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5巻
5-1
しおりを挟む第一章 新生活のはじまり
あなたの傍には、支えになってくれる誰かがいますか?
王都ライデール東区の象徴といえば、クレセニア王国が誇る王立レングランド学院である。
その歴史は二百年を越え、現在に至るまで魔法使いをはじめ、技師、研究者、医療従事者など、様々な分野で優秀な人材を輩出してきた、国内最高学府だ。
そんなレングランド学院の講堂では、一月半ばの今日、新入生の入学を祝う式典が行われていた。
講堂の肌色がかった壁には、装飾的な模様と共に、学院の象徴でもあるグリフォンの意匠が金箔で施されている。天井の中央には、天使に祝福される賢人が、フレスコ画で描かれていた。
建物はもともと劇場として利用できるように作られた。そのため、舞台から見て両側にはボックス席が、さらにその奥には貴賓席まである。それらは今日、来賓と上流階級の父兄用として使われていた。
「新入生の諸君、ようこそレングランド学院へ」
舞台に設けられた壇上で挨拶するのは学院長、ロドリーゴ・マティス卿だ。熊を思わせるような厳つい巨躯からは、それに見合ったよく通る太い声が発せられる。
呼びかけられたのは、藍色を基調とした真新しい制服に身を包む生徒たちだ。間を開けて、その後ろには上級生と思われる生徒たちも着席している。全校生徒は、二百人強といったところだ。
(やっぱり不思議な感じだよね……)
厳かな式典が進む中、新入生としてその場にいた少女は、そんな感想を心の中で漏らした。
少女の名はルーナレシア・リーン・リヒトルーチェ。
皆からルーナと呼ばれる彼女は、クレセニア王国の中でも名門と名高いリヒトルーチェ公爵家の末娘だ。そして、今年からレングランド学院に通うことになった新入生の一人でもある。
その彼女が不思議だと評したのは、自分と同じ新入生たちのことだった。
周りに座っている三十人ほどの男女だけでも、見事に年齢がバラバラだったのだ。『新入生』という言葉が似合う、初々しい少年少女はわずか。むしろ教師と言われた方がしっくりくるような年齢の生徒も多い。
(前に父様と学院に来たときにも思ったけど、同級生の年齢がバラバラって、テレビで見た夜間学校みたいだよね)
剣と魔法の世界である、このサンクトロイメには存在しないテレビ。にもかかわらず、そんな単語がルーナの感想に出てくるのには理由がある。実は彼女、前世の記憶を持っているのだ。
ルーナの前世は、この世界とは違う地球という異世界。かつては高崎千幸という名の、日本人の少女だった。
彼女がサンクトロイメに転生して十年。日本ならばすでに小学生だが、ここではようやく、教育機関で学べる年齢だった。
レングランド学院に入学するには、難関である試験に合格しなければならない。そのため入学資格は十歳以上だが、その最低年齢で入学する者はほんの一握りだ。
一般市民は、通常十歳から十二歳の間で市井の学問所や学校に通い始め、三年から五年で卒業を迎える。
しかしレングランド学院の入学試験内容といえば、その学問所や学校の卒業レベルというのだから、生徒の年齢層が高めになるのも仕方がないのだろう。
富裕層の人間ならば、幼い頃から家庭教師をつけて学ぶこともできるが、そもそも庶民にはそんな金銭的余裕がない。どんなに優秀な者でも、市井の学問所を卒業してから受験するため、自然と特権階級の者よりも年長者が多くなるのだ。
そんな事情から、新入生の中にごくわずかにいる、ルーナと同年代の少年少女たちは、皆、育ちが良さそうだった――上流階級、少なくともそれに準じる階級の出なのだろう。
だからこそと言うべきか、ルーナのように特権階級出と思われる生徒への視線は厳しい。
己の才覚だけでレングランド学院という狭き門に滑り込んだ者たちは、それゆえ権力や財力といった後ろ盾がある者への妬みや僻みを抱えている。その思いが、かの者たちの入学には実力ではなく、何らかの取引があったのではないか、という憶測を生むのだ。
もちろん授業が始まれば各生徒の実力は明らかになり、そのような邪推も消えるのだが、まだ学校生活は始まってもいないので、それもかなわない。
そうした経緯を、学院の先輩でもある兄姉たちからすでに聞きかじっていたルーナは、無遠慮に投げかけられる視線にため息を零した。
(うーん、なんかあちこちから視線を感じるんだけど、やっぱり裏口とか思われてるのかなぁ?)
しばらくこの状況が続くのか、とルーナはうんざりする。だが実際のところ、それは彼女の思い込みに過ぎなかった。
確かにそのような視線もあるにはある。しかし大半は裏口疑惑ではなく、ただ彼女を見た途端、目が離せなくなったというだけだった。
十歳になったばかりとはいえ、近い将来類い稀なる美女に成長するであろう愛らしい少女。
真っ直ぐな珍しい銀髪に、赤子のようなきめ細かい白磁の肌。豊かな感情を表す緑の瞳が、美しい容姿をさらに引き立たせている。思わず見とれてしまうのも無理はない。
けれど、ルーナにとっては鏡で見慣れた自分の顔。さらに前世の記憶があることで冷静に自分を見る癖がついており、人並み外れた容姿だという自覚はあるものの、それが周囲にどう影響をおよぼすかは未だに自覚できていなかった。
「――それでは諸君、どうか実りある学院生活を送ってくれたまえ」
学院長の言葉と共に拍手が起こる。ルーナはハッと意識を戻すと、慌てて周囲と同じように手を叩いた。
(えーと、あとはなんだろう?)
壇上から降りる学院長を目で追いながら、ルーナは次のプログラムを予想する。今までのところ、在校生代表からと来賓の祝辞、学院長の話等、前世の彼女が日本で経験した入学式とさほど変わりはなかった。
(また偉い人のお話とかかな……)
ルーナが思ったのと同時に、ワッと会場が沸く。この場にいる全員の視線を引きつけ、壇上へと上がったのは、クレセニア王国の若き王太子リュシオンだった。
先月、成人となる十八歳を迎え、同じ月にこのレングランド学院を卒業したばかりのリュシオン。彼はこの日、父である国王の代理として母校を訪れており、その傍らには側近であるジーンの姿もあった。
リュシオンは堂々とした態度で壇上に立つと、力強い眼差しを会場に向けた。
すらりと伸びた長身に、真っ直ぐな漆黒の髪、深い瑠璃色の瞳を持つ王太子は、その端整な顔立ちと優雅ながらも堂々とした立ち居振る舞いで他者を圧倒する。
(来賓って王様じゃなくて、リューなんだ)
レングランド学院は王立学校であるため、式典に国王が列席することは珍しくない。
ルーナがぼんやりとリュシオンに目を向けると、同じく彼女を見やった彼と視線が交わる。
「あっ……」
ニッと悪戯っぽく口角を上げるリュシオンに、ルーナは小さく声をあげる。そんな彼女の反応に満足そうな表情を浮かべると、彼はおもむろに口を開いた。
「新入生の諸君、入学おめでとう。このレングランド学院は、フォーン大陸で最も長い歴史を持つ教育機関だ。現在では卒業生たちが指導者あるいは研究者となり、クレセニア、ひいては大陸の発展に貢献している。そんな学院に今日入学した諸君らもまた、歴史あるレングランド学院の名声を高める礎となってくれることを、切に願う――」
拡声の魔道具によって、リュシオンの落ち着いた声が会場に響く。皆がその姿に注目する中、彼は堂々と祝辞を述べていった。
「最後に、この学院で学んだ知識が諸君の大きな力となり、ゆくゆくは国の助けとなることを祈る」
そう言って、魅力的な笑みを浮かべた彼に、ルーナはありえないと顔を引き攣らせる。
(うわぁ。めちゃくちゃ猫かぶりな笑顔だよ。……うん、詐欺だね、あれは)
近しい者以外には、あまり愛想の良くない――またそれが許される立場のリュシオン。しかし自分の容姿に愛想を添えた時の効果は熟知していた。
だがルーナからしてみれば、そんな時に使われる彼の作り笑いには違和感しか感じられない。一斉に顔を赤らめる女性たち――一部男性もいるのが恐ろしい――を見て、ますます顔を引き攣らせたのだった。
†
「ルーナ!」
式典が終わると新入生たちは、各々決められた教室に向かうことになっている。皆にならって講堂を出たルーナは、後ろから名前を呼ばれて立ち止まった。
そこには日に当たって輝く金髪と、晴れ渡る空のような碧眼を持つ少年 ――二番目の兄ユアンと、目を引く紫紺の髪を後ろで一括りにし、猫のようにつり上がった菫色の瞳を持つ少年 ――フレイルがいた。
「ユアン兄様! フレイも!」
ひらひらと手を振って微笑むユアンと、いつものように仏頂面のフレイルがゆっくりとルーナに近づく。
「入学おめでとう、ルーナ」
優しく言って、ユアンは妹の頭を撫でる。何も言わないが、フレイルも少しだけ口角を上げたのを見て、ルーナははにかみながら礼を言った。
「ありがと兄様。これからよろしくね」
「もちろん! 何かあったらいつでも僕に言うんだよ? いじめられたら百倍にして返してあげるし、ルーナに近づく変な虫は捻り潰してあげるから」
ユアンは優しげな顔に満面の笑みを浮かべる。表情とまったく合っていない兄の不穏な台詞に、彼女はうなずいて良いべきか悩む。
(百倍返しってやりすぎじゃ。……ていうか、変な虫って絶対そのままの意味じゃないよね?)
ルーナが一人暴走しているユアンの対応に困っていると、それまで黙っていたフレイルが助け船を出した。
「おいユアン。おまえ、課題を提出してこないといけないんじゃなかったのか?」
「あっ、そうだ、急がなきゃ!」
フレイルの言葉に、ユアンは呆然とするルーナの手を慌ただしく取る。
「ごめんルーナ。僕、行くところがあるから、また後で! 明日のお昼は一緒に食べようね! よし、フレイル早く行こう」
「え、あの、ユアン兄様……」
戸惑ったままのルーナを残し、ユアンはもう背中を向けて駆け出している。そんな彼にため息を一つ零すと、フレイルはルーナに向き直った。
「じゃあ俺も行く」
「うん。ありがとうね、フレイ」
「俺は何もしていない」
礼を言われ、フレイルは不本意そうに眉間に皺を寄せる。
「そんなことないよ。実は心細かったみたいで、兄様とフレイルに会えてホッとしたんだ」
「そうか……まぁ、何かあれば言え。手助けできることなら、してやらないこともない」
「うん! これからよろしくね」
「ああ」
ぺこりと頭を下げるルーナにうなずくと、フレイルは背中を向けて行ってしまった。そっけない態度だったが、そもそも嫌ならば顔も見せないだろう。不器用でわかりにくい彼なりの気遣いを感じ、ルーナは去って行くフレイルの背中に小さく微笑んだ。
ユアンとフレイルを見送って一息ついたルーナは、改めて周囲を見渡す。
セキュリティの厳しい学院だが、今日は新入生の家族の立ち入りが許されているので、学生以外の姿も多く見られた。
(まだ教室に行く時間まで結構あるよね……)
さて、どうしようとばかりにもう一度辺りを見渡したルーナは、ある一ヶ所に人々の視線が集まっていることを気づく。
(なんだろう? 何かあるのかな?)
さりげなく皆が注目している場所へ視線を向け、彼女はそこに自分の両親の姿を見つけて目を瞠る。
(父様と母様!?)
似合いの美男美女の煌びやかな姿は、気品ある物腰と相まってあきらかに周囲とは一線を画していた。
(なるほど、これは注目の的だよね……)
そんなことを思ってルーナが見つめていると、彼女に気づいた両親が手を振ってきた。
「父様! 母様!」
慌てて両親に駆け寄ったルーナは、彼らの前で立ち止まると嬉しそうに微笑んだ。
「思ったより人が多くて、もう見つからないかと思っていたのよ。よかったわ」
母親であるミリエルがそう言って笑いかけると、ルーナはコクンとうなずく。
「さっきね、ユアン兄様とフレイに会ったんだよ。二人とも言わなかったけど、わざわざわたしを探してくれたみたい」
「そう、ユアンが。フレイル君も相変わらずあの子に振り回されているのね」
クスクスといつもの二人の様子を思い出してミリエルが笑う。
ルーナと知り合って後、週末にリヒトルーチェ邸を訪ねてくるようになったフレイルのことは、ミリエルのみならず、父アイヴァンもよく知っていた。そして彼が、自分たちの子どもに振り回され気味なことも承知していた。
「それにしてもルーナも学院の寮に入るとなると、邸が寂しくなるな」
母子の語らいを見守っていたアイヴァンは、ルーナの頭を撫でると寂しげにつぶやく。
アイヴァンはリヒトルーチェ公爵として多くの領地を治め、また王宮では国王の片腕として政にも携わっている。
多忙な日々を送っている彼だが、それでも忙しさにかまけて家庭を顧みないようなことはない。それどころか時間を見つけては、子どもたちと積極的に関わっていく良き父親なのだ。
「週末には、兄様や姉様と一緒に邸に帰るよ?」
慰めるようにルーナが言えば、アイヴァンは穏やかな笑みをその顔に浮かべる。
「ああ、そうだな。これも成長か……」
感慨深げにつぶやく父を、ルーナはクスリと笑って見上げた。
「そうだよ。普通は皆、入学式の前には入寮してるのに、父様が今日からでいいって言うから、わたしだけまだ寮に行ったこともないんだからね」
「入学するまでうちの子でいいじゃないか!」
ルーナの苦笑混じりの抗議に、アイヴァンは真面目に言い返す。
「父様……入寮したって、わたしは父様の子に変わりないけど……」
「そうなんだが、やはり、週の大半を寮で過ごすとなると寂しくはないか?」
子煩悩な父親に呆れつつも、ストレートな愛情を示されたルーナは、くすぐったい思いに頬を緩めた。そんな父娘のやり取りに、ミリエルは優しく目を細める。
「でもそうね。ジーンなんて、成人してからアイヴァン並に忙しくなってしまって、最近は王宮に泊まり込んでいるんですもの。先ほどの式典で、久しぶりにあの子の顔を見たわ」
「そうだな。私もだ」
二人の言葉を聞いて、ルーナは式典に出席したリュシオンに、影のように付き従っていたジーンの姿を思い浮かべる。
「そういえば、式典には陛下じゃなくてリュー……リュシオン殿下が出席してたね」
ルーナが何気なくつぶやくと、唐突に第三者の声が割って入った。
「それはね、殿下がどうしてもって陛下を押しのけたせいなんだよ」
「え?」
「おい、ジーン!」
背後からの声にルーナは慌てて振り返る。するとそこには、悪戯っぽく微笑んでいる長兄ジーンと、苦々しい表情で彼を睨むリュシオンがいた。
突然の王太子の出現に、遠巻きにルーナたちを見守っていた周囲が、一気に遠ざかる。
「ジーン、それに殿下まで」
「まぁ、リュシオン殿下。ご無沙汰しておりますわ」
アイヴァンが気づいて声をかけると、続いてミリエルもふわりと笑って淑女の礼をとる。リュシオンはアイヴァンを見て一瞬顔を顰めたものの、ミリエルには愛想笑いとは違う穏やかな笑みを返した。
「お久しぶりです、公爵夫人。相変わらず月の女神のごとくお美しいですね」
「まぁ、殿下ったら。そんな歯の浮くようなお世辞をいつ覚えられたのかしら」
ミリエルがリュシオンの言葉にクスクスと笑っていると、アイヴァンが愛妻を隠すように一歩前に出てきた。
「殿下、ミリエルを口説くのは止めて下さい」
「……公爵も相変わらずだな」
すかさず抗議するアイヴァンに、言いがかりをつけられたリュシオンはうんざりしたようにつぶやいた。
だがそれに対してアイヴァンは、にこやかに言い返す。
「我が愛妻が美しすぎるものですから」
「もう……いやですわ、あなたったら殿下の前で」
「本当のことだろう?」
夫の言葉に頬を染めるミリエルと、そんな妻に甘く囁くアイヴァン。周囲を完全に置いてきぼりにして盛り上がる公爵夫妻に、リュシオンは困ったように頭を掻いてルーナへと向き直った。
「あっちは放っとくか……」
「ふふっ。父様は母様大好きだからね。まぁ両親が仲良しなのは良いことだよ」
ニコニコとリュシオンに答えたルーナだったが、彼の表情が一瞬強張ったのを見て小さく息を呑む。
(あ……)
リュシオンの様子に、ルーナは彼の家族関係を思い出した。
クレセニア王国の王太子であるリュシオンと、王妃であるキーラには血の繋がりがない。最初の妃だったリュシオンの母は、彼が幼い頃に亡くなっており、その後キーラが国王の二人目の妃になったのだ。
生さぬ仲の義母とは仲むつまじいどころか、リュシオンは邪魔な存在として、命さえ狙われている。
そんな母子関係に加え、国王と王妃の夫婦関係や、リュシオンの異母妹であるネイディアとの関係など、王室の家族関係が冷え切ったものなのは公然の秘密だった。
「気にするな」
リュシオンは不用意な発言をしてしまった罪悪感で俯くルーナの頭を乱暴に撫でる。そんな気まずい空気を破るかのように、それまで黙っていたジーンが明るく話題を変えた。
「ルーナ。今日の式典で、リュシオン殿下が来賓なのは何故だか知っているかい?」
「そういえば、さっきもそんなことを言ってたよね。陛下を押しのけたとか……」
ジーンの思惑通り話に乗ってきたルーナに、彼は悪戯っぽく片目を閉じた。
「そうそう。本当はちゃんと陛下が列席する予定だったんだよ。だけど、リュシオン殿下がどうしても自分が行くときかなくてね」
「おいっ、勝手に話を作るな!」
困ったとばかり、大げさに眉尻を下げるジーンに、抗議の声をあげるリュシオン。相変わらずな二人のやり取りに、ルーナは堪えきれずにクスクスと笑い出した。
「嘘つきよばわりは失礼ですね。今回のことも突然言い出されるものだから、スケジュールの調整が本当に大変だったんですよ」
笑いながら肩を竦めるジーンを、リュシオンはムッとして睨みつける。
「黙れジーン! 父上が多忙で出席が難しいと言うから、たまたまスケジュールに空きがあった俺が代わっただけだろうが。決してねじ込んだり、押しのけたりなんかしてないぞ」
「へぇ、スケジュールの空きなんて、ありましたっけ」
「あっただろうが!」
リュシオンはとぼけるジーンにムキになって反論する。
「まぁ、殿下の名誉のため、そういうことにしておきましょうか」
「くっ……」
面白がっているとしか思えないジーンの態度に、リュシオンは苦虫を噛みつぶしたような顔でふてくされる。その姿は端から見れば完全にジーンに遊ばれているもので、ルーナは悪いと思いつつも、つい笑ってしまうのだった。
そうした他愛もない掛け合いに三人が興じていると、それを夫と共に微笑ましく見守っていたミリエルがふと気づいたように言った。
「ルーナ、そろそろ教室に向かった方が良いのではなくて?」
「え?」
母の言葉にルーナが周囲に目をやると、先ほどまで大勢の生徒や新入生の家族がいたはずだが、今は数人の生徒たちしかいない。
「大変! わたし行かなきゃ」
「ああ。週末に会えるのを楽しみにしているよ、ルーナ」
「お勉強、頑張るのよ」
慌ただしく言って駆け出すルーナの背中に、アイヴァンとミリエルは笑いながら声をかける。その様子に、リュシオンとジーンは笑って顔を見合わせたのだった。
†
「一-Aだから、ここだよね」
ルーナが恐る恐るといった様子でドアを開けると、教室にはすでに十人ほどの男女がいた。
前方に大きな黒板と教壇があり、向かいあうように木製の長机がゆったりとした間隔で並んでいる。席は決まっていないようで、ちらほらと着席している生徒がいる他は、適当に集まって立ち話をしているようだった。
「し……失礼します!」
ルーナが緊張のあまり、無駄に大きな声を出して教室に入ると、彼女に気づいた生徒たちは、皆ポカンとした表情を向けてきた。
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