リセット

如月ゆすら

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4巻

4-2

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「わかっております。リュシオン殿下にはこちらこそ正式に礼を述べねばならぬところですわ」

 そう返す王妃に、リュシオンは輝くような笑顔を見せて首を横に振った。
 一方ルーナはそんな彼を見上げながら、常では絶対にありえない愛想の良さに唖然としていた。

(……誰? ちょ、これ誰!?)

 思わず心の中で叫んだルーナだったが、リュシオンはにっこりと微笑んだまま彼女の肩をそっと押す。

「それでは我々はこれで失礼させていただきます」
「かしこまりました。君たち、殿下方をお送りしなさい」

 ニール侯爵は退出しようとするリュシオンへ頭を下げ、後ろに控える護衛兵士へ声をかけた。
 リュシオンはルーナとジーン、そして数人の護衛を伴って部屋を出ると、その瞬間、先ほどまで貼り付けていた満面の笑みを消した。

「リュー……顔、戻ってるよ」

 皮肉げな半目のルーナが小声で指摘すれば、リュシオンは先ほどまでのやり取りを思い出したのか不機嫌な顔で彼女を見下ろす。

「いつまでも愛想笑いを振りまけるか」
「でも振りまいた甲斐はありましたよ」

 ジーンは身もふたもない友人の言葉にクスクスと笑って言った。二人のやり取りを聞き、ルーナはやっとリュシオンの機転に気づく。

「ひょっとして、わたしのため?」

 ポツリとつぶやいた彼女に、図星を指されたリュシオンは苦く顔をしかめた。
 王太子がぞくに襲われて重体などという事態は、いくら友好国とはいえ知られたくない事実のはず。下手をすればそれを隠すため、エアデルト側から口を封じられることも考えられるのだ。
 リュシオンとジーンはその身分によって守られている。けれどルーナは、高名なレングランド学院長とはいえ、貴族としては下位に当たる男爵の娘ということになっており、その程度の身分であれば国として排除を躊躇ためらうことはないだろう。だからこそリュシオンは、ルーナから王妃の関心を逸らすべく、あのような行動に出たのだ。

「リュー、ありがと」

 小さく礼を述べるルーナの頭に手を置くと、リュシオンはいささか乱暴にかき混ぜる。そして髪を乱され「もう」と口を尖らせるルーナを見下ろしながら、彼は王妃から彼女をかばうように口を挟んだ侯爵のことを思い出した。

(あれだけで王妃が誤魔化ごまかされてくれるとは思えないが、少なくとも宰相さいしょうの方はルーナをどうこうしようとは思っていないようだな。なんにせよルーナが巻き込まれる事態にならないと良い……いや、違うな。ルーナが自ら首を突っ込んでいかないといいんだが、だ)

 自分を見てため息を零すリュシオンに、ルーナは首を傾げつつもムッとするのだった。


     †


 城内にある客室に戻ると、リュシオンは護衛としてついてきた兵士に目を向けた。

「こいつに少し話がある。また呼ぶから、しばらく下がっていてくれ」

 そう言いつけて、彼はルーナの手を取り室内に足を踏み入れる。ジーンもその後に続き、後ろ手にドアを閉めた。
 ルーナはリュシオンに手を引かれ、窓際にしつらえられたテーブルセットへと誘導される。そこにはオーク材で出来た猫足のテーブルを中心に、四脚の椅子が置かれていた。
 リュシオンはさっさと椅子の一つに腰を下ろすと、立ち尽くすルーナにも斜め横にある椅子へ座るよう促す。おずおずと彼女が従うのを確認したジーンは、盗聴などを防ぐ〈結界〉を張った。

「さて、色々説明してもらおうか?」

 リュシオンは、ジーンが自分の対面にある椅子に腰を下ろしたところで口火を切る。

「色々って……」

 困惑したようにルーナがつぶやくと、ジーンはクスリと笑って助け船を出した。

「まずは『神木の実』のことからかな」

 二人の真剣な眼差しに焦りながら、ルーナはどう説明するべきかうつむいて考え込む。するとそんな彼女を助けるように、唐突に風姫が現れた。
 彼女はルーナの膝にもたれかかるようにして抱きつくと、悪戯いたずらっぽく笑って提案する。

わらわからと言わずに、しぃれぐからと言っておけば良いのではないか? こやつらはアレらの本性を知っておるのだから納得するであろう』
「うむ、この場合はそれが一番良いだろう」
「たまには風の者も良い提案をする」

 シリウスとレグルスも同意を示すが、なにぶん一言余計だ。すぐに風姫がキッと目を吊り上げる。

『たまにはとは何じゃ! わらわ愚弄ぐろうする気か!』
「ふっ、本当のことであろう?」
「うむ、間違いないな」

 テーブルの下で「まぁまぁ」とそれぞれ手を添えて睨み合う守護者たちをなだめた後、ルーナは風姫の提案に乗って話し出した。

「あのね、しぃちゃんとれぐちゃんから聞いたことがあるの」

 ルーナの言葉に、リュシオンとジーンは無言のままうなずき、先を促す。

「ジャスディール山脈の北にある、霊峰れいほうロズワルドには神域と呼ばれる場所があって、そこにはかみの時代からある聖なる木――神木しんぼくがあるんだって。神域の正確な場所は近づいてみないとわからないみたいなんだけど……」
「神域か……」

 ルーナの説明に、リュシオンが小さくつぶやいた。そして二人の反応を心配げに見ている彼女へ、ジーンは安心させるように微笑む。

「神獣の言ともなれば、十分に信頼できる話だよ。ただ、エアデルトの人たちは彼らの正体を知らないわけだし、それを説明せずに納得させるというのは難しいだろうね」
「そうだな。さっきは咄嗟とっさにクレセニアに伝わる話だと説明したが、良い判断だったかもな」

 ジーンの言葉を受け、リュシオンは苦笑しつつそう返した。

(そうだよね。ていうか、よく咄嗟にフォローしてくれたよね。それってわたしの言葉を無条件に信用してくれてるってことだし)

「あの、リュー」
「なんだ?」

 ルーナは遠慮がちにリュシオンを呼ぶと、ペコリと頭を下げる。
 説明を受けたわけではないのに、自分の言葉を信用し、さらに他の人間を納得させるためにフォローしてくれたリュシオン。ルーナは改めて彼の思いやりに深く感謝すると同時に、胸があたたかくなるのを感じた。

「今さらだけど、さっきはありがとう。リューや兄様がそう言ってくれなかったら、ニール侯爵も絶対信用してくれなかったと思う」
「いくらおまえでも根拠もなく、あんな話はしないからな」
「そうですね。それに与太よたばなしと聞こえるような話も、ルーナが口にしたら本当かもしれないと思ってしまいますからね」

 リュシオンとジーンの、褒めているのかけなしているのかわからない言葉に、ルーナはガクッと肩を落とす。すると彼女の膝がトントンと叩かれた。

(風姫さん?)

 ルーナが風姫へ目をやると、彼女は親指をグッと突き出して満面の笑顔を見せる。

『さすがはルーナだ! 完璧に信用されておるではないか!』

 リュシオンたちの言葉をなんの疑いもなく褒め言葉と取った風姫は、キラキラと輝く目をルーナに向けてきた。

(……うん、ここは風姫さんの言うように良い方向に取っておこう)

 ルーナは「ありがとう」と感謝を込め、テーブルを目隠しにして風姫の頭を撫でてやる。
 少しの間ルーナの膝に頬をのせて甘える風姫に和んだ後、彼女は顔を上げてリュシオンを見た。すると先ほどとは一変して難しい顔になっている彼が目に映る。

「リュー?」

 ルーナが心配そうに声をかけると、リュシオンは眉間にしわを寄せたまま口を開いた。

「いや、その話が元でややこしいことにならなければいい、とな……」
「ええ。先ほど侯爵がおっしゃったように、自国のことだからと自分たちで対処してくれれば問題はないのですが……」

 ジーンはリュシオンの言葉にうなずきながら、表情を曇らせる。

「まぁとにかく、神木の実アンブロシアについては、先ほどの通り押し通すぞ」
「わかりました。こうなっては今さらルーナの身分を明かしても不信感をあおるだけですし、隠し通した方がよさそうですね。でもそうなると、リュシオンや私に比べてルーナは後ろ盾が弱い分、危険ですが」

 困ったとばかりに眉尻を下げるジーンにうなずいた後、リュシオンはルーナとしっかり視線を合わせて言った。

「マティス卿には話しておくが、これからは俺やジーンと常に一緒にいる方がいいだろう」
「うん……」

 困惑しつつうなずくルーナに、今度はジーンが声をかける。

「いいかいルーナ。しばらくは大人しくしているんだよ?」
「はい、兄様」

 ジーンは神妙にうなずくルーナを、それでも心配そうに見つめていた。
 このような重大事でなければ、本当の身分を明かしても良かったかもしれない。しかし今の状況では、王太子を害するという目的があったから身分詐称をしたと思われかねないのだ。そうなれば、たとえ公爵令嬢であっても追及はまぬがれないし、下手をすれば外交問題に発展してしまう。

「大人しくしてるし、きっとこんな子供のことなんて誰も気にしないと思うよ」

 安心させるようにルーナが言うと、ジーンは「そうだね」と優しく笑う。

「本当にそうだといいんだがな……」

 兄妹のやり取りを見ながら、リュシオンは祈るように小さく独りごちた。


     †


 ルーナたちが退出してすぐ、王太子が眠る部屋に侍医と白魔法使いが駆けつけた。
 診察のために寝台の上掛けをめくった彼らは、その有様に息を呑む。

「これは……」

 斬りつけられたと思われる衣服の破損部分の大きさと、染みついたそのおびただしい血の量に、侍医は思わず声をあげ、白魔法使いも顔色を変えた。
 侍医はその動揺を無理矢理抑え込むと、王太子の着ているシャツをたくし上げた。

「なんと……!」

 声をあげたのは、今度は白魔法使いの方だった。
 王太子の身体には傷口らしい傷口はなく、ただうっすらと赤みを帯びた線が肌に残っているだけだったのだ。シャツの破損部分と範囲が一致することから、かろうじてそれが剣で斬られた痕だとわかる。彼はこれだけの大きな傷が完璧に治癒していることに驚愕していた。

「血を拭き取ったような跡があるのですから、確かに傷口は存在したはず……」

 侍医がそう口にすると、ハッとしたように室内に残った護衛の一人が進み出た。

「殿下のお怪我ですが、リュシオン殿下がお連れになっていた少女が魔法治療を施したのです」
「魔法治療ですと?」

 白魔法使いが勢い込んで聞き返す。兵士は真面目な表情でうなずくと、自分が見た治療の様子を語った。

「……なるほど。それなら納得できますな」
「どういうことだ?」

 白魔法使いが王太子の身体に手をかざしながらしきりにうなずくので、ニール侯爵はれたように問いかける。

たところ、傷口だけではなく傷つけられた筋肉や血の管、おそらく神経などもすべて完璧に修復されております」

 白魔法使いが説明すると、それまで黙っていた王妃が声高に叫んだ。

「完璧ですって? ならば何故ユリウスはこんな青白い顔なのです! 治っているのならば何故目を開けないのです!!」
「王妃陛下! 落ち着いて下さい」

 ニール侯爵が王妃に声をかけるが、彼女は普段の冷めた様子からは想像できないほど激昂げっこうしており、彼の言葉など耳に入っていないようだった。

「ああ、ユリウス! この子は王になるのです。こんなところで死ぬなどあってはならない。一体誰が……誰がこの子をこんな目に……護衛は何をしていたのです! ぞくは捕まえたのでしょうね!?」
「陛下、それについては後ほど……」

 同席している近衛兵士このえへいしや侍医、白魔法使いにそのような重大事は聞かせまいと、ニール侯爵は王妃をなだめようとするが、取り乱した彼女にその気遣いがわかるはずもなかった。

「今すぐ、この場で説明なさい!」

 高飛車に命じられ、侯爵は諦めたように先ほどの兵士へと説明を促した。
 兵士は王妃に深く頭を下げると、そのままの状態で所属と名前を告げる。

「頭を上げて、知ってることを早く話しなさい」

 侯爵に言われた通り頭を上げた兵士は、鋭く見つめてくる高貴な女性に内心ひるみつつ、自分が駆けつけた時の様子を語り出した。

「――駆けつけた時にはすでに殿下は倒れられており、その場にはぞくおぼしき少年が、血の付いた剣を持ったまま立っておりました。賊というには不似合いな十代半ばほどの少年です。彼が逃走を図ったため、一緒にいた仲間の兵士が後を追いました」
「それで賊は捕まえたのね?」

 否定は許さないとばかりの質問に、説明している兵士と追跡した兵士が青ざめる。その様子で答えがわかったのだろう。王妃は手に持っていた扇を兵士の顔に向けて投げつけた。
 繊細な絹の扇がバシッと大きな音を立てて兵士の頬を打つ。王妃は彼の赤くなった頬を気にすることもなく、苛立たしげにまくし立てた。

「たかが賊一人を取り逃がすとは情けない。それで我が国の兵士といえるのかしら……その上、手がかりすら見つけられなかったというの?」

 屈辱的な仕打ちにも耐えていた兵士だったが、王妃の最後の言葉にハッと顔を上げた。

「何か、気づいたことでもあるのか?」

 ニール侯爵が声をかけると、彼はおずおずと話し出す。

「実はリュシオン殿下が伴われていた少女なのですが、賊と思われる少年を見た瞬間、『カイン』と叫んだのです」
「なんですって?」

 顔色を変えて叫んだ王妃に、その場にいた全員が注目する。

「陛下、その名に何か心当たりが?」

 すぐに侯爵が尋ね返すと、王妃はその探るような眼差しから目を逸らして答えた。

「賊に心当たりなどあるわけないでしょう! そんなことより、名を呼んだのならばその娘……賊の一味ということではないの」

 決めつけるような王妃の物言いに、兵士は慌てて口を挟む。

「いえ、それはありません。彼女はマティス卿の娘ですし、何より瀕死の重傷を負っておられた王太子殿下を必死に治療して下さったのですから」
「マティス卿の娘だからなんだというのです。王太子の怪我を治したのも自分が疑われることを恐れてかもしれない。ニール侯爵、その者を早速尋問しなさい」

 冷たく言い放った王妃だったが、ニール侯爵は緩やかに首を振った。

「幼い少女のこと、相手も少年となれば、賊とは知らずどこかで偶然に知り合っていたのかもしれません。なんにせよ彼女が王太子殿下を救ってくれたのは事実です。その恩人をいたずらに尋問するのはいかがなものでしょうか?」
「ですからそれは、自分の身を守るために治療らしいことをしたというだけの話でしょう。だからユリウスは目を覚まさないのよ」

 王妃はなおもかたくなに言い募ったが、今度は王太子を診察していた侍医と白魔法使いから反論されることになった。

「恐れながら王妃陛下。王太子殿下のお怪我は、傷痕から見ていい加減な治療で回復するような軽いものではございません」
「侍医殿のお言葉は偽りではございませんぞ。王太子殿下が弱っておいでなのは血が足りぬからです。治癒魔法をもってしても失った血は戻りませぬ。ですがもし治療を施していなかったとすれば、今頃は間違いなく殿下のお命はなかったことでしょう」

 二人の真摯しんしな言葉に、これ以上押しても無駄と悟ったのか、王妃は渋々とうなずく。

「その娘がユリウスをきちんと治療したことはわかりました。だが、この子が未だ危険な状態であることには変わりない。それを脱しない限りは娘を完全に信用するわけにはいきません」

 彼女は不満もあらわにそう言い、反対意見を述べた面々を苛々と睨みつけた。

「陛下、そのことなのですが……」

 ニール侯爵がなだめるように穏やかな口調で話しかけると、王妃は厳しい表情を崩さぬまま、顎先をすくって先を促す。

「実は先ほど、くだんの娘より興味深い話を聞いたのです」
「興味深い話?」
「ええ。クレセニアの古い伝承によると、どんな怪我や病も癒やす秘薬というものがあるらしいのです。それを王太子殿下に差し上げればきっと回復するだろうと」
「なんですって?」

 最初は鼻白んだ様子で聞いていた王妃だったが、侯爵の言葉に身を乗り出すようにして尋ねる。

「なんでも、ある場所に存在する『神木の実』というものだそうです」
「そんなものがあるのならば、すぐに手に入れてきなさい」

 息子が助かるかもしれないとの希望から、王妃は勢い込んで命じた。

「はい、そのためにも娘に詳しく話を聞く必要があります」
「ふん……ならばわかった。とりあえずその娘とぞくの関係については不問としましょう。侯爵は娘から詳しい話を聞きなさい。……もっとも、その話が嘘ではないとよいが」
「それは大丈夫でしょう。神木の実についてはリュシオン殿下もご存知でした。それにあの娘は身の危険をかえりみず、自分が取りに行くとまで言ってくれました。自衛のための嘘であれば、自らを危険に晒すのは矛盾しております。そう考えれば王太子殿下を救いたいという言葉に嘘はないと思われます」

 ニール侯爵が言い切ると、控えていた侍医が思い切ったように口を挟んだ。

「陛下。私共にこれ以上出来ることはございません。あとは殿下ご自身が回復されるのを待つしかないのです。……しかしこのまま目を覚まされなければ、容態は確実に悪化していくでしょう。その秘薬を差し上げられるのであれば、それに越したことはございません」

 今最も優先させなければならないのは、王太子の回復であるとわかっているのだろう。身動きもせず眠る王太子を見つめ、王妃は力なくうなずく。

「少し考えたい。わたくしはしばらくこの場を離れます。ニール侯爵、この件については後ほど使いをやります」
「かしこまりました」

 ニール侯爵が了承すると、王妃はいささか疲れた様子で部屋を出て行ったのだった。


     †


 王太子が眠る部屋から自室に戻った王妃は、くずおれるように刺繍の施された長椅子に座った。背もたれに肘を置き、こめかみを揉みほぐす。するとその時、控えめなノックの音が耳に届いた。
 お茶の用意をしていた女官がドアを開けると、そこにいたのは一人の男。
 鮮やかな緑の長髪を後ろでまとめ、赤紫の瞳に片眼鏡モノクルをかけたジャック・オリバレス子爵だ。

「良いところに来たわ、ジャック」

 王妃の言葉で部屋に入ってきたオリバレス子爵は、「王妃陛下にはご機嫌麗しく」とうやうやしく一礼してみせる。彼女は彼の挨拶に皮肉げな笑みを浮かべると、黙って控えていた女官へ片手を振って退出を命じた。
 女官が出て行くのを見送った後、王妃は立ったままのオリバレス子爵に向かって口を開く。

「ユリウスの話は聞いているわね?」
「はい。襲撃に遭ってお怪我を負われたとか」

 オリバレス子爵が淡々と答えると、彼女は不快そうに顔をゆがめた。

「普段はその落ち着き払った態度を頼もしく思うが、今はただ腹立たしいわ」
「申し訳ございません」

 子爵は深々と頭を下げるが、王妃の機嫌を損ねたにもかかわらず動揺は微塵も見られなかった。彼女はそんな彼の態度に「まぁいいわ」とつぶやいて話し始める。

「あの子はひどい怪我だったけれど、魔法治療のおかげでなんとか一命は取り留めたの」
「それは重畳ちょうじょう
「本当にそう思っているのならば、もっと嬉しそうにしたらどうなの?」
「申し訳ございません。今は容態も安定していると聞き及んでおりますゆえ、ちょうど安堵していたところでございます」

 八つ当たりのような王妃の言葉にも、オリバレス子爵は無表情に返答する。

「ええ今は、ね。いつ容態が悪化するかわからないけれど。……それで、よ」

 王妃はもったいぶるように言葉を止めた後、彼の目を見つめて告げた。

「ユリウスを襲った者は、カインという名の少年だったということよ」

 さすがにこの事実には驚くだろうと思った王妃だったが、目の前の男は「ほう」と一言つぶやいただけだった。

「わかっているの!? カインは本物の――」
「王妃陛下。そのように興奮されては、女官たちが心配して飛び込んできますよ」

 声を荒らげる王妃にオリバレス子爵が言い放つ。穏やかともいえるその声音は、しかし見えない威圧感をもって彼女を遮った。
 王妃は冷たい水を浴びせられたように一瞬身を震わせると、やがて幾分冷静さを取り戻したのか大きく息を吐いた。その様子をじっと見つめていたオリバレス子爵は、彼女が落ち着いたのを見計らって口を開く。

「カインという名が出てきたということは、王太子殿下を害した者は自ら名乗ったと? だとすれば随分間抜けな話ですが」
「いいえ、違うわ。偶然にもリュシオン殿下が連れていた娘と知り合いだったようで、その娘がぞくを見て叫んだそうよ」
「ほう……知り合いと。それはまた随分と都合の良い偶然ですね。本当に偶然知っていただけだと?」

 それまで無表情だったオリバレス子爵は、少しだけ興味深そうに返す。

「確かに怪しいわね。でもその娘は陛下の治療のために訪問しているロドリーゴ・マティス卿の娘。身分は男爵と低いものの、クレセニア王の覚えの良い人物。あれがかくまわれていた公爵家と面識があったとしても不思議ではないし、ここに来たのは偶然でしょうね」
「なるほど。単なる顔見知りだとすると、下手につつけば逆にこちらが不審感を抱かれることになりかねませんね」
「そういうことよ。それにあの娘が魔法治療を施してユリウスを救ったと聞いたわ」
「あのように幼い娘が魔法治療……」

 オリバレス子爵が繰り返すと、王妃は彼の興味が引けたと思ったのか「ええ」と少しだけ気を良くして答える。そのため、彼が会ったこともないはずの娘を『幼い』と形容したことには気づかなかった。

「それからニール侯爵が言っていたのだけど、その娘、たちまちどんな病や傷も治してしまうという秘薬の話をしていたらしいの」
「ほう、どんな病や傷もですか……」

 今度はありありと興味を示した子爵の様子に、王妃はさらに機嫌を良くしてうなずいた。

「なんでもクレセニアに伝わるものらしいわ」
「ほう……しかしそのような秘薬ならば、もっと広く知られていてもおかしくないはずでは?」

 考え込むように言ったオリバレス子爵に、王妃は特に気にした様子もなく返す。

「そのような万能薬ゆえに、国外に知られないようにしていたのではないの? 場合によっては政治的な駆け引きにも使えるわけだし。それに入手するのが非常に困難ということも考えられるわね」
「ああ、なるほど。それはあり得ますね」
「とにかくニール侯爵には、あの娘から詳しい話を聞くように言ってあるわ。もっともあの娘、自分が取りに行ってもいいとか言ったらしいけど、適当なことを言って逃げるかもしれないし、それほど信用ならないわ」

 馬鹿にしたように言った王妃だったが、次に子爵の口から出た言葉に目をみはった。

「おや、それは良い提案ではありませんか」
「何を……」
「娘の提案ですよ。国外の者に隠している話ならば、速やかに詳しい場所を教えて下さるとは思えません。かといって入手するのに危険を伴うような秘薬を、おいそれと隣国の王太子に取ってきて下さいと頼めるはずもございません。ですが男爵令嬢ならばそれも可能。幼い娘に行ってもらうのだから、こちらから護衛を付けると言えばさほど問題はないでしょう」

 オリバレス子爵の言葉に、王妃は考え込むように口元に手をやる。

「そうね、下位貴族ぐらい、途中で何かあったとしても本人が言い出したことでもあるのだから、さほど問題になるとは思えない。それにぞくの名前を呼んだことを問い詰めれば、身の潔白を明かすという意味でも断れないわね」
「はい。街道を外れれば魔物や盗賊も多いので、旅は恐らく危険を伴うものになるでしょう。となればやはり捨てごまに出来る人間を使うのが良いかと」
「ジャック……秘薬などというもの、大げさな嘘かもしれない。だがもし真実であるならば、わたくしはユリウスにそれを使いたい」

 静かに言い放った王妃の顔は、ただ息子を救いたいという母親のもの。オリバレス子爵は彼女の顔を見やり、ただ一言「御意ぎょい」と告げた。

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