている自分にも驚く。
(先生のことを気にしてる場合じゃないでしょ!)
気を取り直すようにふるふると首を振ると、アマリーは再度与えられた課題に取り組むことにした。
しばらく沈黙が続く。部屋に響くのは、羽ペンが紙の上を滑る音と、紙を捲る音くらいだ。
知っている薬草をすべて記入し終えると、アマリーは顔を上げてヒューイに声をかけた。
「あの……出来ました」
「ああ、了解」
ヒューイはうなずくと、すぐさま席を立ってアマリーの向かいの椅子に腰掛ける。そして、彼女が書き込んだ用紙をじっと見つめた。
「――君は薬草について学んだことがなかったんだよね」
「はい。校外学習などで調べたことはありますが、それくらいです」
「そっか。なら、この効能や外観の特徴なんかは自分で調べたのかな?」
「はい! 図書館で薬草図鑑や資料集を見て調べました」
「それは立派なことだね」
お世辞や嫌味ではなく、心から感嘆しているヒューイの言葉。アマリーは自分の努力を評価してもらえたのが嬉しくて頬を緩めた。
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