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5巻
5-3
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廊下を戻り、玄関ホールの階段を上がると、前方と左右の三方向に廊下が分かれていた。前方は突き当たりになっており、窓の下に花が生けられた大きな花瓶があるだけだ。
左右に続く廊下には、ドアがたくさん並んでいる。ルーナは姉たちの案内で、右側の廊下――建物の東翼へと歩き出した。
いくつかのドアを通り過ぎ、廊下の一番端にあるドアの前で、先頭を歩いていたエレイナが立ち止まる。
「ここがわたしとアマリー様のお部屋ですわ」
ルーナがドアを見上げると、そこには金色のプレートで『A・リヒトルーチェ』『E・ダヴィル』と書かれていた。
エレイナが制服のポケットから鍵を取り出してドアを開けると、次の瞬間、白銀と黄金の毛玉が飛び出してきた。
「しぃちゃん! れぐちゃん!」
しゃがみ込んで広げたルーナの腕に飛び込み、顔を擦り寄せる毛玉――シリウスとレグルスを、ルーナは嬉しそうにモフモフと撫でまくる。
「本当に貴方たちはルーナが好きねぇ」
「ああ、もう、動物と戯れるルーナ様とか、可愛すぎます!」
二匹の様子に苦笑するアマリーと、それにじゃれつかれるルーナに悶えるエレイナ。
姉とエレイナの言葉で我に返ったルーナは、恥ずかしそうに立ち上がると、誤魔化すように言い出した。
「えーと、じゃあわたしは自分の部屋に行くね」
「ええっ! 今お茶を淹れますから、ゆっくりしていかれてはどうです?」
早々に退散を告げたルーナを、エレイナがすかさず引き留めるが、ルーナは申し訳なさそうに眉尻を下げると首を横に振った。
「ごめんね、初日だから緊張してて疲れちゃったみたい。明日からは授業も始まるし、今日は準備をしたら部屋でゆっくりしようかなって……うーん、でも姉様たちにはいろいろ教えてほしいし、明日の放課後、また訪ねてきていい?」
「もちろんよ、それなら放課後迎えに行くわ。そうね、これからはいっぱい一緒にいられるのだから、また明日にしましょう。ね、エレイナ」
「そうでしたわね。これからは寮でもご一緒できるのでしたわ」
アマリーが納得すれば、エレイナもそれ以上の無理強いはしない。ルーナは二人に向き直ると、ぺこりと頭を下げた。
「アマリー姉様、エレイナ、今日は本当にありがとう。これからよろしくね?」
「ふふ。楽しくなるわね」
「ええルーナ様、こちらこそ!」
アマリーに頭を撫でられ、ルーナははにかんだ笑みを浮かべる。
「貴女の部屋の片付けは、荷物を運んできた家の者がやっておいてくれたはずよ」
「はい、姉様」
「ルーナ様、ゆっくり休んで下さいませね」
「うん。エレイナもまたね」
そう言ってアマリーとエレイナに別れを告げると、ルーナは獣たちを連れて、自分の部屋へと向かったのだった。
†
「ここだ……」
『L・リヒトルーチェ』『C・クライン』と書かれたプレートのドアを見上げ、ルーナはそっとつぶやいた。
彼女の部屋は、階段を挟んだ西側の端――アマリーたちの部屋とは、階段を中心にちょうど対称になる場所だった。
「クラインさんっていうのが同室者かあ……。あれ、クラインってどこかで聞いたような……」
しばらく考え込んだものの思い出せなかったため、ルーナはひとまずそれを頭から追い出して、部屋に入ることにした。
「えっと、鍵、鍵……」
先ほど寮監室で渡された鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチャリと音を立てて鍵があいたのを確認すると、ルーナはゆっくりとドアを開けた。
「お邪魔します」
なんとなくそうつぶやいてしまうのは、そこが自分の部屋という自覚がないからだろうか。
玄関の向こうはリビングスペースになっていた。窓側の中央には暖炉が備え付けられており、近くには大きなソファとローテーブルが配置してある。
暖炉の横の窓は、片方が出窓で、もう一方がベランダに続く大きなものだ。そこに野外用のテーブルと椅子が置かれているのが、レースのカーテン越しに見える。
ルーナがリビングを見回せば、左右――向かい合わせの壁面に、寮生の個室に続くと思われるドアがあった。
(このリビングが二人の共用スペースってことだよね。でも、どっちがわたしの部屋になるんだろう?)
二つのドアを交互に見やり、ルーナは途方に暮れる。だがすぐに、一方のドアノブに林檎を象った木製のプレートがかけられているのに気づいた。
「もう一方にはついてないし、これって私物っぽいよね……。ってことは、あっちがわたしの部屋かな」
ルーナは独りごちると、何もかかってない方のドアへ近づいた。
「一応……っと」
何気なく言いながら、彼女は控えめにドアをノックする。
しばらく経って、何も反応がないことを確認すると、ルーナはゆっくりとドアを開けた。
「あ! やっぱり正解だね」
彼女は窓際に置かれたベッドを見て声をあげた。その枕元には、見慣れたぬいぐるみが置かれている。
(ピンク色のひよこなんて謎のぬいぐるみは、わたししか持ってないよねぇ……)
数年前、父親にプレゼントされたぬいぐるみは、ルーナが両手を回してちょうど収まる大きさだ。その奇抜な色には驚いたものの、愛嬌のある顔立ちが気に入っている。しかも、父親が買ってくれたものなのでなおさらだ。ただ、アイヴァンが何故このぬいぐるみを選んだのかは未だ謎だが。
(これがあると、うちにいるみたいでなんか落ち着くかも……)
途端に気が緩んだルーナは、ドアを閉めると弾むようにしてベッドに腰を下ろす。そしてゆっくりと部屋の内装に目を向けた。
壁紙は淡いベージュで細かく花と草木がデザインされている。家具は書き物机にクローゼット、低めの箪笥とドレッサーがあり、すべて白で統一されていた。
ルーナが腰掛けているベッドは、白く塗られた鉄製フレームのもので、カーブで描かれたヘッドボード部分が可愛らしい。寝具は淡いシャンパンゴールドで統一され、ふんだんにレースやフリルがあしらわれている。
そしてベッドのすぐ横には、シリウスとレグルスのためだろうか、彼らがちょうど収まる箱形の寝床まで用意してあった。
「しいちゃんとれぐちゃんのベッドまであるよ」
ルーナが語りかけると、シリウスたちはコクリとうなずきルーナのベッドに飛び乗る。そして彼女を挟んでダラリと横たわった。
入室してからずっと二匹が無言なことに、ルーナは首を傾げる。しかしすぐに、人の気配に聡い彼らのこと、同室者の存在を感じとって話さないのだと気づいた。
(それにしても広いし、快適すぎるよね……)
ルーナは小さく息をついて、心の中で部屋の感想をつぶやく。
昨日まで暮らしていた、実家の部屋に比べれば狭いのだが、前世の記憶がある彼女は、寮の部屋がこれほど充実したものとは思わなかったのだ。
(何はともあれ、今日からは週の大半をここで過ごすんだもんね。広くて快適なのは嬉しいことだよ、うん)
自分に言い聞かせると、ルーナはベッドから立ち上がり、クローゼットを開ける。
「父様ってば、わたしの服、全部新調したんじゃ……」
彼女は見たことのない服ばかりが下がるクローゼットに、「はぁ」と大きなため息をつく。そして何かを諦めた様子で中にあったシンプルな白のワンピースに着替えると、他の設備も確認しておこうと自室を出た。
リビングを好奇心のままに移動し、彼女はルームメイトの部屋と思われるドア以外は、すべて確認してみる。
その結果わかったのは、バスルームとトイレが完備されていること、さらにリビングの奥には、小さなシンクが備え付けられたスペースがあるということだ。どうやらここでお茶を淹れることができるらしく、その証拠に横にある食器棚には、カップやソーサー、紅茶缶などが置かれていた。
(あれ、でもコンロがないよね……)
材料は揃っているものの、肝心のお湯を沸かす設備がなく、ルーナは首を傾げる。しかし、とりあえずと食器棚からやかんを出したところで、ハッと気がついた。
「これ、魔道具だ!」
思わず声をあげて見ると、やかんの下部に魔法陣と魔石が組み込まれているのがわかる。
(なるほど。これはあれだね、魔道具版湯沸かしポットっていうわけだ)
納得すると今度は試したくなるのが人の常。ルーナはワクワクしながらやかんの蓋を開けると、シンクの蛇口を捻ってやかんに水を満たした。
「わぁ!」
彼女の口から思わず感嘆の声が漏れる。
水を入れた途端、やかんの側面が見る間に熱を持ったのだ。
ルーナは慌てて側面から手を離すと、やかんをそばにある小さなテーブルに置く。すると、あっという間に、やかんの口から白い湯気が噴き出した。
料理をする彼女が、魔道具のポットを知らないのには理由がある。料理人には一流に近づくほど、便利な魔道具を使うのは手抜きという風潮があり、専属の料理人たちがいる公爵家ではほとんど使われないからだ。
「すごい! 電化製品なんて目じゃないかも」
ルーナはひとりはしゃいで、茶葉を入れたティーポットにやかんのお湯を注いだ。そして同じように食器棚から取り出した砂時計を傾けた時、彼女の耳にドアが開く音が聞こえてきた。その音にルーナが慌ててリビングへ向かうと、そこには一人の少女がいた。
「あっ……」
少女を見て思わず声をあげたルーナに、相手も驚いた目を向けてくる。何故ならその少女は、今日から同じクラスになったコーデリアだったのだ。
「あの、同じクラスのクラインさんだよね?」
ルーナが話しかけると、コーデリアは黙ってうなずく。その素っ気ない態度に怯みつつも、彼女は話を続けた。
「寮の部屋も同じだなんて偶然だよね。えっと、今日からルームメイトとしてもよろしくね!」
クラスも寮の部屋も同じなのだ。親しくなれるなら、親しくなりたい。そんな思いで挨拶したルーナだったが、コーデリアに反応はなく、無表情に見返されるだけだ。
お互い無言のまま、気まずい空気が流れる。ルーナはこの状況を打開しようと、思い切って再び口を開いた。
「あの……実はお茶を淹れたところなんだ。ここのやかんって魔道具なんだよ、すごいよね。それでよかったら、一緒にどうかな?」
「悪いが断る。それから一つ言っておくが、たまたま同じ部屋になったけれど、わたしは君と必要以上に関わる気はない。どうでもいい用事なら話しかけないでくれ」
それは疑いようもない拒絶だった。
ルーナは一瞬言われたことが理解できず、呆然とコーデリアを見つめる。しかし彼女は、その視線が忌々しいと言わんばかりに、ふいっと顔を背けた。
「グルルッ」
「シャーッ」
何も言えないでいるルーナの代わりに、シリウスとレグルスが威嚇の声をあげる。
「しぃちゃん、れぐちゃん、やめて!」
二匹の様子にハッと我に返り、ルーナは慌てて彼らを宥めた。
コーデリアはそんな彼女たちにチラリと目を向けたものの、何も言うことはなく、ただ静かに背を向けて自室へと消えていった。
パタンと閉まるドアに、ルーナは悲しげな視線を送る。
「なんであんなに頑ななのかな……」
教室でもそうだったし、今もそうだ。何故か攻撃的になって相手を遠ざけようとする彼女に、ルーナは釈然としないものを感じてつぶやいた。
(まるでハリネズミみたい……)
鋭い針で身を守る動物と、きつい態度で人を遠ざけるコーデリアが重なり、ルーナは知らず唇を噛み締めていた。
そんな彼女を慰めようと思ったのか、シリウスとレグルスが足元にすり寄ってくる。
ルーナは二匹の頭を撫でると、ほんの少しだけ湧き出た学校生活への不安を、振り払うようにふるふると頭を振った。
第二章 歪められた正義
それはルーナたちがレングランド学院に入学する、ひと月ほど前のことだった。
クレセニア王妃であるキーラは、妃の宮にいくつかある談話室で寛いでいた。彼女の好みによって赤と金で統一された豪奢な室内は、暖炉の炎のおかげで外とは無縁の暖かさだ。
ぬくもりをくれる暖炉の炎は、本来ならば心をも温めるもののはず。だが、しっかりとカーテンが閉められ、その炎だけが光源となっているため、室内には何やら怪しげな雰囲気が漂っていた。
暖炉の前には、全面に刺繍が施された布張りの二人用のソファが二脚、テーブルを挟んで向かい合うように置かれている。その片方にキーラが座り、並んで隣に同年代の男性が腰掛けていた。
彼はサイアス・ベルフーア。国王の親戚であり、公爵位を持つ人物だ。
王妃との良からぬ仲を噂される彼は、それが噂だけではないことを示すように、クレセニア最高位の女性の腰を、馴れ馴れしく抱き寄せている。
「サイアス。先日、リュシオンに送り込んだ刺客が、骸となって帰ってきたらしいわね。あれがエアデルトより戻ったあたりから機会を窺っていたらしいけど……役に立たないこと」
不機嫌を表すように、手元の羽根扇を閉じたり開いたりしながら、キーラは隣に座るベルフーア公爵を睨んだ。
「うむ……モンティーヌ伯爵が、必ず成功すると言い張っていたのだがな。リュシオン殿下もなかなか悪運が強い」
「悪運などではなく、耄碌した老人の勝手な自滅でしょう。貴方があのような者の言うことを真に受けるなんて驚きだわ」
「いや、伯爵が勝手に申し出た計画だからな。それを手柄に俺たちに媚びるつもりだったんだろう。伯爵とはいえ、モンティーヌ家は前王の時代に凋落して久しい。まぁ、失敗しようとも俺たちに火の粉が降りかかることはない。だからこそ黙認したのだ。上手くいけば重畳、とな。もっとも期待はしてなかったが」
自分の非ではないこと、そして自分たちに損害は出ないことを強調するベルフーア公爵に、キーラは渋々だが納得して口を噤む。
「それにしても……最近ではあの忌まわしい過去などなかったように、立派な王太子だなんだと、皆がリュシオンを持ち上げているのが問題だわ」
「確かに。学院を卒業してから、正式に公務に参加するようになったからな。今までは奴の名前を出さなかった政策の成果が、これからは実績として残るのが厄介だ」
キーラの言葉に、ベルフーア公爵は眉間に皺を寄せてうなずいた。
彼らとしては絶対に認めたくないが、リュシオンが学生の頃から取り組んでいる政策は、概ね成果を出しており、携わった者たちを通じて確実にその名声を高めている。
幼い頃、人には過ぎた魔力を持って生まれたゆえに魔力の暴走を引き起こし、人々に恐怖を抱かせたリュシオン。
だが現在では、暴走も起こさなくなって久しいことや、また彼自身の王太子としての有能さによって、その過去があまり問題視されなくなってきていた。それがキーラたちには、歯噛みするほど腹立たしかった。
次期国王リュシオンと現王妃キーラ。現在その権力は互角かもしれないが、将来を見据えれば、誰に味方するのが良いのかおのずとわかるというもの。日和見ながらもキーラ側についていた貴族たちの一部が、すでにその手のひらを返し始めていた。
「これ以上あれが力を持つ前に、なんとかしなくてはならないわ」
「ああ。リュシオンとバートランド国王のどちらか……いや、両者共に退場いただくのが一番なんだがな」
そうなった時のことを想像しているのか、ベルフーア公爵はニヤリと口元を歪める。
「両者……そうね。リュシオンを葬ったとしても、国王は一筋縄ではいかないでしょうけど。でも一度に片付くならば、それが理想ね」
自らの夫であるはずの国王を、キーラはただの邪魔者としか見ていなかった。
「もはや我らも覚悟を決めねばならんな」
真剣に、けれどどこか芝居がかった調子でベルフーアが宣言する。そんな彼をキーラはうっとりと見上げた。
「サイアス……リュシオンを排除できる手立てはあるの?」
尋ねるキーラに、ベルフーア公爵は黙り込んだ後、口を開いた。
「……認めるのは不本意だが、本人にも周囲にも隙がなさすぎる。リュシオンは幼き頃の魔力暴走によって化け物と恐れられてきた。だがそんな状況でさえ、離れてゆかぬ者は少なからずいた。今となってはそれらの者たちが、奴が絶対の信頼を寄せることができる側近となっている。我らにとってはまったく邪魔な取り巻きだ」
「本当に。あのような者の周りにいるのが揃いも揃って切れ者というのも、まったくもって腹立たしい事実だわ」
「そうだな。リュシオンが信を寄せるのが愚かな弱者であれば、それを攫うなり、脅すなりして我らの盾とすれば良いのだが、あれの周りにそのような隙を見せる者は……」
考え込みながら話していたベルフーア公爵は、不意に言葉を切ると、唐突に叫んだ。
「いや、一人いるじゃないか!」
「え?」
彼の意図するものがわからず、キーラは訝しげに目を細める。そんな彼女に、ベルフーア公爵は勢い込んで告げた。
「あの娘だ。リヒトルーチェのところの末娘、確かルーナレシアといったか……豊穣祭の時は手駒が不出来で失敗したが、あの娘自身は身分以外なんのとりえもない小娘だ。本気で刺客を放てば殺すも攫うも簡単じゃないか?」
「ああ、あの生意気な娘のことね。確かに前回はマヌエラが役立たずで失敗しただけ――もっと手練れの者を使えば、あのような小娘どうにでもできるに違いないわ。それに、リュシオンがあそこまで心配りする人間となれば、十分に良い囮となってくれるはず」
「その通りだ。なにしろ来月行われるレングランド学院での入学式典にも、あの娘が新入生だからとリュシオンが国王に代わって出席するらしい。これは未だリュシオンがあの娘に執着している証拠だ。その執着は我らにとっての脅威。今はまだ娘が幼いゆえに問題にはならんが、いずれ娘も年頃になる。そうすればあれの妃へと望む声がおのずと周囲から出るだろう。リュシオンとリヒトルーチェ家の娘が婚姻を結べば、厄介なことになるのは必至。そうなる前にあの娘に消えてもらわねば。しかもあの娘を囮に使えば、リュシオン自身さえ消すことも出来よう」
「ふふ……良い考えね。リヒトルーチェの手元にいては、手を出すのが難しかっただろうけど、娘がレングランド学院に進学するとなれば話は別だわ。集団生活において自邸並の警護は望めないでしょうし、こちらとしてはやりやすくなるわね」
「あの娘が学院生活を送っている間が好機、というわけだ」
にやりと笑って言葉を続けるベルフーア公爵に、キーラも口元を緩める。
「では、ターゲットはひとまずあの娘……というわけね?」
「ああ。だがリヒトルーチェの邸を襲撃するよりは容易いだろうが、あのレングランド学院に刺客を忍び込ませるのは骨が折れそうだな」
「なんでも、あちこちに魔道具を利用した防犯装置が仕掛けられているらしいじゃない」
王立学院とはいえ、レングランド学院の警備を完全に把握しているのは、代々の学院長のみ。自他国の王族も通うため、下手な騒動が起これば国際問題になる。ゆえにたとえ王族であっても、防犯に関する詳細は秘匿されているのだ。キーラはそれを思い出して唇を噛んだ。
その時、控えめなノックの音が響き、次いでドア越しに遠慮がちな声がかけられた。
「王妃陛下、モルガナ・デジレ様がいらっしゃいました。いかがいたしましょう?」
女官がそう告げると、キーラはパッと顔を輝かせる。
「構わないからここに通しなさい」
キーラが指示を出すと、ドアの前から女官の去る気配がした。そしてしばらくすると、再度ドアの向こうから女官の声がかかる。
「王妃陛下、モルガナ様をお連れいたしました」
「入りなさい」
ガチャリとドアが開くと、女官は客だけを部屋に入れ、すぐさま一礼して出て行った。
入り口へと目を向けたベルフーア公爵は、ドアの前で静かに佇む少女を見ると、大きく息を呑んだ。
最初に目を引いたのは、少女のその髪だった。顎先で切り揃えられた真っ白な髪。丸みの少ない華奢な体型や、肌の張りなどから、十代と思われる。だがそうだとすれば、その髪の色はありえないものだった。
さらに彼女の異様さを強調していたのは、白い布を頭に巻いて側頭部で結び、両目をしっかりと覆っていることだった。
着ている服は神官服にも似た白い長衣。けれど神官服と違い、一切の装飾がなされていない質素なものだ。その一方で、彼女の両目を覆う布には宝石や銀の鎖が縫い込まれていて、どういった身分の者なのか見当がつかない。
「ああ、モルガナ! よく来たわね」
キーラが機嫌良く声をかけると、モルガナと呼ばれた少女は丁寧に一礼した。
「突然お訪ねいたしまして、申し訳ございません。王妃陛下」
「おまえなら良いのよ」
実の娘にさえ取ることのない、キーラの甘やかすような態度に、その場にいたベルフーア公爵は驚いたように目を見開いた。しかしすぐに気を取り直し、キーラへ声をかける。
「そのお嬢さんを、俺にも是非紹介してくれないか?」
「そうね。モルガナ、こちらはサイアス・ベルフーア公爵。サイアス、この者はわたくしのお気に入りでモルガナ・デジレと申す者」
キーラの紹介に、モルガナは深々と腰を折ってベルフーア公爵へ挨拶する。それに対し鷹揚にうなずいた後、彼はキーラに顔を向けた。
「この者は一体?」
「貴方の質問に答える前に――モルガナ、こちらに来て座りなさい」
「はい、王妃陛下」
質問をはぐらかされたベルフーア公爵は、不満そうな表情を浮かべるが、すぐにそれを押し込める。そんな彼の視線を受けながら、モルガナは彼らの対面にあるソファへと腰掛けた。
盲目、あるいは傷跡を隠すためだろうか。どちらにせよ布で覆われているので、モルガナの目は見えていないはずだ。しかしその動きは、健常者となんら変わらぬ滑らかなものだった。
難なくソファまで進み、その位置を確認することなく座ったモルガナに、公爵は驚きを隠せない。思い返せば、彼女は挨拶の時も、まるで見えているかのように的確に彼の方を向いていた。
「彼女はよくここを訪れるのか?」
モルガナの動きを慣れから来るものではと思ったベルフーア公爵は、そうキーラに尋ねる。それを聞いた彼女は、小さく笑って首を振った。
「この部屋に来るのは初めてかしら。いつもは違う場所で会っているのよ」
「なんと。では見えないにもかかわらず、初めての場所でそれだけの動きが出来ると?」
驚愕のままベルフーア公爵が訊くと、モルガナはコクンとうなずいた。
「お察しの通り、わたしの目は生まれつき盲いております。しかし、それを補う力がございますので、日常生活に支障はないのです」
「力?」
「はい。わたしは人や物を気配で感じられるのです。神々が、このような目を持って生まれたわたしを哀れみ、授けて下さった力なのでしょう」
「ほう……補う力、とな」
ベルフーア公爵は感心したように言ったが、心の底では彼女の言葉を疑っていた。確かに魔力による魔法とは別に、特殊としか言いようのない不思議な力を持つ者は存在する。しかし、いざ「自分がそうだ」と主張する人間を目の前にすると、容易に信じるのは難しいのだ。
するとそんな彼の心情を読み取ったのか、キーラが口を挟む。
「貴方が驚くのも疑うのもわかるわ。でも、こう言えば納得できるかしら。モルガナは、いわゆる『はぐれ巫宜』なのよ」
「はぐれ巫宜!?」
思わず声をあげるベルフーア公爵に、キーラは楽しげに笑ってうなずいた。
左右に続く廊下には、ドアがたくさん並んでいる。ルーナは姉たちの案内で、右側の廊下――建物の東翼へと歩き出した。
いくつかのドアを通り過ぎ、廊下の一番端にあるドアの前で、先頭を歩いていたエレイナが立ち止まる。
「ここがわたしとアマリー様のお部屋ですわ」
ルーナがドアを見上げると、そこには金色のプレートで『A・リヒトルーチェ』『E・ダヴィル』と書かれていた。
エレイナが制服のポケットから鍵を取り出してドアを開けると、次の瞬間、白銀と黄金の毛玉が飛び出してきた。
「しぃちゃん! れぐちゃん!」
しゃがみ込んで広げたルーナの腕に飛び込み、顔を擦り寄せる毛玉――シリウスとレグルスを、ルーナは嬉しそうにモフモフと撫でまくる。
「本当に貴方たちはルーナが好きねぇ」
「ああ、もう、動物と戯れるルーナ様とか、可愛すぎます!」
二匹の様子に苦笑するアマリーと、それにじゃれつかれるルーナに悶えるエレイナ。
姉とエレイナの言葉で我に返ったルーナは、恥ずかしそうに立ち上がると、誤魔化すように言い出した。
「えーと、じゃあわたしは自分の部屋に行くね」
「ええっ! 今お茶を淹れますから、ゆっくりしていかれてはどうです?」
早々に退散を告げたルーナを、エレイナがすかさず引き留めるが、ルーナは申し訳なさそうに眉尻を下げると首を横に振った。
「ごめんね、初日だから緊張してて疲れちゃったみたい。明日からは授業も始まるし、今日は準備をしたら部屋でゆっくりしようかなって……うーん、でも姉様たちにはいろいろ教えてほしいし、明日の放課後、また訪ねてきていい?」
「もちろんよ、それなら放課後迎えに行くわ。そうね、これからはいっぱい一緒にいられるのだから、また明日にしましょう。ね、エレイナ」
「そうでしたわね。これからは寮でもご一緒できるのでしたわ」
アマリーが納得すれば、エレイナもそれ以上の無理強いはしない。ルーナは二人に向き直ると、ぺこりと頭を下げた。
「アマリー姉様、エレイナ、今日は本当にありがとう。これからよろしくね?」
「ふふ。楽しくなるわね」
「ええルーナ様、こちらこそ!」
アマリーに頭を撫でられ、ルーナははにかんだ笑みを浮かべる。
「貴女の部屋の片付けは、荷物を運んできた家の者がやっておいてくれたはずよ」
「はい、姉様」
「ルーナ様、ゆっくり休んで下さいませね」
「うん。エレイナもまたね」
そう言ってアマリーとエレイナに別れを告げると、ルーナは獣たちを連れて、自分の部屋へと向かったのだった。
†
「ここだ……」
『L・リヒトルーチェ』『C・クライン』と書かれたプレートのドアを見上げ、ルーナはそっとつぶやいた。
彼女の部屋は、階段を挟んだ西側の端――アマリーたちの部屋とは、階段を中心にちょうど対称になる場所だった。
「クラインさんっていうのが同室者かあ……。あれ、クラインってどこかで聞いたような……」
しばらく考え込んだものの思い出せなかったため、ルーナはひとまずそれを頭から追い出して、部屋に入ることにした。
「えっと、鍵、鍵……」
先ほど寮監室で渡された鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチャリと音を立てて鍵があいたのを確認すると、ルーナはゆっくりとドアを開けた。
「お邪魔します」
なんとなくそうつぶやいてしまうのは、そこが自分の部屋という自覚がないからだろうか。
玄関の向こうはリビングスペースになっていた。窓側の中央には暖炉が備え付けられており、近くには大きなソファとローテーブルが配置してある。
暖炉の横の窓は、片方が出窓で、もう一方がベランダに続く大きなものだ。そこに野外用のテーブルと椅子が置かれているのが、レースのカーテン越しに見える。
ルーナがリビングを見回せば、左右――向かい合わせの壁面に、寮生の個室に続くと思われるドアがあった。
(このリビングが二人の共用スペースってことだよね。でも、どっちがわたしの部屋になるんだろう?)
二つのドアを交互に見やり、ルーナは途方に暮れる。だがすぐに、一方のドアノブに林檎を象った木製のプレートがかけられているのに気づいた。
「もう一方にはついてないし、これって私物っぽいよね……。ってことは、あっちがわたしの部屋かな」
ルーナは独りごちると、何もかかってない方のドアへ近づいた。
「一応……っと」
何気なく言いながら、彼女は控えめにドアをノックする。
しばらく経って、何も反応がないことを確認すると、ルーナはゆっくりとドアを開けた。
「あ! やっぱり正解だね」
彼女は窓際に置かれたベッドを見て声をあげた。その枕元には、見慣れたぬいぐるみが置かれている。
(ピンク色のひよこなんて謎のぬいぐるみは、わたししか持ってないよねぇ……)
数年前、父親にプレゼントされたぬいぐるみは、ルーナが両手を回してちょうど収まる大きさだ。その奇抜な色には驚いたものの、愛嬌のある顔立ちが気に入っている。しかも、父親が買ってくれたものなのでなおさらだ。ただ、アイヴァンが何故このぬいぐるみを選んだのかは未だ謎だが。
(これがあると、うちにいるみたいでなんか落ち着くかも……)
途端に気が緩んだルーナは、ドアを閉めると弾むようにしてベッドに腰を下ろす。そしてゆっくりと部屋の内装に目を向けた。
壁紙は淡いベージュで細かく花と草木がデザインされている。家具は書き物机にクローゼット、低めの箪笥とドレッサーがあり、すべて白で統一されていた。
ルーナが腰掛けているベッドは、白く塗られた鉄製フレームのもので、カーブで描かれたヘッドボード部分が可愛らしい。寝具は淡いシャンパンゴールドで統一され、ふんだんにレースやフリルがあしらわれている。
そしてベッドのすぐ横には、シリウスとレグルスのためだろうか、彼らがちょうど収まる箱形の寝床まで用意してあった。
「しいちゃんとれぐちゃんのベッドまであるよ」
ルーナが語りかけると、シリウスたちはコクリとうなずきルーナのベッドに飛び乗る。そして彼女を挟んでダラリと横たわった。
入室してからずっと二匹が無言なことに、ルーナは首を傾げる。しかしすぐに、人の気配に聡い彼らのこと、同室者の存在を感じとって話さないのだと気づいた。
(それにしても広いし、快適すぎるよね……)
ルーナは小さく息をついて、心の中で部屋の感想をつぶやく。
昨日まで暮らしていた、実家の部屋に比べれば狭いのだが、前世の記憶がある彼女は、寮の部屋がこれほど充実したものとは思わなかったのだ。
(何はともあれ、今日からは週の大半をここで過ごすんだもんね。広くて快適なのは嬉しいことだよ、うん)
自分に言い聞かせると、ルーナはベッドから立ち上がり、クローゼットを開ける。
「父様ってば、わたしの服、全部新調したんじゃ……」
彼女は見たことのない服ばかりが下がるクローゼットに、「はぁ」と大きなため息をつく。そして何かを諦めた様子で中にあったシンプルな白のワンピースに着替えると、他の設備も確認しておこうと自室を出た。
リビングを好奇心のままに移動し、彼女はルームメイトの部屋と思われるドア以外は、すべて確認してみる。
その結果わかったのは、バスルームとトイレが完備されていること、さらにリビングの奥には、小さなシンクが備え付けられたスペースがあるということだ。どうやらここでお茶を淹れることができるらしく、その証拠に横にある食器棚には、カップやソーサー、紅茶缶などが置かれていた。
(あれ、でもコンロがないよね……)
材料は揃っているものの、肝心のお湯を沸かす設備がなく、ルーナは首を傾げる。しかし、とりあえずと食器棚からやかんを出したところで、ハッと気がついた。
「これ、魔道具だ!」
思わず声をあげて見ると、やかんの下部に魔法陣と魔石が組み込まれているのがわかる。
(なるほど。これはあれだね、魔道具版湯沸かしポットっていうわけだ)
納得すると今度は試したくなるのが人の常。ルーナはワクワクしながらやかんの蓋を開けると、シンクの蛇口を捻ってやかんに水を満たした。
「わぁ!」
彼女の口から思わず感嘆の声が漏れる。
水を入れた途端、やかんの側面が見る間に熱を持ったのだ。
ルーナは慌てて側面から手を離すと、やかんをそばにある小さなテーブルに置く。すると、あっという間に、やかんの口から白い湯気が噴き出した。
料理をする彼女が、魔道具のポットを知らないのには理由がある。料理人には一流に近づくほど、便利な魔道具を使うのは手抜きという風潮があり、専属の料理人たちがいる公爵家ではほとんど使われないからだ。
「すごい! 電化製品なんて目じゃないかも」
ルーナはひとりはしゃいで、茶葉を入れたティーポットにやかんのお湯を注いだ。そして同じように食器棚から取り出した砂時計を傾けた時、彼女の耳にドアが開く音が聞こえてきた。その音にルーナが慌ててリビングへ向かうと、そこには一人の少女がいた。
「あっ……」
少女を見て思わず声をあげたルーナに、相手も驚いた目を向けてくる。何故ならその少女は、今日から同じクラスになったコーデリアだったのだ。
「あの、同じクラスのクラインさんだよね?」
ルーナが話しかけると、コーデリアは黙ってうなずく。その素っ気ない態度に怯みつつも、彼女は話を続けた。
「寮の部屋も同じだなんて偶然だよね。えっと、今日からルームメイトとしてもよろしくね!」
クラスも寮の部屋も同じなのだ。親しくなれるなら、親しくなりたい。そんな思いで挨拶したルーナだったが、コーデリアに反応はなく、無表情に見返されるだけだ。
お互い無言のまま、気まずい空気が流れる。ルーナはこの状況を打開しようと、思い切って再び口を開いた。
「あの……実はお茶を淹れたところなんだ。ここのやかんって魔道具なんだよ、すごいよね。それでよかったら、一緒にどうかな?」
「悪いが断る。それから一つ言っておくが、たまたま同じ部屋になったけれど、わたしは君と必要以上に関わる気はない。どうでもいい用事なら話しかけないでくれ」
それは疑いようもない拒絶だった。
ルーナは一瞬言われたことが理解できず、呆然とコーデリアを見つめる。しかし彼女は、その視線が忌々しいと言わんばかりに、ふいっと顔を背けた。
「グルルッ」
「シャーッ」
何も言えないでいるルーナの代わりに、シリウスとレグルスが威嚇の声をあげる。
「しぃちゃん、れぐちゃん、やめて!」
二匹の様子にハッと我に返り、ルーナは慌てて彼らを宥めた。
コーデリアはそんな彼女たちにチラリと目を向けたものの、何も言うことはなく、ただ静かに背を向けて自室へと消えていった。
パタンと閉まるドアに、ルーナは悲しげな視線を送る。
「なんであんなに頑ななのかな……」
教室でもそうだったし、今もそうだ。何故か攻撃的になって相手を遠ざけようとする彼女に、ルーナは釈然としないものを感じてつぶやいた。
(まるでハリネズミみたい……)
鋭い針で身を守る動物と、きつい態度で人を遠ざけるコーデリアが重なり、ルーナは知らず唇を噛み締めていた。
そんな彼女を慰めようと思ったのか、シリウスとレグルスが足元にすり寄ってくる。
ルーナは二匹の頭を撫でると、ほんの少しだけ湧き出た学校生活への不安を、振り払うようにふるふると頭を振った。
第二章 歪められた正義
それはルーナたちがレングランド学院に入学する、ひと月ほど前のことだった。
クレセニア王妃であるキーラは、妃の宮にいくつかある談話室で寛いでいた。彼女の好みによって赤と金で統一された豪奢な室内は、暖炉の炎のおかげで外とは無縁の暖かさだ。
ぬくもりをくれる暖炉の炎は、本来ならば心をも温めるもののはず。だが、しっかりとカーテンが閉められ、その炎だけが光源となっているため、室内には何やら怪しげな雰囲気が漂っていた。
暖炉の前には、全面に刺繍が施された布張りの二人用のソファが二脚、テーブルを挟んで向かい合うように置かれている。その片方にキーラが座り、並んで隣に同年代の男性が腰掛けていた。
彼はサイアス・ベルフーア。国王の親戚であり、公爵位を持つ人物だ。
王妃との良からぬ仲を噂される彼は、それが噂だけではないことを示すように、クレセニア最高位の女性の腰を、馴れ馴れしく抱き寄せている。
「サイアス。先日、リュシオンに送り込んだ刺客が、骸となって帰ってきたらしいわね。あれがエアデルトより戻ったあたりから機会を窺っていたらしいけど……役に立たないこと」
不機嫌を表すように、手元の羽根扇を閉じたり開いたりしながら、キーラは隣に座るベルフーア公爵を睨んだ。
「うむ……モンティーヌ伯爵が、必ず成功すると言い張っていたのだがな。リュシオン殿下もなかなか悪運が強い」
「悪運などではなく、耄碌した老人の勝手な自滅でしょう。貴方があのような者の言うことを真に受けるなんて驚きだわ」
「いや、伯爵が勝手に申し出た計画だからな。それを手柄に俺たちに媚びるつもりだったんだろう。伯爵とはいえ、モンティーヌ家は前王の時代に凋落して久しい。まぁ、失敗しようとも俺たちに火の粉が降りかかることはない。だからこそ黙認したのだ。上手くいけば重畳、とな。もっとも期待はしてなかったが」
自分の非ではないこと、そして自分たちに損害は出ないことを強調するベルフーア公爵に、キーラは渋々だが納得して口を噤む。
「それにしても……最近ではあの忌まわしい過去などなかったように、立派な王太子だなんだと、皆がリュシオンを持ち上げているのが問題だわ」
「確かに。学院を卒業してから、正式に公務に参加するようになったからな。今までは奴の名前を出さなかった政策の成果が、これからは実績として残るのが厄介だ」
キーラの言葉に、ベルフーア公爵は眉間に皺を寄せてうなずいた。
彼らとしては絶対に認めたくないが、リュシオンが学生の頃から取り組んでいる政策は、概ね成果を出しており、携わった者たちを通じて確実にその名声を高めている。
幼い頃、人には過ぎた魔力を持って生まれたゆえに魔力の暴走を引き起こし、人々に恐怖を抱かせたリュシオン。
だが現在では、暴走も起こさなくなって久しいことや、また彼自身の王太子としての有能さによって、その過去があまり問題視されなくなってきていた。それがキーラたちには、歯噛みするほど腹立たしかった。
次期国王リュシオンと現王妃キーラ。現在その権力は互角かもしれないが、将来を見据えれば、誰に味方するのが良いのかおのずとわかるというもの。日和見ながらもキーラ側についていた貴族たちの一部が、すでにその手のひらを返し始めていた。
「これ以上あれが力を持つ前に、なんとかしなくてはならないわ」
「ああ。リュシオンとバートランド国王のどちらか……いや、両者共に退場いただくのが一番なんだがな」
そうなった時のことを想像しているのか、ベルフーア公爵はニヤリと口元を歪める。
「両者……そうね。リュシオンを葬ったとしても、国王は一筋縄ではいかないでしょうけど。でも一度に片付くならば、それが理想ね」
自らの夫であるはずの国王を、キーラはただの邪魔者としか見ていなかった。
「もはや我らも覚悟を決めねばならんな」
真剣に、けれどどこか芝居がかった調子でベルフーアが宣言する。そんな彼をキーラはうっとりと見上げた。
「サイアス……リュシオンを排除できる手立てはあるの?」
尋ねるキーラに、ベルフーア公爵は黙り込んだ後、口を開いた。
「……認めるのは不本意だが、本人にも周囲にも隙がなさすぎる。リュシオンは幼き頃の魔力暴走によって化け物と恐れられてきた。だがそんな状況でさえ、離れてゆかぬ者は少なからずいた。今となってはそれらの者たちが、奴が絶対の信頼を寄せることができる側近となっている。我らにとってはまったく邪魔な取り巻きだ」
「本当に。あのような者の周りにいるのが揃いも揃って切れ者というのも、まったくもって腹立たしい事実だわ」
「そうだな。リュシオンが信を寄せるのが愚かな弱者であれば、それを攫うなり、脅すなりして我らの盾とすれば良いのだが、あれの周りにそのような隙を見せる者は……」
考え込みながら話していたベルフーア公爵は、不意に言葉を切ると、唐突に叫んだ。
「いや、一人いるじゃないか!」
「え?」
彼の意図するものがわからず、キーラは訝しげに目を細める。そんな彼女に、ベルフーア公爵は勢い込んで告げた。
「あの娘だ。リヒトルーチェのところの末娘、確かルーナレシアといったか……豊穣祭の時は手駒が不出来で失敗したが、あの娘自身は身分以外なんのとりえもない小娘だ。本気で刺客を放てば殺すも攫うも簡単じゃないか?」
「ああ、あの生意気な娘のことね。確かに前回はマヌエラが役立たずで失敗しただけ――もっと手練れの者を使えば、あのような小娘どうにでもできるに違いないわ。それに、リュシオンがあそこまで心配りする人間となれば、十分に良い囮となってくれるはず」
「その通りだ。なにしろ来月行われるレングランド学院での入学式典にも、あの娘が新入生だからとリュシオンが国王に代わって出席するらしい。これは未だリュシオンがあの娘に執着している証拠だ。その執着は我らにとっての脅威。今はまだ娘が幼いゆえに問題にはならんが、いずれ娘も年頃になる。そうすればあれの妃へと望む声がおのずと周囲から出るだろう。リュシオンとリヒトルーチェ家の娘が婚姻を結べば、厄介なことになるのは必至。そうなる前にあの娘に消えてもらわねば。しかもあの娘を囮に使えば、リュシオン自身さえ消すことも出来よう」
「ふふ……良い考えね。リヒトルーチェの手元にいては、手を出すのが難しかっただろうけど、娘がレングランド学院に進学するとなれば話は別だわ。集団生活において自邸並の警護は望めないでしょうし、こちらとしてはやりやすくなるわね」
「あの娘が学院生活を送っている間が好機、というわけだ」
にやりと笑って言葉を続けるベルフーア公爵に、キーラも口元を緩める。
「では、ターゲットはひとまずあの娘……というわけね?」
「ああ。だがリヒトルーチェの邸を襲撃するよりは容易いだろうが、あのレングランド学院に刺客を忍び込ませるのは骨が折れそうだな」
「なんでも、あちこちに魔道具を利用した防犯装置が仕掛けられているらしいじゃない」
王立学院とはいえ、レングランド学院の警備を完全に把握しているのは、代々の学院長のみ。自他国の王族も通うため、下手な騒動が起これば国際問題になる。ゆえにたとえ王族であっても、防犯に関する詳細は秘匿されているのだ。キーラはそれを思い出して唇を噛んだ。
その時、控えめなノックの音が響き、次いでドア越しに遠慮がちな声がかけられた。
「王妃陛下、モルガナ・デジレ様がいらっしゃいました。いかがいたしましょう?」
女官がそう告げると、キーラはパッと顔を輝かせる。
「構わないからここに通しなさい」
キーラが指示を出すと、ドアの前から女官の去る気配がした。そしてしばらくすると、再度ドアの向こうから女官の声がかかる。
「王妃陛下、モルガナ様をお連れいたしました」
「入りなさい」
ガチャリとドアが開くと、女官は客だけを部屋に入れ、すぐさま一礼して出て行った。
入り口へと目を向けたベルフーア公爵は、ドアの前で静かに佇む少女を見ると、大きく息を呑んだ。
最初に目を引いたのは、少女のその髪だった。顎先で切り揃えられた真っ白な髪。丸みの少ない華奢な体型や、肌の張りなどから、十代と思われる。だがそうだとすれば、その髪の色はありえないものだった。
さらに彼女の異様さを強調していたのは、白い布を頭に巻いて側頭部で結び、両目をしっかりと覆っていることだった。
着ている服は神官服にも似た白い長衣。けれど神官服と違い、一切の装飾がなされていない質素なものだ。その一方で、彼女の両目を覆う布には宝石や銀の鎖が縫い込まれていて、どういった身分の者なのか見当がつかない。
「ああ、モルガナ! よく来たわね」
キーラが機嫌良く声をかけると、モルガナと呼ばれた少女は丁寧に一礼した。
「突然お訪ねいたしまして、申し訳ございません。王妃陛下」
「おまえなら良いのよ」
実の娘にさえ取ることのない、キーラの甘やかすような態度に、その場にいたベルフーア公爵は驚いたように目を見開いた。しかしすぐに気を取り直し、キーラへ声をかける。
「そのお嬢さんを、俺にも是非紹介してくれないか?」
「そうね。モルガナ、こちらはサイアス・ベルフーア公爵。サイアス、この者はわたくしのお気に入りでモルガナ・デジレと申す者」
キーラの紹介に、モルガナは深々と腰を折ってベルフーア公爵へ挨拶する。それに対し鷹揚にうなずいた後、彼はキーラに顔を向けた。
「この者は一体?」
「貴方の質問に答える前に――モルガナ、こちらに来て座りなさい」
「はい、王妃陛下」
質問をはぐらかされたベルフーア公爵は、不満そうな表情を浮かべるが、すぐにそれを押し込める。そんな彼の視線を受けながら、モルガナは彼らの対面にあるソファへと腰掛けた。
盲目、あるいは傷跡を隠すためだろうか。どちらにせよ布で覆われているので、モルガナの目は見えていないはずだ。しかしその動きは、健常者となんら変わらぬ滑らかなものだった。
難なくソファまで進み、その位置を確認することなく座ったモルガナに、公爵は驚きを隠せない。思い返せば、彼女は挨拶の時も、まるで見えているかのように的確に彼の方を向いていた。
「彼女はよくここを訪れるのか?」
モルガナの動きを慣れから来るものではと思ったベルフーア公爵は、そうキーラに尋ねる。それを聞いた彼女は、小さく笑って首を振った。
「この部屋に来るのは初めてかしら。いつもは違う場所で会っているのよ」
「なんと。では見えないにもかかわらず、初めての場所でそれだけの動きが出来ると?」
驚愕のままベルフーア公爵が訊くと、モルガナはコクンとうなずいた。
「お察しの通り、わたしの目は生まれつき盲いております。しかし、それを補う力がございますので、日常生活に支障はないのです」
「力?」
「はい。わたしは人や物を気配で感じられるのです。神々が、このような目を持って生まれたわたしを哀れみ、授けて下さった力なのでしょう」
「ほう……補う力、とな」
ベルフーア公爵は感心したように言ったが、心の底では彼女の言葉を疑っていた。確かに魔力による魔法とは別に、特殊としか言いようのない不思議な力を持つ者は存在する。しかし、いざ「自分がそうだ」と主張する人間を目の前にすると、容易に信じるのは難しいのだ。
するとそんな彼の心情を読み取ったのか、キーラが口を挟む。
「貴方が驚くのも疑うのもわかるわ。でも、こう言えば納得できるかしら。モルガナは、いわゆる『はぐれ巫宜』なのよ」
「はぐれ巫宜!?」
思わず声をあげるベルフーア公爵に、キーラは楽しげに笑ってうなずいた。
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